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小説

元平民、現子爵家養女、婚約破棄をされまして~破棄後から夫となる幼馴染と再会するまで~

作者: 重原水鳥

※この物語はフィクションであり、登場人物、団体名等は全て架空のものです。

「全く、酷い目にあったわ!」


 公立学院のパーティーを途中退場し、その後再び参加する事も出来ず憤慨しながら家に帰って来たラナ=ティナ・エバーハートを迎え入れたのは、義兄のグレガー・エバーハートだった。

 血が繋がって居ないので、二人の容姿はちっとも似ていない。淡くカーブを描く黒い巻き毛で、同じく黒い瞳をしている義兄のグレガー。一方でラナ=ティナのアルザーティ公国の未婚女性特有な長い髪はザクロのように赤く、瞳は夕焼け色だ。

 グレガーの顔色も険しい。ラナ=ティナも不機嫌さを隠そうともしないで眉間に皺を寄せていたが、グレガーの後ろから出てきたカールの姿を見て、表情をやわらげる。


「カール! 来てたの?」

「ああ、グレガーが呼んでくれたんだ。ラナ、大丈夫か?」


 カールはラナ=ティナと同じように赤い髪と夕焼け色の瞳を持っている。

 そっと親愛のハグを交わす二人は似ていて、こちらは見れば二人が兄妹だという事を疑う人はいないだろう。事実、カールはラナ=ティナの血の繋がった兄であったので二人が似ているのは何も可笑しい事ではなかった。


 ラナ=ティナ・エバーハートは、エバーハート子爵に養女として迎え入れられた元平民である。


 平民であった頃はただの「ラナ」だった彼女はエバーハート子爵の養女となったさいにその名前を「ラナ=ティナ」と改名していた。だから、義兄のグレガーや義父義母であるエバーハート子爵と夫人は彼女の事を「ラナ=ティナ」と呼ぶけれど、血の繋がった兄であるカールや実の両親は未だに彼女の事を「ラナ」と呼ぶ。


 アルザーティ公国は小さな国だ。

 古くから君主たるアルザーティ公爵家の人々が、生まれだけでなく実力を重視してきたために、この国では貴族は特権階級ではあるけれど、平民を差別する事はそうない。むしろ、才能のある平民を養子として囲い、より専門的な学問を受けさせたりする事はよくある事だった。

 ラナ=ティナもその例にもれず、十歳の頃にその才能をエバーハート子爵に見いだされ、養女となった。


 ラナ=ティナとグレガー、カールの三人は、エバーハート家の客間に移動した。使用人が出してくれたお菓子をひょいひょいと食べるラナ=ティナに、平民であるカールの方が眉をひそめる。


「ラナ、そういうのは淑女らしくないんじゃないか?」

「まぁっ。今はカールとグレガーお兄様しかいないのだもの、いいじゃない別に。ねえお兄様」


 いや駄目だろうという顔をしたカールといいでしょうという顔をしたラナ=ティナに見つめられたグレガーは困ったように、曖昧に微笑んだ。訴えている事は真逆なのに、どうにも似ている兄と妹だ。

 カールは頼りにならないグレガーに溜息をついた。普通であればその態度こそ、不敬だと言われても可笑しくはない。けれど二人は公立学院の同級生でもあった事もあり、カールはグレガーにはやや雑な対応をする事があった。勿論、私的な場には限るが。


 ラナ=ティナが少し落ち着いた所で、グレガーは話を振った。


「それで、早打ちが来てある程度は聞いたけれどお前の口からも聞かせてくれ。何があった?」


 ラナ=ティナは居ずまいを正すと、今日の昼間、公立学院の年に一度の研究発表パーティーで起きた頓珍漢な公国の醜聞を話し始めた。


「セルジオ様をはじめ、ナウマン伯爵子息、グラブナー子爵子息、ボームマイスター男爵子息、そしてアンドレセン子爵子息(あのおろかもの)の五人が、婚約者に婚約を破棄すると訴えました。パーティーの、ど真ん中で」


