表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

妖精奇譚

作者: 日暮奈津子

ーー僕はそれを妖精と呼んだ。



 誰もいない夜の暗がりの中で、僕は図書館のドアに手を伸ばした。

 絶対に音を立てないよう、そっとノブを回す。

 静かに、ほんの少しだけ入り口のドアを開けて、中の様子をうかがう。

 消灯時間をとっくに過ぎた真夜中の図書館に先客がいるとは思えないが、それでも、誰かが忘れ物でも取りにくることがないとは言い切れない。

 いつの頃からか、こうして毎晩のように寄宿舎の自室を抜け出しては本の続きを読むために図書館へ忍び込むのが日課になっていた僕だが、今でもそうして細心の注意を払うのを忘れることはなかった。

 けれど、それは学校の規則を破る後ろめたさというよりは、先生達に見とがめられるようなへまを仕出かして、貴重な読書の時間を少しでも減らしたくはないという思いの方がずっと大きかった。

 息を殺し、人の気配がないのを確かめてから、ようやく、僕は持っていた懐中電灯の明かりをつけて図書館の中に入った。

 なるべく低く足元だけを照らし、カーテンのすき間から光が外へと漏れることのないように注意する。

 後ろ手に、入り口のドアを静かに閉める。

 貸し出しカウンターの前を通り過ぎ、閲覧用のテーブルと椅子が並んだ横を抜け、天井まで届く本棚の間を迷いなく歩く。

 目当ての場所まで来ると、僕は懐中電灯でそこを照らした。

 暗い図書館の本棚を丸く切り取って、ずらりと並ぶ背表紙が見える中にそのタイトルがあった。

 

『シェイクスピア全集3 真夏の夜の夢 テンペスト ほか』


 読みかけだったその本を棚から抜き取って、僕はそのまま本棚の前に座り込んだ。

 すぐ目の前の椅子に座るのももどかしかった。

 片手の懐中電灯で照らしながら、表紙を開き、ページをめくる。

 本の中で静止していた世界が再び開かれた。

 色を失い、閉じ込められていた光景がまた、動き始めた。

 並んだ文字を目にするだけで、その中へと容易に潜り込む。

 没入する。

 物語の奥底へと、沈み込む。

 身も心も、すべてをゆだねきる。

 しおり紐が挟まっていたのはまさしく、夕食時間を知らせる時計塔の鐘が鳴るその時まで僕が読んでいたページだった。

 もはや、僕の目に映るのは白い紙の上に並んだ無機質な活字ではなく、イギリスが誇る偉大な劇作家が創造した世界とその住人達だった。

 まさに物語は、妖精王オベロンに命じられて、いたずら好きの妖精パックが森の中で眠る男の目蓋に恋の媚薬を垂らそうとするところだった。


ーー妖精の棲む森。


 イギリスの伝承では、森の中には妖精が住んでいるのだという。

 森の奥深く、木立の中の開けた草地にキノコが丸く並んで生えている場所があり、それは夜更けに妖精達が輪になって踊っていた跡なのだという。

 森の中、泉のほとり、あるいは木漏れ日の中、またあるいは梢を渡る風の音、あらゆる自然の中に妖精達がいた。

 だけど僕が生まれ育ったこの国に妖精譚はなかった。

 270年前、メイフラワー号に乗ってこの新大陸にやってきたときに、僕たちの祖先は妖精たちを旧世界に置いてきてしまったのだ。

……一部の者を除いては。

 丘を越えた向こう、住人達が恐れて近づこうとしない森の奥に、かつて魔女裁判の迫害を逃れてきた男が住み着いた洞窟があり、その男が僕の数代前の祖先に当たるのだと聞いて、九歳の僕は一人でその洞窟を探しにいった。

 一日がかりで森を彷徨さまよい、ようやく見つけた洞窟の中には、しかし、何もなかった。

 鬱蒼と茂る木立の中から僕に囁きかける妖精の声も聞こえてはこなかった。

 すっかり陽が落ちてから帰宅した僕は両親からこっぴどく叱られ、泣きながら、もう二度と森へは行かないと固く約束をさせられた。

 そうして、僕もまた、妖精など一顧だにする価値もなしとする多くの人々と同じ暮らしの中へと埋もれていった。

 けれど。

 代わりに僕の妖精がいたのは図書館だった。

 妖精たちがひそんでいたのは、新大陸には不釣り合いな伝承を残した祖先が隠れ住んだ森ではなく、そこから遠く離れたこの寄宿学校の図書館だった。

 この学校へ来る以前からーーそれこそ物心つき始めた頃からーー両親の本棚の中身を片っ端から引っ張り出しては読み耽っていた僕だったが、それとは質量ともに桁違いの蔵書が整然と並べられているのを目にした途端、まるで何かのたがが外れてしまったかのように、僕は許される限りの時間を図書館で過ごすようになっていた。

 森に妖精が棲むように、図書館の本棚にはおびただしい数の妖精が隠れ住んでいることを僕は知った。

 棚から取り出した本の表紙を開くたびに見たこともない姿の妖精たちが僕の脳裏にあざやかに現れ、ページをめくればまるで森を吹き抜ける風が起こす葉ずれの音のように、妖精の声が僕の耳に物語を囁きかけた。

 あの日、森で見つけられなかった景色がそこにはあった。

 いたずら妖精のパックや妖精の王たるオベロン、嫉妬深い王の妻はもちろん、彼らに翻弄される人間たちも、物語の世界で息づくもの全てが僕の『妖精』だった。

 物語も戯曲も神話も伝説も、伝記や過去の偉人賢人たちの書き遺した言葉でさえもが、本の中からまざまざと蘇り、僕に語りかけた。

 アテナイ市民に向かって弁明するソクラテスですらも例外ではなかった。

 人も、動物も、植物も、神も、悪魔も、妖精も、本に書かれた存在の全てが、僕の目の前で一緒になって、図書館の中で輪舞を踊った。

 七年前、あの森で出会えなかった妖精たちが今、ここにいる。

 僕の胸を絶えずざわつかせる『妖精』に逢うために。

 今夜も僕は、こうして教師たちの目を盗んで、夜の図書館へとやってきたのだ。

 ページを開いて読み進めるだけで、夕食時間から消灯までの退屈だった時間を軽々と飛び越えて、本の中でずっと待っていてくれたその光景に、僕はあっさりとたどり着いていた。


ーー懐中電灯がなくてもたどり着けるんじゃないか?


 ふと、そんなことを思いついて、ページから顔を上げた。


ーーそんなはずはない。


 図書館は夜の闇に沈み、懐中電灯の丸い明かりだけが、本に記された幻想の世界を照らし出している。

 暗がりの中で苦笑して、僕は再び妖精たちが踊る輪の中へと戻っていった。



     *     *     *



 どこかとても遠くて近い所で、かちりと小さく、鍵の開く音がした。


 

 長い長い回廊の真ん中に、僕はただ一人立っていた。

 深い琥珀色に古びた木製の壁のところどころにランプの明かりが灯されていて、幅の広い回廊をぼんやりと照らしている。

 ひたすら真っ直ぐ伸びた通路の先は、暗闇の中に沈んで見えない。

 後ろを振り返ったその先も、全く同じ、薄暗い回廊の光景がどこまでも続いていた。

 けれど、そうして僕の背後に伸びる回廊のはるか向こうには、妖精王オベロンの森と図書館の本棚の森とが交差する場所があるのが何故か僕には判っていた。

 数え切れぬほどに、何度も、この回廊を通った記憶が確かにあった。

 再び前方を見る。

 では、この先はどこへ通じているのだろう。

 どんな世界と交差しているのだろう。


ーーもしかしたら、このまま僕はどこまでもどこまでも行けるんじゃないか? 


 すべての世界と、時間すらも越えてーー

 

 その時、足元の床に真っ直ぐな亀裂がするどく走った。

 僕の立っている左手前方から右後方へ向けて、剃刀かみそりが裂くように、音もなく斜めに金属質の切り裂きが床面を走った。

 真っ二つに切り込まれ、ぐらりと床がかしぐ。

「あっ……」

 足元を取られてよろめく僕の目の前で、再び空間が切り裂かれた。

 さっきとは逆に右斜め前方から素早く切り込んで、鋭角に床を断ち切った。

 突き刺すような、鋭い角度。

 僕の目の前に、巨大なV字があらわれた。

 そのV字が、ぎらりと光る。

 鋭角に交わる角度の中に、なにかがいる。

 怪しく輝く角度の中から、青緑色の長い鉤爪と先の尖った細長い舌を持つ何かが稲妻のように僕をめがけて飛び出してきたーー



     *     *     *



 懐中電灯が手から滑り落る感覚で目が覚めた。

 反射的に持ち直そうとして掴み損ね、床に落ちる。

 音を立てて転がった懐中電灯の明かりが図書館の壁のあらぬ方を照らし出した。

 ぎくりとして息をつめ、本棚にもたれて座り込んだままの姿勢で辺りを見渡す。

 いつの間に眠り込んでいたのだろう。

 どれくらいの間、眠っていたのだろう。

 闇に慣れた目に、膝の上で広げられたままの本と暗がりに沈む図書館の光景が見えた。

 僕が忍び込んだ時と同じように、カーテンは全て閉ざされたままで、隙間から朝の光が漏れてくることもなかった。


ーーよかった。


 もし朝食時間を告げる鐘が鳴っても僕が食堂に来ておらず、図書館で本を抱えて寝ているのが教師達に見つかりでもしたら、僕の時間のすべては読書から切り離され、反省と贖罪を強制される退屈さは想像することすら堪え難い。

 安堵の息を吐いて、懐中電灯を拾い上げる。

 もう少し、読む時間はあるだろう。

 本のページを再び照らし、読みかけていた行を探そうとしてーー

 その時、僕の耳に、誰かの息づかいが聞こえた。


 誰かがーーいや、何かがいる。


 ぎくりと息を呑み、身をこわばらせる。

 懐中電灯の明かりを消して耳を澄ませる。

 僕が眠り込んでいるうちに、誰かが入ってきたのだろうか。

 でも、誰が?

