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10.人と人との言わない関係

手もとのメモを見ていて注意散漫になっていたのは間違いなさそうだったが、咄嗟に手はつけたようで、怪我をするような事態にならなかったのは良かった。

転けた本人はしゃがみ込んで目をパチクリしている。

段差に足を引っ掛けたのはしょうがないとしても、まさか転けるとは思わなかったようでびっくりしたらしい。


すぐ後ろを如何にもダルそうにのろのろ歩いていた高崎由利恵は、突然の出来事に反応が遅れて、つんのめっていた新島園子の体にぶつかり体勢を崩した。

由利恵がよろけて手すりの付いた壁に寄り掛かり、そのせいで空いた隙間を縫って園子の手から滑り落ちてきた紙片を何となく目で追ってしまった山南穂花が立ち止まってしまい、登ってきた荒垣希の足先を踏み抜く。


「フザケんじゃないわよ!!どこ見て歩いてんの!?私を巻き込むな!」


可愛く無い怒声が響き渡った。


びくりと反応して硬直する山南穂花と、自然体を装って側を離れる残りの二人。

軽くはあったが踏んできた足を蹴りつけて、荒垣希は冷たく歪んだ顔で瞳を揺らめかせる山南穂花を睨め付けた。


その後は、思い出したくも無いぐだぐだ感。


『ほんとグズ。トロイったら無いわ!

あ〜あ、足痛いし最悪。無理して悪化してもヤダし?私は部屋戻って休むから、残りの場所は確認して来てよ。

本番に参加すれば文句ないでしょ?

じゃっ、よろしく!』


冬島総司をチラ見しながら言い捨てて、さっさと進行方向を逆走し始める。

それは此処まで来たときよりずっと素早く軽い足取りで、

『何処も痛めてねえだろ』

と心の中だけで盛大に突っ込んだ。

山南穂花は俯いたまま何も言わない。

荒垣希と山南穂花を交互に見比べた高崎由利恵と新島園子は戸惑いからオロオロしていたが、希が踵を返すのを見た由利恵は、当然のように彼女を追い、


『園子も戻るよ。下見くらい穂花一人で出来るでしょ?

一緒にいたらアンタまで怪我させられるよ?』


との呼びかけに応えて、園子も彼女の後へついて行った。


『冬島先輩は……、面倒とは思いますけど、その子のことお願いしますね?

まあ先輩は検証の付き添いが仕事ですから、まだ休めませんでしょうけど。

私たちのことは気にしなくて大丈夫です。部屋で休むだけで、その間は余計な手出ししませんから!』


そう言って満面の笑みを見せる荒垣希。

しかし目には若干の優越感が見て取れる。

宿直室での頼みごとで、思い通りの返事を返さなかった総司への当て付けだろうか?


付き添いの二人は申し訳無さそうな表情で微かに頭を下げたが、当事者だから自分もすると言わない時点で心証は悪い。


だって、この中でいちばん関係無さそうなのが冬島総司だから。


(『手出ししません』じゃなくてお前が率先して片付けろ!)


総司が元凶を心中罵ったのは、無理からぬことである。


***


『一人きり』ではないが、『独りきり』にはさせた山南穂花が、付き添いの三年生と共に階段を登りきり、折り返しの手摺りからチラ見する人影すらも完全に見えなくなったところまで肩越しに振り返りつつ確認して、荒垣希は、フンと鼻を鳴らしながら表情を険しくさせた。


彼女は強い自負心を持っていた。


物心ついたときには、素晴らしい腕を持つ、と言われていた医師である両親。

数年早く産まれた兄は、誰の意志でもなく自分の意志で、両親と同じ外科医になるための学部に在籍することが出来ている。

彼女自身も自然とその道を志し、致命的な挫折をすることなく此処まで来た。

小学校、中学校と、世間から『レベルが高い』とされる私立校に通い、その中でも片手の指を数えるくらいの成績を常にキープし続けていた彼女は、年以上の猫かぶりによる外面の良さで、影響力のある先生生徒の多くを味方につけ、平均的な子どもなら疵瑕として表面化するところを見逃され、それが“普通”だと認識しながら成長していった。