 グレガーは手で顔を覆い、カールは絶句していた。カール――というか実家――の方にはあまり心配をかけるのもよくないと、こうなる前の話を殆どしていなかったので殆ど寝耳に水だったのだろう。この反応からして、ラナ=ティナが何やら大変な事に巻き込まれた……ぐらいしか聞いていないのかもしれない。ラナ=ティナは少し同情したし、申し訳なくもあった。

 カールは呆然としながらラナ=ティナに言う。


「お、愚か者って、アンドレセン子爵の子息の……? お前の婚約者の……?」

「そうですよ。エバーハート家の養女でしかない私に惚れたなんだと言って、無理に婚約を行ったあのバカです」


 そう言い切ってから、ラナ=ティナは前に垂れてきた長い髪の毛を背中に払い、机上のお菓子をまた一つつまんで食べた。


 無理に婚約をした、というのは間違いでもない。そもそも二人の婚約にはいくつか無理があった。



 ◆



 ラナ=ティナは、平民の出だ。

 土木作業を行う父と、飲食店で店員をしている母の間に生まれた。そして父の雇い主が、エバーハート子爵――現養父――だった。

 元々は一作業員でしかなかった実父トーマスは、カールとグレガーが公立学院で親しい友人になる事でエバーハート子爵に認識されるようになった。元々口数は少ないが真面目な性格の父だったので、子爵にも気に入られてラナや実母エリカも連れて子爵家にお呼ばれする事もあった。その内、ラナ=ティナには建築の才能があるのかもしれないと子爵は思うようになり、ラナ=ティナを養女としたいと打診した。互いの人柄はよく知る所で、両親はラナが望むのなら、と了承し、ラナ=ティナもエバーハート子爵家にある様々な書物を見てもっと勉強したいと思うようになり、その申し出を受け入れた。

 貴族が平民を養子に取るのは、その才能が外に流出せず、我が家で使えるようにするためだ。故にわざわざ貴族階級に受け入れた養子は結婚等は当然の事、様々な面で貴族の制限を受ける。ラナ=ティナもそれを理解しているが、それでも養女となったのはやはり貴族になる利点も多いからだった。

 迎え入れたのが養女であった場合、嫁に出す事は基本的にない。それでは折角囲って育てた知識が外に流れ出てしまうからだ。この場合は普通、婿を取る形で結婚する。それはこの国では一般的な考え方だった。


 であるにも関わらず、ハキム・アンドレセンはラナ=ティナに求婚した。


 二人が出会ったのは、公立学院でだった。

 ラナ=ティナがエバーハート家に才能を見込まれて養女となった事は、公立学院では公然の事実だった。なので彼女に求婚するとしたら、それは彼女に婿入りをしてエバーハート家に連なる者となる、という前提ありきのものである筈だ。

 ところが学院でラナ=ティナに求婚してきたハキムは、アンドレセン子爵家の一人息子だった。つまり彼は嫁を取らなければならず、婿には来れない。

 それをラナ=ティナは知っていたので、求婚をお断りしたのだがハキムは何度も繰り返しアタックしてくる。困り果てたラナ=ティナは養父のエバーハート子爵にも相談した。エバーハート子爵はラナ=ティナが養女である事を含めてアンドレセン家にお断りの連絡をした。アンドレセン家でも一旦はそれを受け入れたのだが、ハキムは両親に止められても諦めなかった。繰り返し繰り返し、何度もラナ=ティナを口説いた。あまりの熱心さに、ラナ=ティナもエバーハート家も折れて二人の婚約は成った。


 ――という流れを経て成り立ったものであったというのに。


 ハキムが公立学院初等部の最高学年となった年。

 公立学院に一人の女子生徒が入学した。それによって、全てはめちゃくちゃになった。


 入学した生徒の名を、ヘルタ・フェという。フェ男爵の令嬢だが、庶子らしい。そこの所をどうにかいうつもりはラナ=ティナには全くない。自分とて、養女という立場だからだ。

 彼女は十六歳であったが、公立学院に一年生として入学してきた。そこまで可笑しい事でもない。ラナ=ティナたちも通っている初等部は公立学院は十二歳から入学出来る六年制だが、十二歳から入学できるだけで、入学の最高学年の制限はない。なので平民の子で公立学院に通う場合などは先に入学資金を溜めてから入ってくる事も多いので、同学年でも年齢にはかなりばらつきがあるのだ。

