性悪王子の献身
『フレイン伯爵家長女リコリシア。この私、クーシード国第一王子フェリットは、あなたとの婚約を破棄することをここに宣言する!』
さきほど、婚約者であるフェリット王子から直々に婚約破棄をつきつけられた伯爵令嬢は私です。どうか探さないでください。
そんな気持ちで城内の中庭に飛び込み、淑女の所作も忘れて芝生の上で大の字になっている。お星様きれい。
明日執り行われるフェリット王子の立太子を祝う、今日の良き日。そのお祝いパーティーの真っ只中で、私は盛大に振られてしまった。
まぁ、パーティーが始まる時間になってもフェリット王子が迎えに来なかった辺りで、こうなる予感はしていたけど。
婚約者の私をさしおいて、他の女の子をエスコートしながらパーティー会場に入ってくるとは思っていなかった。完全に当てつけよねあれ。
「やってくれたわ王子様……」
ドヤ顔でフェリット王子と腕を組んでいたのはたしか、グレイス男爵家のオヴェリア令嬢。私より四歳下、花の十七歳。ゆるりとウェーブのかかった長い金髪、くりっと大きな碧眼の、絵に描いたような美少女。
対する私は癖のない栗色髪に若葉色の目、よく言えば親しみやすく悪く言えば没個性の外見をしている。
それに厳しい王妃教育を受けてきた影響か、二十一歳の実年齢より歳上に見られがち。謎に貫禄ばかり増しているせいで、歳上や同い歳の子息令嬢方に『あ、歳上かと思ってました』と謝られることも多い。
今年で十九歳になるフェリット王子的に、口うるさい歳上の私より従順な歳下のオヴェリア嬢のほうが好みだったというわけだ。たかが二歳、されど二歳。
子どもの頃からフェリット王子に『堅物』『無愛想』『とっつきにくい女』と散々な評価をされてきたので、彼が私を嫌っているのは重々承知していた。
この婚約自体フェリット王子の父母、もといハリエット国王陛下とフェルナータ王妃殿下が勝手に決めたものだったし、私も彼に対して特別な感情が芽生えることはついぞなかった。
これでも婚約当初は仲を深めようと、私なりに努力したのだ。一緒に勉強したり、剣術や馬術の鍛錬に付き合ったり……
今思えば、彼はそれを鬱陶しいと思っていたのかもしれない。
自身が勉強や鍛錬をサボっていることを棚に上げて、『リコリシアは男を立てられない出しゃばりな女』だとか『未来の王妃となる者が泥にまみれて鍛錬するなどみっともない』だとか……挙げればキリのない暴言の数々に、しぶとい私も歩み寄るのをやめた。
この婚約が国の長たちから賜ったものでさえなければ、早々に解消を申し出ていたと思う。
『リコリシアよ、どうか聞き入れてほしい』
『あなたにこの国の未来を託したいの』
七歳で父母を流行り病で亡くした際、私の身元を引き受けてくれた陛下たちに言われた言葉だ。
フェリット王子と婚約し王妃教育を受けるか、修道院に入りそこで一生を終えるか。城に身を置くならフレイン伯爵領に代理人を派遣し、家を存続させてくれると付け加えて。
国王と王妃からの頼みは命令に等しい。それだけでもう断れる余地はないのだけど、天涯孤独の私に、王妃を目指す以外の道はなかった。
でももう、それも終わり。
国王陛下と王妃殿下が席を外したタイミングをあえて狙い、大勢の来賓の前でやらかしてくれた王子様と、関係を続ける意味はない。
というか、仮にも婚約者である殿方が、自分以外のあまたの女性たちと浮き名を流しているのを、『派手ねぇ』と他人事のように笑っていられた時点で終わっている。
「これからどうしようかなぁ……」