 図書館の床に座り込んだまま、素早く考えをめぐらせる。

 僕以外の生徒が真夜中に図書館にやってくるとは思えないし、司書のバートン先生や他の教師なら、まず真っ先に電気をつけているだろう。

 いずれにせよ、その誰かが、つけっぱなしだった懐中電灯の明かりに気づかないはずがない。

 だとしたら、いったい?

 沸き上がる不安を抑え、暗闇の中の気配を探る。

 くぐもった低い声が闇の中に響いている。

 不気味な息づかいに混じって、うなり声とも付かない声が、だんだんこちらへ近づいてくる。

 足音はよく聞こえない。

 床に尻をついて座ったままの僕の目の前には、暗がりの中に図書館の椅子や閲覧用のテーブルの脚だけが辛うじて見えていた。

 いや。

 僕は気づいた。

 真っ暗なはずの室内で、椅子や机の脚が見えるのは、『それ』がおぼろに燐光を放っているからだ。

 周囲がぼうっと青緑に照らされる。

 近づいてくる、『それ』。

 林立する何本もの椅子とテーブルの脚の隙間から、そいつの姿が見えた。

 一本も毛の生えていない太い四つ脚が、青緑色のごつごつした背骨と肋骨を浮き上がらせた(いびつ)な胴体をささえている。

 大型犬よりもまだ大きい。

 それどころか、後肢で竿立ちになれば大人の背丈すら軽く超えるだろう。

 耳は小さく、代わりに大きく裂けた口は顎のところでちぎれそうなほど不格好に開いている。

 口元からは先の尖った細長く真っ青な舌が鞭のようにとび出している。

 つうっと、透明な唾液が顎からしたたり、床に落ちる。

 まるく透き通った目が闇の中でぎらりと光る。

 ひっきりなしに鼻をひくつかせ、何かを嗅ぎ取ろうとしている。

 まるで猟犬が獲物の居場所を探ろうとしているかのように。

 だが、獲物とはいったい何だ?

 こいつは何を、誰を探しているのだ?

 緑青ろくしょうをふいた骸骨のような四足獣の足跡が点々と、燐光を放って床に押されてゆく。

 その姿は、僕が今まで見てきた『妖精』とはあまりにも異質だった。 


 不意に『猟犬』が歩みをとめ、せわしなく嗅ぎ回っていた鼻もぴくりと動きを止めた。

 そして突如、椅子の脚の向こうにいたはずの『猟犬』の姿が消えた。


ーーえっ……?


 獰猛なうなり声が僕の頭上から降ってくる。

 見上げると、床を蹴って身軽にテーブルの上に飛び上がった『猟犬』が異様に細長い舌を垂らして僕を見ていた。

 ガラス玉のような眼球の中、ちろちろと青黒く、炎のように燃える瞳がぎろりとにらみつける。

「あ……」

 喉の奥で声が詰まり、体は縛り付けられたように動かない。

 手足の先が冷たくしびれて感覚を失っている。

 氷の塊を心臓に押し付けられたかのように、のしかかる恐怖心に押さえつけられたまま動くこともできない。

 これは現実なのか?

 僕はまだ、僕の幻想の中にいるんじゃないのか? 

 凍り付いたまま、僕は逃げることもできない。

 おびえ切った獲物を狩り立て引き裂く残忍な喜びを押さえきれずに『猟犬』が咆哮を上げる。

 引き絞った弓のように四肢に力を込め、テーブルを蹴って襲いかかってくるのから目を離すこともできずにいる僕の目の前でーー


 白い流星が闇を裂き、横殴りに『猟犬』をめがけて襲いかかった。


 小さくしなやかな影と、緑青色の猟犬とがぶつかり合い、ひと固まりになってテーブルの上から転げ落ちた。

 けたたましい音を立てて、いくつもの椅子が倒れる。

 白い影が鞠のように床に弾んで駆け出すのに向かって、吠えかかりながら『猟犬』が床を走り、本棚の向こう側へと見えなくなる。

 だが、すぐに追いついたらしく、駆け回る足音は床の上で激しく取っ組み合う乱雑な騒音に変わった。

 苦痛と怒りに満ちた咆哮と、うなり声が闇に響く。

 僕の見えない所で。

 だけど、確かに戦っている。

 互いに互いの身体からだを切り裂き、食い破り、痛撃を食らわせようとする生々しい物音がひっきりなしに僕の耳に届く。

 威嚇と、苦悶の響きが時折混じる。

 次々に繰り出される斬撃をかいくぐり、息の根を止める一撃を与えるべく、床を蹴る足音が響く。

 そしてついに、耳を塞ぎたくなる断末魔の叫びが夜の図書館じゅうに響き渡った。

 ごきりと、最後に鈍い音が聞こえて、静かになった。


 どちらかが、勝ったのだ。


 しばらくそのまま待ったが、もう何の物音も聞こえない。

 本棚の向こうから現れる影も、ない。

 耳をそばだてても、聞こえてくるのは緊張に張りつめた僕のあえぐような息づかいだけだ。

 辛うじて、こわばる指先で懐中電灯の明かりをつける。

 震える膝に力を込めて、立ち上がった。


ーーどこだ?


 胸の中で破裂しそうな鼓動を抑えながら、ゆっくりと、そいつらが争っていた本棚の向こう側へと近づく。


ーーどこにいる?


おぼつかない足取りで歩を進める。

だがすぐに、ぎくりと立ち止まる。


ーーどちらが勝ったのだろう?


 ふらつきそうになるのを、片手をテーブルの上について体を支える。


ーーこのまま立ち去った方がいいんじゃないのか?


 もし、生き残ったのが『そいつ』だったら。


ーーでも。


 あの白い影は、僕を助けてくれたんじゃないのか。

 『猟犬』の足跡は、まだおぼろに不気味な青緑の燐光を残している。

 だが、本棚の向こう側は静まり返ったまま、物音ひとつ聞こえてこない。

 もしかして、両方とも命を落としてしまったのだろうか。

 まさかーー

 僕は大きく息を吸い込んで本棚の向こう側へと周り、辺りを懐中電灯の明かりで照らした。



 真っ先に目に入ったのは、床の上にだらしなく横たわった緑青色の獣の残骸だった。

 かすかに燐光を残し、本棚と本棚の間の狭い通路をふさぐように横たわっている。

 『猟犬』はーー『猟犬』だったものは、背中をざっくりと大きく爪のようなもので切り裂かれ、不格好に長い首はまるで喰いちぎられたかのように皮一枚で辛うじてつながっている状態だった。

 先の鋭く尖った長い舌がだらりと口から飛び出している。

 ガラス玉の瞳の炎も消え、ただの黒い穴に過ぎなかった。

 死んでいる。

 大きくひとつ息を吐いて、でも、まだ僕の緊張は続いたままだった。


ーーこの奥にまだ、いるはずだ。


 おそるおそる、奥の方へ懐中電灯の明かりを向ける。

 照らし出した中に、ぼんやりと白い何かがいる。

 やや小柄な、人影のようだ。


ーー人?


 僕は目を見張る。

 銀色に輝く長い髪にふち取られた、少年の白い顔。


ーーでも、僕が見たのは……。


 テーブルの上の『猟犬』に飛びかかり、追われて逃げた白い影はもっと小さかったはずだ。

 辺りを見渡しても、その人影の他には『猟犬』の死骸しか見当たらない。

 丸い明かりの中、本棚にもたれかかるようにして床に座り込んでいる。

 ではやはり、僕を助けてくれたのはこの人以外にはない。

 ゆるやかに波打つ長い銀髪が背中まで流れ落ちる。

 僕と同じくらいの年頃のようだ。

 目を閉じたまま、じっと動かない。

 袖なしの白い服に包まれたしなやかな身体。

 その服の脇腹の辺りが、真っ赤だった。


「あっ……」


『猟犬』の死骸の脇を通り過ぎ、僕は銀髪の少年の元へと駆け寄った。


「大丈夫!?」

 

 すぐ傍らにひざまづいて、顔をのぞき込む。

 長い睫毛の、白い顔は血の気を失ったままだ。

 細い指先の手が右脇腹の傷口を押さえて血塗れになっている。

「ああ……!」

 なにか手当を、と思う気持ちばかりが焦って、だが、下手に動かすとかえって出血がひどくなるのではと思うと、手を触れることすらためらわれた。

 そうして、ただ狼狽うろたえるだけの僕の目の前で、少年がうっすらと目を開いた。

 薄青い瞳が焦点を結んで、僕の顔を見た。

「……そうか、君の回廊か」

 ややかすれた声が、だがはっきりと、そう言った。

「え?」

「……きっと『猟犬』は、君を嗅ぎ付けてきたんだな。でも、もう大丈夫……」

「何を言ってるんだ? 僕なんかより君の方が……」

 自分の血にまみれた手を目の前にかざして、彼はこともなげに僕に言った。

「僕? ……ああ、こんなのはぜんぜん大したことじゃ……」

「なにを言ってるんだ! こんな大怪我じゃないか!」

 思わず声をうわずらせる僕に、銀髪の少年は軽く笑ってみせた。

「大丈夫だってば。これくらいの傷なら自然に塞がるんだから。……ああ、いや……」

 再び、彼は目を閉じると、大きく息をついて背後の本棚に寄りかかった。

「君、すまないけど、どこかで牛乳を一杯もらってきてくれないか? ……さすがにちょっと出血が多いな。せいが足りない……」

 ゆっくりと、少年の身体が傾いて、横倒しになった。

「あっ……」

 床の上に横たわり、胎児のように手足と身体をちぢこめて、丸くなる。

 その身体が淡い光を放ち、綿毛のように柔らかく白い毛並みに包まれながら、みるみる小さくなってゆく。

 頭の上に小さくふたつ、とがった耳が伸びる。

 息を呑んで見守る僕の前で、少年は一匹の白い猫になった。

 だが、あれほどひどく出血していたはずの脇腹には傷跡ひとつ残ってはいなかった。

 小さい鼻から、深く長い呼吸の音がゆっくりと規則的に聞こえてくる。

 苦痛に満ちた響きのない、やすらかな寝息だった。

 夜の図書館で、白い猫が身を丸めてすうすうと眠っている。

 長い尾が体の曲線に添うように丸められ、時折、耳がぴくりと動く。


「そうだ、牛乳……」


ーーせいが足りない……。


 食堂、いや、調理場に行けばあるだろうか。

 寝息を立てている猫を起こさないよう、そっとその場を離れようとした僕の足が止まった。

 床に横たわる『猟犬』の死骸が、消えつつある。

 ごつごつと緑青をふいたようだった手足と胴体が、あちこちでぼろりと折れて崩れ、燐光を失い、水が地面にしみ込むように消えてゆく。


 もといた場所に、帰るのだろうか。


ーーだが、それは一体どこなのか?


