瞳に映る未来
どれだけ優秀でも、変えられないことがある。
「鏡くんってさ、やっぱりかっこいいよね」
例えば、集団をかき分けて自席に戻るとか。
氷上晶は、心のなかで小さくため息をついた。昼休みにトイレから戻ってくると、自分の座席の周りに女子生徒の人だかりができていた。
晶は夢見がちな顔になっている友人――『真田静』の前の席に座ると、スマホを弄り始める。
「クラスメイトにそういうこと言うの、ちょっとハズくない?」
「だって事実なんだもん。みてよ、あきの席。特等席じゃん」
「知ってる」
晶の席周辺はクラス内の派手めな女子グループに占領されてしまっている。理由は最近転校してきた「鏡くん」の席が晶の後ろにあるからだ。
「せっかくなんだから話してみればいいのに」
「無理っぽい。話すことないし」
話題の転校生とは今までで一言二言言葉を交わしたことがあるだけで、それ以外に交流を持ったことはない。同じ高校に通うクラスメイトではあっても、関わろうと思わなければ点は線にならない。
肩まで伸ばした黒髪を手で梳いたあと、なんとなく肩を回したくなって画面から顔を上げた。すると、ひとりの女子生徒と目が合う。
席を立ってこれから移動しようとする女子生徒に向かって、晶は声をかけた。
「あ、新藤さん。何か用事?」
「え……? あぁ、五限目社会科の授業でしょ? 準備を手伝ってって言われて」
新藤と呼ばれた女子生徒は、いきなり話しかけられたことにぎょっとしながらも応える。彼女はクラス委員長だ。教師から雑用を頼まれることは少なくない。
晶は少しうんざりした様子の新藤に言った。
「代わりに私行くよ」
「いや、いいよ。先生に頼まれたんだし」
やんわりと断ってくる新藤にみえるように、晶はちらりと後ろに視線をやって、困ったような表情をつくった。すると彼女は事情を察したのか、こちらを労うように頷いた。
「じゃあ、お願いしていい?」
「ありがと」
晶が座席を立つと、静が声をかけてきた。
「私も行こうか?」
「ううん、大丈夫」
内心穏やかではなくて、大丈夫でもなかったけれど、晶はいつも通りを装って教室を出た。
教室を出て、二階にある社会科準備室に向かって早足に階段を上がる。その際中、階段の踊り場で晶は大きなため息をついた。
――ばかみたい。こんなこと、無視すればいいのに。
この世界には、超能力が存在している。それは突然現れて、昔からの友人のように心に食い込む厄介な力だ。
考えながら二階に着き、歩いて社会科準備室の前まで来て扉を叩く。
晶は生まれつき超能力を持っていた。とても単純で、難しい力を。
本人からすれば最初から持っていたものだから『超』なんてつけずに『能力』と呼びたかったが、わかりやすく物理法則を超越しているから、正しくは『超能力』なのだろう。
待ちながら心のなかで数字を数える。そして時計の秒針が七つくらい進んだあたりで、扉が開き中年の男性教師が顔を覗かせた。
教師は昼食後のコーヒーでも飲んでいたのか、香ばしい匂いをさせながら口を開く。
「おう。どうした」
「次の授業の準備を手伝いに来ました」
教師は不思議そうに、でもどこかどうでもよさそうな顔で言った。
「あれ? 新藤に頼んだはずなんだが……」
晶はそう言われるのを知っていたので、あらかじめ用意していた答えを返す。
「彼女は忙しいみたいで、代わりにわたしが」
「そうだったのか。ありがとうな。ちょっと待っててくれ」
教師は納得したように数回頷くと、書類を取りに部屋の奥へと下がっていった。
扉が閉まってから再び開くまでの短い時間の間に、晶は静かに深呼吸する。そして心のなかで拳を握った。
――ここまで完全に、みた未来のとおりにできている。
氷上晶には、未来を見る能力がある。
だから教師にどう言えばどんな答えが返ってくるのかを最初から知っていた。その知識を使って、今のところは完全にクラスメイトの代わりができている。
やがて扉が大きく開き、再び教師が姿をみせる。予想通りの時間をかけて。