陛下と王妃様がこのまま黙っているはずはないし、破棄宣言の瞬間を目の当たりにした方々も熾烈な痴話ゲンカくらいにしか思っていないだろうけど、少なくともフェリット王子は本気だった。今回の宣言が棄却されたとしても、あの手この手で私との関係を壊そうとするだろう。目を見ればわかる。
その視線に耐えかねて、私はこうして中庭まで逃げてきてしまったのだから。
誰も私を追わないように、とフェリット王子が命令を下していたので、野次馬に囲まれる心配がないことだけが救いだった。
「やっぱりここにいた!」
そう思ったのも束の間、青薔薇の生け垣の向こうから夜に溶ける黒髪の美少女が走り寄ってきた。
「あらハーヴェル、ごきげんよう」
「ごきげんよう、じゃありませんわリックお姉様!」
私をリックと愛称で呼んでくれる彼女は、ハーヴェル・クーシード王女。フェリット王子の妹君で、私の幼馴染みでもある。
この青薔薇の生け垣付近はめったに人が寄りつかないので、私とハーヴェルが人目を気にせずくつろげる数少ない場所。誰にも会いたくない私がここに逃げ込むことも、彼女にはお見通しだったようだ。
「わたくしやお父様たちが目を離した隙に、まったくあの愚兄は……!」
ルビーのような赤い目をきっと吊り上げてぷりぷり怒っている。昔から私を『お姉様』と呼んで慕ってくれているハーヴェルは、フェリット王子の暴挙を止められなかったのをとても悔やんでいるらしい。
「そう言わないでハーヴィー、いつかこうなるとは思ってたし」
「そのいつかが今夜なのが問題なのです! お姉様もそんな打ちひしがれてないで、そろそろ起きてくださいまし。愚兄の仕立てたドレスがどうなろうと知ったことじゃありませんが、お姉様の肌が汚れるのは許せません」
草や夜露にまみれたパステルブルーのドレス。実のところ胸元がきつくて私の体にフィットしていない。明らかに別の女性に送る予定だったものを横流ししたのだろうということは、ハーヴェルには言わないでおく。
「それと、愚兄が何を喚こうが、わたくしたちクーシード王室は絶対に認めませんので。お姉様のことだから、この城を追い出されたあとのことを思い憂鬱になっていらしたのでしょうけど、そんな未来は一生訪れませんので!」
「わ、わかった……わかったからちょっと落ち着きなさいな」
早口でまくし立てるハーヴェルに気圧されつつ身を起こす。
「言っておきますが、お母様の取り乱しようはわたくしの非ではありませんことよ。今すぐお姉様とお話がしたいとおっしゃって、私室に閉じこもっていらっしゃいます」
「やだ、それはたいへん。すぐ行くわ」
ハーヴェルの母、フェルナータ王妃様はなかなかに激しい性格をなさっていて、私に関することには輪をかけて感情的になる。
昔、フェリット王子に便乗して私をいじめる公爵家令嬢たちがいた。私がハサミで髪を切られたり、あらぬ悪い噂を立てられたりした際、王妃様はいじめに加担した子を一人残らず炙り出し、王城の庭に引き立てて……
その子たちが着ているドレスに火をつけた。狂乱する令嬢たちを尻目に、『今日の晩餐は豚の丸焼きにしましょうね、それにしてはよく鳴く豚だわおほほほほ』と穏やかに笑う王妃様が恐ろしくて、私とハーヴェルはギャンギャン泣きながら抱き合って震えていた。
もちろんすぐに衛兵たちが鎮火してくれて大事には至らなかったけど、この方の感情を昂らせるのは極力避けたほうがいいと学んだ。
ほんと、何をするかわからないんですもの。
「フェルナータ様、リコリシアです」
王妃様の私室の扉に声をかける。「お入り」と落ち着いた声音が返ってきたので、侍女に開けてもらって入室した。
「リック! あぁもう、どこに行っていたの!」
