15.目先の利益に飛びつく
「……ひっ!」
心臓がバクンッと大きく飛び跳ね、引き攣った声が漏れる。
ぞわりと肌のうえを怖気が走って、思わず後ろへ一歩下がった。
後ろでぺちゃくちゃ弾んでいた会話は無くなり、辺りがシンと静まり返る。
後ろの二人がこちらを窺っているのがわかった。
こくりと口内に溜まった唾を飲み込み、逸らしてしまった視線を恐る恐る上へとあげる。
確認しないといけないポスターは真ん中のベートーヴェン。
胸もと付近までは見れても、それより上の部分をなかなか直視出来ない。
目は、ほんの十数センチの間を行ったり来たりしていた。
そんなとき、
ガチャ
僅かな呼吸音さえ鳴りを潜め、身動きする人の無い教室のドアが外側から押し開けられる。
内心パニックになりながらも勢いよく振り向いて、滑らかに開いていく扉から目を逸らすことは出来なかった。
ドアの近くにいた希と由利恵は、無言で園子のそばへ走り寄り、彼女の後ろに回ってその体を盾とするよう押し出し始める。
園子も必死になって抵抗したけど、一人では二人分の力には敵わず、前につんのめってたたらを踏んだ。
「……あ〜〜、やっぱまだいた。
ちょっと帰ってくんのが遅いって、校長怒ってんぜ?
あとどれくらい掛かりそうだ?」
「………えっ…?」
緩く気の抜けた声とともに現れたのは、二人の男子学生。
向けられた懐中電灯の光に一瞬目が眩んだものの、ドアノブを掴んでいた手が鈍い明かりに照らされていたのが見えて、彼らの着ているジャージは昼間見た、この学校の生徒たちが着用していたものと同一だと思われた。
おばけ幽霊妖怪怪異
そんなものはまとめて全部、でっちあげの嘘っぱちだと思っていても、真夜中の学校に自分たちだけというシュチュエーション。
校舎内の電気が最低限しか点いてないこともあり、誰かの思惑どおり?に怖がって、テンプレもテンプレな反応をしてしまったことが、逆に恥ずかしかった。
「?なになに〜〜?もしかして俺たちのこと、オバケか何かと勘違いしたとか?」
「進学校って聞いてたけど、そんなん信じる純粋な子もいるんだ?
現実主義で勉強ばっかしてるんだと思ってた」
「んなわけねーよ!
こんな企画立ち上げる奴がいるくらいだぜ?
よく言うじゃん?
本当の意味で勉強出来る奴は、勉強も遊びも全力で楽しむって!!
息抜きしに来てるだけだろ?もしくは学校での話題作りのためのネタ作り?」
「なるほどそっちか!
………で、ホントのところはどうなんだ??」
突然のことに固まるこちらなど気にもせず、ハッキリきっぱり明言されたくないことを全部言われた。
雰囲気は只の軽い雑談。しかしこの場にいる全員が、誰がどちら側なのかを知っている。
言葉に出すならもっと暈してほしいし、そもそも話題にすらのぼらせて欲しくない。
他人ごとなら、むしろ面白おかしく噂にするし広めるだろう。
話だって二倍三倍以上にてんこ盛る!
尾びれ背びれがつくどころか、蛇に足が生えるくらいには、面白おかしく弄れる案件。
それも学校認可の!
訳して一言で言ってみよう。
生徒先生保護者の皆さま。
百人に聞いたら九十何人は同じことを吐き捨てるはず。
『そいつら馬鹿じゃね?』
……バカにされてる。
それでも張本人というか、調査か検証か、他の何でも良いんだけれど、当事者たちが、本当に真剣に未知な何かを解き明かそうとしてるのならば、関係の無い連中がブツクサ文句を言っていようと、このよくわからん『検証』は、素晴らしいことだったかも知れないのだ。
だって、『世紀の大発見』って言われるような事柄は、大体が何十年も経ってから評価されることが殆どだから。
だから…、きっと誰一人からも必要と思われてないこの茶番に、
……………救いは無い。
「…えっ、と、コレ、は?」
どう答えても白々しさを拭えるとは思えなくて、言葉に詰まった。
二人が近付いてくる。
「あっ!もしかして、君たちは巻き込まれでもしたのか?
テンション上がって調子にのった奴と言い合いしたとか??」
「小学生んときもあったよな〜〜。サンタクロースのいるいない!」
「あったあった!」
「そう!そうなの!!
その子ったらテスト直前にこっち来たくらいでやる気満々なんだけど、幽霊見たとか呪いあるとか譲らなくって!
私たちが否定したら突っかかってくるんだもん!バッカみたい。
ムキになって反論してたら、いつのまにかこんなことになっちゃったのよ!」
……『バッカみたい』……
そうなのだ。
その『バッカ』みたいなことを態々ネタに取り上げ絡んで、予測外の公開反撃をされた結果が今なのだ。が?
