一 : 当主の苦悩(7) - 仕込み
一直線に館の外まで突き進むと、用意された愛馬へ流れるように跨った。
「猿!!」
馬上から大声で信長が呼び掛けると、直ちに黒い影が側に寄ってきた。藤吉郎だ。
意外にも、藤吉郎は胴丸に鉢金と戦装束の姿をしていた。乾坤一擲の勝負に打って出ることは誰にも漏らしていないし、覚悟を決めたのもつい今し方の出来事だ。
「お呼びでしょうか?」
その声は普段と比べて、幾分浮ついているように聞こえた。暫しまどろんでいたか、突然の呼び出しに動転したか。
「俺が動くと分かっていたのか?」
「そりゃそうですよ。殿は座して死を待つくらいなら、最期の一時まで足掻かれる性分のお人ですので」
出撃前で張り詰めた空気が辺りを包む中、いつもと同じように軽い調子で答える藤吉郎。その調子を楽しむように、信長は口元を綻ばせながらフンと鼻を鳴らした。
「これから駆けて熱田神宮で待つ。猿には急ぎ頼みたいことがある」
信長が伝えた内容に、藤吉郎は困惑の表情を浮かべた。その反応を見た信長はニヤリと含みのある笑みを浮かべるのみで、それ以上語ろうとしなかった。
「分かったな。屹度申し付けたぞ」
念押しするように言い渡すと、信長は愛馬を促して走り去っていった。一方、その場に残された藤吉郎は呆然と立ち尽くして遠ざかる信長の背中を見送るしかなかった。