 不安をかき立てる疑問を振り払い、僕は図書館を出た。



     *     *     *



 食堂の窓が、ひとつだけ鍵をかけ忘れられたまま開いていた。 

 窓枠を乗り越えてしのび込み、隣接する調理場から一本の牛乳瓶とスープ皿を一枚持ち出して、急いで僕は図書館に戻った。

 『猟犬』の死骸はもう跡形もなかった。

 白い猫はさっきと同じように、本棚の前でこんこんと眠っていたが、僕が牛乳瓶の中身を皿にそそいで床の上に置くと、鼻をひくひくとうごめかせて、目を開いた。

 耳をぴんと立て、むくりと身を起こす。

 皿に駆け寄り、ものすごい勢いで牛乳を飲み始めた。

 スープ皿に顔をつっ込むようにして、器用に舌ですくい取りながら飲み干す姿を、僕はすぐ隣にしゃがみ込んで見守った。

 あっという間に皿の中身は空っぽになってしまった。


ーーもう一本持ってきた方がよかっただろうか?


「足りたかい?」


 皿の前にちょこんと座って、毛繕づくろいを始めた猫に聞いてみた。

 ぴくり、と耳を立て、猫は顔を上げて僕を見た。

 薄く青い色の瞳が僕を見つめる。


「にゃあ」


 右の前脚を上げ、猫は僕の膝に軽く触れた。

 そのままするりと僕の前を通り過ぎ、本棚の間の通路から出てゆく。

 角を曲がってゆき、姿が見えなくなる。

「あ、待ってよ」

 慌てて立ち上がり、懐中電灯を手にして後を追う。

 だけど。


「え……」


 図書館の中に、白い猫の姿はもうなかった。

 床を、椅子とテーブルの間を、本棚と本棚の間の通路を、懐中電灯の明かりであちこちを照らしてみても、どこにもいない。

「そんな……」

 ただ一人、立ち尽くす。

 閉ざされたカーテンの向こうで、夜明けの光がかすかに空を照らし始めていた。



     *     *     *



 五時限目の教室に、チョークの音だけが響いていた。

 生物教師が黒板に細胞の模式図を描いている。

 動物細胞と、植物細胞の図だった。

 椅子に座った生徒達が自分のノートにそれを描き写す。

 誰も、一言も発しない。

 やがて描き終えたピアソン先生はチョークを持ったままの手で黒板を指し示しながら、動物細胞と植物細胞の構造の違いを説明し始めた。

 生徒達は相変わらず黙ったまま、先生の講義を聴いている。

 植物細胞には葉緑体があるが、動物細胞にはない。

 植物細胞は細胞壁と液泡があるが、それも動物細胞にはない。

 そのため、蒸留水に浸すと細胞はどちらも吸水するが、植物細胞は細胞壁に守られているため、内部の液泡が拡大して多少の変形が起きるだけで済むが、細胞壁のない動物細胞は際限なく吸水して、破裂する。

 人間の赤血球も同様に、蒸留水に入れると破裂し、これを特に『溶血』という……。


ーーそれがいったい、なんだというのだろう?


 理屈はわかっても、そのことが僕にとってどういう価値があるのか、誰も、何も教えてはくれない。

 黒板の図を見ても、先生の顔を見ても、自分のノートや教科書を読み返してみても、僕にはそれがまるで理解できなかった。

 それなのに、教室の生徒達は熱心に先生の話に聞き入りながら、時折ノートに自分で説明を書き加えていく。

 だけど、そうやって真剣な眼差しを向けている生徒たちこそが、もうとっくにその単元のことなど理解し尽くしてしまっていて、あとは授業態度の評価点を目当てに演技をしているだけなのだ。

 教師達も、それを知ってか知らずかーー知らないはずはないだろうーー学校と寄宿舎とを日々滞りなく行き来しては勉学に励む生徒達を育み、やがて世に送り出す使命に何の疑問も持ってはいないようだった。


 ここは、そういう学校だった。

 そうやって、日々が過ぎてゆく。

 退屈で、退屈で、退屈だった。


 ピアソン先生の講義はまだ続いている。 

 微に入り細に入り、ふたつの細胞の構造の違いについて説いている。


 動物と、植物と。


ーー動物?


 ゆうべ、図書館で見た光景が不意に脳裏に浮かんだ。


 緑青をふいたような、あやしい四つ脚の獣。

 あれは動物なのだろうか?

 不気味な燐光を放って、異様に長い真っ青な舌で。

 床にしみ込むように、死骸は消えてしまった。

 あんなものでも、ひとつひとつの細胞が集まってできた動物なのだろうか?

 僕たち人間のような、地球上の生命と同じように?

 

ーーそうだ、それに……。


 猫の少年。

 闇を裂き、白い流星が『猟犬』に襲いかかる。

 傷ついて、ぐったりと本棚に寄りかかっていたしなやかな身体が、銀の長い髪が、僕の目の前で白い毛並みの猫へと姿を変えていった。


ーー待ってよ。


 角を曲がった途端、消えてしまった。

 あまりに不思議な、まるで僕がいつも読んでいる本に書かれた出来事のような光景を、だが僕は確かに見たのだ。

 真夜中の図書館で……。


 中庭を隔てた向こう、三階の教室の窓から、その図書館が見えた。

 午後の太陽に照らされて、スレート葺きの青い屋根が光っている。

 その真ん中に、ぽつりと丸く、小さな白い影が見えた。


ーーあれは……。


 僕は目を見開く。


ーー猫だ。


 真っ白い毛並みに、薄く青い瞳。

 窓際の僕の席からそれがはっきり見えた。

 昨日の夜、図書館で僕を助けてくれた猫に間違いない。

 だがそれは、どこにでもいる普通の猫のように昼下がりの日だまりの中でのんびりくつろぐ様子は微塵もなかった。

 図書館の屋根の上できちんと両足を揃えて座ったまま、首を真っ直ぐに伸ばして辺りを見渡している。

 まるで、校内に潜む不審な者を見つけ出そうとしているかのように。

 

ーーまさか。


 どきりと、僕の心臓が不安な音を立てた。

 昨夜の『猟犬』が、まだいるのだろうか?

 あの猫は、それを探しているのか。

 おもむろに、猫は姿勢を低くすると、図書館の屋根の上をそろりと歩き始めた。

 午後の太陽が照らす屋根を、小さな鼻で嗅ぎ回りながら慎重に歩を進める。

 その足取りが、ぴたりと止まる。

 スレート屋根の明るい陽だまりの上に影が落ちている。

 中庭を挟んで図書館の向こうに建っている、時計塔のとがり屋根の影だった。

 そこだけが、まるで鋭く切り取られたかのように、くっきりと黒い。

 鋭角の影を白い猫がしきりと鼻をひくつかせ、臭いを嗅いでいる。

 影にそっと前脚を伸ばしては引っ込め、うろうろと周囲を歩き回る。

 警戒しつつも確信が持てずにいる猫の気持ちが、まるで僕にまで伝わってくるかのようだ。

 その猫が、ぴくりと耳を立てた。

 あたりをきょろきょろと見回し、不意に目線を上げる。


ーーあ……。


 白い猫と、目が合う。

 うす青い瞳が図書館の屋根の上からこちらを見ている。

 中庭を挟んだその向こうから、まるで僕に向かって何かを問いかけようとするかのように、猫の小さな口が開こうとしている。


 その途端、白い猫の姿が消えた。


ーーえっ?


 図書館の屋根の上に、猫はもうどこにもいない。

 素早く周囲を見渡しても、白く丸いその姿はない。

 スレートの青い屋根の上には、陽だまりと、時計塔の屋根の黒い影が落ちているだけだ。


ーーどこへ消えた?

