第二十九話 私の初恋は存在する
「……なるほど。それもまた、誰かに聞かれては困る話だね」
口元の笑みはそのままに。
しかし私の視線から逃れるように、長い睫毛が伏せられた。
殿下がおっしゃる通り、誰かに聞かれては困る話だ。
アウレウスの三公爵家、オルビス公爵家出身のヴィヴィアン王妃の御子であり、国王陛下の血を引く唯一の存在――ウィクトル・アルクス・アウレウス王太子殿下。
王立アカデミーを首席で卒業し、つい先日も剣術大会で圧倒的な強さを見せつけた。もちろん、王太子としての執務も滞りなくこなしていらっしゃる。
文武共に完璧な、若き太陽。
しかし実際は、国王陛下の御子が他にもおられて。そのお方がウィクトル王太子殿下の輝かしい功績を、陰で支えておられるとしたら?
それは決して、知ってはならない真実。
ましてやその真偽を本人に確認しただなんて。
誰かに聞かれたらきっと、ただでは済まされない。
私の質問に否定で返さなかった、このお方もまた。
「私、ウィクトル王太子殿下には少しだけ感謝しておりますの。彼が姉を選んでくださったおかげで、好きでもない相手と婚約せずに済みましたもの」
王太子殿下がローザとの婚約をお望みだと、お父様から聞かされた時。私は口を出さなかった。
王宮の庭園で、魔法植物のお話をしたのは私だった。王太子殿下がご自分で作ったという魔法植物を模した薔薇。その蕾に魔力を注いで咲かせたのも、確かに私のほうだったけれど。
私が喋ったことをかいつまんだだけの、薄っぺらい知識。
それでも和やかな、王太子殿下とローザのティータイム。
私と話した時のように専門的なお話をなさったら、ローザはとてもついていけなかったはず。けれどあの日の殿下はローザとただ、楽しそうに話しておられた。そして私に笑顔を向けて、自分たちばかり話してすまないと。
どうも胸騒ぎがしたのは、その時だった。
私が庭園でお会いした王太子殿下は、こんなお方だったかしらと。
博識で色々とお話ししてくださるけれど、どこか物静かで。そして私と目が合って恥ずかしそうになさるお姿に、内気な印象を受けた。
そうして、よくよく思い出してみれば。
デビュタントの最後を飾ったダンス。ヴィヴィアン王妃と軽やかに踊るお姿が、まるで違う人のようだった。去り際、ローザに向かって笑顔で手を振っていた時も。ローザとお茶を飲みながら話すお姿も、妙に社交的で。
「私がどんなに驚いたかわかります? 姉の代わりに、初めてアカデミーに行った日。入れ替われるほどそっくりな人間が、姉と私以外にも居ただなんて」
「僕も驚いたよ。どうして君が来たのかと思って」
「うふふ……やっぱり、気づいていらしたのですね」
入れ替わるよう言われた翌日。
王立アカデミーでこのお方と再会できて、心底ほっとした。
ローザが婚約した相手は、私が庭園で出会って恋に落ちた、あの王太子殿下ではなかった。私と一度も喋ったことがなかったからこそ、ウィクトル王太子殿下も誤ってローザを選んでしまったのだと。
「僕もずっと、君に聞きたいことがあったんだ。なぜ姉を助けるようなことをしたんだい? 王太子妃になりたいなら、放っておけばよかったものを」
これもまた、殿下のおっしゃる通りだ。
王太子妃になるのが目的ならば、ローザとの入れ替わりを拒否するだけでよかった。
そうすれば私が何かせずとも、ローザの低能ぶりが自然と露見し、婚約はなかったことに。そして翌年、私がアカデミーに入学して。最初の成績が出た時点で、私はウィクトル王太子殿下に婚約を申し込まれていただろう。
望まれているのが妹だと察し、その座を奪おうとした姉。
しかし能力が足りず、婚約破棄されてしまった。
そして結局は実力で、再び選ばれた妹。
「別にあなたじゃなくてもよかったのよ」と言ったローザに、「王太子殿下は私でなければいけなかったようですね」とでも言ってやれば、立派な復讐になっただろう。
しかしそれではいけなかった。だって私がお支えしたいのは、ウィクトル王太子殿下ではない。今私の目の前に居る、名前も知らない殿下だから。
「つい先程、申し上げたばかりですのに。私がお慕いしているのはあなたですわ」
「三公爵家の令嬢がそれではいけないね。好きな相手と結婚することが最善ではないだろう?」
「あら。あなたの存在に気づかないふりをして、ウィクトル王太子殿下の面倒をみて差し上げる人生が、私にとって最善だとお考えで?」
このお方こそが王太子に相応しいのにと、何度思ったかしれない。だって私は、ウィクトル王太子殿下とほとんどお会いしたことがないのだ。
アカデミーの講義でも。
修練場に差し入れを持って行った時も。
雷魔法の稽古を見てくださった時も。
執務室でお茶をお淹れした時も。