相手が我慢、泣き寝入りせず、死なば諸共と言わんばかりに、静々粛々ハッチャケた。
……知らない誰かに『嘘』被せて取り繕っても、現実の評価は覆らない。
茨木那和を自身より格下と見下す荒垣希は、ただの一つであっても、那和が自分より上にいることが許せない。許さない。
大人の世界では、特によくある足の引っ張り合い。
基本、勉学か運動かが『出来る』学生の基準とされることが多いから、とにかく意表を突いた難癖付けて動揺させ、
・忍耐の限界超えて爆発させる
・やる気を著しく低下させる
不登校や引きこもりになればそれはそれで良い。
他でも可。
取り敢えずは、目の上のたんこぶを排除して、気持ち良く毎日を送りたい。
のは、
別に彼女に限ったことじゃ無いので、
『…ちょっとあの人やな感じ?』
と、より多く思われた方が、不利に追い込まれてるだけ。
那和は初っ端から呆れ、早く解放して欲しいと思ってる。
かといって、自身が謂れのない弄りの対象にされるのは嫌だったので、
『やられたんなら黙っちゃいないよ?』
とだけ示した。
なんかちょっぴり大事にされちゃってるけど。
でも、
『相手が恥かいて、大したことない奴だと認識されれば良い!』
と小細工も辞さない体制で構えてる子がいるせいで、どうにも上手く切り抜けられないし、収まらない。
『へぇ…、大変なんだね?俺たちで良ければ話聞いてあげようか?』
と、それっぽく心配顔して、希を案じるような言葉を掛けてきた知らない男に、どうしてそんな嬉しそうに応えるの!!!
明らかに興味津々。だと思われる?
これっきりが確実な他校の生徒が、本心から彼女たちの心情を慮り、現状を嘆くのを慰めるのか心配するか?
正解は、
色々聞き出したことを後で笑いのネタにする
ことだと、先ずは怪しむべきだろう。
鬱憤もあるんだろうが、こちらの言葉を鵜呑みにして『聞いてくれる』相手が現れたのは事実で、希はそれに飛びついた。
前にいた園子を押し退け、由利恵の手を引っ張って男のところへ駆け寄る希。
彼らが用意したわけでない、音楽室に備え付けられている椅子を勧められて礼を言い、由利恵が隣に腰を下ろすのをまたずに話し始める。
男子生徒たちは、座った希の前に立ったままだ。
興奮からか、話すほどに生き生きと口から出ていく言葉の羅列は、どれもこれもが彼女にとって都合の良い内容にされていたけど、訂正する人はいない。
それを男子生徒二人がうんうん頷いて続きを促すものだから、途中から話の中の役柄が、名前そのまま、実際とは殆ど逆に配役されてた。
『それは酷い!色んな人がいるけど、君たちはよっぽど運が悪かったんだね』
『やっぱりそう思うよね?あの子も引っ込みつかなくなって見栄張っちゃってさ。
全く興味無い私たちにしたら大迷惑よ!進学志望に掠りもしないんだもの。
一人で勝手にやってろ。他人に迷惑を掛けるな!って感じだったのよ?』
同情した風を装って、深く吐かれた溜め息に気を良くした希だけど、
………その言葉の全部が全部。ブーメランなの、わかってる!?
あんまりな捏造具合に唖然としてたら、
「…君もそんなとこいないでこっちおいでよ!もう終電には間に合わないしね?
校長には俺たちのほうからも上手く言ってあげるから」
ちょっとくらい愚痴吐き出すと良いよ?
と手招かれ、拒否しようものなら、折角回復してきた希の機嫌がまた悪くなる。
自身でもわかるくらいに引きつりそうな顔面で無理矢理笑って、重く思える足を動かし、如何に希を上手く立てるかを考えながら、彼女の後ろにそっと座った。
それから暫くは、忍耐の時間。
ほぼ希の独断場で、溜まりに溜まっていたらしい鬱憤を吐き出しまくる。
途中で口を挟む気は無かったものの、いつ息継ぎをしてるのか?と思うくらいにはマシンガン状態で話し続け、最後のほうは、彼女以外の四人全員が呆けたように頷くだけになっていた。
同意を求められたら反射的に頷いていただけだったけど、希が機嫌良くしていたから良かったんだろう。
ひと通り言いたいことを言い終えたのか、希が『フゥ』と小さく息を吐いた。
もたれていた椅子から背を浮かせ、体を解すように首をすくめて肩を軽く上下させる。
もう一度深く息を吐き出してから視線を上げたところで、彼女の口が再度開く前に、男子生徒の片方が、今思い出しましたとばかりに疑問を落とした。
『俺たちが見に来てから結構時間経ったけど、そっちの用事は大丈夫か?』
「「「あっ!!」」」
すっかり忘れていた。
ヤバい。校長にまた嫌味言われる!
「…まだ、全然まだです。ここが最初で理科室と視聴覚室も私たちの担当なんです。
先に終わったほうから『鏡』と『階段』に行くんですけど、外の二つを担当してるのが一人だけだから、穂花が早く終わらせてたら、絶対先生だけじゃなくて先輩にも文句言われる!」
ピアノはもう、『何も起こらなかった』でいい!