上手く世の中を渡っていた、と言えばそれまでなのだが、ソレが通用する場所でなくても、彼女にとっては同じ。


努力、はしてきたのだ。


両親も兄も優秀で、彼女もそうでなければ陰口を叩かれる。

赤の他人にはそういうものもいる。

ときには彼女の所為で兄や両親が蔑まれることもある。

自身の為でもあったけど、それらのプレッシャーは彼女を奮い立たせる活力にもなった。

努力して、努力して、それに付随してきた色んなものも利用して、彼女は年若くして人を使う側に立っていた。

……学校という狭い世界の中のことではあったけど、上手くやれば、それはそのまま彼女の力になった筈だった。

高校に上がっても、更に小さいグループの中の取り巻きを、前と同じように認識していた。

上手くいっているうちは鷹揚でいられた。

小さな失敗には優しく声を掛けて励ますことも出来ていた。

これまではそれしか知らなかった。

だから…、上手く行かなくなったとき、彼女はその解決法を、他者の所為にすることしか出来なかったのだ。

それも、経験がない故に、年齢にしては酷い癇癪という形でしか表せなかった。


世間ではそれを、


『我儘』『自分勝手』『独りよがり』


などと言う。



荒垣希にとっての冬島総司は、『助力を請うた先輩』でなく、『好意から自分の為に動いてくれる駒』である。

……はっきり自覚している訳では無いものの、これまでもソウだったから、今回もいつも通りソウ認識している。


総司が面白がって関わったのは、本当。

希がそれを好意だと勘違いして利用したのも本当。


ただ、両者の間には、決して埋めようのない齟齬が横たわっていたことを、荒垣希は気付けなかった。


希が理不尽な不利益を被っているのを知って、何処からともなく集まってきた人の一人だと思って、甘えた。

希のために面倒ごとを片付け、最後に『ありがとう』とお礼を言えば、嬉しそうにして慕ってくれる。と思っている。

そうでないものは、なるたけ彼女の周囲から排除されていたから、


人は人を利用する。

益が無ければ手のひらを返す。

人の不幸は蜜の味。


人間関係にも、『酸い』と、『甘い』が、ある。

彼女も知識としては知っている。


けど?


彼女のこれまでは、とても『甘く』て、比べる今がかなり『酸い』ことを、理解出来てはいなかった。


彼女にとっての『酸い』は、彼女の考えに賛同せず、排斥されて口を噤んでしまう、思い通りにはならないが、惨めで馬鹿な人間たちのことだったから。


***


人数を減らして三人となった彼女たちが戻ってきた部屋は、廃れた古い使用感も合わさって、何処か砂を噛んだような空気が漂っていた。


荒垣希が不機嫌な所為もあって姦しさの無くなった集団は、埃臭くは無くても使用されていなかった古臭さのある宿直室の様子に気を滅入らせ、乱雑に放り出されていたうち、まだ帰ってくるまで時間の掛かるだろう山南穂花の荷物を邪魔だと八つ当たりで蹴飛ばす。

理由が出来て面倒を押し付けられたのは良かったが、かと言って、この部屋ではするべきことも出来ることもしたいことも無い。

一番はさっさと帰りたいのが本音でも、先輩の様子からロクなことにならないのはわかった。


(校長も余計なこと言ってくれたわ!)


助言か小さな親切かは知らないが、『噂の怪談が発生するのは夜』などと明言してくれたものだから、帰るに帰れなくなってしまった。

相手は仮にもこの学校の責任者。

それに加えて、手伝いもしない癖に行動には目を光らせてくる口先だけの上級生がいる。

……どうも付き添い人は、当事者の様子を学園に報告することもあるらしく、思った以上にやる気が見られなくてがっかりした上に、此方に対して少し当たりが強いのが気に掛かかり、途中で帰ろうものなら嫌がらせで変なことを吹き込まれそうな気がして油断出来ない。

今は穂花についてるが、棄権したとか、おかしな因縁をつけられたくは無かった。


それぞれが自分の荷物の側に腰を下ろして、所在なさげに視線を彷徨わせている。

何もすることが無くて手持ち無沙汰。

新島園子は座ったまま、畳の目に沿って足裏を滑らせ始めたし、高崎由利恵は希を気に掛けつつも、そわそわと荷物に手を触れるだけの無意味な動作を繰り返している。

事態が進展しないことにあっさり見切りをつけた荒垣希は、荷物からお気に入りのポーチを取り出すと、二人を無視して化粧直しを始めた。

だって朝から汗だくなのだ。

日頃から風紀に目を付けられないようなナチュラルメイクを心掛けているので、化粧崩れが見咎められるなんてことは無い筈でも、この炎天下、サンサンと降り注ぐ紫外線と舞い上がる砂埃が気になって気になって、一度やり直したいと思っていたのだ。