恐ろしいことに、ウィクトル王太子殿下が国のために尽くしているお姿を、たったの一度も見たことがない。
最後にお会いしたのは、アカデミーの卒業パーティーでローザをエスコートしておられた時。終わりがけに滑り込んでご挨拶したら、案の定ウィクトル王太子殿下ご本人で。学術的なことを喋らなくて済む楽しい場にはご自分で出てくるのだなと呆れた覚えがある。
まるで誰かさんを彷彿とさせるような。
本物のウィクトル王太子殿下は、残念ながらそんなお方なのだ。
「あなたのご担当は、魔法植物の研究だけではないのでしょう? 日々の執務。それから剣術と魔法。公の場でのスピーチも、ウィクトル王太子殿下ご本人がなさっているところを一度も見たことがありませんわ。まあ、ダンスだけはお上手だと思いますけれど」
「……本当に、君には驚かされるよ」
ふっと苦笑なさって、またウィクトル王太子殿下と同じ笑みに戻る。
ローザと私よりも、人目に触れる機会がはるかに多かったでしょうに、今まで正体を隠し続けてこられた。それだけ完璧に他者を装う教育というのは、どれほど厳しかっただろうかと思う。
「教えてくれるかな。違いがあるなら直さないと」
「直すほどの違いは無いと思いますわ。本当に、話し方も仕草も。ウィクトル王太子殿下をよく真似ておられますもの」
「ありがとう。けれど何か、見分ける方法があるんだよね? 君なりの」
「では特別に。ただ、お教えしても直せるかどうか……」
ご要望にお応えして、殿下に顔を近づける。そして熱い視線を送れば、ふいと目を逸らされた。このお方を見分けるための、最も簡単な方法だ。
「ほら。こうしてじっと見つめると、あなたは目を逸らすんです。初めてお会いした時も、アカデミーでもずっとそうでした。相変わらず、奥手で可愛らしいお方ですこと」
「……参ったな。確かにこういう時、弟は目を逸らさないだろうね」
弟、とおっしゃったのを聞いて、これはまた大変なことを知ってしまったなと思う。ヴィヴィアン王妃よりも先に、御子に恵まれた女性が居たならば。
国王陛下の長きに渡る婚約者。その婚約を破棄されて、側妃として王宮に迎えられたミルドレッド妃殿下。ご成婚して間もなく、療養を理由に離宮へ移ったという話を聞いたことがある。
――療養、というのは建前だったのね。
国王陛下との御子に恵まれて、身を隠そうとなさったんだわ。ヴィヴィアン王妃がその事実を知って、祝福するはずがないもの。婚約者を押しのけて正妃の座についたのに、自分よりも先に、側妃が跡継ぎに恵まれただなんて。
ミルドレッド妃殿下がお亡くなりになったのは、ウィクトル王太子殿下が四歳の時。守ってくださる方が居られなくなったから、第一王子殿下が見つかってしまったのでしょう。妃殿下が傍に居られれば、空間魔法で隠しながら、ヴィヴィアン王妃に狙われても対抗できる歳まで育てられたはずだもの。
それならミルドレッド妃殿下の、あまりに不名誉な死は……
「……もうすぐ御母君の命日ですわね。第一王子殿下」
「その呼び方はやめてくれるかな? 僕は存在しない人間なんだ」
「でしたら、本当のお名前をおうかがいしても?」
「悪いけどそれもできない」
「さようですか……弟君の影として、生涯を終えるおつもりなのですね」
「もちろん。そうしなければ生かしてもらえないからね」
――本当に、よくぞこの歳まで。ご自分の力で。
ヴィヴィアン王妃がいつどこで第一王子殿下を見つけたかは知らないけれど、見つけた瞬間、このお方を消そうとしたに違いない。
ウィクトル王太子殿下の容姿はよく、若き日の国王陛下そのままだと称えられる。そんな息子と見間違えるほど似ているのだから、自分以外の誰かと国王陛下の間にできた御子だと。息子の王位を脅かす存在に違いないと思ったでしょう。
けれど、第一王子殿下は生かされた。
その理由もまた、自分の息子とあまりにも外見が似ていたからだろう。もしもの時、息子の助けになるかもしれないと、駒のひとつとして取っておいた。まさか手放せなくなるほど有能だとは思わずに。
そう。入れ替わりを公表して罪を償おうとする私に、ヴィヴィアン王妃が態度を軟化させたのは、ローザと同じ手を使って自分の息子をあたかも完璧な王太子に見せかけていたからだ。
仮に私が、ローザに入れ替わりを強要されて、周囲を欺いていましたと自白したとしましょう。
この場合、法廷で国王陛下から裁きを申し渡されることになる。公判であれば新聞記者もやってきて。イーリス公爵家の長女がなんでもかんでも次女押しつけて、その功績で王太子妃になろうとしていた……なんて号外が城下を舞うことでしょう。
入れ替わって周囲を欺いた者が裁かれたという判例も残る。
その状態でもし、ヴィヴィアン王妃の所業が明るみになったら?