 ヘルタの事をラナ=ティナが知ったのは、ハキムが彼女に惚れてその――下世話な言い方にはなるが――尻を追い回しているという噂を聞いてからだった。婚約者ではあるがハキムの行動を制限している訳ではなかったし、庶子だからというだけで有名になれるほど公立学院も小さくない。


(よくもまああんなに無理を通して熱心に自分を口説いておいて、簡単に心変わり出来たものだな)


 そう思ったし、仮にも婚約者である男が自分以外の人間に必要以上に愛想を振りまいていると聞いて「ああそう」と無視するほど、ラナ=ティナはハキムに無関心であった訳ではない。

 なのでラナ=ティナは公立学院でハキムを捕まえると、ヘルタの件について問い詰めた。


「私という婚約者がありながら、昨今、ハキム様が別の女性を熱心に口説いているなどという噂が回って来たのですが、真ですか」


 最初から責め立てるのもどうかと、ラナ=ティナは苦言を呈するだけにしておこうと思って、そういった。

 所がそれを聞いたハキムは顔を真っ赤に染めた。その姿に、ラナ=ティナは驚いて言葉を失ってしまった。だからその後の暴言にも何も言い返せなかった。


「うるさいッ! 尊い血も流れていないお前は黙って大人しくしていればいいんだッ!」


 貴族は基本、己の感情のままに行動する事も、感情を明らかに表現する事も、恥ずかしい事と考える。いつでもどんな時もポーカーフェイスが前提で、その上で必要なレベルで喜怒哀楽を表現する。そういう存在だと教えられたし、ラナ=ティナも出来る限りでそうあるように躾けられた。ラナ=ティナの知るハキムはそういう点ではまさしく完璧な子息だった。

 そのハキムが、恥としか言い様がないほどに感情を露わにして怒鳴っていて、ラナ=ティナは衝撃を受けていた。

 暫くはそのショックで立ち尽くしていたが、ハキムが立ち去り冷静になってくると、怒りが沸き上がって来た。

 尊い血が流れていない? そんな事は最初から分かっていた事だ。ラナ=ティナは養女でしかなく平民生まれである事を隠した事はない。それでも、養女となった以上は養父母に、義兄に、エバーハート家に相応しい人間たろうと努力をしてきた。貴族としてのマナーを学び、所作を学び、知識を学んできた。

 黙って、大人しく? それは己が才を見いだされ期待を掛けられているラナ=ティナにとってはこれ以上ないほどの侮辱だった。何もしない女がいいのであれば、小さいといってもアルザーティ公国内にも数多くの貴族が居るのだから、その中で、大人しく自分に楯突くこともない女を嫁として迎え入れる事など簡単な筈だ。それを、今更。


 平民らしい言葉遣いで言わせてもらえば、その瞬間ラナ=ティナはキレた。


 すぐ様、エバーハート家とアンドレセン家、両方に現状を報告した。勿論養父母は怒り正式にアンドレセン家に抗議した。アンドレセン子爵と夫人もまっとうな人で、エバーハート家に正式に謝罪をして、ハキムを叱り、諫めた。

 ところがこれが逆効果となった。


「よくもまあ、我がアンドレセン家に恥をかかせたな!」

(アンドレセン家に恥をかかせたのはお前だ!)


 どうにも、このハキムが本当に婚約者となったハキムなのだろうかと疑問視してしまった。この世界には妖怪という全く別の種族も存在しているのだから、妖怪が変化とかいう術を使ったのでは、とか、何かされているのではないか、とか疑ってしまう。それほどまでに、ハキムは変わった。変わってしまった。

 なお、妖怪に何かされたのではないかという点に関しては、キンバリー・ベルント子爵令嬢が学科の特別教師として赴任している妖怪に確認を取ってくれたが、何の術にもかかって居ないらしい。ベルント子爵令嬢とラナ=ティナはハキムが熱を上げているヘルタに特に迷惑を掛けられている子女の集まりで出会った。ハキムのように、ヘルタに入れあげて可笑しくなってしまった貴族子息が、なんと五人もいたのだ。その内の一人は公国のトップであるアルザーティ公の長男、セルジオ公子だというのだから、驚きを通り越して呆れてしまう。

