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第34話  炎

「……」

滝川一益配下の甲賀忍びから報告を聞いた森蘭丸は、その名工が玉を刻んだかのような白皙秀麗な顔貌を歪ませた。

武士として、いや人としてあるまじきあまりに汚らわしく醜い行いに腸が煮え、唾を吐き捨てたい衝動に駆られたが、何とか堪えて己の顔貌に浮かび出る怒りと蔑みを消し去り、仮面のように平静となって我が主君の元へと赴いた。

「いかがした蘭丸?申せ」

机に向かって一心不乱に各地の配下へ送る命令書を書いていたノブナガであったが、蘭丸がもたらす報告が良からぬことであることを鋭敏に察したようである。

森蘭丸は滝川一益から伝えられた詳細な報告を冷徹な表情と声で伝えた。荒木村重が降伏の条件を伝えに来た荒木久左衛門と会おうともしなかったこと。進退窮まった久左衛門と三百の兵が一人残らず町人や農民に姿を変えて逃亡したことを。

「……何たること」

ノブナガは呆然と呟いた。常は活力と鋭気に満たされた精悍な顔貌は蒼白となり、信じられぬとばかりに幾度も首を振っている。

無理もあるまい、と蘭丸は思う。この乱れに乱れた世を治める為に戦い続け、人としての救い難き所業を幾度も眼にし耳にしてきたノブナガであってもここまでの醜く恥知らずな行いは初めてであるに違いない。

「何故だ?何故村重はこうまでして助命の機会を拒むのだ。余はあの男をこれまで厚遇してきた。あの男を見込み、摂津一国を任せるほどに信任してきた。その余の信任に背き、謀反を起こしたにも関わらず許してやると言っているのだ。なのに何故余の慈悲を拒む。何故余を憎む。全く理解できぬ」

蘭丸も同じ気持ちであった。ノブナガの村重への寵愛と寛容さは行き過ぎであると言ってよい程である。

それを徹底的に拒み続ける荒木村重の所業は全く理不尽であり、理解し難いものであった。

村重は狂気したか、魔に魅入られたとしか思えない。

「久左衛門もだ。進退窮まったのなら、武士らしく腹を切ればよいではないか。それが主君の目を覚まし、人質を助ける唯一の方法であると分からぬのか。にもかかわらず武士を捨て逃亡するなどとは、言語道断の仕儀。人質となっている己の妻子などどうなっても良いということか」

「……」

「武道人にあらず。村重とその一族は断じて武道人にあらず」

ノブナガの双眸に業火が燃え盛っていた。その炎はかつて伊勢長島において一向門徒二万人を悉く焼き殺した炎であった。

私憤ではない。この日の本から驕り高ぶり未練卑怯、貪婪といった醜いものをことごとく焼き滅ぼし、真に美しく強壮なるものを招来し、築き上げたいという純然たる正義の欲求から燃え出でる炎であった。

「このような醜き所業は二度とあってはならぬ。余が武をもって治める世では全ての人々が強く正しくあらねばならぬのだ。村重や久左衛門のような侫人(ねいじん)が二度と現れぬようにするため、武の道に背く者はどのような末路を遂げるか思い知らせるため、断固たる処置を下さねばならぬ」

「……御意」

蘭丸は怯む己の心を叱咤しながら頷いた。ノブナガの正義、理想、「天下布武」の第一の信者を自認する以上、いかなる厳しい命令にも臆することは許されない。

「人質となった者達は真不憫であるが……」

そう呟いてノブナガは顔を背けた。為政者として、覇王として断固たる姿勢を貫かねばならぬはずの己の顔に一瞬浮かんでしまった迷いや哀れみといった表情を蘭丸に見られたくなかったからだろう。


尼崎城にいる村重が降伏の条件を伝えに来た久左衛門に会おうともしなかったこと、そして久左衛門以下三百の兵が残らず蓄電したことを聞いて、有岡城の人質達は悲鳴を上げ、そして気死したように呆然となった。

城主に見捨てられ、今また父、夫、息子に見捨てられたのだ。絶望し怒り悲しみ、やがて自暴自棄となった者の自殺が続出した。

そのような悲惨極まる有岡城に駐屯する滝川一益と津田信澄の元にノブナガから峻烈極まる命令が下された。

有岡城内にいる荒木の人質六百数十名を処刑せよ。ただし高山ジュスト右近の父ダリオ友照、そしてその娘と孫は右近に帰してやるようにと。

「な、何と」

ノブナガの使者からこの命令を聞いて信澄は我が耳を疑った。

有岡城内にいる荒木の人質はいずれも村重が謀反の際に主だった家臣たちから差し出させた家族と従者たちでほとんどが女子供なのである。

「これは何かの間違いであろう。城は落ちてもう戦は終わったのだぞ。人質を殺す意味などない。もう一度叔父御に、いや大殿に確認して参れ」

「その必要はござらぬ」

若くまだ腹がすわりきれていない信澄を軽侮したような陰鬱な声で一益は言った。

「このような大事を誤るような大殿ではござらぬ。この命令は大殿に直々に伝えられ一言一句間違いない。そうであるな」

一益の言葉に使者は迷いの無い毅然とした表情で頷いた。

「信じられぬ……」

「致し方ござるまい。全ては村重と久左衛門が招いたこと。我々は大殿の命令を粛々と遂行するまで」

そう果断に言ってのけた一益であったが、その表情と声にはほんのわずかにやりきれなさがあるように信澄は感じられた。

その性酷薄で、これまで数々の根切、撫で斬りを行って来た滝川一益であるが、村重と久左衛門の前代未聞の愚行、そしてその責任を取らされる形となった女子供の末路には流石に怒りと憐れみを禁じえないのであろう。

しかしそのような私情は一瞬で振り払い、一益はノブナガの厳命を実行するべく配下を呼び寄せた。やむを得ず信澄もそれに従う。

滝川一益と津田信澄は村重の側室であるたし達荒木一族と重臣の妻子併せて三十六名を京の妙顕寺へと移送した。

そして残りの人質は尼崎城の近くにある七つ松へと移送した。




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