イーリス公爵家の姉妹よりも長い間、国王陛下の御子を、その存在を公表せず、都合のいい時だけ入れ替えていた。それだけでも罪深いのに、本来なら王太子になるはずだった第一王子殿下の功績を、すべて自分の息子――ウィクトル第二王子のものにして、王太子としての体面を保っていたなんて。もしばれたらヴィヴィアン王妃は息子共々、失脚を免れない。
「数時間前のことで、まだご存じないと思いますが。王妃殿下から王太子妃になるよう望まれました」
「そうなるだろうと思っていたよ。何と返事したのかな?」
「もちろん、お受けしましたわ」
「賢明だ。あの女の望むとおりにしたほうがいい」
「いえ。私が了承したのはあくまでも『王太子妃になる』という部分だけです」
ヴィヴィアン王妃は、さも私を思いやるように「公表しなくていい」と言った。そして望み通り、お義母様と呼んで差し上げた。
でも私、「入れ替わりを公表しません」なんて、一言も約束してないのよね。
ローザと私の件も。
もちろん、このお方とウィクトル王太子殿下の件も。
第一王子殿下の前に跪いて、羽織っておられる長い上着の裾に口づける。
「私、ルナ・イーリスがお支えしたいのは、第二王子殿下ではありません。あなたが、あなた自身として表に出るほうが、ずっと国のためになりますもの。どうか私と結婚してくださいませ。そして共に、国の未来を背負いましょう」
「……情熱的なプロポーズだね。とても」
真っ直ぐに見上げれば、第一王子殿下がにこりと微笑まれて。
私に右手を差し伸べてくださった。
受け入れていただけた。そう思って私が手を重ねると、軽く引いて立たせてくださったけれど、それはプロポーズの了承ではなかったようで……
「聞かなかったことにするよ。話は以上かな?」
「えっ? もしかして、プロポーズはご自分からなさりたいタイプですか?」
「それ以前の問題だ。存在しない人間に求婚するなんて、正気の沙汰じゃないよ」
「なるほど。それがあなたのお返事ということですね」
「ああ。それから、ウィクトルを第二と呼ぶのもいけない。第一が存在しないのにそんな呼び方、おかしいだろう?」
「……わかりましたわ」
私が頷いたのを見て、第一王子殿下は満足そうなご様子。
ルナ・イーリス、初めてにして渾身のプロポーズだったのだけれど。
しかし、まだ一度断られただけだ。どうということはない。
「今日のところは引き下がります。ですが私、あきらめませんわ。必ずや、あなたを口説き落としてご覧にいれましてよ」
「……僕の話を聞いていなかったのかな?」
「聞いておりました。あなたが存在しない人間として生きていることも理解できます。だからといって、私の初恋までなかったことにされては困りますわ。私がお慕いしているお方は、間違いなくここに存在して――」
私が喋るにつれて第一王子殿下の笑みがだんだんと薄くなり。
ついには言葉の途中で、殿下の指が私の首に絡みついた。
「口を、慎みたまえ。この首に愛着があるのなら」
顔から完全に笑みが消えると、温かな金色の瞳が急に鋭く感じられて。こんなお顔を初めて向けられたものだから、つい言葉を失ってしまった。体が勝手に震える。
「分かってもらえたみたいだね。これに懲りたら今後は大人しく――」
「ちょっと。お静かにしていただけませんこと?」
「……どうかした?」
「ええ。私は今、あなたのお顔を鑑賞するのに集中しておりますので」
正直にそう言ったら眉をひそめられてしまったけれど、普段と違う表情が見られるなんて貴重な機会、逃すわけにはいかない。
いやはや、冷たいお顔も震えるほど素敵である。なぜ今日に限って、私は記録の魔石を首から提げていなかったのか。あれば映像に残せたのに。
しかし無いものは仕方ない。可能な限り目に焼きつけようと思ってじっと見つめると、第一王子殿下がご自分の顔を手で覆ってしまった。こんなお姿を見るのもまた初めてである。
「おかしいな。少し脅かせばロイドは何でも言うことを聞いてくれるのに」
「まあ兄と私の性格は似ておりますけれど。兄妹だからといって、なんでもそっくりというわけにはいきませんわ」
