謎の女
人は生まれた時から体内に虫を飼っているのだという。本来はコイツ、神様に人の悪事をチクる害虫らしいのだが、時として役に立ってくれることもある。
俺は虫の導きに従い全速力で夜の街を駆けた。住宅街であるこのあたり、人影は既に皆無、車の往来もない。
後、300メートル、200メートル、100メートル……。7階建てマンションの1階にある店舗群、明かりが灯っているのは、さやかの勤めるトリミングサロン「Lala trimming 鍋島」だけのようだ。
アレは!!!!!
暗がりの中、店舗から漏れる明かりに照らされた人影、重たそうに何かを引きずって、車のトランクに入れようとしている。え? 荷物じゃない人だ! もしや!!
「さやか!!!!!」
惰眠を貪る夜の街、その頭にバケツ一杯分の水をぶっかける勢いで、俺は愛すべき妹の名を呼んだ。
さやかをトランクに入れようとしていた黒い影は、視線を上げこちらを見た、痩せ型の禍々しき悪鬼は俺に向かって全速力で突っ込んでくる! その右手にキラリ光るナイフ! あっ! 懸命の回避動作も空しく、刃渡15センチのサバイバルナイフは俺の左胸を刺した。
カチン!
一瞬、固く目を閉じた俺だったが意外な音がした。固い物? そうだ! 俺はいつもジャケットの胸ポケットにスマホを入れている。犯人とぶつかり合った勢いで、尻餅を付いた俺、次の一撃に身構えたが……。
地上の騒ぎを聞きつけたのか、マンションの窓が一斉に開いた。下を見る住人の顔、顔、顔。
犯人は追撃を諦め車の運転席に飛び乗った。
ブォォォーーン、キキキキィィィーー
「危ない!!」
おれは飛び込んで、急発進した車から、さやかを庇った。
「さ、さやか!」
返事がない。あ、そうだ! さやかの腕をとって脈をみる。やや遅いように思うが、彼女の心臓は正確に時を刻んでいる。呼吸は? うん、華奢な体、彼女の小さな胸は確かに上下しているようだ。
よかった……。
何をしている自分! 救急車だろ! 俺はダメになったジャケットの、これブランドもので高かったんだよなぁ、ポケットからスマホを取り出した。
あああー、壊れている。さっきナイフが当たった衝撃でスマホのガラスは割れ、その切先は電子機器を貫いていた。ま、命の代償がジャケット一着とスマホ一台、安いものだろう、って!
「だ、誰か! 救急車を呼んでください!」
大声でマンションの住人に向かって叫ぶ。何やってんだ!! 情けない。俺は、さやかのデニムからスマホを取り出し緊急モードで119番した。
「はい、119番消防です。火事ですか? 救急ですか?」
「救急をお願いします。急いでください! 意識がないんです。ああ、呼吸と脈は正常だと思うのですが」
「落ち着いて下さい。貴方は、今、どちらにおられますか?」
119番通報は確かにしたと思う、だが、それ以降の記憶がとても曖昧で、前後関係も定かではない。気が付けば俺は鍋島中央病院の病室で、眠っているさやかを見つめながらパイプ椅子に座っていた。
この病院は完全看護となっているため、夜、病人に付き添うことはできないが、看護師さんに無理を言い、両親は帰り俺一人だけ、という条件で、さやかの傍にいることを認めてもらった。
さやかは強い睡眠薬で眠らされているだけだ、と医師からは聞いている。生命の危機でないのは、その通りだろう。だが、誘拐されそうになり、大きなショックを受けているに違いない。
さやかが目を覚ます時、目の前にいてやりたい! 血は繋がっていないが、この世界で二人っきりの兄妹、家族の顔を見て安堵してほしい。さやか、さやか……。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
アレ? 俺としたことが、不覚にも眠ってしまったようだ。病室の窓から見える空は既に払暁の時を迎えている。
「大丈夫か! さやか」
「よっく寝たぁ! って感じ? いたって元気よ」
「うん、うん、だけどな、念には念をだ」
オレはナースコールのボタンを押した。
そんなバタバタが過ぎた後、精密検査を行ったさやかだが、健康上の問題は一切ないとのことだった。彼女自身も大丈夫だというので、父母が来院し退院の準備を進めていた。二人が精算のため会計窓口に降りていた時。
「さやかさん、ご無事で何よりです。トウヤ君もお疲れ様です」
「妹ちゃん、元気そうでよかったよ。トウヤ君、ご苦労さん」
大学の先輩である皇さんと、ゆずきがやってきた。
うん? 変だな。昨夜は慌てていて、まだ、ゆずきに事件のことは報告していない。なのに、なぜ、この病室が分かった?
「実は、お二人に謝らねばならないことがありまして」
「ああ、僕の方もかな。ま、りーたんからどうぞ」
「ええ、あのですね、私、実は、警視庁捜査一課に勤めております」
「ごめんね、トウヤ君、妹ちゃん、一般人を巻き込みたくないという、りーたんの方針もあり、今まで黙ってたんだけど」
「本当に申し訳ないです。かえって、さやかさんやトウヤ君を危ない目に合わせてしまいました」
ちょっとびっくりしたが、皇さん、大家以外にも仕事があるはずなのに、いつもその話題を避けていた。
大学時代はアメフト部、オフェンス・ラインのセンターで身長180センチを超えるガッチリした体つき、只者ではないとは思っていたが。