愛用の拭き取り化粧水をたっぷり染み込ませたコットンを肌に滑らせれば、普段より濃い茶色が汚れとして綿の表面にこびり付く。

機嫌が降下するのを自覚しながら、若干日に焼けたように見える顔のケアに専念した。


いない二人が帰ってくるまでに終わらせようと、自宅でする手順の殆どを省略して、保護化粧水と日焼け止めクリームだけに留める。

コンパクトの鏡を見ながら塗り残しが無いように気を配り、最後はUVカットの付いたリップを唇に塗って終了した。

慌ただしかったものの一息つけて、全体を確認しようと鏡から顔を引けば、写り込む背景が薄暗いことが気になる。

部屋に換気扇以外の空調機器は設置されておらず、申し訳程度に扇風機がポツンと置かれていたが、どう見ても最近の製品には見えない昔のものだったので、よくテレビで問題になっているような火を吹かれても困るしで放置していた。

それでも暑さはどうしようも無く、妥協案というか、他に方法も無いので窓を全開にして凌ぐしか無かったのだ。


………その、外が暗い?


雨が降ってくれば、暑さと湿気が合わさって更に厄介なことになる。

梅雨と一緒。蒸し暑いのはベタベタして、気分的にも手に負えない。熱中症になったらどうしてくれる!


憂鬱な気分で後ろを振り返ったら、窓枠で切り取られた四角い空が、あんなに青かったのが嘘のように灰色がかっていた。

明るさ的に直ぐ雨が降る気配は無い。

慌ててスマホで確認しても、ここら周辺の天気予報は『晴れ』。

湿度も低くて降水確率も無いに等しい。

でもこの場所は『曇り』なのだ。

降水確率もゼロでは無いし、降水『確率』とは、地域全体を見て、何パーセントが雨に見舞われるだろう『確率』なので、今いるところがドンピシャで当たれば、『雨』は『雨』である。


冗談じゃない!!


険のある目で空を睨んでも、それだけで賛同は得られなかった。


当たり散らすにも理由が薄い。

せめて気持ちを落ち着けようとシンクに向かい、蛇口から溢れる水で両手を冷やす。

どちらかといえば生温い水の温度は体温より低く、身のうちで荒ぶる感情を辛うじて抑えてくれた。


蛇口を閉めること無く目を閉じて、手に叩き付けられる感触とステンレスに跳ね返る飛沫の音を聞く。

何も考えずにそうしていたら、急に触れている水の様子が僅かに変わり、それが疑問になる前に鉄錆の臭いが鼻をついた。

驚いて手を引くも、開けた目に映ったのは、茶色く濁った液体が自身の手を濡らしていること。

喉奥から、ヒッ、と引き攣った声が漏れる。


「何よ…コレ」

「……?どしたの希」

「み…ず、が……」


思わず出た言葉に由利恵が近寄ってきた。

両手を前に出した状態で後ろに下がったせいで、ポタポタと落ちる濁った雫が申し訳程度に設けられた板間と畳の縁を滲ませる。

園子も覗き込んできて、蛇口からまだ流れ落ちている濁り水を見て、


「ああ…、錆びだね。てことはやっぱりこの部屋、結構長い間使われてないんだ?」


と、言った。


「………錆び?」

「そっ。多分水道の配管がどっか錆びてるんだと思うよ?

でも冬島先輩が水汲んでたときは普通だったから、場所がすこし離れてたのかな?」

「えー?でも錆びが移るくらい放置されてた水でしょ?大丈夫そうに見えてヤバくない??」

「…あ〜、それもそうか。

じゃあ先輩帰ってきたら教えてあげよう。

飲んだりしたら腹痛で済まなそうだし?」

「ホントそれよ!

あの人、なんだかんだ言って面倒見いいもんね。受験生なのにこんなくだんないこと付き合ってくれてるし?」

「ね〜?」

「………」


彼女たちの様子は明るく緩い感じだったが、それが逆に一瞬怯えてしまった希のプライドをいたく傷付けた。

機嫌がまた悪くなった希を察して二人は口を噤んだが、それすらも希の癪に触る。

何かない?と部屋を見渡して、目に付いたのは、先輩が置いていった荷物の横に倒れていたペットボトルだった。

中身は希を驚かせた水道から汲んだ透明な水。

無性に腹が立った。


「!ちょっ、希。それどうすんのよ!?」


ペットボトルを鷲掴んで戻ってきた望みに、由利恵が焦った声を掛ける。

園子は目を丸くしていた。

問い掛けには答えないで、ボトルの中身を迷わずシンクにブチ撒ける。

色はさっきより薄くなっていても、まだまだ濁っている液体を代わりに詰めて、元どおりの場所に戻しておいた。


「……これで先輩が飲んじゃう心配もないでしょ?ちょっとした親切よ!」


何とも言えない顔をした二人を見たら、ザワザワした気持ちがマシになって、溜飲が下がった気がした。

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