扉が閉まるや否や、さっきの落ち着きぶりが嘘のように声を荒らげて王妃様が抱きついてきた。
「うぶっ、も、申し訳ありませ……」
「パーティーが始まる前にあれほどわたくしたちのそばを離れるなと言い聞かせたのに、うかつにあの子に近づくからこんなことになるのですよ!」
ご来賓の対応に追われる王族たちの邪魔にならないようにと、こっそりそばを離れたのが仇となったのだと。王妃様方にくっついて回っていればあんな騒ぎにはならなかったと。
反省してもしきれない自分の不手際を指摘されてしおしおと頷く。
「まぁそんなこと、あなたが一番よくわかっているでしょうし、わたくしがとやかく言うのはこれくらいにしておくわ」
「ご慈悲に感謝いたします。それで……今回の騒動で私なりに考えたのですが、もうこれ以上、無理に婚約関係を続けるのはやめにしようと思います」
フェリット王子から邪険に扱われてきたこれまでを思い、幼い頃からずっと思ってきたことをようやく口にする。他に身寄りがないのをいいことに、王室に甘えたきりだったけど、婚約者にあれほど激しく拒絶されてしまっては、さすがに耐えられそうもない。
「一国の王子から婚約を破棄された傷物が伯爵家を継ぐわけにはまいりませんので、爵位は国に返還いたします。私は修道院に入り、フェリット王子に寄り添えなかった己れの罪と向き合う所存です」
「何が罪なものですか。そんなこと、わたくしは認めませんよ」
「ええそうですわ。これまで兄との関係改善に尽力してくださった無辜のお姉様を、一体誰が裁けるとおっしゃるのです?」
「ですが私はこれ以上、フェリット王子に無理を強いたくはありません」
本音を言えばもう疲れた。
自分をあからさまに嫌い遠ざけようとする婚約者にも、その婚約者に縋ることでしかこの場にいられない自分の無力さにも。
王妃教育から逃げ、婚約者から逃げ、いっそすべてを投げ出してしまいたいと思うのは、まさしく罪ではないかしら。
「やれやれ、やはりこうなったか」
ふいに部屋の扉が開いて、ハリエット陛下が顔を出す。
「あなたからも説得してくださいな。リックったら、爵位を国に返上して修道院に行くなどと……」
「お父様も反対なさいますよね? ね?」
フェルナータ様とハーヴェルの圧がすごい。
それにほけほけと笑って、ハリエット陛下は「もちろんだとも」と応える。
「リコリシアは余の娘同然。いたいけな我が子を家から追い出すなど、親のすることではなかろう。そして、可愛い娘に恥をかかせた息子を叱るのも、父たる余の務めだ」
ハーヴェルと同じ赤い目をいたずらっぽく細め、ハリエット陛下がウィンクする。
「リック、王女になりなさい」
「え?」
今なんと?
ぽかんとする私を置いて、フェルナータ様が「まぁ!」と目を輝かせた。
「それは名案だわ!」
「ということはお姉様が名実ともにわたくしの姉上になられるのですか⁉︎ 素敵!」
「いや、あの……ちょっと?」
きゃっきゃと手を取り合い、大いに盛り上がるお二人を呆然と見つめる。
ちょっ…………と待ってほしい。
予想外すぎて思考を放棄しそうになるのをなんとかこらえ、胸を押さえた。
「お、お待ちください。王族の血を引いていない一貴族の私が尊き名に連なるなど許されません!」
「なぜだ? その尊き名の長たる余が申しておるのに……他に誰の許しがいると?」
「うぐ……陛下が私を大切に思ってくださるのは身に余る光栄と存じております。ですが、私情でその名を分け与えてしまっては他の貴族のみなさまに申し訳が立ちません」
というより、私が婚約破棄されたことと、私が王女になる権利を与えられるのはまったく別のお話では?
