第36話「間違いは正さねばならない」
イスハーク様が立ち上がってお母様を睨みつけます。
「貴様、王太子に向かって愚かと言ったのか! 賛成せぬと言うなら、謀反だ! 預かっている嫡男を殺す!」
──ヒュッ。
私の喉を、冷たい息が通り抜けました。
アダラート公爵家の嫡男である私の弟を、預かっている? 従わねば殺す?
まさか、そのような人質のような扱いを受けていたとは……!
「……っ!」
お母様のもとに行かなければ。
しかし、それをバルターク卿が押し留めます。
「もう少しお待ちください。お母様を信じるのです」
「でも!」
「大丈夫です。他でもない、貴女のお母様ですよ」
お母様が、前に出ました。
慌てた衛士たち止めようとしますが、その歩みは止まりません。
お母様は大広間の中央まで歩み出て、正面からイスハーク様と対峙しました。
「何度でも申し上げましょう。愚かな王太子よ」
「お母様! 何を言っているのですか!」
ナフィーサの慌てようを見れば、お母様が反対するとは露ほども思っていなかったのでしょう。
「弟が死ねば、アダラート公爵家には後継者がいません。黙って従ってください!」
「お黙りなさい! この未熟者が!」
大広間が、ビリビリと震えます。
ふだん穏やかなお母様がこのように大声を出したところを見たのは、初めてです。
ナフィーサも驚いて口をパクパクさせています。
「王太子よ。オルレアン帝国との同盟は、我々の悲願でした。平和のために必要なことだったのです。それを破棄してまで、何を得ようと言うのですか」
お父様はそのために戦い、そのために命を落としたのです。
攻めてきたオルレアン帝国と、対等な同盟を結ぶことで戦を終えること。
そのために、耐え難きを耐える戦を、乗り越えたのです。
「オルレアン帝国とは確かに同盟を結んだが、皇帝は私を支持しない。他の王を擁立しようと画策しているのだ。我が王家の血統を蔑ろにする者との同盟など、結ぶ意味がない」
「いつまでそのような妄執に囚われているのですか」
「妄執だと!」
「同盟を結んだとはいえ、王位の継承は内政に関わる事。オルレアンの皇帝が支持するもしないも関係のない事でしょう」
「いいや! ウォルトンの国王は私を支持すると言った! 私が王位につくための、あらゆる支援をすると言ったのだ!」
他国の内政干渉を許すとは。
愚かな行いを塗り重ねていることに、まだ気づいていないのでしょうか。
しかし、これで事の真相が明らかになりました。
──自分の王位を安泰なものにするため、イスハーク様は国を売ったのです。
「第一、貴様が反対したところでもう遅いわ! すでにウォルトン王国軍は北の街道を進み始めている!」
──ザワッ!
ひときわ大きなざわめきが起こりました。
街道沿いの領地を持つ北方の領主たちが、にわかに動き出します。
彼らにとっては領地の一大事。
彼らは大広間から出ようとしましたが、それを衛士が押し留めています。
「なんという、愚かな!」
「ふんっ! 公爵家の嫡男を連れて来い! この手で処刑してくれる!」
「やれるものならば、やってみなさい! その時は私がその空っぽの頭を叩き潰す事を覚悟なさい!」
「ひゅー。過激」
イヴァンが口笛を吹きました。
「よくおっしゃった」
デラトルレ卿が拍手します。
同じように、広間からは喝采が上がっています。
イスハーク様は赤黒い顔で、身体をブルブルと震わせています。
「黙れ! 黙れ! 黙れ!」
もはや、子供の駄々と同じ。
貴族たちから、冷たい視線が浴びせられています。
何人かの貴族が大広間から逃げ出すのが目の端に映りました。まるでネズミのようです。情けない。
自分の利益のために王太子を担ぎ上げた者たちです。担いだ神輿が泥で出来ていたと気づいたのでしょう。
彼らのことは、後回しです。
まずは、すでに街道を進み始めているウォルトン王国軍をなんとかしなければなりません。
「シーリーン・アダラート!」
「はっ!」
お母様に呼ばれると、背中がピンと緊張しました。
その背を、騎士たちが押してくれます。
お母様の隣に進み出ました。
「アダラート公爵代行として、全権をそなたに委任します」
鋭い眼差しが、私を見つめています。
「私たちは間違いを犯しました。愚かな王太子を、止めることができなかった」
その言葉に、騒いでいた貴族たちが押し黙りました。
彼らは王宮の異常に気付きながらも、何も策を講じなかったのです。
現在はオルレアン帝国で暮らし、帝国の皇子を後見としている私が事を収める。
それが、現状における最善手です。
「間違いは正さねばなりません。王家の血とアダラート公爵家の誇りにかけて、貴女が間違いを正すのです」
「承知!」
「……お願いしますね」
お母様の小さな声に、しかと頷きました。
「ウォルトン王国軍に使節を送れ! 我々は通行を許可しない! 無視するようならば、これを迎え撃つ!」
「おう!」
私の声に、貴族たちが応えてくれました。
ウォルトン王国側は、おそらくこの事態も織り込み済みでしょう。
そのために、北の領主たちをカルケントに参集させた。
仮にこの発議が拒否されたとしても、フェルメズ王国軍には厳しい戦いになります。
イスハーク様は、いいように踊らされていたのです。
「バルターク卿」
「はっ」
「弟の保護を頼めますか?」
「ただちに!」
「時間が惜しい。地図をここへ!」
政務官と侍従たちが慌てて動き出しました。
主要な貴族たちが、慌ただしく臣下に指示を出しながら集まってきます。
それぞれ領地に知らせを送り、戦の準備をさせるのです。
「まずは北の街道に戦力を送ります。とにかく早く動ける家門から順に出立してください」
「はっ」
「時間との勝負です。オルレアン帝国との国境に到達させてはなりません」
そうなれば、ウォルトン王国と翰帝国を敵に回すだけでなく、オルレアン帝国との同盟まで崩れてしまいます。絶対に、あってはならない事です。
「無理だ! 間に合わない! このままウォルトン王国を通した方が良いに決まっている!」
イスハーク様です。
まだ、口を開く気力が残っていたのですね。
「貴様は一介の公爵令嬢だろう! 女なら黙って男に従え! なぜナフィーサのようにできないんだ!」
思わず、言い返すことができませんでした。
──なぜナフィーサのようにできないのか。
私自身が、何度も自問自答してきた問いです。
女ならば。
ただ粛々と男に従い、男を立てる。
余計な口出しはしない。ましてや男のすることに口ごたえなどしない。
ただ美しく着飾って、可愛らしく在る。そして、男の道に花を添える。
王妃の椅子に座ったまま、ただ呆然としているだけの妹のように。
それが女の正しい姿なのでしょう。
「そんな必要はございませんよ」
私が言い返そうとしたとき、そこに割り込んできた人がいました。
「ナフィーサのように、ですか……。『獅子姫』はそんな小さな場所に収まるような器ではございませんでしょう?」
誰、でしょうか……?




