第60話 不都合の理由
「先月、二度目に行われた御馬揃えも大盛況だったらしいな」
「我ら蒲生武士団も天子様の前で馬術の冴えを披露したかったな。残念だ」
この日も主君と共に武辺談義を楽しむべく集まった蒲生家の武士共が京の噂話でにぎわっていた。
「そう言えば天子様は信長様を左大臣に推任したいとお伝えしたところ、信長様は「天子様が譲位なされ、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答したと聞いた。その話はその後どうなったのだ?」
臣下の身でありながらインペラートルに譲位を勧めるとはあまりに不遜である。ノブナガの増長と傲慢は留まるところを知らず頂点に達し、遂にこの国の主神の血を引くという神聖な天皇まで己の意のままに操ろうというところまで行きついたのか?
とこの話を聞いた時勝成は最初はそう思ったのだが、どうやらこれは誤解だったらしい。
この国のこの時代の天皇の主な事業は神道の最高権威としての祭祀、宗教儀式であり、そのことに忙殺されて政に関わる時間が失われるというのが実情であった。
そこで天皇の座を後継者に譲って様々な祭祀や儀式を全て委ね、自身は「上皇」となって自由な身となって政に着手する。これが「院政」と呼ばれる統治方法であった。
つまりノブナガが現在の天子、正親町天皇に譲位を勧めたのは純粋な好意であり、天皇も当然喜んでいるであろうことは疑いなかった。
「そのことなのですが」
蒲生家屈指の知恵者であり情報通を自認する小倉孫作が一同を見回しながら勿体つけた口調で言った。
「信長様は突然、「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した為、天子様の譲位と信長様の左大臣就任は延期されることになったらしいのですよ」
「金神の年だから不都合とはどういうことだ?」
まったく聞きなれぬ言葉、考え方が話に出た為、勝成は困惑しながら聞いた。
「金神とは九星術から生まれた方位神のことですよ」
孫作が弾んだ声と表情で答えた。小倉孫作とは饒舌で教えたがりな性格であった。
東洋の宗教、神秘思想にまるで無知な南蛮人である山科勝成は己の知識を存分に披露するにはまさに格好の標的と言えるだろう。
周囲の武士共はまたかと露骨に顔をしかめ、高々と舌打ちする者さえいたが、孫作は気づかぬふりをして続けた。
「方位神とはその神のいる方位に対して事を起こすと吉と凶それぞれの作用をもたらすと考えられており、その中でも金神は殺伐を好むといわれ、この神の方位は極めて凶とされます。信長様がこの年は天子様の譲位には極めて不都合故、延長を求められたのも、朝廷が了承したのも当然と言えますな」
「馬鹿馬鹿しい」
勝成は吐き捨てるように言った。
「下らぬ迷信だ。そんな魔術めいた考え方でインペラートル、天皇たる者の譲位という重大な問題が左右されていい物なのか?俺には理解出来ん」
「「我が国の天子様は天照大御神の末裔にして神聖な祭祀を司る貴き御方。その行事には極めて慎重に吉凶を窺わねばならないのは当然。神はデウスとやら申す唯一の存在だけだと考える南蛮人の貴殿には理解し難いやも知れませんな」
孫作は勝成を嘲るように、あるいは憐れむように言った。
勝成は一瞬頭に血が上ったが、何とか自制した。まだまだ蒲生家にはキリスト教カトリックの教えは浸透していない。
勝成と孫作が争えば、この場にいるほぼすべて武士共がこの国の伝統的信仰、考え方を説いている孫作に与するのは明らかであろう。
冷静になって考えれば、先にこの国の信仰、伝統にケチをつけたのは己の方なのである。
孫作に怒りを発する資格は無い。
(それにしても、やはりノブナガという男は解せない。己の野心の為ならば平然と坊主どもを根切りにし、神社仏閣を焼き払い、サムライの棟梁であるショーグンを追放するという果断さを持ちながら、一方では権威だけの存在に過ぎないインペラートルにはやたらと配慮し、下らぬ迷信を信じたりする。全くつかみどころが無いというしかない)
勝成はかつて安土城で直接言葉を交わした覇王の触れれば切れる剣の如き気を放つ秀麗な顔貌を思い返した。
(お前にとって新しき世を作る為に破壊せねばならないもの、残さねばならないものの基準は一体何なのだ。そこを明確にせねば、これからも俺以外の多くの者がお前の不可解さを恐れ、憎み、忌み嫌うようになるぞ。それで良いのか?)
勝成は思わず不俱戴天の敵、抹殺すべき対象と定めたはずの人物のことが心配になってしまった。
「殿と奥方のおなりである!」
蒲生家武士共は一斉に居ずまいを正すと同時に秘かに歓喜の表情を浮かべた。
織田信長の娘にして蒲生賦秀の妻、冬姫が武辺談義に顔を出すことは珍しいことではない。
好奇心旺盛にして父の猛々しさを受け継いだ姫は武芸に精を出すだけでは飽き足らず、実際の合戦での戦いの詳細を聞くのが何よりも好きなのであった。
蒲生家の武士共も主君の妻が己の武辺話でその美しく活力に満ちた顔貌を輝かせ、
「その時、お主はいかにして敵を仕留めたのじゃ。もそっと詳細に聞かせよ」
などと話を盛り上げる合いの手を打つことを無上の喜びとしていた。
「皆、集まっているな」
蒲生忠三郎賦秀とその妻冬姫が颯爽と現れ、上座に着いた。
(おや?)
と、勝成を含めた数人の勘の良い武士が主君の表情を見て気づいた。
これは常の穏やかに家臣共の武辺話を聞いて存分に楽しもうという表情ではない。
その顔貌には静かな興奮と気迫がみなぎり、今にも噴き出さんとしていた。
(これはもしや……)
「皆の者、よく聞け。近く戦が始まるぞ」
主君は厳かさと抑えきれぬ喜悦が絶妙に入れ混じった声で告げた。