 

 見間違いだとか、気のせいだったなどという下らない結論は拒絶していた。

 あの白い猫は、確かにいた。でも、消えてしまった。

 僕の目の前で、まるで妖精のようにーー



 動揺で破裂しそうな僕の意識を、無慈悲な声が鷲掴みにして容赦なく現実に引き戻した。



「カーター、答えたまえ」

 鞭のように厳しい声が僕の耳に飛び込んできた。

「あっ……」

 突然呼び掛けられ、びくりと身をこわばらせる。

 チョークを持ったままのピアソン先生が、僕の目の前に立っていた。

 反射的に席から立ち上がる。

 がたんと椅子が不快な音を立てた。

「シュライデンが植物について、シュワンが動物について細胞説を提唱したのはそれぞれ何年と何年か?」

 冷たい視線を僕に向けて先生が問う。

「え……その……」

 答えに詰まった僕に、先生は黙って黒板を指し示した。


『1838年 シュライデン、植物における細胞説を提唱。

 1839年 シュワン、動物細胞説を提唱』


 黒板の字がまるで僕をあざ笑っているかのようだった。

 受け止められずに、下を向く。

 きっとクラスメートの全員が僕を見ているだろう。

 動揺と羞恥で僕は声も出ない。

 いや。

 そうでなくたって、答えられなかっただろう。

「たるんでいるようだ」

 ピアソン先生のチョークがこつこつと僕の机を叩いた。

「授業に集中できないようでは、身につく知識も身につかない。課題を出すので明日の夕食までにレポートをまとめること。あとで職員室に来なさい」

「……はい」


 消え入りそうな声の僕に背を向けて、ピアソン先生は黒板の前へと戻ってゆく。

 がっくりと、僕は席につく。

 後ろの席で誰かがくすりと笑う声が聞こえた。

 足を止めて先生が振り返り、咳払いをする。

 重い、張りつめた沈黙が再び教室中を覆った。

 僕の背後の誰かが首をすくめるのがまるで見えるようだ。

 緊張した空気を破って生物教師は講義を再開した。

 終業の鐘が鳴り終えた後も、僕の机にはチョークの白い粉が汚点のように残ったままだった。



     *     *     *



 ピアソン先生から生物学の参考書二冊とレポート用紙を渡されて、僕は職員室を出た。

 先週終わった中間考査の順位が張り出されている掲示板の前に数人の生徒が集まり、何やら話し込んでいる。

 それを見ないように、立ち去る。

 風に吹かれる木の葉のように安定しない自分の順位を、いちいち思いわずらうのをやめようとして、それでもどこか断ち切れずにいる自分が自分でうっとおしかった。


 僕が、僕であるということ。僕でしかないということ。

 一体それをどこに求め、立脚すれば良いのか。


ーーそれがどこかにあるとするのならば……


「おや。カーター君、今日は妖精王に会いにこないのかい?」

 うつむいたまま廊下を歩いていた僕に声をかけたのは、図書館司書のバートン先生だった。

「はい……。その、今日は……」

「ああ、エアリアルの方が先か。どちらもずいぶん人間的だろう? あの時代の人々というのは、今の我々よりもずっと、神や妖精といった存在を身近に感じていたのだろうかね?」

 両手で何冊もの本を抱え、いつものように、教師らしからぬ打ち解けた口調で話しかけてくる先生の顔を見て、けれどまたすぐに僕は目線を落とした。

「それが……課題があって。レポートを、明日までに……」

 バートン先生は僕が持っている分厚い参考書に気づくと、心の底から気の毒そうな目で僕を見た。

「そう……か。それは大変だな。……ああ、でも、ほかの資料が必要になったら図書館においで。一緒に探そう」

 職員室へと入っていく先生を見送り、廊下を歩く。

 さすがの僕でも、これ以上、無味乾燥な生物学の書籍の山と格闘するのはごめんだった。

 それともバートン先生なら、参考書のページに並ぶ難解な専門用語の羅列の中にすら、妖精を見出し、共に戯れることができるのだろうか。

 重く沈んだ気持ちと参考書を抱えて、寄宿舎へと戻った。

 自室のドアの前で、ため息をつく。

 今から夕食の鐘が鳴るまでの間に参考書を読み込んで、食事が終わったらレポートにかかって消灯時間ぎりぎりまで……いや、それでも足りないだろう。

 どう考えても、今日はもう図書館へは行けそうもない。

 そうやって、僕の貴重な時間はこの寄宿舎の狭い部屋の中で窒息して埋葬されてしまうより他はない。

 諦めきった心地でドアを開け、中に入る。

 いつもと何も変わらない、味気ない自分の部屋が僕を迎えるはずだった。

 だが、そこはーー


「え……?」


 夕暮れの陽が照らし出す室内の光景に、僕は目を見張った。


 部屋の奥、窓際に置かれた僕の机の上に、オレンジ色に染まる夕陽の光が射している。

 黄昏の陽のきらめきがまぶしく僕の眼を打った。

 窓からさし込む夕陽の最後の光。

 その輝きの真ん中に、白い影が見える。

 両足を揃え、背中を丸めた一匹の白い猫が、机の上に広げられたままの本をじっとのぞき込んでいる。

「君はーー」

 小さな耳がぴくりと動き、振り返る。

 白い猫の、青い瞳が僕を見る。

 そのままそっと、机の上を照らすまばゆいオレンジの光の中を二、三歩踏み出して椅子へと降り立つと、しなやかな猫の体は袖なしの白い服を来た少年の姿に変わった。

 黄昏の光を受けて、ゆったりと波打ちながら流れ落ちる長い銀髪が背に輝く。

 足を優雅に組んで椅子に腰掛けたその姿は、まるで物語の中から抜け出してきたかのようでーー


「……君は、妖精?」


「妖精?」

 彼の声が、僕の発した言葉を繰り返した。

「……そう見えるのなら、それでもいいけど。でも僕は、ただのウルタールの猫だよ」

 くすりと笑って、猫の少年は答えた。

「ただの、って……。でも……」

 僕は窓際へと歩み寄り、抱えていた参考書とレポート用紙を机の上に置いて窓を確かめた。

 ガラス戸はきちんと閉じられて、鍵もかかっている。

 朝、自室を出る時にもちゃんと戸締まりをしたのだから間違いはない。 

「どうやって……。さっきは、図書館の屋根の上にいたよね?」

 僕の問いに、彼は両手を膝の上で組み、僕の方に身を乗り出して答えた。

「『回廊』が開いていたからさ。つい足を滑らせてしまった」

「……え?」

「屋根からここまで直通だったよ!」

 両手を軽く広げ、猫の少年はおどけて言ってみせた。

「……いったい、どういう……?」

 言われた意味が分からないまま立ち尽くす僕を見て、彼はひとしきり声を上げて笑うと、机の上で広げっぱなしになっていた本をちらりと見やって、言った。



「いつもこんなにあけっぴろげなのかい? ーー君の『回廊』は」



ーーそれも借りていけばいいじゃないか。

ーーはい……。でももう貸し出し制限数が……。

ーーじゃあこちらを貸して上げよう。僕の私物だから冊数は関係ない。

ーーいいんですか? ありがとうございます。

ーーいっそ図書館に住めたら良いのだけれどねえ。ああ、でもそれだと私物の本が読めないなあ……。



 朝、自室を出る間際まで読んでいたその本を手に取る。

 挿絵の中で、空気の精エアリアルがつむじ風を起こしてミラノ公国の簒奪者たちを翻弄している。

 バートン先生が自分の蔵書の中から貸してくれた文庫の『テンペスト』だった。



「僕の、『回廊』……」



 僕の心がまだ、ここにあった。

 窒息することも、埋葬されることもなく、あけっぴろげのままでーー



「君はいったい誰? どこから来たの?」

 文庫本を再び机の上に戻して僕が尋ねると、猫の少年は首を振った。

「ああ……、いや、それより、君には牛乳のお礼を言わなくっちゃ。あれがなかったら僕は……」

「そんな! 助けてもらったのは僕の方なのに! あんな……」

 勢い込んで話しかけたものの、脳裏に浮かんだ光景に、思わず言葉につまる。

 袖なしの白い服を染める真っ赤な血。

 真夜中の図書館の光景がよみがえる。

「だから、大丈夫だって。ほら」

 なのに目の前の少年は再び両手を広げて、事も無げに答えた。

「ご覧の通りさ。君がくれた牛乳のおかげだよ」

「ああ……それは良かったよ。本当に……」

 安堵のため息と共に呟いた僕に、猫の少年は形の良い唇の端を歪めて笑いながら答えた。

「……もっとも、僕は本当は、もう少し新鮮なやつが好みなんだが」

「ぜいたく言わないでくれよ。僕らは毎日あれなんだから」

「そいつは気の毒に!」


 まるで、旧来の親友同士のように、僕たち二人はひとしきり腹を抱えて笑った。


「……僕はランドルフ。ランディでいいよ。君の名前は?」

 僕の問いに、猫の少年は笑い声を途切れさせた。

 口をつぐみ、ふいと目をそらして、不貞腐ふてくされたように横を向く。

「……シルヴィア……」

 ぼそりと、不満げな声が答えた。

「え?」

 顔を横に向けたまま、青い瞳だけがちらりと僕の方を見て、またすぐに視線をそらした。

「まったく、人間ときたら好き勝手なことをしてくれる……。性別を確かめもしないなんて、あんまり適当すぎる。こっちの身にもなってくれよ……」

 机の上に片腕で頬杖をついて、ぶつぶつと不平をこぼしている。

「……でも、似合ってると思うけど」

 遠慮がちに、僕は本心を口にした。

「えっ?」

 そっぽを向いていたシルヴィアが向き直り、僕の方を見る。

「あ、いや、……だって、こんなに銀色で……」

 

ーー銀色で、奇麗なのに。


 そう言おうとして、口ごもる。

 きっと、本当は彼にもーーシルヴィアにもわかっているのだろう。

 彼を名付けた人間が、素直に、そう名付けたかったのだということを。

 ただそれを、真正面から受け止めるのが少しばかり気恥ずかしいだけなのだ。

 

「……じゃあ、君は人間に飼われていたわけ?」

 しかし、あまり踏み込まないように僕は話題をそらした。

「いや、ウルタールの猫はみんな自由だ。……僕に名付けたのは人間だったけれど」

「そこの猫はみんな、君みたいに人間の姿になれるのかい?」

「そんなことはないさ。人に化けるのが得意な奴もいるし、そうでもないのもいる。君たち人間だって、泳ぎが得意な奴とそうでないのとがいるだろう?」

「……ウルタールって、どこの国?」

「その地図には載っていないよ」

 机の上に据え付けられた本棚から地図帳を取り出そうとする僕の手を、シルヴィアの答えが、止めた。

「え……」

 伸ばした手を途中で止めたまま、相手の顔を見る。

 その僕を、真正面から見つめ返して、シルヴィアは答えた。

「スカイ河の彼方、ウルタールのある幻夢境は、君の住むこの世界と地続きではない。この地球上のどこにもない。まあ、猫なら、誰だって毎晩のように簡単に行き来しているけれどね。でも人間は、ごく限られた資質を持つ者だけだ……夜毎(よごと)の夢の中に、幻夢境を垣間みることができるのは。ましてそこへ至る『回廊』を持つ者など、世界の始まりから終わりまでの間にも数えるほどしかいはしない……」