「あのねリック、わたくしたちは今あなたをいかにしてこの城に留めおくか、いかにして幸せな生活を恵むか、ただそれだけを考えているの」
「フェルナータ様……」
そもそもの論点がお互いに違うことを察し口を噤むと、陛下が「リコリシア、」と言葉を続ける。
「長い間厳しい王妃教育に耐え、国のため人のため身を粉にする覚悟を示し続けてきたそなたは、すでに血筋を越えて王族の顔となった。誰も文句は言うまいよ。それに、公衆の面前であのような真似をしたフェリットを、次期国王に据えるわけにもいかぬ。フェリットから立太子の権利を剥奪し、ハーヴェルを王太女にしようと余は考えておる」
「そうなれば、リックは王妃にはなれないでしょう? せっかくここまで頑張ってきた子を王族ではないからといって追い出すなんて、陛下もわたくしも許可できないわ」
「私はこれまで、お二方やハーヴィーのおかげで生きてこられました。高等な教育を受けることができ、上質なベッドで英気を養い、おいしいものを美しく食べることの大切さも、自分が国のために尽くせる限界も知ることができました。なのに、これ以上優しくされては、未熟な私はきっと甘えてしまいます」
だからどうか突き放して。
これまでが奇跡のような幸せだったのだと思い知らせてほしい。
うつむく私に「ふむ、」と口ひげをなでて、陛下は思案顔になった。
「ときにリック、隣国ソーマインのスカーレイド殿下のことは知っておるな?」
「え?」
どうして……? と思いつつ、一つ頷く。
「はい、私が学院に入る前はよく顔を合わせておりました」
白銀の短髪に金色の目の見目は麗しく、文武ともに優秀であらせられる王太子殿下。幼い頃はフェリット王子やハーヴィーを交えてお会いしていたのだけど、最近はお互いに忙しくてめっきり会えなくなった。
そういえば、あの頃はフェリット王子も私にそこまで冷たくなかったと思う。
幼き日の美しき思い出はいまだにきらきらしていて、直視すると切なくなるほどだ。
フェリット王子の婚約者でありながら、十歳に満たない私はスカーレイド殿下に恋をしていた。まぁ、子どもの頃の初恋とはえてして叶わぬもの。夢は夢として小さな胸にしまいこんだ。
三歳上のお兄様への憧れやときめきを恋と勘違いしていたのかもしれないし、自分に課せられた重責から目を背けたくて現実逃避していたのかもしれない。
そう自分に言い聞かせて。
…………あぁ、余計なことまで思い出してしまったわ。
「実は、本日のパーティーにスカーレイド殿下も参加していてな。そなたとフェリットのいざこざを目の当たりにし、『婚約破棄が正式なものとなったあかつきには、リコリシア嬢をぜひとも我が妻に』と、殿下直々に頭を下げられたのだ」
「そっ……」
そんなことってあるの?
絶句する私の肩を抱き寄せ、フェルナータ様が微笑む。
「ソーマインは我が国の盟友。その次期国王たるスカーレイド殿下なら、わたくしたちの可愛いリックを託すのにふさわしい」
「気遣い屋のお姉様が是と言いやすいように言い換えると、政略結婚ということですわ。お姉様がソーマイン殿下と結ばれればクーシードとソーマインの同盟はより強固なものとなります。お姉様はその身をもって、我らクーシードの益となるのです」
人の情を一切加えずに説明されればなんということもない。国のため同盟のため、贄になれと。
そんな無慈悲さなど欠片も持ち合わせてはいないでしょうに、陛下もフェルナータ様もハーヴィーも、私が頷きやすいようにわざと『国の話』をなさるのだわ。
「ハーヴィー、そんな言い方されたら、私は承諾するしかないじゃない」
困り果てて呟く。
逃げ出すにはまだ早いと、希望を託されたような気がした。
◇ ◇ ◇
一国の王子が自分の婚約者に突然婚約破棄を突きつけた。
それも、明日に自分の立太子の式典を控えたパーティーでだ。国内外問わず様々な来賓が集う場で、よりにもよって他の女性を侍らせながら。
スカーレイドは婚約破棄を叫んだ王子とも、その婚約者とも面識がある。もっと言えば、お互いの部屋に招き招かれ幼少期を過ごした友人たちだ。
子どもの頃の二人はそれなりに仲良しに見えていたのだが、それがどうしてこのようなことに?
