第3話「瑠璃の瞳の伯爵」
淡く輝く三日月、満天の星、家々の窓から溢れるランプの灯り……。
闇の中で煌めく光を見つめていると、切ない思いが胸を締め付けます。
フェルメズ王国の首都・カルケントは、街全体が城になってます。
いくつもの城壁が折り重なる形で築かれた城は、天然の要塞です。
その最も内側にあるのが、王宮を取り囲む城壁。
私はその城壁の上に座って、街を見下ろしています。
宴会場で何があったのか皆が知っていますから、衛士たちも何も言わずに一人にしてくれました。
「今夜は冷えますね」
声をかけてきたのは、そんな気遣いを解しない外国人──オルレアン帝国の使者の一人でした。
その手には毛皮のマント。そして、濡らした手拭い。
「あちらの衛士が、お渡しするのを躊躇っていたので。私が代わりに」
彼の指差した方を見れば、顔見知りの衛士が気まずそうにこちらを見ていました。
マントを羽織り、手拭いを頬に当てます。衛士は安心したように微笑んでから、後ろを向いてくれました。
心配させてしまったようです。
「ありがとうございます」
「ご挨拶をさせていただけますか?」
そう言って、男性はとても自然な所作で私の手をすくい取りました。
礼装の袖は指先まで覆うほどの長さがあるので、直接肌に触れられたわけではありません。
それでも、思わずビクリと震えてしまいました。
「ディルク・マースと申します。どうぞ、お見知りおきを」
私の緊張を知ってか知らずか、その唇が袖越しに私の手の甲に触れます。
月の光に照らされて輝く、黄金の髪。
高く筋の通った鼻梁。
少し釣り上がった眦。
引き締まった薄い唇。
そして極め付けは、キラキラと光を放つ瑠璃の瞳──。
まるで絵本の挿絵のような姿に、思わず息を呑みます。
「……シーリーン・アダラートです。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
慌てて目を逸らしながら、なんとか挨拶を返すことができました。
わざわざ宴を抜けてここへ来たのです。おそらく、帝国に渡ってからも長い付き合いになるのでしょう。
「隣に座っても?」
「どうぞ」
男性は軽やかな動きで城壁に乗り上がり、隣に腰掛けます。
宴の席では、ずいぶん若くて美しい使者が来たものだと話題になっていました。
確かに外交を担うには若すぎるようにも見えます。
ただし、洗練された物腰に落ち着いた所作。高位の貴族なのでしょう。
「どのようにお呼びすればよろしいでしょうか?」
「どうぞ、お好きにお呼びください」
「我が国では男女であっても名前で呼び合うのが普通なのです。帝国のマナーを教えていただけませんか?」
「そうですね。公式の場では、『マース伯爵』とお呼びいただければ」
伯爵。しかも、すでに家督を継いでいらっしゃるとは。
「爵位をつけてお呼びするのですね」
「ええ。ただし、親しい間柄ならば名前で呼び合うこともございます」
「そうですか。では、私は『マース伯爵』とお呼びしますね」
私の返答が面白かったのか、マース伯爵が吹き出しました。
「実にもったいない」
「もったいない?」
「ええ。貴女は一国を支えるだけの度量のある方だ」
真摯に向けられた瞳に、思わず目を伏せます。
会ったばかりのこの方に、何が分かるというのでしょうか。
「戦場で、『獅子姫』をお見かけしました」
マース伯爵が、今度は遠くを見つめてつぶやきました。
「誰よりも勇敢で、誰よりも強かった」
「『粗野』だと言われてしまいましたわ」
「あんな戯言、右から左に聞き流してしまいなさい」
「そうでしょうか? 令嬢らしくないと言われれば、確かにその通りですわ」
「令嬢らしい?」
「ええ。……私もナフィーサのようであれば、捨てられることもなかったのかしら」
俯いて言葉にしてしまえば、堪えていたものが溢れ出します。
「お父様を恨みたくはありません。しかし、私も当たり前の令嬢のように育てていただければ、あるいは」
「シーリーン嬢」
帝国人特有の白い肌の手が、再び私の手を握ります。
──ポロリ。
袖越しに手の甲を優しく撫でられれば、今度こそ涙がこぼれ落ちてしまいました。
「私が公爵家の長女でなければ、私が剣を手に取らなければ、私が兵法など学ばなければ、私が戦場になど行かなければ」
──ポロポロ。
「私が、もっとちゃんとナフィーサやイスハーク様と向き合っていれば。私が……、私が……」
──ポロポロ。
「全て、私が悪いのです」
涙と一緒に、胸の内に秘めた言葉がこぼれていきます。
──ポロポロ。
一度こぼれ出した涙を止める方法を、私は知りません。
「……私は、主人から二つの命令を受けて参りました」
私の手を撫でながら、マース伯爵が優しく語りかけます。
「命令?」
「はい」
なんの話でしょうか。
私を慰めるためにしては、『命令』とは穏やかではない言葉です。
「一つ目は、『留学生としてお迎えするのはシーリーン・アダラート嬢でなければならない』と」
「私?」
「ええ。我が主人は、貴女に心酔しているのです」
「どうして」
「主人を見事に出し抜き、優位であったはずの我が帝国から講和を提案させた。その見事な手腕に、感服されたのです」
「では、貴方の主人というのは……」
「はい。テオドル・エドムント・フォン・クルジーク様。オルレアン帝国の皇子殿下でいらっしゃいます」
帝国では力のある皇子を積極的に政治に参加させていると聞いています。
特にテオドル皇子は、将軍として非常に有能な方。
先だっての帝国との戦では、互いに敵として何度も戦場で合間見えました。将軍同士ですから、直接顔を合わせたことはありませんが。
先々の展開を見通して早期の講和を決断したのが、テオドル皇子だったのです。
「……二つ目の命令というのは?」
「『もしもシーリーン嬢が決起されるなら、全面的に支援させていただく旨をお伝えするように』と」
決起。
それは、王位を奪い取ることを決意して軍を起こすことを意味しているのでしょう。
イスハーク様が、あのデタラメを信じたのには理由がありました。
現王家に不満を持つ貴族は多い。特に辺境地帯の領主たちは、中央の圧政に苦しめられています。王家の血を受け継ぐ私が、そんな貴族たちをまとめ上げて公爵家の権力を以て王に成り代わる。
それは、決して不可能な話ではないのです。
「テオドル皇子は、とんだ狸ですわね」
王家の交代は、オルレアン帝国にとっても悪い話ではありません。
帝国が支援して王座を手にすることになれば、より強固な絆を結ぶことなるからです。帝国の言いなりになる王を据えると言っても過言ではありません。
マース伯爵が、私を慰めるためにこの話をされたのは大正解だったようです。
涙はすっかり止まってしまいました。
「どうなさいますか?」
「答えなど決まっています」
おもむろに私が立ち上がると、一陣の風が吹き抜けていきました。
結い上げていた髪が解けて、漆黒の髪が風と共に舞い上がります。
「私は、この国を愛しています」
マース伯爵が、わずかに笑ったのが伝わってきました。
彼もわかっていたのでしょう。
誰の思い通りにもさせない。
そのために、私はここから去らなければなりません。
私は愛する祖国のために、捨てられなければならないのです。