「幻夢境ーー」


 シルヴィアから聞かされたその言葉を、僕は我知らず口にしていた。


「スカイ河の彼方の、ウルタール……」



 初めて耳にしたその響きが神託のように、僕の胸をふるわせた。

 そこからシルヴィアは来たのだという。

 今まで僕が読んできた本の中に隠れ棲んでいた数多あまたの妖精達よりも、もっと、もっと不思議で、想像すらしたこともないような。

 そんな、猫の妖精の住む世界。


 地球上の地図のどこにも載っていない、僕の住むこの世界のどことも地続きでないという、幻夢境からーー



「君のような……君みたいな存在が、生きているーー存在している、そんな世界があるなんてーー」

 ため息と一緒に、つぶやきが僕の唇から漏れた。

「僕に言わせれば、君ほどにあけっぴろげな『回廊』を持つ人間が地球にいることの方が驚きだけれどね。……まあ、そのお陰で困ったことになっているんだが」

「えっ?」

「帰れないんだ」

 両手を頭の後ろで組み、背もたれに体重を預けて座ったまま、シルヴィアは言った。

「帰れないって……その、幻夢境に?」

「たぶん、君の『回廊』に引っかかってしまっているんだ。……そもそも、ゆうべ僕があの図書館に出てきてしまったのがおかしいんだ。そんなつもりじゃなかったんだから。あんな夜更けに、いったい君はあそこで何をしていたんだ?」

 読みかけの本の続きが気になって、こっそり忍び込んで読んでいるうちに眠ってしまったのだと打ち明けると、シルヴィアはまた大笑いしたが、その夢に出てきた『猟犬』の話をすると、ぴたりと笑いを収めた。

「じゃあ、あれも引っかけてしまったってわけか」

「引っかけて……って……」シルヴィアの言葉を、思わず繰り返す。

「あれは幻夢境の生き物じゃない」

 再びシルヴィアは僕の方に身を乗り出して、そう告げた。

「君の『回廊』が混線して、どこからか引っかけてきてしまったんだろう。それがどこなのかは、はっきりとはわからないけれど」

「でも、君が倒してくれたから……」

「あんなものを僕が倒せる訳がないだろう!」

 シルヴィアは僕の言葉に一瞬あっけにとられたが、即座に反論した。

「え……? だって……」

「あれは、僕がちょっとばかり派手に壊したから、こっちの世界で形が保てなくなっただけさ。息の根を止められたわけじゃない。今ごろは、あいつのもといた深淵で、じっくりと傷を癒しているはずさ」

「じゃあ……傷が治れば、また出てくる……?」

『回廊』の床を鋭く切り裂いて、緑青色の『猟犬』が闇から現れる光景がぞくりと僕の背筋を冷やした。

「いや、そう簡単にこちらに出てこられるものではないよ。少なくとも、今のところはそういう気配はないようだった」

「それをさっき調べていたんだね……」

 図書館の屋根の上でしきりと匂いを嗅いでいたシルヴィアの姿を僕は思い出した。

「うん。そうしたら、また君に引っかけられて、こんなところに閉じ込められてしまった」

 机に頬杖をついて、さもつまらなそうにシルヴィアは部屋を見回した。

 その青い目の動きを、僕も追いかける。

 寄宿舎の狭い部屋の中にはベッドと勉強机と最低限の家具しかない。

「僕だって……」その閉塞感にうつむいて、僕は呟いた。

「え?」

「僕だって、今日はもう、ここに閉じ込められたも同然さ」

 沈み切った気分で、僕はシルヴィアに生物の授業中の出来ごとを話した。

 一瞬、シルヴィアは木の上から降ってきた毛虫でも見るような目つきで分厚い参考書を見やったが、すぐに興味を失くしたらしかった。

「じゃあ仕方がない。今夜は僕ひとりで図書館へ行って、通れそうな道筋を探して帰るよ。本当は、君が来てくれた方が簡単なんだけど。でもまあ、僕だけでも多分なんとかなるだろうし……」

「僕も行く」ごく自然に、その言葉が僕の口を突いて出た。

 頬杖をついたまま、シルヴィアは僕の方を見た。

「……ああ、それは、君が一緒に図書館まで来てくれればちゃんと『回廊』は直るだろうから、僕は楽に帰れるはずだけど」

「そうじゃなくて」

 シルヴィアのうす青い瞳を正面から見据えて、僕は言った。



「行ってみたいんだ、僕も。幻夢境へ。だから、僕も一緒に連れて行ってくれないか」



 焦がれるような思いと切実な願いだけが、内側から僕を突き動かしていた。

 何のためらいも、迷いも、そこにはなかった。

……いや。

 ためらいがなかったと言えば、嘘だろう。

 それでも、今ここで望まないとしたら、それこそ僕は僕自身に嘘を()くことになるだろうーー



「……僕は構わないけれど……でも、大丈夫かなあ」

 腕組みをして、しげしげと僕をながめながらシルヴィアは言った。

「幻夢境は、君が思っているような夢の国なんかじゃないよ? 危険なことだっていくらでも……」

「構わないよ、僕は。だって……」

 勢い込んで僕が言いさした、その時。

 窓の外から、学校中に響き渡る鐘の音が聞こえてきた。

 夕食の時間を告げる時計塔の鐘だった。

 その重々しい響きが、自分の心を縛りつけようとするのを僕は振り払った。

「ここで待ってて。食事が済んだらすぐに戻るから」

 まだ何か言いたげなシルヴィアをさえぎって僕はまくしたてた。

「消灯時間が過ぎたら、図書館へ行こう。それから、一緒に幻夢境へ。……その前に、少し仮眠をとった方がいいかな。朝まで帰って来れないかも知れないし。ああ……それと、なんとかして君にもパンと牛乳を持ってくるよ。だからそれまで、部屋で待ってて」

「課題はいいのかい」急ぎ足で部屋を出ようとする僕の背中にシルヴィアが声をかけた。

「そんなの手につかないね」

 振り向きもせずにドアを開け、僕は廊下に出た。

 鐘の音に押し出されるようにして、他の何人かの生徒達も自室から出てきたところだった。

 やみくもに走り出したくなる気持ちを必死で押さえながら、足早に歩く。

 廊下を踏みしめる足がまるで、まだ見ぬ世界へと続く架け橋を渡るかのように軽く浮き上がるのを感じる。

 あこがれは、とめどなくわき返る湧水のように、内側から僕を満たしながらどこまでも押し流そうとしている。

 広がりゆく翼が背に羽ばたいて、時空の果てを越えてその向こう側にまでも僕をいざなう。

 ずっと、忘れていたような……。


ーーそうじゃない。


 忘れていたわけなんかじゃない。

 図書館の本と、バートン先生が貸してくれた本を思い出す。

 そうだ。いつだって、どんな時だって、僕はーー


 食堂へと向かう生徒たちの列に埋もれながらも、僕の意識だけは、はるか遠く、未知の世界をめがけて一心に駆け上がろうとしていた。



     *     *     *



 真昼の光が明るく照りつける丘の上で、僕は持っていた望遠鏡を右目に当てた。

 急激に視界が手元に寄り、引き換えに、視野は著しく狭くなる。

 鬱蒼と茂る木の葉の緑が望遠鏡の丸いレンズを覆い尽くしていて、森の中の様子は全く見えない。

 あきらめて、接眼レンズから目を離す。

 伸縮式の鏡筒を短く収納してポケットにしまう。

 九歳の誕生日に買ってもらったばかりの望遠鏡だった。

 ふっと、ひとつ息を吐いて、今度は自分の目で森を見る。

 どこからか風が吹いて、僕の背中を押した。

 そのまま一気に丘を駆け下りた。


ーー急がなくちゃ。


 一直線に森へと向かう。

 速度を緩めることなく、木々の間へと駆け込んだ。

 下生えを踏み越え、小枝をかき分けて奥へ進む。

 既に日は中天にかかっている。

 日の暮れるまでに、森の奥の洞窟を見つけなければならないのだから。

 あっと言う間に全身が汗まみれになり、息が上がる。

 焦るばかりでちっとも奥へと進んでいないような気がしてならない。

 なのに、疲れは全く感じなかった。


ーーきっといる。

 