 このヘルタに婚約者が熱を入れ上げているために迷惑を掛けられている子女の会――ラナ=ティナは内心ヘルタ迷惑会と呼んでいる――では今まで話す事もなかった人々と話す機会をラナ=ティナは得た。


 一人目はセルジオの婚約者であるクラウディア・ベーレンス伯爵令嬢。名門ベーレンス伯爵家の令嬢であり、この会を企画した人物であり、全く出来た人だとラナ=ティナは思っている。ヘルタに迷惑を掛けられている他の大勢の人間が勝手に先走らないように、特に迷惑を掛けられている代表的な子女を自分の手元に集める事で、他の有象無象を牽制しているのだ。「我々の名を使ってヘルタに余計な手出しをするな」と。確かに彼女のように取り巻く人間が多い者であれば、彼女を慕っているものが「クラウディア様のため!」などと言って恐ろしい事をしでかさないとも限らない。その場合、咎は彼女にも来るのだから上に立つ者というのは大変なものだ。元は平民であり、なおかつ義理の親の爵位も子爵であるラナ=ティナにとってはまさに殿上人だ。


 二人目は学院付属の騎士養成所に通っている婚約者の伯爵子息がヘルタに入れあげているという、ヴァネッサ・キルヒナー伯爵令嬢。植物研究科に所属している、やはりこちらもラナ=ティナにとっては殿上人。ただとても気さくで、ラナ=ティナにも優しく声を掛けてくださった。


 三人目はハキムと同じく生徒会執行部に所属しているエイドリアン・グラブナーという子息を婚約者に持つクララ・デリング子爵令嬢。言語学科に所属していて、翻訳家を目指しているのだという。現時点で複数言語をペラペラと操り、頭の回転も速い。同時に噂話などにも興味が強いようで、様々な社交界の噂話をラナ=ティナに教えてくれた。


 四人目は騎士養成所に通う婚約者を持つキンバリー・ベルント子爵令嬢。彼女は学院にある妖怪学科に所属しており、先の通りヘルタと彼女にお熱な婚約者たちが妖怪に術を掛けられているのではないかという疑惑を解くのに力を使ってくれた人物である。


 最初は婚約者たちへの不満を遠回しに吐露し、互いになんとか彼らの乱心を諫め様としていたヘルタ迷惑会のメンバーであったが、次第に諦めるようになった。公立学院の中でとはいえこれほどまでに噂が立ってしまってはどうしようもない。政略結婚と諦めて嫁ぐか、または婚約関係を破棄して(当然相手の過失が原因だ)別の相手を探すかするしかないなどと話し合っていたが、それについて話題を上げるのも嫌になった頃、話題に上がるようになったのは一人の男性だった。


「本日、シュケルゼン殿下をお見掛け出来たのです! お連れの従者は、変化をされている妖怪でしたわ」

「やはりそうだったのですね」


 感動したように声を上げるベルント子爵令嬢に、キルヒナー伯爵令嬢が納得したように言う。キルヒナー伯爵令嬢はかの人物が留学している先と同じ学科に所属しているため話す機会もあるが、尋ねて良いことなのか分からずずっと疑問を抱いていたという。


 シュケルゼン殿下。大国、ブリーカ王国の第四王子。

 ブリーカ王国はラナ=ティナの祖国アルザーティ公国の数十倍の国土を持つ大国だ。

 当然、ラナ=ティナにとってはもはや殿上人の更に殿上人という具合の相手だ。同じ学院に通っているが、ラナ=ティナは初等部、シュケルゼンは高等部というちがいがある。更にラナ=ティナは建築学科、シュケルゼンは植物研究学科。ラナ=ティナは十六歳、シュケルゼンは二十四歳と互いの事情が全く異なるので、全く縁がない。一度、本当に遠くからその姿を見るだけだった。