それよりも肖像画ポスターの噂を・・・!?
「……どうしたの?」
ベートーヴェンが泣いているように見えたさっきの記憶を思い出して、椅子の背に片手を置いたまま後ろを振り返った状態で固まった園子に、もう片方の男子生徒が声を掛ける。
「…いや、あの、えっ、と、」
『「??」』
歯切れ悪く言葉に詰まる園子を、四人が疑問符を浮かべた顔で見た。
「…あ、あの、ね?
さっき後ろに貼ってあるポスターを確認しに行ったの。ほら、よくある噂の怪談のヤツね?
ちょうど二人が教室来たから途中になってたんだけど、あの、パッと見たとき、泣いてるように見えたのがあって……、」
「「…えっ」」
「やっ。近くまでは行ってなかったし、ホントにパッと見ただけだったから!
光の反射で、とかもあるし?
ドキってしたとこに声掛けられてビックリしただけだから!!」
「……あーそれで変な声あげてたんだ?」
「声が引き攣ってたから私たちも驚いたもん。ね〜?希」
「ホントそれ!」
園子が空笑いで説明するそばで、希と由利恵が揶揄うように笑う。
男子生徒の二人からも、苦笑する気配が伝わってきた。
「そりゃ悪かった。校舎も古いけど、備品も壊れない限りは買い換えないから、ポスターとかは昔のままだと思うぜ?
くっついた埃を濡れ雑巾で適当に拭いたりもするから、シミがあったりたわんでたりもする。
もとの色がわからないくらいには日焼けしてるし、もしかしたらそれで変に見えたのかも知れないな」
「…そ、そう、かな?」
「さあ?でもそれ終わらないと次行けないんだろ?
さっさと確認してしまえよ!俺たちもいるし?」
そう言われて、ハタと気付いた。
さっきは一人で動いてたけど、今は五人も人がいる。
椅子から立ち上がらないところを見ると、希も由利恵も作業する気はなさそうだけど、男子生徒のおかげで、確認作業をする様子は見るだろう。
他でなら鬱陶しいと感じる視線に勇気付けられ、今度はオドオドと目を逸らさずに済んだ。
(…涙の跡、っぽいの、ある、よねぇ?)
見間違いではなかったようで、壁から二歩ほど離れて見上げたベートーヴェンの頬には、くっきりととは言わなくても、薄っすらと変色した線が、目の下より顎付近まで続いている。
スマホの光で照らしただけでも、反射や折れなどで無いことは一目瞭然だった。
「……ねぇ、やっぱり跡っぽいのが見えるんだけど?
これってどうなの??」
「えーーホントに?」
「あの子、そんなこと一言も言ってなかったよね?」
「って言うか、実は検証とかちゃんとしてないんじゃ無い?
だからあのとき何も言えなかったのよ!」
「…ああ。一応来て、体裁だけ整えたってことね?
だったら私たちはちゃんとして焦らせてやんない??」
「それ良い!やろやろ!!」
いいこと聞いたと盛り上がる二人をすり抜けて近付いてきた男子生徒が、私の隣に並んでポスターを見上げている。
「……う〜ん?ホントだ。…見てみるか。なぁ?」
「そうだな」
立て掛けてあったパイプ椅子を持ってきて、そそくさとその上に立った。
もう一人は、懐中電灯の光がポスター全面に当たるよう、少し下がって照らしながら見ている。
「〜〜っ、うわぁ。誰だよ、こんなイタズラしたの!」
「っ!ど、どうしたんですか?」
「…なんかついてる。多分君たちが来るって聞いた誰かが涙の跡に見えるように描いたんだ」
「えっ!?てことは?」
「君は、その誰かのドッキリに引っ掛かっちゃった可哀想な子?」
「うわあ、やだあ」
「あははは、残念!」
男子学生二人に笑われて、釣られた希と由利恵も笑い出す。
二人が何もしてくれないから私がする羽目になったのに、無関係の振りをするのはズルい…。口には出さないけど、モヤっとなった。
一応確認しなよ?
と笑いを堪えながら場所を代わってもらって、腹立たしく思いながら、イタズラで描かれた涙の跡を触ってみたら、
ねちゃ
っと粘り気のある液体が指先についた。
乾いてるものだとばかり思ってたから驚いて、思わず引いた手からは、最近嗅いだことのある臭いがしていた。
「……?園子、どうだった?」
何もしないでいることにも飽きたらしい希が、怠そうな声を掛けてきた。
「あっ…、うん。誰かがしたイタズラのせいで、それっぽく見えてただけみたい。他におかしいところはないよ?」
「そっか。やっぱりね。じゃあ『音楽室』は終わったわね。
次は何処行こうか?」
希の興味は既に他へ移っていたけれど、胸もとで擦り合わせた指先はまだ僅かに濡れていて、胸には漠然とした不安がわだかまっていた。
(ねぇ、今何時?『イタズラ』って、一体誰が『いつ』したの?)