一 : 当主の苦悩(4) - 遠乗り
結局なかなか寝付くことが出来ず、一刻程横になっただけで目が覚めてしまった。
まだ暗かったが、身支度を済ませて日課の遠乗りへ出掛けることにした。信長は馬に乗ることが大好きで、厩には自慢の愛馬が何頭も飼われており、その日の気分や馬の調子に合わせて乗り分けていた。
信長自ら検分して今日乗る馬を決めると、供を連れず一人で城の外へ出ていく。
蹄が土を蹴り、愛馬の息遣いに耳を傾け、愛馬の動きに合わせて上下に揺られ、肌を吹き抜けていく風の感触を楽しむ。馬に乗っている時は余計な事を考えず無心になれた。
思う存分走らせていく内に、馬も信長も汗まみれになっていた。水場を見つけると馬を繋いで一時の休息を取る。乾いた喉を潤わせ、絞った手拭いで汗を拭く。
(……秀貞と信盛は今川に通じているか)
城から離れても頭に浮かぶのは今川との戦のことばかりだ。
(裏切りの心配が無いのは……勝三郎、五郎左、又左)
思い浮かんだ顔を順に指を折って数えていく。
勝三郎は信長の乳母の実子である池田“勝三郎”恒興、又左は荒子の土豪前田利春の四男で前田“又左衛門”利家。どちらも“うつけ”と呼ばれていた頃に連んでいた仲で、信長の為なら死も厭わない男達であった。
(あとは、権六と三左衛門もそうか)
権六こと柴田勝家も、稲生の戦いの後に反逆の罪を不問としてからは忠義一筋で、信行が再度謀叛を企てようとした際には逸早く密告してきた。美濃から流れてきた三左衛門こと森可成も信長に仕えてからは一途に付き従っている。
(それに、猿)
藤吉郎の場合は、門閥に拘らず有能な人材を登用してくれる信長に人生を賭けている。信長が居なくなれば自らの人生も終わる、正に一蓮托生の関係だった。
さらに何人か浮かんで加えたものの、両の手で足りてしまい思わず苦笑する。まさかここまで少ないとは思わなかった。
血の繋がりのある兄弟や親類は裏切る可能性が低いので戦力として数えられるのだが、悲しいかな信長は血縁者に頼むべき相手が居なかった。向背定まらない叔父の信光は始末したし、実の弟である信行も家臣に担がれた経緯はあるが二度も刃を向けた。疑わしい者を排除した結果、家を支えてくれるはずの血縁者は数を減らしていたのだ。
代々織田弾正忠家に仕えてきた譜代の家臣もまた、信頼に足るとは言い難かった。先を憂い、生き残りの為に保身へ走る。戦う前から逃げ腰の人間など頭数にも入らない。裏切られてきた苦い過去から、信長は完全に信用出来る人間以外に身を委ねられない性分となっていた。
(……と、又左は今居ないのだったな)
思い出したように立てた指を一つ減らす。
昨年、又左こと利家は因縁のある茶坊主を信長の見ている前で斬り捨てる騒動を起こした。その茶坊主が信長のお気に入りだったこともあり、信長はその場で利家を斬り捨てようとしたが、居合わせた勝家が体を張って制止。結果、利家は織田家を出奔するに至った。
頭に血が上ると後先考えず感情に任せるままに行動するのは信長の悪い癖ではあるが、城中で刃傷沙汰を起こした以上は簡単に帰参を許す訳にもいかない。
あれこれ考えている内に、気が付けばお天道様が高い位置まで昇っていた。
(そろそろ城に戻らねば……)
“うつけ”と呼ばれていた頃は、太陽が顔を出す前に出掛けると日が暮れるまでは絶対に城へ帰らなかった。川や池を泳いだり、田圃や河原で合戦ごっこに興じたり、町をぶらぶら散策したりと、ずっと遊び通した。奇怪な姿で奔放に過ごしているのを見た町の者から「武家の子に相応しくない」と蔑む声もあったが、あの頃に好き勝手していたからこそ他の者には無い経験を培ってきた。
遠泳や乗馬は体力作り、合戦ごっこは実戦に向けての予行演習、町の散策は民の暮らしぶりを肌で感じる為。全て無駄にならず、信長の血となり肉となって生きている。
技量のない足軽が用いる槍の柄を長くしたのも、胴丸と呼ばれる軽量で簡素な作りの鎧を導入したのも、全て信長の差配だった。槍は柄が長い方が有利、着脱が楽で軽くなったことで機動力は上がり体への負担も軽減された。既成概念に囚われず自分の眼で見て手で触れて感じたことを活かした結果、信長は圧倒的劣勢を跳ね除けて尾張第一の大名に返り咲いた。当初は信長の方針に疑心暗鬼だった家臣達も、成果が目に見えて分かるようになると黙って従うようになった。
織田家の家督を継いでからは気儘に動けなくなり息の詰まる思いも多々あったが、それでも武家の棟梁としての務めと割り切っていた。
息を一つ吐くと、朝乗ってきた馬の方へ向かう。信長の姿を目にすると愛馬は主人を待ち侘びたのか擦り寄ってきた。
(……お前も俺の力になってくれるのか)
思いがけない援軍に信長も嬉しそうに頬を綻ばせた。一度二度と体を優しく撫でると、軽やかに跨り馬上の人となった。
俺を慕い付き従ってくれる者が少なからず居る以上、逃げる訳も投げ出す訳にもいかない。帰りを待つ者が居る場所へ、ゆるやかに歩みを進ませた。