 それぐらいの距離感で十分だった。もっと近くでかの貴人を見たいなど、ラナ=ティナは思っていなかった。



 ◆



「私はブリーカ王国第四王子シュケルゼン」


 騒がしい人込みの中を進み出てそう名乗りでたシュケルゼンを見て、ラナ=ティナはやや驚いたのを覚えている。同時に、その、人ならざる瞳を視認出来る距離で一瞬とはいえ目を合わせてしまったものだから、ゾッとした。

 ブリーカ王国の王妃は妖怪の中でもトップレベルで力を持つ九尾の狐の娘。つまり王子であるシュケルゼンは半分は人間で、半分は妖怪。その瞳は人間のそれではなく、瞳孔は縦に細く伸びていて、見ているだけで寒気を感じた。

 シュケルゼンが出てきてから後は彼の独断場であった。彼は恐らくラナ=ティナをはじめとしたヘルタ迷惑会では諫められなかったセルジオたちを、アルザーティ公と息を合わせたかのような速度で追い出してしまった。その際、ラナ=ティナたちも共に会場を出るしかなく、その後に行われただろう彼の研究発表を聞けなかった事は残念だ。――そう思いながら退出しようとしたラナ=ティナたちの背後で、ヘルタは醜い声を上げた。一歩間違えれば、いや、そんな発言をした時点で国際問題になるしかないだろう発言を……ブリーカ王妃を貶めるような発言をしたヘルタに、シュケルゼンが怒る。その怒りは殺気となり、ラナ=ティナはシュケルゼンの背中しか見ていないにも関わらず血の気が引いた。


「あそこまで、愚かだったなんて」


 ヘルタ迷惑会の誰がそう言っただろうか。

 誰にせよ、それは皆の共通の思いだった。


 別室へと移されたラナ=ティナたちはハキムたちに会わされる事は無かった。代わりに暫くの間待った後に現れたのはセルジオの姉であり、この国の姫であるフェリシア公女だった。


「皆さんに集まっていただいたのは、先ほどのセルジオの失態について公爵家として謝罪申し上げるためです」

「フェリシア様、我々に頭など下げないでくださいませ!」


 そう言うのはセルジオの婚約者であったベーレンス伯爵令嬢だ。貴族の建前としては頭を下げた方がいいのかもしれないが、ラナ=ティナからすると殿上人に頭を下げられるなど天地がひっくり返ってしまいそうな事態だ。ベーレンス伯爵令嬢の執りなしもありあげられた頭に心底ホッとする。


 その後、ラナ=ティナたちが婚約者との関係をどうするかは個々の家に任せるが、別れる際にはアルザーティ公爵家の権利でもって別れられるように力添えをする事、そしてその後新たな婚約者を求める際に望むのなら出来る範囲で力を貸す事を約束してもらい、ラナ=ティナたちは各々家の馬車で帰る事になった。


 最初はフェリシア公女やシュケルゼン王子といった殿上人を間近で見てしまった事で動転してハキムの事など頭の中から消えていたラナ=ティナだったが、馬車に揺られる内に平静さを取り戻し、その代わりに、今度は、あんな外国の人もいる場で、それこそ恥をかかせた男を許すものかと怒りを滾らせた。その結果、冒頭のように立腹しながら家に帰ってくる事となったのだ。



 ◆



 事の次第をラナ=ティナ視点でもって聞いた義兄のグレガーは僅かに顔を歪めた。当然だ。ラナ=ティナを愚弄するという事は同時にエバーハート家を愚弄する事になる。ラナ=ティナの醜聞はエバーハート家の醜聞なのだ。古い時代では一族の誰かが処刑に値する罪を犯せば一族郎党皆処刑されていたような時代もある。今でこそアルザーティ公国ではそこまで過激な事はそう起きないが、一族郎党までは行かずとも罪を犯したものの父母兄弟妻子あたりは共に罪を償う事になるし、醜聞の影響も一緒に被る事になるのだ。


「グレガーお兄様」

「ん……何かな、ラナ=ティナ」

「この度は、わたくしのエバーハート家の顔に泥を塗るような真似をしてしまい、申し訳ありません」


 頭を下げたラナ=ティナにグレガーは穏やかに答える。


「いや、気にするな。この後の始末は、当然アンドレセン子爵家に取っていただくさ」

「そうですか……」


 ラナ=ティナの感覚からすればこの度の失態は全てハキムのせいであり、同時にこんな大事にしないで治められなかったラナ=ティナの不手際でもある。アンドレセン子爵も夫人も、巻き込まれてしまっただけだ。

