第20話「どこにも行かないでください」
職人たちに手伝ってもらって、シュナーベル卿を二階の寝室のベッドに寝かせました。
「ベッドを取ってしまってごめんなさいね」
「大丈夫ですよ。私らのことは気にせず、ゆっくり休んでください」
「ありがとう」
寝室には、私とシュナーベル卿の二人きりになりました。
穏やかな寝息だけが聞こえてきます。
寝顔を覗き込むと、目の下にはクッキリとした隈がありました。
「だから、休みが必要だと言ったのに」
ため息を吐いて、シュナーベル卿の身体に毛布をかけます。
もうすぐ夏とはいえ、夜は肌寒い。
「さて」
今日は彼を休ませることばかり考えていて、自分のことは考えていませんでした。
部屋の中を見回すと、ソファの上に作業途中の刺繍枠が置き去りにされています。
花の刺繍の習作のようです。
「久しぶりだわ」
燭台の明かりを頼りに、刺繍を刺します。
剣ではなく針を扱うのは、本当に久しぶりです。
最後に刺した刺繍は、妹と弟に贈ったハンカチでした。図案は、確か……。
「バラの花」
あの頃は、とても辛かった。
妹は私を憎み、暴言を撒き散らす。それを父が叱り、母が宥め、弟は怯えていました。
一人になりたくて、よく部屋にこもって黙々と刺繍をしていました。
ただ美しいものを作り出すだけの作業は、心を無にしてくれたものです。
戦場に出てからは刺繍を刺すことはなくなってしまいましたが、手は憶えているものですね。
空いた場所に、バラの花びらを刺していきます。
一枚、二枚、三枚……。
赤い花びらが、広がっていきます。
「……お嬢様?」
いつの間にか夢中になっていたようです。
呼ばれて顔を上げると、シュナーベル卿が目を瞬かせてこちらを見ています。
トロンとした様子ですから、まだ半分夢の中にいるようです。
「これは夢ですよ。眠ってしまいなさい」
「夢……」
シュナーベル卿の肩を押すと、その身体はなんの抵抗もなくベッドに戻っていきました。
毛布をかけ直します。
「さあ、眠って」
ポンポンと肩を叩いてから離れようとしましたが、それは叶いませんでした。
シュナーベル卿が、私の手を握ったからです。
「どうしましたか?」
「どこにも行かないでください」
握った手に、ぎゅっと力がこもります。
「どこにも行きませんよ?」
「いいえ。……貴女は、いずれどこかへ行ってしまう」
空色の瞳が、私を見つめています。
「私などの手の届かないところへ、行ってしまうのです」
その瞳が、迷子になった子供のようで。
不安だと訴えかけてきます。
「遠くって、どこへ?」
「……いずれ、どなたかとご結婚されるはずです」
なるほど。そういう不安でしたか。
「そうね。私は、帝国のいずれかの貴族の方と結婚することになるでしょうね」
フェルメズ王国から人質としてやって来たのです。
政略的に結婚相手が決められるでしょう。
「大丈夫よ。結婚しても、貴方を護衛騎士として連れて行くわ。約束します」
そのくらいのお願いなら聞いてもらえるでしょう。
「……そういうことではありません」
「では、どういうことですか?」
「……自分は、貴女のそばにいたい」
「ええ。ずっと私のことを守ってくださいね」
「違います。自分は、貴女の……」
言いかけて、空色の瞳が伏せられてしまいました。
「シュナーベル卿?」
顔を覗き込むと、その頬がわずかに色付いていることが分かりました。
「たいへん。熱があるのかしら」
慌てて額に手を当てます。
「熱はないみたいね。そろそろ眠らなければ」
「……はい」
しおしおと小さくなっていく身体に、毛布をかけます。
「続きは、目が覚めているときにお伝えします」
「そう?」
「はい」
シュナーベル卿は、そのまま頭まですっぽりと毛布を被ってしまいました。
「……夢なので、一つお願いしてもよろしいですか?」
「ええ。もちろんよ」
夢でなくても、お願いがあればいつでも言ってほしいのだけれど。
「……名前を、呼んでください」
「名前を?」
「はい。……アレクシス、と」
そんなお願いなら、いつでも叶えてあげられるのに。
「お安い御用よ。……貴方は私の第一の騎士なのだから、もっとわがままを言ってもいいのよ?」
「そんなことはできません。自分は、貴女の騎士です。自分が、貴女の願いを叶えるのです」
「ありがとう。……アレクシス」
名を呼ぶと、毛布の山がわずかに揺れました。
顔を見ることはできなかったけれど、喜んでくれているのでしょう。
「おやすみなさい」
しばらくすると、毛布の山は穏やかに上下し始めました。
眠りやすいように、顔のところだけ毛布をめくります。
大きな犬が丸まって眠っているような様子に、とても穏やかな気持ちになったのでした。
翌朝、厨で朝食の支度を手伝っていると、二階からドッタンバッタンという大きな物音が響いてきました。
シュナーベル卿が目を覚まして、驚いてベッドから落ちたのでしょう。
「ハハハハ!」
子供たちが笑いながら二階へ駆け上がっていきました。
「……おはようございます」
子供達から事情を聞いたのでしょう。
バツの悪そうな表情のシュナーベル卿が居間に来ました。
「おはよう。よく眠れたみたいね」
職人たちも子供たちも、堪えきれずにクスクスと笑っています。
「朝食にしましょう。二日酔いによく効く香草を入れてあるわ」
「……申し訳ありません」
「謝るのは私の方よ。私のせいで怒らせてしまって、ごめんなさい」
「怒らせる?」
「……私が一人で出かけたりしたから怒っていたのではないの? 同じことをしないように、見張っていたのでしょう?」
シュナーベル卿が、頭を抱えてしまいました。
「……そういうところです」
彼が何を言いたいのか、さっぱり分かりません。
……そういえば、同じようなやりとりをマース伯爵ともしたような気がします。
「どういうことですか?」
「……何でもありません」
「なあに? ちゃんと話してちょうだい」
シュナーベル卿は、しかめっ面で黙り込んでしまいました。
「また怒ったの?」
「もともと怒ってなどいませんよ」
「では、どういうことなの?」
「……いずれ、お伝えします」
「今ではダメなの?」
「はい」
「もう。仕方がないわね」
彼も頑なな人です。『いずれ』と言ったなら、いずれ話してくれるでしょう。
けれど、こんな風に隠し事をされるのは気分の良いものではありません。
どうやら私に関係のあることのようですし。
「では、朝食にしましょう。……アレクシス」
「え」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするシュナーベル卿を見て、少しだけ溜飲が下がりました。
彼は夢だったと思っているでしょうから、驚いたでしょうね。
このくらいの意地悪は、許してもらいましょう。
 




