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序 : 嵐の前の静けさ

 永禄三年三月、尾張国熱田。三種の神器の一つ“草薙剣”を御神体として祀る熱田神宮があり、さらに東海道の宿場町という立地から多くの旅人や行商人が行き来しており、町は活気に満ち溢れていた。

「また、大層な賑やかさですな」

 人混みに揉まれながら通りを歩く二人連れの武士の内、地味な顔つきの若者が感嘆の声を上げる。侍らしく小ざっぱりとした服装をしている。

 隣に並んで歩く若者は“さも当然”と言わんばかりに平然としている。こちらは華奢で肌が白く長身、端整な顔立ちをしていた。

 鳥居前町の通りは参拝客や地元民が入り混じり、軒を連ねる商店は繁盛していた。

 尾張や伊勢の近海で獲れた新鮮な魚、近年三河に根付いた綿の布や加工品、美濃で作られた刀剣や武具の類、山で仕留めた猪や鹿の肉や毛皮、日用品の鍋や器……扱っている品物は多種多様で、眺めているだけでも楽しい気分になる。

「津島もですが、熱田も大変な賑わい……これも殿の御威光が成せる事かと」

「アホウ、五郎左。俺は何もしておらんわ」

 自然に出た追従する言葉も、長身の若者は軽く一蹴した。

 この若者の名は、織田“上総守(かずさのすけ)”信長。尾張国の大半を収める織田弾正忠家の当主である。この時、二十七歳。大名家の当主としては若い部類に入る。

 隣に居る若者は、丹羽“五郎左衛門(ごろうざえもん)”長秀。信長が元服して間もない頃から付き従っている家臣だ。

「元々商いが盛んだった津島や熱田に着目し、商人達を庇護した上で港や道を整備して商いをやりやすい仕組みを作ったのは親父の功績だ。これだけ町が栄えているのも、商人達の努力と才覚の証。俺は一切手を加えておらぬ」

 信長の父・織田“三郎”信秀は元々斯波氏に仕える守護代の家臣、言わば陪臣の家柄だったが、尾張と伊勢を結ぶ要衝で津島神社の鳥居前町がある津島湊を支配下に治めると勢力を拡大、最盛期には尾張国のみならず三河の一部も手中に収めるまでの勢力を一代で築き上げた。

 庶流の出だった信秀が本家筋を凌ぐまでになったのは合戦に強かったこともあるが、貨幣経済に着目した先見の明も大きかった。

 当時の武士(寧ろ武士の存在が台頭してきた平安末期から江戸時代に至るまで)は百姓から納められた米等の年貢が主な収入源として生計を立てていたが、信秀は違った。商人を保護して商いを奨励する代わりに、運用益の一部を納めさせた。この施策によって一大商圏の津島・熱田から相当額の副収入を得られ、莫大な経済力を背景に織田弾正忠家は急成長を遂げたのだった。

「俺はまだ何も成し遂げておらぬ。ただの一つも、な……」

 それまでハキハキと喋っていた信長の顔に一瞬影が差した。特に、最後の方は隣に居た長秀にも聞こえない程に小さく弱々しい声だった。

「どうかなさいましたか? 殿?」

 様子がおかしいことに気付いた長秀が声を掛けるが、反応は鈍い。再度声を掛けようか躊躇する長秀の横から、不意に声が飛んできた。

「おや! 吉法師様じゃねえですか!!」

 いきなり自分を呼ぶ声がして我に返った信長は、瞬時に普段の顔へ戻った。声のした方を向くと、そこには信長と同年代と思しき青年が立っていた。

「これ! 無礼であるぞ!! それに吉法師様ではなく信長様と呼ば―――」

「構わぬ、五郎左。此奴は元服する前から連んでいた仲だ。のう、弥助」

 咎める長秀を手で制する信長。その眼はどこか柔らかい光を帯びていた。

「お久しゅう御座います、吉法師様。今日はまたどうしてこちらへ?」

「気晴らしを兼ねて町の様子を見たくなった。城の中にずっと居ると肩が凝って堪らぬわ」

 気安く話しかける弥助に長秀は何か言いたげな顔をしていたが、信長が許した手前、不承不承口を閉ざしていた。

「確か、弥助の家は米問屋をしていたな」

「へい。商売人としてはまだまだ半人前なんで、こうして使い走りをしている次第で……」

 道端で立ち話に興じる信長の表情は、心なしかいつもより活き活きしているように長秀の目に映った。

「商家の息子だったのに算勘は俺の方が上だったな」

「くっ……い、今は算盤の扱いにも慣れましたのであの時より良くなっているかと」

「どうかな」

 顎に手を当てながらケラケラと笑う信長。その口調は気の置けない古くからの友人をからかって楽しんでいるようであった。

「……そうだ、思い出した。吉法師様、ちと気になる事を耳にしたんですが」

 それまで気兼ねなく話していた弥助だったが、急に周りの様子を窺うように声を潜めた。

「最近、駿河の米商人が尾張や伊勢の米を大量に買い求めていると親父が漏らしていました。しかも、米は三河に送って欲しいと」

「……何?」

 刹那、信長の眼が鋭くなった。

「弥助、そのことについて他に知っている者は?」

「さて? 自分が直接話を聞いた訳ではないので何とも……ただ、尾張や伊勢界隈の商人は大方知っているものかと」

 信長は暫時その場で考え込むと、懐から小さな袋を取り出して弥助に渡した。

「その話、親父殿に頼んでもう少し詳しく調べてもらえないか? 出来れば内密に」

「……承知致しました」

 信長の剣幕に押される形で弥助も畏まった口調で応えた。

「後日、俺の遣いをお前の店に送る。では、頼むぞ―――五郎左、帰るぞ」

「はっ」

 信長は言うなり踵を返して元来た道を戻っていく。その顔つきは先程まで店先を眺めていた時とは打って変わって、険しいものだった。

(遂に、来るか……)

 恐れていた事態が現実になろうとしている。考えただけで背筋が凍る思いだ。今の自分の力では到底太刀打ち出来ない存在が、迫ろうとしていた。

 居ても立ってもいられないが、幸いなことにまだ時間的猶予はある。慌てず騒がず、策を練れば良い。

 その相手は―――駿河・遠江・三河の三国を治める太守、今川“治部大輔(じぶのたゆう)”義元。


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