「そうだね。この上なく残念だよ」
残念だと言われても嬉しい。ただ、私よりロイドお兄様を気に入っていらっしゃるようなのは癪である。
「これ以上は時間の無駄だね。それだけ元気があれば問題なく帰れるだろうし」
呆れかねたご様子で、第一王子殿下が結界を解いた。それと同時に、いつも通りの笑みがお顔に戻る。
これまでの経緯やら御母君のことやら、聞きたいことが山ほど残っているけれど、そろそろ部屋を出なければさすがに怪しまれてしまう。長くなりそうなお話はまた次回だ。
「殿下。最後にひとつだけ。もうじきある宴会、王妃殿下のパートナーは……」
「そうだよ。その日だけは毎年ね」
「ああ、やはりそうでしたか」
結界を解かれてしまったから、ウィクトル王太子の名前を出さずに会話する。
彼がデビュタントを終えて以降、ヴィヴィアン王妃の誕生日に行われる宴会では、国王陛下ではなくウィクトル王太子がエスコート役を務めていると聞いたことがある。
その話を聞いた時、ウィクトル王太子本人が「外に出たい」と駄々をこねたのではないかなと思った。ヴィヴィアン王妃は自分の誕生日に、国王陛下のエスコートを受けたいはずだから。
けれど、完璧な王太子像のために外出を制限している息子の頼みだ。隣に居ればフォローもできるしと、息子に宴会を楽しませてあげる行事と化したのだろう
そしてその日。代わりを務めなくていい第一王子殿下は、人目につかないところでおやすみになっているはず。
「心静かに過ごされたい日だとは思いますけれど、私のエスコートをお願いできませんか? もちろん、お時間があればで構いません」
「君は本当に、僕の話を聞かない才能に恵まれているんだね」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
「褒めてないよ」
駄目元でお願いしてみたけれど、これはさすがに駄目そうである。
最もシンプルで、誰にとっても分かりやすい作戦は、ヴィヴィアン王妃がウィクトル王太子に手を引かれて入場してきたところで、第一王子殿下にご登場いただくことだった。
しかし強要すれば、それはヴィヴィアン王妃と変わらない。第一王子殿下の気が進まないのなら、別の作戦を考えるまでだ。このお方にご足労いただかずに済んで、なおかつローザへの復讐が捗るエスコート役は……
そう考えて、ちょうどローザに会わせたい人が居たのを思い出した。大勢の前で、感動の再会を演出してあげればいいじゃない。そうと決まれば、彼に手紙を書かなければ。
部屋の扉に向かいながら、第一王子殿下と最後の会話を交わす。
「申し訳ありません殿下。頼んでおいてなんですが、別の方にお願いしますわ」
「それがいいよ。ロイドも助かるだろうし」
「いえ、兄はひとりで放っておきます。でなければ令嬢たちが近づけませんもの」
「……それなら、誰に頼むんだい?」
「誰に頼んだとしても、どうかお気になさらずに。私がお慕いしているお方がどなたなのか、よくご存じでしょう?」
殿下が何かおっしゃらないうちに部屋の扉を開けると、王宮医が控えていた。どうやら部屋の外で待たされていたらしい。
「おお……やっとお目覚めになりましたか」
「ああ、申し訳ありません。王宮医の先生にまでご迷惑を」
「いえいえ。お加減はいかがです?」
「問題ありません。王太子殿下も、長々とお待たせしてしまって……本当に申し訳ありませんでした」
「気にしないで。けれど、明日からはくれぐれも気をつけるようにね」
そうおっしゃって、私の行き先と反対に歩いていく。
つい先程まで長々とお話ししていたのが、なんだか夢のようだ。
――くれぐれも気をつけるように、か。
プロポーズを受け入れていただけなかったのはきっと、ヴィヴィアン王妃との戦いが熾烈なものになるから。僕のことはあきらめて、大人しく王妃の言うことを聞いていなさいと。そうおっしゃりたいのでしょう。
けれどルナ・イーリスは、そんなにやわな令嬢ではない。
第一王子殿下が本来の輝きを取り戻せるよう、雲を晴らしましょう。
あのお方こそが本物の、若き太陽だもの。