理都
ここは首都圏のとある街、取り壊し予定となっている廃ビルの一室。もう立夏を過ぎているに、ずいぶん肌寒く感じる。深夜だから? いや違う、禍々しい気配が冷気となって、私に纏わり付いているのでしょう。
私は皇理都、戦国ケ原探偵事務所の大家たん、ですからね! 警視庁・捜査第一課・警部、だってこと、トウヤ君には内緒ですよ。
「お怪我はありませんか? もう大丈夫です」
今、世間を騒がせている、憎むべき連続誘拐殺人犯、ついにそのアジトを見つけることができたのですが、被害者が誘拐されてから丸一日、もう時間がない、一分一秒を争う。またぞろ顛末書を書くのを覚悟して、単身、乗り込んだ、という次第です。
幸いにして被略取者、大きなショックを受けてはいるものの、命に別条はないようです。
うん? アレ? これは上階からでしょうか? 足音がしますね。
「ここでお待ちください、すぐに担当の者が参りますので」
被害者は、まもなく到着する警察官、この場合は女性警官がいいですね、に任せましょう。
一人で、銃火器を持っているかもしれない犯人に立ち向かうのも、警察的には少々まずいんですが、この場合、いたしかたないでしょう。私は被害者に準備してきた毛布を掛け、照明の消えた階段を駆け上がった。
足音は一人、うーーん、妙な走り方ですね、右手にナイフでしょうか? 銃火器は所持していない気がしますが……。念の為、ショルダーホルスターからSIG Sauer P230を抜きセイフティーを外す。
犯人は夜逃げ同然で閉店したバーに逃げ込んだようです。姿を隠すにはうってつけの場所ですが、出入り口は一つ、袋のネズミと言えるでしょう。
私は右手にP230を持ち、左手で慎重に木製ドアの取手を引く。入り口を背にして両手で拳銃を構え、人の気配がするカウンター奥を狙った。
「そこかっ、動くな!」
なに! 私に照準を合わせられているのも構わず、犯人は猿の如くカウンターを飛び越えてきた。窓から差し込む月明かりにキラリと光るナイフ。
お見事です、威嚇射撃しかできないと確信したかのような立ち回りですね。私はP230で犯人のナイフを弾き飛ばす。
ウグッ!!
拳銃、鉄の塊で、殴打された右手は痺れ、バランスを崩した犯人。だが、いやはや素早過ぎる動作。なんでしょう? この身のこなし、見事な左レバーブローをもらってしまいました。
あやうく気を失うところでしたが、犯人が軽量級だったのに救われた気がします。必殺技を凌げれば、私、日本の警察ですから。
「ボクシングがお得意なようですが、柔道には足払いという技がありまして……。略取・誘拐、及び、殺人の容疑で逮捕です」
倒れた犯人に手錠をかけようとした、その時。
「にゃ〜ん」
「ん、猫?」
いけませんね、大失態です。何かが動く気配に思わず犯人から目を離してしまいました。
え? 犯人は一瞬の隙を突き、跳ね起きたと思ったら、私を突き飛ばしてガラス窓に飛び込んだ。
ガシャァァン!!
「ちょ、ここ、五階なんですが!」
割れた窓から下を見ると、犯人は雨樋を伝って地上に降り、そのまま夜の闇に消えた。
サーカス団にでもいたのでしょうか? 軽業師のような身のこなしです。黒っぽい上下に目出し帽、痩せ型という特徴以外、私としたことが性別すら分からぬまま、犯人を逃してしまいました。
アレ? ここに、猫がいたはず? 埃が溜まったバーカウンターの上、確かに猫と思しき足跡が残っている。あれは、犯人の助手なんでしょうか? 美猫とでも表現すべき、上品な猫は忽然と姿を消していました。
犯人の追跡は諦めて一階に降りると応援部隊が到着していた。それでですね、さらに言いますと、私、警部なんです。部下の報告も聞く必要がありまして。
「警部、お怪我はないですか? 被害者ですが、外傷はないものの、強い心的外傷を受けており、現状、会話もおぼつきません。ご指示通り、救急搬送いたしました」
ちゃんと女性警官が被害者の救護に当たってくれたようです。続いて、私の直属の部下。
「応援は順次到着予定です。もう少し時間があれば、ちゃんとした包囲網も敷けたのですが……」
「まぁ、まぁ、被害者の生命が無事でしたので、よしとしましょう……」
私は自分に言い聞かせるよう、そう言った。
「では! すぐに網を広げるよう手配します」
「よろしくお願いします……。耳折れで毛が長い、高級猫にいましたよね、なんて品種でしたっけ」
「は?」
「ああ、いやいや、独り言です。現場で猫を見たものですから」
「犯人の飼い猫でしょうか。そちらも、捜査対象としますか?」
「いえ、この件はお抱え探偵に聞くとしましょう」
ま、「蛇の道は蛇」でしょう。どこか、ゆずき君、猫に似ていますからね。
と、その時。
「にゃぁぁ〜」
十六夜の赤い月が煌々と輝く夜空、微かに響く猫の鳴き声。まさか、あの猫? みすみす容疑者を逃してしまった間抜けな警察を嘲笑うような声音です。