 その思いだけが、僕を突き動かしていた。


ーー森の魔法使いと、妖精と。


 でも。


ーーいないかもしれない。


 ふと頭をかすめた思いに、胸が締め付けられ、鼻の奥がつんと痛んだ。

 魔法使いも妖精も、本や伝承の中だけのはかない幻想に過ぎないのじゃないか。

 本当にそんなものが森に棲んでいるなんて、そう思っているのは僕だけじゃないのか。

 心の奥で何かがひきつれて、張り裂けそうになる。

 ずっと抱えていた大事な物が、僕の手をすり抜けて、落として割ってしまいそうな。


 低木の小枝がぴしりと僕の頬を打った。

 でもーー

 それらを振り払い、いっそう足を速めて、僕は薄暗い森の中を進んでゆき……


「あっ!」


 ずるりと足が、湿った落ち葉の堆積をまきこんで滑った。

 体勢を崩し、急な斜面を倒れ込みながら凄い勢いで滑り落ちてゆく。

 つかもうとした草の葉が手の中であっけなくぶつぶつと切れる。

 逆さまの視界の中、木の間がくれにわずかな夕陽の光が宝石のように散る。

 ふわりと一瞬、体が浮く。

 視界が、暗くなる。

 その一瞬をひどく長く感じた後ーー


「うわあっ!」

 悲鳴を上げながら、柔らかい何かの上に体が落ちた。

 周りは暗くて良く見えない。

 手探りで、僕を受け止めたのがベッドのようだとわかった。

 両手をついて、そっと上体を起こす。

 手足を動かしてみても、どこにも怪我はないようだ。

 薄暗がりの中で目が慣れてくる。

 あまり広くはないその空間を見回す。

 洞窟の壁のくぼみにひとつだけ燭台が置かれていて、その上のろうそくの明かりがひっそりと辺りを照らしている。

 天井からは、乾いた草木の束や、動物の皮らしき物がいくつも吊るされている。

 壁際の本棚には、いかにも古めかしい皮の装丁をほどこした分厚い本がぎっしりと並べられている。

 大きめの書き物机に向かって、椅子に座ったままの誰かの黒い背中が見えた。


「ーー来たね」


 椅子から立ち上がり、その人影が僕の方へと歩み寄る。

 ベッドのそばへ来て、かがみ込む。

 ちょうど僕と目の高さが合う。

 なのに何故か、顔立ちがよくわからない。

 黒いつややかな髪と深い夜空を宿した瞳が僕を見つめる。

 古びた紙と、薬草の匂いがした。


ーー森の魔法使い。


 魔女裁判を逃れてきたという、僕の祖先。

 その右肩に、小さく輝く何かが乗っている。


「え……」


 僕の目が、釘付けになる。

 相手の小さな目も、僕を見つめ返してくる。


 蝶を思わせる一対の羽根がレースのように薄く透けて、ほっそりとした撫で肩から左右に広がっている。

 少女のような姿体から小さな素足がすんなりと伸びて、まるで子供が小川のほとりに腰掛けて流れに足を遊ばせるように、ゆらゆらと揺れている。

 ろうそくの光を受けて、淡い銀色の髪が薄暗がりの中で輝く。

 銀の瞳が、じっと僕を見ている。


ーー森の妖精。


「ほんとうにいた……」


「そうとも」

 まるで魅入られたように、妖精から目を離せないでいる僕に、黒い瞳の魔法使いはそう言って、肩の上の妖精と顔を見合わせた。

「ここで私たちは、ずっと待っていたのだよ」

「えっ?」

 再び、魔法使いと妖精が僕を見つめる。



「七年前、君がここにたどり着けなかったあの日から、ずっと」



 妖精が、いる。

 僕の目の前に。

 銀の妖精が微笑み、小さな手を差し伸べる。

 僕の方へ。

 その優しい手が、僕の頬にそっと触れる。



「ああ……」



 ずっと、ずっと求めていた、探し続けていた僕の妖精ーー



「ーーそろそろ時間だ、ランディ」

 シルヴィアに呼び掛けられて、僕はベッドの上で目を覚ました。

 寄宿舎の僕の部屋で、シルヴィアはカーテンを開けて窓の外を見ていた。

「ほら、見なよ。いい月が出ている」

 部屋の明かりは消えていたが、ほのかにさし入ってくる満月の光が、青い夜空を背景に銀髪の少年の姿を浮かび上がらせる。

 その光景が何故か、にじんで見えた。

「……ランディ?」

 振り返ったシルヴィアが、ベッドの上にぼんやりと起き上がった僕を、けげんそうに見つめる。

「泣いてるのか?」

「……え……?」


 問われて、自分の頬に手をやる。

 ひっそりと溢れていた雫が僕の右手を濡らす。

 指先から手のひらへと、透明な涙がこぼれる。

 頬をつたって顎の辺りまで流れている液体の感触がようやく感じられた。

「ランディ……」

「いや、大丈夫。なんでもないよ。ーー行こう」

 手の甲で頬をぬぐってベッドを下りる。

 机の上に出してあった懐中電灯を手に取り、心配そうにのぞき込んでくるシルヴィアの顔を見ないようにしながら僕は部屋の窓を開けた。

「ここから出るんだ。寄宿舎の出入り口は鍵がかかっているから」

 そっと辺りの様子をうかがい、誰にも気づかれる恐れがないのを確かめてから、僕は一階の自室から窓枠を乗り越えて外に出た。

 シルヴィアも、まるで体重などないかのような身軽さで窓を飛び越えたかと思うと、地面に降り立つと同時に白い猫の姿になった。

 庭先に植えられた低い木々の影に隠れるようにしながら、足音を忍ばせて僕たちは図書館へと向かった。

 もっとも、妖精の足が不用意な物音を立てることなどあり得ないのだろうが。


……夢の内容ははっきりと覚えていた。

 だが、それをシルヴィアにすら、話す気にはなれなかった。

 これから夜の図書館の冒険に向かうというのに、どういう訳か、心のどこかが重く塞がれたような気分だった。

 そうやって、僕の心はいつもため息をついて生きているーー

 しんと静まり返った真夜中の中庭を抜ける。

 庭の植え込みと敷石の通路とが、妙に明るい満月に照らされている。

 寄宿舎の前から続く白い敷石は、そこで左右に分かれている。

 右側が図書館、左側は時計塔への道筋だ。 

 右へ曲がり、図書館の正面入り口の扉にたどり着いた。

「どこから入れる?」

 猫のシルヴィアが振り返り、僕に尋ねる。

 答えず、僕は少し錆の浮いたドアノブに手をかけた。

 鍵はかかっていなかった。

「……不用心だなあ」シルヴィアが呆れた声で言う。

「ここ最近は、ずっとこうだよ」扉を開けながら答えたとき、僕はその理由がわかった。


ーーバートン先生。


 初めて夜の図書館に忍び込んだあの日、閉館時間ぎりぎりまでねばって本を読んでいた僕は戸締まりを確かめたバートン先生の後から図書館を出てーー

 そのとき僕はひとつだけ、入り口近くの窓の鍵を開けておいたのだ。

 夜更けに僕は寄宿舎を抜け出し、その窓から図書館へと入り込んだ。

 そうして、本の続きを読んだ。

 次の日も。また次の日も。

 ある時、補講が長引いて、僕は閉館時間までに窓の鍵を開けに行くことが出来なかった。

 それでも諦めきれず、僕はまた真夜中の図書館へ行った。

 いつもの窓は開かなかった。

 その代わり。

 自分の未練がましさにほとんど呆れ返りながら手をかけた正面入り口の扉に、鍵はかかっていなかった。

 それから一度も、図書館に鍵のかかる夜はなかった。

 

ーー先生は、僕が毎晩ここに来ていることに気づいている。

 

 それは、確信だった。

 けれど、そこに後ろめたさはなかった。

 扉を開け、中に入る。

 それでもきっと、僕と先生は、お互い何ごともなかったかのような顔をして、明日また図書館で会うだろう。


ーー明日……だって?


「どうした?」

 入り口で不意に立ち止まった僕を猫のシルヴィアが見上げる。

 こんなに不思議な夜を越えたその向こうに、またいつもどおりの明日があるのだろうか?

 何の変哲もない明日が来ることを、僕は望んでいるのだろうか?