 そう同情心を向けるラナ=ティナの内心を読んだようにグレガーは続けた。


「お前が婚約者であるハキムの手綱を握り切れなかったように、アンドレセン子爵と夫人にはハキムに言う事を聞かせられなかったという咎がある。実の親でありながら、子供一人手綱を握り切れないなどと周囲からどう言われても仕方のない事だ。諫めて聞かないのであれば謹慎させるでもなんでも、仕様があった。けれど彼らはそうせず、結果としてこれほど大事を引き起こしてくれたのだから、彼らが後始末を付けるのは当然の事だよ、ラナ=ティナ」


 最後にラナ=ティナの名を呼ぶ時はとても優しい声で声を掛けてくれたが、それ以外では声こそ優しいがその中に潜む冷たさをラナ=ティナは感じた。カールも同じだろう。いくらグレガーの友人であり、ラナ=ティナの実兄だとしても、貴族の理に属する問題はカールが口を出していい事ではない。口をつぐみ、義理の兄と妹が会話を終えるのを黙って待っている。


「この後の事は私と、お父様とお母様に任せなさい。ラナ=ティナ、カール。しばらくぶりの再会なのだから、二人で穏やかに時間を過ごすといい」


 グレガーはそう言って立ち上がると客間から出ていった。ラナ=ティナとカールは目を合わせて、力を抜いた。


「お前も大変だなぁ、ラナ」

「それほどでもないわ」


 本心だった。大変な事はあるが、それ以上に得られるものも多い。貴族の養女となる選択を取った事を、ラナ=ティナは後悔などしていなかった。



 ◆



 ――八年の月日が流れる。


 最早、ハキム・アンドレセンとラナ=ティナ・エバーハートが婚約をしていた事を覚えている者もそう多くはないだろう。

 ラナ=ティナは二十四歳となった。


 あの日以降、ハキムとラナ=ティナは会ってはいない。どうなったかは聞いている。アンドレセン家から勘当され、爵位を取られ、更に去勢されて子供を残せないようにされて、平民に落とされたという。平民となったのならどこかでラナ=ティナと出会う可能性もあるが、かつて暮らしていた範囲からは遠い田舎に放逐されたと聞いている。

 ラナ=ティナはとある町に新しくできた教会を見上げた。美しい赤い屋根が太陽光に照らされて、まるで宝石のように光り輝いていた。

 ラナ=ティナが設計に参加した建物だった。

 公立学院を卒業後、ラナ=ティナはエバーハート家が抱える建築家たちのチームに所属した。立場上は上司の養女だが、ただの新人と同じように扱って欲しいと告げて入った。それからの月日は忙しく、厳しく、辛く、けれどやりがいのある日々だった。


 ハキムの後、他の貴族から婚約の申し出自体はあったが、仕事が忙しい事もありラナ=ティナは全て断っていた。

 それは事実であったけれど、本当の理由はもっと私的なもので、また婚約をしてもハキムのようになるのが怖かったのだ。

 ハキムは最後はあんな事になってしまったが、それ以前はとても素晴らしい婚約者だった。

 この人となら良い家庭を築けるだろうとラナ=ティナ自身も思っていたからこそ、あの事件はラナ=ティナを結婚に対して臆病にした。どれほど現時点で良い人であったとしても、ハキムのように豹変する可能性はゼロではないのだ。


 教会を見上げてそっとラナ=ティナは目を閉じる。

 今回は、ラナ=ティナが設計したものが選ばれ、そこから仲間で更に仕上げた図面を基に建築されている。あの職人肌で頑固な人々に設計図を認めさせただけでもラナ=ティナにとっては大変な進歩ではあるが、いつかは一人前と認められる事が目標だ。