彼は手に分厚いプリントの束を抱えていた。
「教卓の上に置いといてくれるだけでいいから」
「わかりまし……った!」
束を受け取ると、重さによろめく。見た目通りずっしりしている。
「悪いな、これならもうひとり頼んでおけばよかったよ」
事前に予想がつかないのかとか、そんな考えが頭をよぎった。でも今は不満より未来をできるだけ変えないことが大切だ。晶は愛想よく笑って社会科準備室を後にする。そして、下の階に降りるための階段に差し掛かったところで立ち止まり、もういちど深呼吸した。
――さて、ここから。みた未来になるよう、完ぺきにこなすの。
もうそんなことはないとわかっているけれど、どうしても『その瞬間』が来るのではないかと不安になる。失敗するはずないのに何度も確認してしまうのは、時間の無駄なのかもしれない。
晶ははやる気持ちを抑えて、階段の一段目に足を降ろそうとした。
そのときだった。
「氷上さん」
「ひゃっ!」
背後から駆けられた声にびっくりして、危うく一段目を踏み外し、前に倒れそうになった。でも、脇から伸びてきた腕が晶の肩をつかみ。廊下側に引き戻した。
腕に抱えた地図とプリントが階段に落ちていくなか、晶は「彼」の感触を背中全体に感じる。
「大丈夫!? 怪我してない?」
「え……あ、はい! だいじょう……ぶです」
聞き覚えのある声にざわざわしながら振り向くと、白くて形の良い、女の子みたいな顎がみえた。薄桃色の唇には曖昧な笑みが浮かんでいて、通りのいい声と相まってどこか王子様めいている。
これらの条件を満たすのは、晶の知る限りひとりしかいない。
「か……鏡くん……」
「……どうしたの?」
晶のうしろには、さっきまでの思考の中心「鏡英人」がいた。
さっきまで女子に囲まれていたはずだ。冷静に考えると疑問に思うことはなにもないのに、晶はなぜか自分の行動が彼に結びついているような気がした。
じっと顔の下半分を眺めていると、鏡は恥ずかしいのか頬をかきながら答える。
「どうしてって……教室での話を聞いていたから……ごめん、悪かった?」
「いや……そんなことはないけど……なんで?」
「え? なにが?」
後ろから抱きつかれていることなんてすっかり忘れて、晶は考え込む。新藤の未来を変えたとき、未来に鏡の姿はなかった。
新藤が手伝いをする未来では彼女は階段でバランスを崩し、転んで足を捻挫する。もちろんそこに、助けてくれる人はいない。晶の場合は転ばずひとりで運びきり、ふたりとも五体満足のまま。
どこかで必要以上に未来を変えるような行動をとってしまったのだろうか? 内心穏やかではなかったが、視線を感じたので顔を動かすと、鏡が困惑した表情を浮かべていた。
次に彼はおそるおそる晶の体に巻き付けていた腕を外す。
「あ、ご……ごめん!」
鏡は晶の様子がおかしい理由が自分にあると考えたようだ。徹底的に目線を合わせないようにしているのも、そう思う原因だろう。
「ううん、大丈夫。助けてくれてありがと」
晶は頭の中を疑問に支配されながら応える。もしかしたら、そっけなく聞こえるかもしれない。
すると、案の定鏡は慌てた様子で口を開く。
「あ、いや。もとはといえばおれが声を掛けたからだし……落ちてるの拾うよ」
「あっ……ちょっ……まっ……!」
手元にあるプリントは殆どが階段に散らばってしまっていた。鏡は自分の居場所を探すように素早く動き、段差に落ちた紙を拾いはじめ、晶もそれに続く。
プリントを拾う最中、晶は鏡の横顔をみた。
少しウェーブのかかった栗色の髪に、形の良い眉に切れ長の瞳、すっきりと伸びた鼻梁、健康的な薄桃色の唇にニキビ一つない白い肌。女性でも嫉妬してしまいそうなほど整った容姿の少年だ。
時間を忘れて、ぼーっと眺めてしまいそうになるくらいに。
「氷上さん、そっちに落ちてるの……氷上さん?」
「え……あ、ありがとう」
考えているそばからみつめてしまっていたようで、怪訝な顔でこちらを向いた鏡から慌てて顔をそらし、言われた場所に落ちていたプリントに手を伸ばす。