「……いや……行こう」


ーー明日なんて、どうでもいい。


 そんなものはもう、どうだっていい。

 もう、何の価値もない。

 足元をするりと白い猫がすり抜ける。

 猫の妖精と一緒に、僕も図書館へと入ってゆく。

 なにごともない今日を背後に置き去りにして。

 そうやって、さっきまではどこにもなかった明日へと僕は踏み越えてゆく……


 夜の図書館は、ひんやりと静まり返っていた。

 入り口からさし入ってくる月明かりはほんのわずかで、辺りを照らす役には立っていない。

「ランディ……」

 先に入ったシルヴィアも、一、二歩進んだだけで立ち止まってしまっている。

「うん、今、懐中電灯を……」

「いや、そうじゃなくて」

 シルヴィアが、けげんそうな声になる。

「なにか……変だ」

「変……って?」

 懐中電灯をつけ、前方を照らす。

 入ってきてすぐのところにある返却カウンターが丸く浮かび上がる。

「え……」

 カウンターは一面、緑のツタに覆われていた。

「なんだこりゃあ……」あきれたシルヴィアの声が薄暗がりに響く。

 そっけない作りの木製の返却カウンターは、緑色の手を思わせるツタの葉に覆い尽くされ、懐中電灯の明かりを左右に振っても、元の姿はどこにも見出せなかった。

 カウンターの背後の壁と本棚にもツタが這い回り、天井まで緑に染まっている。

 返却カウンターの上には一冊だけハードカバーの分厚い本が置き忘れられていて、そのすぐ隣りにひとつ、白い花のつぼみがあった。

 猫のシルヴィアが身軽にカウンターに飛び乗り、小さな鼻で蕾のにおいを嗅ぐ。

「うん。本物だ」

 僕も懐中電灯でカウンターの上を照らしながら近づいてみる。

 小さな緑の葉に埋もれるようにして分厚い本が置かれていた。

 黒い表紙に色あせた金色の箔押しでタイトルがつけられている。

 植物図鑑のようだった。

「あ……」

 その古びた表紙が、誰の手も触れていないのに、ゆっくりと開こうとしている。

 僕たちの目の前で。

 猫のシルヴィアも目を丸くして、ただじっと見つめている。

 開いた本のページは、真っ白だった。

 四角いページがぼんやりと、ほの白く光を帯びる。

 うなり声を上げながらシルヴィアが毛を逆立てる。

 はらり、はらりと、一枚ずつページがめくれ、やがて徐々に速度を早めてぱらぱらとページを進めていったが、本の半分ほどまできたところでぴたりと止まった。

 僕らの前に開かれた、白いページ。

 見開きいっぱいに、緑の葉に囲まれた白い花の絵と、蝶の羽根を持つ小さな人影の姿が多色刷りで描かれていた。

 白い花の傍らで羽を広げ、五弁の花びらに向けてほっそりとした手を差し伸べている。

「これはーー」目を見張る。

 僕にはそれが、解った。


ーー花の妖精。


 その小さな顔が、僕たちの方を見た。

 本の中から。

「えっ……?」

 ページの上から微笑みかける。

 厚みを持たないはずの挿絵の妖精が、白い蝶の羽根を広げ、まるで小さなあやつり人形が糸にられて起き上がるように、するりと紙の中から現れた。

 だがそれは、意志を持たない人形などでは決して、なかった。 

 白い紙片の上で、ふわりと妖精が舞い上がる。

 ページの上に白い花の絵を残したまま。

 モンシロチョウのような羽根を羽ばたかせ、図鑑の隣りで眠る蕾のそばにそっと降り立つ。

 折れそうなほど小さな手で、蕾に触れる。

 ふっと優しく、息を吹きかける。


「ああ……」


 固く閉じていた蕾がゆっくりと、ほころび始める。

 一枚一枚の花弁が少しずつゆるみ、開花してゆく。

 緑のツタの葉の上に、真っ白な五弁の花びらが大きく広がる。

 夜の図書館に、すがしい純白の花が咲いた。

 ほほえみを浮かべて花の精は僕たちを見上げる。

 夜の中に花の香がほのかに薫りたつ。

 再び、妖精は羽根を広げて舞い上がり、貸し出しカウンターの上から本棚の並ぶ方へ向かってひらひらと飛んでいった。


「待って……」

「ランディ!」

 妖精を追いかけて図書館の奥へと向かう僕を、シルヴィアが呼び止めようとする。

「待てよ! 何がいるかわからないんだぞ!」

 構わず、僕はカウンターの前を通り過ぎて妖精の後を追う。

 本棚と本棚の間へと妖精が姿を消すのを追いかける。

 猫の姿のまま、シルヴィアも僕を追って来る。

 二人ほぼ同時に角を曲がる。

 本棚のすぐ前で、妖精は羽根を広げて浮かんでいた。

 白い妖精はふわりと天井近くまで舞い上がると、本棚の中から自分の背丈よりも大きい本を引っ張り出し始めた。

「何をーー」

 小さな妖精がうんと力を込め、ようやく引き抜かれた本は、か弱い腕では支えきれずに裏表紙と表紙を大きくばさりと広げながら本棚から落下した。

 真っ白い紙の間から、若草色の何かが舞い散る。

「あっ!」

 落ちてゆく本が、ページの一枚一枚を全て木の葉へと変えてゆきながら、ひらひらと散り落ちてゆく。

 ひるがえる若葉は床に落ちるよりも早く、再び姿を変えた。


「ああ……!」


 白い肌と緑の髪を持つ小さな妖精たちには羽根がなかったが、ひらりと身軽に床に降り立つと、まるで幼子のようにはしゃぎながら、飛び去っていた妖精のあとを追って駆け出した。

 その小さな足跡からは若々しい緑の葉をつけた木の芽が育ち、あるいは森に咲く可憐な草花が次々と芽吹いていった。

「うひゃあっ……」たちまち自分の頭を越えて伸びてゆく草木にシルヴィアが悲鳴をあげ、人間の姿に変わった。

 本棚も、木に人の手を加えて作られた形を忘れてしまったかのように、いつの間にか太い幹に、棚板は木の枝へと変わり、まるで森の樹々が、本に書かれた無数の物語を腕に抱えて守っているかのようだった。

「これって……」妖精達の後について、僕たちは本棚と本棚の間を出た。

 懐中電灯で辺りを照らす。


 虚空を羽ばたいて飛ぶ妖精が、明かりの中に浮かんだ。


ーーおいで。


 窓の方へ向けて、小さな手を差し伸べる。


ーーほら、ごらん。


 さあっと室内に風が吹き過ぎ、閉ざされていたカーテンが次々と煽られるように開いた。

 青白い月明かりが窓から斜めに差し込んでくる。

 澄明な光がそこかしこでスポットライトのように図書館の中を照らし出す。

「あ……」

 窓から射し入る月の光に切り取られた中に浮かび上がる。

 僕も、シルヴィアも、目の前の光景に言葉を失い、立ち尽くす。


ーーこれを、あなたは探していたのでしょう?

ーーずっと、ずっと。


 いつしか図書館の壁は彼方へと遠ざかり、机も椅子も、だんだんと、森の木々や夜露に濡れた下草に埋め尽くされていった。

 ひっそりと咲く黄色いオオマツヨイグサの傍らで、うすい羽根を広げた妖精がふわりと佇んでいる。

 僕の手のひらほどの小さな乙女が何人も、薄衣うすぎぬをまとい、花冠をつけて戯れるようにホタルの光を追っている。

 緑なす豊かな髪のドライアドが小枝の上を素足で歩きながら、葉擦れのような声で森の奥に呼びかける。

 仲間の声に、木霊こだまがまさしくエコーを返す。

 それを聞きつけたのか、木の葉の隙間から小さな顔が覗いたかと思うと、透き通った姿の風精(シルフィード)がさらさらとそよ風を呼んで吹き抜ける。

 つむじ風と共にエアリアルが天高く舞い上がって森の樹々を揺らし、僕とシルヴィアの髪をかき乱した。

 光り輝くウィルオーウィスプがゆるゆると虚空をただよい、辺りを照らし出す。

 ぎっしりと天井まで本を詰め込まれていたはずの本棚は、幾重にも年輪を重ねた大木が魂を宿した樹霊エントに姿を変え、ざらざらとした木の肌は思慮深さをしわに刻んだ古老の面持ちで優しく僕らを見つめる。

 けれど、きっとその大きなうろの中には、図書館に蓄えられていた全ての本と物語とが(いだ)かれている……。

 そうして、本の中で語られたすべての物語が置き換えられてゆく。


ーー妖精に。


 目の前にこうして、繰り広げられる。

 ひこばえが一本、やわらかそうな若葉をつけて、月明かりに向かって切り株の上から伸びてゆこうとしている。

 その周りに生い茂る草の影の中にも、葉に隠れるようにして小さな姿の妖精達が玉虫やてんとう虫と戯れている。

 夜気の中で咲く花に、見事に美しい羽根のアゲハチョウがとまっていると思わせて、それもまた、妖精の姿に他ならなかった。

「ランディ」

 繰り広げられる光景に溺れるように見入っている僕の袖を、シルヴィアがそっと引いて言った。

「水の音がする」

「……どっち?」

 シルヴィアに導かれて、そこかしこで妖精たちがざわめく森の中を進んでゆく。

 さほど歩くこともなく、小川にたどり着いた。

「わあ……」

 どちらからともなく、声が漏れる。

 透き通る小さな川の中で、何冊もの本が水の流れにページをめくられながら沈んでいた。

 さわさわと流れるページの中から、ひとり、またひとりと妖精が生み出されてゆく。

 水精ナイアドが水べりに戯れ、金の櫛で長くつややかな髪をくしけずる。

 互いにたわいもないおとぎ話を語り、あるいは叙事詩めいた歌を澄んだ声に乗せて歌う。

 そうして、まるで本に記された物語が小川となって僕の中に流れ込んでくるかのようだった。

「そうだね。君へと流れ込んでゆく……」シルヴィアが、まるで僕の考えを読み取ったかのようにつぶやく。

 だが、僕もシルヴィアも全くそれを疑問に思わなかったーー

「けれど、君からも流れ出てゆく。ここは君の『回廊』なんだ」

「僕の、『回廊』……?」

 川べりの光景を見つめながらつぶやく僕に、シルヴィアがくすりと笑った。

「なんだ、本当に無自覚なんだな。しかし、この森の中から幻夢境へ通じる『回廊』を見つけ出すのは、ちょっと大変そうだなあ……」

「……もしかして、僕が来たせいで余計にややこしいことになったんじゃ……?」

「それはわからないけれど……いや、待てよ? 流れ込んでゆくその先にある、ということもあり得るか……?」

 シルヴィアは少し考え込んでいたが、また猫の姿に戻ると、小川の流れてゆく先の方のにおいを嗅いだ。

「……うん、なんとなく、懐かしいにおいのような……」

「わかるのかい?」

 猫のまま、小川にそって歩いてゆくシルヴィアの後を僕もついてゆく。

 川べりの草むらをかき分けて二人で歩いてゆく。

 時折、木の影や草むらの中から淡い光を宿した妖精がホタルのように、ふわりと舞い上がる。

 水面みなもに映るその輝きに、川の中から水精ナイアドがすき通る手を差し伸べる。

 樹々の枝葉の隙間から漏れる月明かりが、かすかに行く先を照らす。

 確かにこれは、あの日、九歳の僕が見たいと願った光景だった。

 だとしたら、この先にあるのはーー

「間違いない。こっちだ」鼻をひくつかせていたシルヴィアが足を早める。

 白い猫の後を、僕も追う。

 期待と不安にどきどきと脈打つ心を抱えて。

 

ーーあるのか。この先に。

ーーシェイクスピアでさえも、この世界の誰ひとりとして想像すらしたこともない、見果てぬ彼方の夢の世界が……。


 急激に川幅が広がって、小川の流れがゆるやかになる。

 流れの先、樹々が途切れて開けた場所があるのが見えた。

 押さえきれなくなった期待に、二人で駆け出す。

「わあ……」

 木立が開けて、小さな草地が広がっている。

 ごく背の低い草が夜風にゆれて、やわらかな若葉の色に周囲を染めている。

 その真ん中に、澄み切った水をたたえた泉があった。

 鏡のように静まり返った水面みなもに、丸く輝く満月が照り映えている。

 ぽっかりと、その泉の周りだけは木立が途切れていて、木の葉にさえぎられることもなくなった満月の光と星明かりとが、草萌ゆる広場を照らし出す。

 はっと、そこで僕たちは足を止めた。

 息を呑んで、見守る。

 草地の上には何人もの妖精たちがいた。

 蝶の羽根の妖精、かげろうのような薄い羽根の妖精に、羽根を持たない妖精らが、小石の上に腰掛けたり、地面の上で頬杖をついて寝転んでいたり、仲間の妖精たちとじゃれ合ったりしている。