パーティー会場を飛び出したリコリシアのことは、フェリットの妹のハーヴェルが追いかけていったので、自分の出る幕はない。
本当は今すぐにでもそばに行きたいが、久方ぶりに会う他国の王子が隣にいては泣けるものも泣けないだろう。
リコリシアが去ってすぐフェリットも会場を後にしていたので、今はそちらを追いかけて問い詰めたほうが良さそうだ。
なぜあんなことをしたのか。
あんなわざとらしい宣言で、この幼馴染みの目を誤魔化せると思ったのか、と。
「フェル!」
見つけたフェリットの背中に鋭い声を飛ばす。
彼は城の片隅にある礼拝堂にいた。昔から、事件があったときや一人になりたいときは決まってここに来ることを、スカーレイドは知っている。
さきほどまで隣に侍らせていた令嬢は姿を消し、月明かりで青白く浮かび上がる堂内にはフェリットしかいない。
「あぁスカー、こんばんは」
奇妙な達成感をにじませて、フェリットがゆっくりと振り返る。妹姫のハーヴェルより深い赤の双眸はどこまでも静かだ。
「どういうつもりだ、お前はリコリシアのことが好きだったはずだろう?」
開口一番、最も疑問に感じていたことをぶつける。
フェリットのことは、彼がまだ五歳のときから見てきた。あのときから今までの間で、彼がリコリシアから心変わりした様子は一切なかったと思う。
少なくとも、スカーレイドの前でフェリットがリコリシアを疎んだことはない。
戸惑いを隠せないでいるスカーレイドに、フェリットは申し訳なさそうな、それでいて妬むような微笑みを向けた。
「好きですよ。リコリシアは僕の、最初で最後の想い人です」
「だったらなぜ……」
「リコリシアの心が僕ではなく、あなたのものだったからです。気づいていたでしょう?」
知らなかったとは言わせない、とばかりに厳かに響く声に怯む。
リコリシアが自分を恋い慕っている。そのような甘い願望は、子どもの頃に涙を呑んで打ち捨てたはずだった。
自分のそば近くに仕える侍女たちが『殿下は初恋泥棒ですわ』『他国の次期お妃様となるお方の心を奪ってしまうなんて、なんとも悲しいロマンスですわね』と、口をそろえて噂していたのを思い出す。
本当にそうならいいのに、と何度思ったことか。そう願うたびに、リコリシアがフェリットのものであることを思い知り、勝手に傷ついて。
その願いを、他でもないフェリットの口から肯定されるとは。
「待ってくれフェル。仮にそうだとして、なぜお前が彼女と婚約破棄しなければならない?」
「何を白々しいことを……リコリシアの胸のうちを知ってなお、僕に説明してみせよとおっしゃるのですか? 無慈悲な人だ」
少し考えればわかるだろうと言いたげに冷笑して、フェリットは祭壇の上に飾られた聖母像へと顔を向ける。
「物心のついた頃から、リコリシアの一番はスカー、あなたでした。元々僕たちの婚約は国王夫妻が勝手に取りつけたもので、彼女はただ事務的に僕の隣を選び、王妃教育を受ける道を歩かされてきたのです。そんな彼女を僕は哀れだと思いましたし、また同時に……どうしようもなくいとおしいと思いました。愛した人の幸せを願うのは当然の感情でしょう? 彼女が心から好いた相手と結ばれ、笑って過ごす日々を送れるならなんでもしてあげようと……あなたを見て頬を染める彼女を見つめ続けるうちに、そう願うようになりました」
「願い一つを叶えるために、こんな大それた芝居を打ったと?」
「いいえ? 同じ王族のあなたもご存知の通り、王位を継いでいない者の意思や願いなど、国を前にすれば塵芥同然の幻です。どれほど彼女を僕から解放したいと足掻けど、彼女を手放したくない両親にことごとく潰される。僕たちの関係がいかに冷えきろうと、僕がいかに不誠実なふるまいをしてみせようと状況は何も変わりませんでした。途方に暮れていたところに、ある噂が舞い込んできたのです」
「噂?」
慎重で聡明なフェリットがそんな不確定なものに縋るほど、ギリギリまで追い詰められていたというのか。