するとタイミングが悪かったのか、近づいて手を伸ばしてきた鏡の手と、自分の手が重なった。
「あっ……ごめんっ!」
ひんやりとした感触が手の甲に触れて、弾けるように離れていく。驚いて鏡のほうをみると、彼は気まずそうに顔を明後日の方向にやる。そんなに申し訳なく思わなくていいのに、なんて思いながら晶はお礼を言った。
「ううん。ありがとう。代わりに取ろうとしてくれて」
「はは……今日は失敗してばっかりだ」
口元に気弱そうな笑みをうかべてゆっくりと頭の後ろをかく彼の姿に、どこか新鮮さを覚える。冷静に考えれば、まともに話したことのない相手なのだから当たり前だけれど。
でも、こういう笑顔ができるからこそ、人が集まってくるんだろう。
晶は鏡に向かって、そっと首を振った。
「そこまで失敗してるようにはみえないけど……あ、それ頂戴」
「あ、はい。……細かいところで間違え続けてるんだ。うんざりするくらいにね」
床に落ちていた最後のプリントを持ち上げて、次に鏡の持っているプリントを受け取った。
「これを教室まで持っていけば、任務完了だね」
「大げさー」
晶は中腰から立ち上がって、下の階に進む。自然と続いてきた鏡が隣に並んだ。
「氷上さんは俺の前の席だけど、今までこういうふうに話したことはなかったよね」
「まあ、男子とあまり話す方じゃないし。話すようなこともなかったし」
「俺は、氷上さんとずっと話したいと思ってた」
晶は鏡の素直な言葉に、少しだけ興味を惹かれた。こんな未来、みたこともなかったし、どうなるのかもわからない。怖気にも似た感覚が背筋を走る。
同時にもしかしたら友達になれるかもしれない。という雪みたいに淡い期待を抱く。彼は好青年だし、きっと関わっていたら楽しくなる。
でも、晶は途中でその考えを振り払った。本来なら今日一日、鏡と話すことなんてなかった。そう決まっていた未来を変えたのは自分だ。戻しようのない事実が、頭に重くのしかかった。バタフライエフェクトで何かが起こるかもしれない。鏡が関わるはずだった人になにか不幸があれば、それは未来を変えた晶の責任になる。
「ごめん」
「え? なにが?」
ぼそりとつぶやいた鏡に尋ねたが、彼は曖昧に微笑んでなにも言わなかった。引っかかるようなことがあったのかもしれないと、晶はスカートをはたく。
結局発言の真意を確かめられないまま、ふたりで教室の前まで辿り着く。
晶は鏡のほうにあらためて顔を向けた。
「ありがとう鏡くん。私が悪いのに、色々気遣わせちゃって」
きっと自分が決して相手の目をみて話さないことも、謝らせる原因になっている。晶のもつ『未来視』の力は、相手の瞳を見ることで、その人が未来に見る光景を得るものだからだ。
この能力はオンオフが効かない。瞳をみた瞬間、未来の視界映像を超高速で頭のなかに直接送り込まれる。能力をコントロールしなければ際限なく。
だから晶はどうしようもなく目があってしまったとかの理由がない限りは、相手の顔の眉間の辺りか顔面の下半分をみて話すことを心がけている。彼に悪印象を持たれてもしょうがない。
「そんなことないよ。おれ、ずっと氷上さんと話したかったから」
でも鏡はそんな素振り一切みせず、朗らかに笑ってみせる。晶は思わず彼の笑顔全体を視界に収めたくなったが、すんでのところで踏みとどまり、上がり始めた視線を下にやる。
「あ、惜しい」
「ごめん、ちょっと恥ずかしいからっ!」
やはり内心自分の目をみて話さないことを気にしていようだ。晶はふざけ混じりに残念がる鏡に心のなかで謝りながら、扉を開けた。するとその瞬間、肌に刺すような気配が襲いかかってきた。
「そうだ、氷上さん」
「ごめん、とりあえず先にこれ置いてくるね」
えぐるような視線から逃げるため、出入り口から教卓まで一直線に歩いてプリントを置く。
そして友人の前の席に戻ろうとしたときだった。顔を動かしている最中に、ひときわ強い視線にぶつかったような気がした。よせばいいことを知っていたのに、妙な義務感から晶は教卓側から教室内をぼんやり見まわして発生元をみつけ出す。