 ――教会を建てるのはラナ=ティナの夢の一つだった。


 ずっと昔、まだ平民だった頃。ラナ=ティナは教会が大好きだった。正確には、教会の建築が大好きだった。

 神の栄光を称えるために職人が命をかけて作り上げた建築は、幼いラナ=ティナの心を掴んで離さなかった。いつまでもいつまでも居座るから、その度に一つ年上の幼馴染が、「ラナ、もう帰るぞ!」と叫んではラナ=ティナを引っ張っていっていたなと懐かしくなる。いつもそうして二人でいたけれど、ある時にラナ=ティナは決意して彼に宣言したのだ。


「いつか、何百年も残るような大聖堂を建てる!」


 と。

 ラナ=ティナと同じように土木作業にいそしむ父親を持っていた彼は、ラナ=ティナの言葉を馬鹿にすることは無かった。父親を早くに失い、母子家庭となっていた彼は苦労している分、優しかった。


「ならオレは、その大聖堂を建てるの、手伝うな」


 彼は、元気だろうか。


 そう思って目を開いたラナ=ティナに、聞き馴染みのない声が届く。


「ラナ……? ラナか……?」


 もしや自分の事だろうか。今や実の両親と兄しか使わなくなった愛称が聞こえる方角を見たラナ=ティナは、見知らぬ男を見て首を傾げる。

 平民らしい。

 体を使う職に就いているのだろう。多少着やせはしているが、筋肉が盛り上がっているのが見える。


「誰?」


 ラナ=ティナのその言葉に、男は少し悲しそうに眉を垂れ下げて、それから言った。


「マラのとこのピエトロ……なんだけど、覚えてないか……そうだよな、もう十数年経つしな……」


 悲しそうに言った男の言葉に、ラナ=ティナは目を丸くする。それは、今まさに思い出していた幼馴染の名だったのだから。


「嘘……マラおばさんの所のピエトロ……? 本当に?」

「! お、覚えてるのか?」

「覚えてるわよ! 決まってるじゃない! いつも私と教会に行ってた!」

「あれは一緒に行ってたって言うより、ラナが教会から離れなかったからオレも教会から帰れなかったんじゃないか!」


 二人は久方ぶりに見る幼馴染をもう一度しっかりと見て、それから笑い合った。

 どちらも随分変わってしまっていた。

 ラナ=ティナはかつてのおてんばが見る影もないほど、貴族らしい淑女となっていた。

 ピエトロは力も弱く体も細くていつも泣かされていたのに、そんな過去があったなど嘘だろうと言いたくなるほどに立派な青年に育っている。


「ピエトロ、この後お時間は?」

「暇だけど」

「なら久しぶりの再会を祝して、お茶でも飲まない?」

「いいね。西通りに美味い店があるんだよ。そこでいいか?」

「ええ」


 十数年離れていて一度も会っていなかった事など嘘のように二人は親し気に歩き出した。


 ラナ=ティナもまさか、これが一生を共に過ごす事になる夫との再会だとは、今はまだ思いもしなかったのだった。

※アルザーティ公国は現在は亡国となっているある王国の臣下だったアルザーティ公爵家の支配下にあった領地で、その名残で現在でもprincipalityではなくduchy(公爵が治める国)を名乗り続けており、君主であるアルザーティ家は貴族の位である公爵位を伝統として持ち続けている、という設定になります。王国は滅んだためこの公爵位を保障する存在や国家がいる訳ではありませんが自称で名乗っています。

※現実でこのような国があり得るかは分かりませんが、このお話ではあり得ています。



▼ラナ=ティナ・エバーハート

 平民であるトーマスとエリカの娘で、カールの妹。

 エバーハート子爵家の養女となった。

 十六歳→二十四歳。


▼グレガー・エバーハート

 エバーハート子爵家の長男で嫡男。実弟があと一人いる。

 ラナ=ティナの実兄カールの友人。


▼カール

 ラナ=ティナの実兄。平民。

 グレガーとは公立学院の同級生で友人。


▼ハキム・アンドレセン

 元は優秀だが恋に狂ったラナ=ティナの元婚約者。

 婚約破棄騒動を起こした後実家から縁を切られて平民になり、放逐された。

 その後どうなったかはラナ=ティナは知らない。


▼ピエトロ

 平民。ラナ=ティナの幼馴染。

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