第1話「婚約破棄と美しい妹」
「シーリーン・アダラート公爵令嬢。そなたとの婚約は、破棄とする!」
数ヶ月前。
隣国との長期にわたる戦が、『講和』という形で幕を下ろしました。
その終戦を記念して開かれた宴の席でのこと。
さあ乾杯を、という段になって私に叩きつけられたセリフ。
言葉を失いました。
悲しみではありません。
──怒りです。
「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
こんな馬鹿げたセリフを敢えてこの場で披露するからには、それなりの理由があるはずです。なければなりません。
なぜなら、この場には他国の使者の方々も参席しているのです。
恥晒しもいいところ。
王太子であるイスハーク様を見上げると、壇上から私を見下ろしたまま『ふんっ』と鼻を鳴らしました。
「そなたのような『粗野』な女を、妻にと望む方がどうかしている」
この言葉に、会場の中からクスクスと笑い声が漏れます。
『粗野』
私のことを、そのように思っていらしたのですね。
しかも、それはイスハーク様だけではない様子。
私が首都を離れている間に根回しは済んでいた、ということですか。
「女のくせに剣を振るうだけでも我慢ならないというのに、戦場では先陣を切って敵軍に向かって行ったというではないか」
事実です。
この二年間。私は戦場で戦いに明け暮れていました。
──この国のために。
その私に、この仕打ちとは。
怒り、呆れ、悲しみ……。
グチャグチャになった心が、私の足を震わせます。
私が何も言い返さない姿を見て、イスハーク様はもう一度『ふんっ』と鼻を鳴らしました。
人を馬鹿にするときに出る、彼のクセです。
悪いクセだから直すようにと諫めたこともありましたが、無駄だったようですね。
「この国の未来の王妃には、もっとふさわしい女性がなるべきだ」
そう言って、イスハーク様が手を差し出します。
その手を取るために前に進み出たのは──私の妹・ナフィーサでした。
「私はアダラート公爵家のナフィーサ嬢を、我が妻として迎えることを決めた!」
妹のナフィーサは、うっとりとした表情でイスハーク様の腕にしなだれかかります。
そのまま会場を見渡してから、その黒々とした瞳で、勝ち誇ったように私を見下ろしました。
私とお揃いの尖晶石と称えられた美しい瞳で。
会場から拍手が鳴ります。
さらに、一部の貴族たちが、『王太子殿下万歳!』とか『おめでとうございます!』とか、定型的な歓声を上げています。
半分くらいの貴族は難しい顔をして黙り込んでいますから、拍手も歓声もまばらといった感じですが。
それでも、イスハーク様とナフィーサは嬉しそうに手を振って答えています。
なんという茶番。
満足するまで手を振ってから、イスハーク様がやれやれといった様子で歓声と拍手を制します。
「よろしいかな、シーリーン嬢?」
よろしいかな、とは。
面白い言い回しですね。
こちらの返事など『はい』以外に受け入れるつもりはないのに。
「……婚約破棄の件、了承いたします」
「では、そなたには新しい役割が必要だな」
──ああ、そちらが本題でしたか。
「知っての通り我が王国は隣国と講和し、今後は同盟を結ぶことになった」
存じ上げておりますとも。
その同盟を結ぶために、必死で戦ってきたのですから。
「友好の証として、我が国から『留学生』を送り出すことになっている」
つまり、人質です。
人質にはそれなりに価値のある人物を送らねばなりません。
その候補の一人であったイスハーク様は、私を『留学生』に指名することで自分の立場を守ろうというのですね。
それが、この茶番の本当の目的。
「誉れ高い、和平の使者だ。『獅子姫』には相応しい役割であろう?」
『獅子姫』
それは、戦場での私の二つ名です。
アダラート公爵家の旗印は黄金の獅子。それになぞらえて、呼ばれるようになりました。
隣国の騎士を何人も斬ってきた私への、嫌味のつもりでしょう。
下品この上ない。
ですが、ここで何を言い返そうとも何も変わりません。
国王陛下はイスハーク様の後ろで目を伏せたまま。
半数以上の貴族、王族も買収済み。私にできることはありません。
「……謹んで拝命いたします」
胸に手を揃えて深くおじぎをして、そのまま誰の顔を見ることもなく踵を返しました。
『獅子姫』と呼ばれ、祖国のために命を賭けて戦った。
それが私の誇りでした。
戦ったが故にこのような仕打ちを受けることになるとは、思いもしませんでした。
「お姉様!」
足早に宴会場を去った私を追いかけてきたのは、妹のナフィーサでした。
その目には涙が浮かんでいます。
『婚約破棄を言い渡された、可哀想な姉を追いかける健気な妹』という段取りなのでしょう。
「……」
「ああ、お姉様。なんて可哀想なの」
わざとらしく言いながら、私の腕に手を添えます。
「私の勝ちね」
袖で隠した言葉は、そっと囁くように。
きっと、誰にも聞こえなかったでしょう。
「お父様も馬鹿よね。大事な大事な長女様を、戦場になんか行かせるから」
その黒々とした美しい瞳が、どろりと歪むのがわかりました。
いつの間に、こんな表情をするようになってしまったのでしょう。
幼い頃は、こうではありませんでした。
『おねえさま、おねえさま』と私の後を追いかけてくる、それはそれは可愛らしい妹でした。
13歳を過ぎて社交界に出るようになった頃からです。彼女が変わってしまったのは。
「イスハーク様が選んだのは、私」
確かに彼が選んだのはナフィーサですが、この場合は『選ばせた』と言った方が正確のようにも思えます。
「選ばれたのは、私よ?」
これは、憎しみというよりも執着に近い。
「貴女はそれでいいの?」
問いかけると、その美しい顔が怒りで歪みました。
「いいに決まっているじゃない。私が! お姉様に! 勝ったのよ!」
「でもね……」
「うるさい!」
「ナフィーサ、話を聞いてちょうだい」
「聞かないわよ。負け犬の遠吠えなんか!」
「ナフィーサ……」
「……その顔、大嫌いなのよ。自分は全て分かっていますよっていう顔。二度と見たくない」
初めは、思春期にありがちな反抗期だと思いました。
友人の影響だろうと考えた父は社交界への出入りを禁じましたが、ナフィーサの発言は過激になる一方で。
家の中でも口論が絶えなくなり、家族全員が心身ともに疲れ果てていました。
家族関係を心配した親族から『我が家で預かりましょう』と提案されたときには、父は藁にもすがる思いだったことでしょう。
その親族がそもそもの元凶だったと気付いたときには、父はすでに戦場にいました。
ナフィーサは、アダラート公爵家とは敵対する派閥に利用された。
彼女の『姉に対する劣等感』を、利用されてしまったのです。
大切な妹を助けたいと思うのに、私の言葉は何一つ届きません。
父も気がかりだったでしょう。
戦さえなければ、彼女を救う手立てもあったのかもしれません。
私と違って、ただただ可愛らしいナフィーサ。
美しいナフィーサ。
もう、手遅れなのでしょうか──?