困惑と驚きで硬直したままのスカーレイドの前に悠然と歩み寄り、深紅の目を冷たく細めてフェリットが口を開いた。
「『ソーマインの王太子殿下は初恋の相手を忘れられぬあまり、いまだに独身を貫いておられるらしい。世継ぎはどうするのか、次期国王としての務めを放棄などすまいなと、大臣たちは日々肝を冷やしている』というものでして……噂の的であるあなたには、心当たりがおありのはずです」
「……っ」
誤解だ、と言うにはあまりにも嘘が過ぎて息を詰める。
本来ならとっくに婚約者を定め、籍を入れているはずの年齢になっても、スカーレイドはリコリシアへの恋情を消しきれずにいた。
せめて彼女が名実ともにフェリットのものとなり、自分の手が届かない場所に行くのをこの目で確かめるまでは、と……彼女を想う気持ちをそのままにしてきたのだ。
「僕は……想いあっている幼馴染みたちを妨害してまで、自分の恋を実らせようとは思わなかった。リコリシアを手に入れても、その先で誰も幸せになれないことを、子どもながらに知ってしまったから。邪魔者は消えてしかるべきだと、ずっと、彼女を解放する準備をしてきました」
独り言のように囁く声はどこまでも静かで、フェリットが今日までかけてきた年月の長さと想いの深さを思わせる。
「その集大成がさっきの婚約破棄宣言だと?」
「はい。責任感と優しさが人一倍大きいリコリシアが、気兼ねなく僕を見限れるように……これまでもずっと冷たく接してきましたので、さすがの彼女も今日かぎりで僕と縁を切る決心をするでしょう」
「何もそこまで……」
「する必要があったのです。だって彼女、僕の態度を見かねた国王に婚約関係の解消を打診されても、絶対に首を縦に振らなかったのですよ? いくらでも逃げ出せたはずなのに、責任感一つでつらい状況に居続けて……本当に、彼女らしい」
おかしそうに小さく笑う顔には愛しさがにじむ。こんなにも想っていて、どうして手放そうなどと決心できるのか。
初恋を拗らせている自分には何度生まれ変わっても真似できそうもない。
「ハリエット陛下とフェルナータ殿下は知っているのか? お前が無理にリコリシアを遠ざけ、わざと傷つけてきたこと」
「もちろん。最初の頃は考え直せとさんざん諭されました。それでもリコリシアに僕の手の内を明かさなかったのは、彼女が国への献身のあまり自分の恋を責めるのを恐れたからでしょう。陛下たちはあくまで彼女の幸福を望んでいて、駒扱いはしたくなかったようです。意思が拮抗して議論が平行線になってしまったので、僕たち親子は一つ、賭けをすることにしました」
「賭け?」
「万が一、リコリシアの想い人であるスカーレイド殿下から正式な求婚があった場合、国の情勢や様々な事情を度外視して必ず二人を婚約させる、と」
「っ……!」
そんなバカなことがあるか、と目を瞠るも、目の前の幼馴染みは至って真剣な眼差しをしていて声が出せなくなる。
「あぁ、何もあなたを他国の王子の婚約者に求婚するほど非常識な男だとは思っておりません。僕も両親も、スカーが信頼に足る人物だということはよくわかっているつもりです。だから絶対にありえないだろうと踏んで、両親は僕との賭けに乗ってくれた……まさか、明日立太子する王子が公衆の面前で婚約者を辱めるとは思わなかったでしょうね」
とんでもない方法で父母との賭けに勝った胆力を褒めるべきか、そうまでして我を通しリコリシアを傷つけたことを怒るべきか悩む。
「国王はきっと、僕から立太子の権利を剥奪し、妹に王位を継がせるでしょう。それくらいの仕返しは覚悟の上ですので、特に気にしてはいませんが……問題はあなたです」
「何?」
「僕たちの思惑通り、リコリシアに求婚してくださるかどうか。それが叶わなければ、これまでの僕の努力は水の泡となってしまいます」
スカーレイドの顔を覗き込むように腰を折り、「ねぇ?」といたずらっぽく笑われる。
