一 : 当主の苦悩(5) - 袋小路の議論
織田方が具体的な方策を立てられない間も、今川方は着々と尾張に迫っていた。
五月十二日に駿府を発った総大将・今川義元は、十七日には尾張の沓掛城へ入った。この時、知多半島の付け根に位置する大高城が織田方の築いた丸根・鷲津両砦の圧迫を受けて苦境に陥っているとの報告を受けた義元は、松平元康に大高城へ兵糧を運び入れるよう指示を出した。同時に、尾張国内における今川方の重要拠点である鳴海城を囲む丹下・善照寺・中嶋砦を攻めることも決定した。
一方、今川の軍勢が尾張国に入り危機的状況が目前に迫ってきてもなお、清洲城で繰り広げられている議論は紛糾したままであった。
信秀死去に伴う混乱や信長の資質に疑問を抱く等で三河国境に近い武将が相次いで離反しており、既に織田領内で今川の侵食が進んでいる。先述した丸根・鷲津・丹下・善照寺・中嶋の各砦が現段階で織田方の最前線となっていた。
「今川の大軍相手では多勢に無勢じゃ。ここは籠城策を採るべし」
「否!! 先代から戦の際には自領の外へ出て戦うことを信条としてきた!! 此度もその姿勢を貫いてこそ活路がある!!」
今川義元が沓掛城に入った翌日の十八日になってもまだ、堂々巡りは続いていた。
林・佐久間の両名は一貫して籠城策を訴え、柴田・森の両名は主戦論を唱える。柴田・森の両名は武人肌、林・佐久間の両名は吏僚肌とそれぞれの意見は平行線を辿っていた。
目の前で熱を帯びた議論が行われているが、最終決定権を持つ信長はどこか上の空で聞いていた。
(……秀貞と信盛は今川と通じていると見て間違いない)
藤吉郎の報告では、依然として二人の屋敷に素性定かでない人物が出入りしているらしい。おまけにその者に駿河の訛りが微かに混じっていることも掴んでいる。黒と見ていい。
かと言って、二人を粛清するのも躊躇われる。長年に渡り織田家の屋台骨を支えてきた功臣二人が今川に通じていることが明るみになれば、家中に与える影響は大きいだろう。知らぬ存ぜぬを貫くしか選択肢はない。
だが、野戦を挑むとしても、一体どうすれば良いのだ。既に敵は尾張へ入っており、各方面に展開しつつある。平野でぶつかれば数で圧倒的に劣る我方は大敗必至。地の利を活かした奇襲戦で臨むしか方策はないが、それでも勝ち目は薄い。
考えれば考える程に、底なし沼へ沈み込んでいく錯覚に陥る。負の想像がどんどんと膨らんで、信長の脳内を圧迫していく。
「……止めだ」
脇息に体を預けながら成り行きを静観していた信長がポツリと漏らすと、沸騰していた場は一瞬にして静まり返った。
一向に結論が見出せないことに信長は心底嫌気が差した。その一念が口を突いて出た。
「皆も疲れただろう。各々屋敷に戻って休むがいい。俺も休む」
信長から発せられた言葉に唖然とする一同。一両日中にも今川の兵が清洲に達するかも知れないという時に「疲れた」も何もないだろう。
だが、信長は精根尽き果てる程に疲れ切っていた。どれだけ考えてもこの難局を打開する手立てが浮かばず、一方で気持ちが昂ぶっている為に満足に眠れてなかった。
「何を申されますか!? 敵はもうすぐそこまで迫っているのですぞ!!」
勝家が懸命に食い下がろうとしたが、信長は煩わしそうに眉を吊り上げると素っ気無く「寝る」と一言。一同の制止を振り払うように立ち上がると、そのまま部屋を後にした。
時間が無いのは重々承知している。でも、今は一刻も早く布団に潜りたかった。