視線はよりにもよって、晶の席に陣取る化粧っ気の薄い女の子からだった。
クラスのなかで『イケてる』グループを率いる少女だ。彼女はいつも砂糖みたいに柔らかく微笑んでいる口元を真一文字に結び、品定めするように晶をみていた。
スクールカースト上位者から発せられる眼光は、眉間の辺りに視線を合わせるだけでも痛いほど感じられる。
「氷上さん、ずっと聞きたかったんだけど」
「うわっ!」
地面に縫い付けられるくらい強い眼差しに当てられて動けないでいると、視界の端からにゅっと鏡が顔を出した。驚いた晶がのけぞると、彼はそっと片腕を晶の背中に添える。
教室内が嵐の前触れのようにざわつく。女子勢に押されて最近隅に追いやられている男子グループさえも、まるでサバンナのミーアキャットのごとく立ち上がった。
そういえば言いたいことがあったんだっけ。結果的に無視しかけてしまったことに罪悪感をいだきながら、晶はおそるおそる尋ねる。
「それって、今じゃないとだめ?」
すると彼は、ゆっくりと頷いた。
「今日って金曜日じゃない?」
「まぁ、そうだけど」
「だから、明日一緒に遊びに行かない?」
「うん、いいよ――って、え?」
頭に入ってきた言葉を理解した頃には、もう全てが遅かった。晶は笑顔で頷いてガッツポーズを決めた鏡に、急いで言い直す。
「だ、駄目! その日は静と買い物に行く予定が――」
「そうなの? 真田さん」
「いや全然」
即行で否定されてしまった。もちろん嘘なのだから当たり前だが、いまの晶に罪悪感を抱く余裕などない。これ以上針のむしろのようになるのが嫌だった。
たまらず晶は自分勝手に未来を変えるために鏡と目を合わせる。周りの空気に負けた彼女の心の弱さがそうさせた。能力をつかって自分がどういう風に言えば次の日の予定を変えられるのかをシミュレートしようとした。でも、その目論見はすぐに崩れ去る。
それは未来のルートを変えた自分への罰なのかもしれない。
目をみた瞬間に、頭のなかに流れ込んでくる相手の主観映像。無意識に調節しなければ一瞬で何十年も未来に飛ばされてしまう情報の流れを、蛇口をひねるように制御して、望む時間をみつけたときだ。
今から数十秒後の未来、鏡は晶の頬に手を添え、なぜか視線を前方の教室の壁にはめこまれた窓に向けた。光の加減で、鏡の顔が窓に映る。
彼はそのまま、唇を動かした。
『やっとおれの目をみてくれた。待ってたよ』
音のない世界で彼が紡ぐ言葉を、晶は能力を使ううちに覚えた読唇術で読み取る。
そして、続けて紡がれた言葉に、戦慄を覚えた。
『未来がみえるんだろ? きみ』
それは世界で一番恐ろしい言葉。誰にも言えない、心のなかでいちばん大切なところだ。
驚きで固まっている晶の頬に、未来視でみたように鏡の手が触れる。周りが尋常じゃないくらいざわつくが、そんなこといまはどうでもいい。
ひんやりした手のひらは優しく顔に触れてくるけれど、今の自分には彼の手が死神の手に感じる。自然と目が泳いで、未来視が使えなくなる。それは決して、恥ずかしいからではない。
いっそ彼を突き飛ばして逃げてしまおうか。いや、彼は間違いなく未来視のからくりに気づいている。考えているうちに未来は近づいている。一呼吸の間で現れるくらい近くに。
鏡は晶の頬に、男の大きな手で触れながら言う。
「やっとおれの目をみてくれた。待ってたよ」
早鐘のようにうつ心臓に振り回されるように揺れる瞳は、認識できないくらい細かくちぎれた未来の映像を頭のなかに送り込んでくる。ひどい力だ。まともに目をみて話すこともできない。
どこで間違えた? なにが悪かった? わからないことだらけで、いろいろなことを投げ出したくなった。でも、ひとつだけわかっていることもある。
鏡は窓の方に顔を向けず、こちらに顔を向けたまま言った。
「やっぱおれじゃ、だめ?」
鏡英人は、未来を変えられる。
そのまま彼は微笑む。でも優しげだった微笑みも、今となってはミステリアスに感じられた。