「今お話ししたことを、僕の独りよがりな献身だと一蹴してくれても構いません。ですがそうなると、僕はともかくリコリシアが困ってしまいます。婚約者に捨てられた哀れな彼女を、どうか拾ってあげてくれませんか?」
「その捨てた婚約者がそれを言うのか?」
「はい。何せ僕は、学院でも屈指の性悪男で王室の癌。どうしようもないクズ人間ですので」
違う。それはまやかしだ。
そう否定するのは簡単なのに、何も言葉をかけてやれないのが悔しい。
誰よりも純真で優しい彼に、そう見えるよう演じさせていたのは自分なのだから。
ぐっと歯噛みして眉間に皺を寄せる。
「リコリシアには隠し通してきたことを、なぜ俺には話した?」
絞り出した問いに泣きそうな笑顔をされた。
「……本当に申し訳ないことに、これはただの八つ当たりなのです」
歳不相応に大人びたフェリットから子どもらしい言葉が出たのに驚く。
「リコリシアに選ばれたあなたへの嫉妬と、自分の不甲斐なさへの憎しみと……今後あなたが彼女とともにあるとき、僕を思い出して嫌な気持ちになればいいという、ある種の呪いと。彼女を娶らざるをえない状況にあなたを追い込むためと言ったら、さすがのスカーも怒りますか?」
「それだけ万感の思いを込めて打ち明けられたなら、怒る気も失せるよ。それにお前を思い出して不快になることはきっと一生ない。残念だったな」
リコリシアにしたことは看過できないが、この不器用な歳下の王子は間違いなく自分の一番の親友であるし、守るべき存在の一人でもある。
むしろ、彼がそこまで追い詰められていたことに気づけなかった自分に吐き気がする。
彼を止められなかったことが心底悔やまれる。
「それは……ええ、本当に残念です」
そこで堪えきれなくなったか、フェリットの頬を一筋の涙が伝った。
それを乱暴に拭い、フェリットが顔を手で覆ってうつむく。
「国王陛下夫妻は中央宮の大ホールにいらっしゃると思います。この混乱に乗じて、どうぞ求婚の話を振ってみてください。きっと頷いてくれるはずですから」
「……わかった」
「それと、スカー。一つわがままを聞いてくれませんか?」
「なんだ」
うつむいたままのフェリットが大きく深呼吸をする。
「……どうか僕を、許さないで。長い間リコリシアにひどい態度を取り続けて、ずっと傷つけてきた僕を、あなただけは一生恨んで、憎み続けてください」
「最後の最後に、一番難しいことを言う」
ただ、彼ならそう言い出すだろうとは思っていた。
誰よりも自分を許せないでいるのは、彼自身だろうに。
「フェル……お前は、俺の隣で幸せになっていくリコリシアを見守り続ける覚悟など、とっくにできている男だろう? 彼女を愛しているお前にとっては、それが一番の苦痛であり、罰になる。それ以上の責苦を俺は望まないし、無意味だと思うんだが」
「相変わらず……優しすぎるんですよ、あなたは」
その優しさこそがつらいのだと言わんばかりに、フェリットが顔を上げて涙を見せた。人前では決して泣かない彼の泣き顔にやるせなさが込み上げる。
その涙に報いるため、スカーレイドは踵を返して礼拝堂を後にした。
王妃教育頑張ってきたけど、婚約者の王子にあまりにも嫌われていて婚約破棄までされてしまったので、もう修道院にでも入ってしまいたい主人公
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主人公が大好きすぎて絶対手放したくない国王と王妃と王女
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一途に幼馴染みの主人公を想い続けてきた結果、婚約適齢期になっても独り身のままの異国の王太子
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大好きな主人公が自分以外の男を好いていると知り、主人公の恋を実らせるため全力で嫌われにいった結果、婚約破棄することにした拗らせ王子