 そうやって、思い思いに過ごしながらも、時折なにかを待ってでもいるかのように夜空を見上げている。

 つられて僕らも上を見る。

 そして妖精の一人が天を指し、声を上げた。

 はるかな天空から森の中の広場へ向けて、斜めに射し入ってくる静かな光。

 その上を、小さな人影が転がるように下りてくるのが見えた。

 輝く光の道筋を、まるですべり台を滑ってくる幼児のように、金の巻き毛の小さな妖精たちが下りてくる。

 互いにはしゃぎ、戯れ合いながら、星の妖精たちが降ってくる。

 ころころと草地に降り立った星の子らは、夜空にむけて手を伸ばす。

 小さな手をしきりに振って、上空に向かって手招きする。

 そのはるか先、ひときわ大きく丸く輝く満月の光の中から。

 白い輝きを放つオーロラのように透ける薄衣の裳裾をゆらめかせながら降りてくる。

 月明かりを宿す長い髪が夜風になびく。

 星の精と地上の妖精たちが一緒になってはしゃぎ出す。

 歓迎する喜びを全身で表す小さな妖精たちに、月光の精が優しく微笑みかける。

 地上に降りた月と星の精たちの周りに妖精たちが集まってくる。

 花の精も、風の精も、草木や水の精も、夜空から降りた天体の光の精たちも、ひとつの輪になる。

 小さな手が、花びらのように開く。

 淡く輝く髪が、透きとおる薄い羽根が、風の中で揺れる。

 そうしてすべての妖精たちが、月明かりの照らす泉のそばの草地で、輪になって踊り始めた。

 白く透ける素足がやわらかな草地を踏んで、軽やかなステップで踊る。

 ほっそりと淡い指先の手が、宙に伸ばされる。

 差し伸べた桜貝のような美しい爪の先に、オオムラサキの羽根を持つ妖精がひらりと止まる。

 月光の精の、かすかな金色に輝く髪がゆれて振りまいた光が金の円環を描き、地に落ちる。

 そこからぽつぽつと、白い傘のキノコが、土の中から顔をのぞかせる。

 

ーー妖精の輪。


 言葉もなく、ただ見つめるだけの僕とシルヴィアの前で幻想の宴が繰り広げられている。

 見上げれば、そこは降るような満天の星空と。

 金貨のように輝く満月が森を照らす。


 そうだ。

 ずっと、ここにいたのだ。

 やっと見つけた。

 僕の妖精ーー



 不意に、暗い夜空を裂いて流れ星が飛んだ。

 立て続けにふたつ、みっつ、四つと、鋭い輝きが流星雨のように夜闇の中に走る。

 そのうちの二本が、ちょうど僕らの真上で交差した。

 光る軌跡が夜空に大きなV字を描く。

 だが、その輝きが、いつまでも消えない。

 光跡にふち取られ、くっきりと黒い鋭角が現れた。

「えっ……?」

 V字の内側から、青緑色の光がぼんやりとにじみ出す。

「まさか……」シルヴィアの瞳が見開かれ、息を呑む。

 僕の手を取り、森の中へ後ずさろうとする。

 だけど僕の目はまるで魅入られてしまったかのように、緑青色のあやしい輝きを放ち始めた鋭角に釘付けにされてしまっていた。

 ふたつの流星が切り欠いた角度が夜空に浮かび上がる。

 不気味に響くうなり声がかすかに、やがてだんだんはっきりと地上の僕らに届き始めている。

 青緑の光が急激に輝きを増す。

 そのV字の中から、ぎらつく尾を引く彗星のように、緑青をふいたあの『猟犬』が妖精の森をめがけて飛び出してきた。



「逃げろ!」



 一瞬にして、妖精たちの姿がすべて、ろうそくの炎のようにゆらめいて消えた。

 シルヴィアが強引に僕の手を引っぱって駆け出す。

 引きずられるようにして広場を離れ、小川にそって走る。

 全天の星と、月までもが光を失い、ただ真っ黒な夜空と不気味な角度だけが残る。

 あれほど美しかった幻想の光景が、瞬時に色と、形と、動きを失い、死の森へと変わる。

 泉も、草地も、森の樹々も、目の前の全てが闇に沈む。

 まだ右手に持っていた懐中電灯の明かりを反射的につける。

「だめだ!」

 即座にシルヴィアの厳しい声が飛ぶ。

「消すんだ! 奴に見つかる!」

「でも……」

「いいから!」

 スイッチを切り、暗がりに僕らは取り残される。

「こっちだ!」

 夜目の利くシルヴィアに手を引かれ、川沿いを離れて森の樹々の中へと駆け込む。

 下草をかき分け、小枝を払いのけながら木立の奥へと進む。

 息を乱し、足がもつれそうになりながらも闇の中を必死で走る。

 だが、その闇が、背後の方で不気味な青緑の光を受けている。

 耳障りな咆哮が背後から響いて僕の心臓を鷲掴みにしようとするのから、懸命に逃れようとする。

 足音と荒い息づかいと緑青色の光とが確実に迫っている。

 追ってくる。

「くそっ」シルヴィアの唇から悪態が漏れる。

 焦燥を抱えたまま、逃げる。

 だが、どこへ?

 どこまで逃げればあの『猟犬』から逃れることが出来るのか?

 真っ暗な森はどこまでもどこまでも続いている。

 その闇の中。

 左の視界をちらりと何かがかすめた。

 森の奥、木立の向こうに闇を区切ったように四角い扉があった。


ーーあれは……。


 図書館の扉。

 両開きの、古びてつややかな手触りの木のドアに、少しだけ錆の浮いたドアノブがついている。

 僕の記憶にある、そのままの姿が、森の中に忽然と現れていた。

 でも、きっとそれは、僕の中にいつもあったのだーー


「シルヴィア!」

 僕の手を取って先を走る少年の手をひっぱり返し、足を止める。

「えっ?」

 闇の中でもかすかに光る銀の髪に縁取られた顔が、ちらりと僕を振り返り、立ち止まる。

 僕はもう一度懐中電灯の明かりをつけた。

「何をーー」

 顔色を変えるシルヴィアに僕は答えず、代わりに扉の方を指差した。

 シルヴィアのうす青い瞳が暗がりの中でまるく見開かれる。

 黙ったまま、その瞳に向かってひとつ頷いて、僕はつけっぱなしの懐中電灯を図書館の扉とは反対側へと向けて思いきりほうった。

 宙を舞った黄色い光が、がさりと音を立てて草むらに落ち、その場に取り残される。

 緑青色の『猟犬』が吠えかかりながらそちらへ向かう足音が聞こえた。

 しかし、それを振り返ることなく、再び僕たちは走った。

 この『回廊』の外につながる扉をめがけて。

 今度は僕がシルヴィアの前に出て、彼の手を引く格好になる。

 いくらも走ることなく扉の前にたどり着いた。

 ドアノブに手を伸ばし、扉を押し開けようとする。


ーーだけど……。


 瞬間、僕の中の何かが、その動作をためらった。

 


ーー図書館の外の、日常。



 この扉を開ければ、僕はまた、そこへと帰ってゆく。

 時計塔の鐘に従って寄宿舎と校舎とを行き来する。

 ただそれだけの日々の中に。

 豊かで美しい、心ふるわせる妖精の世界を置き去りにしてーー

 

 けれどそんな躊躇ためらいをかえり見る間も与えられずに、僕の腕はただの機械じかけのように図書館の扉を押し開けていた。


 冷たい外気が僕らの頬に触れ、外の景色が目の前に広がった。

 しんと静まりかえった図書館前の中庭は、明るい満月の光に照らされていた。

 白い敷石の通路と植え込みの樹々と。

 僕たちが来た時と同じ、真夜中の光景。

 

ーーいや。

 ただひとつ、違っていたもの。


「え……?」


 鋭くとがった黒い影が、敷石の通路にそって、長々と月明かりの中に伸びている。

 僕の目の前に。

 その影が、引き延ばされる。

 驚くほどの早さで、なおも伸びてゆく。

 僕の方へ。

 得体の知れない悪意を秘めた生き物のように。

 その素早さと鋭さに見覚えがあった。

 つめたい鋭角の影が、打ち出された攻城弩バリスタの速さで飛んでくる。

 吸い込まれてゆく。

 僕の胸の真ん中へ。

 細長く槍のように伸びた影の内側がぼんやりと青緑に輝いた。

 鋭角の中に、いるのが見える。

 僕の目が、それを見ている。

 はっきりと。



ーー緑青色の『猟犬』。



 ああ、やはり、という思いが、ちらりと頭のどこかをかすめた。

 青黒く燃える『猟犬』の瞳に睨まれた蛙のように、僕はもう、その場から動くことすら出来ないーー


 そのまま狙いはあやまたず。


「ランディ!?」


 長くするどいV字の闇が、僕の心臓を貫通した。



 それは、時計塔のとがり屋根の影だった。

 


「ランディ!」

 再び、シルヴィアの悲鳴が月夜の静寂の中に響き渡った。

 騎士の馬上槍が駆け抜けざまに相手を突き刺すように、胸の真ん中をあっけなく刺し貫かれた僕は図書館の入り口から五、六歩ほど出たところで棒立ちのまま、くし刺しにされていた。

 図書館の扉が僕の後ろで重たい音を立てて閉じた。

 僕たちの背後で、『回廊』への扉は閉ざされた。

 そうして、虫ピンで刺された昆虫標本のように、僕はこの情け容赦のない現実の世界に縫い留められてしまっていた。

 実際、僕の体は死んだ蝶か甲虫のように硬くこわばっていて、不格好な姿勢のまま、その場に横倒しになった。

 手も足も、目線すらも全く動かすことも出来ない。

「ランディ、しっかり……」

 シルヴィアが駆け寄り、僕の肩にふるえる手をかけた。

 だが、まるで本物の槍のように、胸を貫通して背中まで長々と突き抜けた影の穂先がつっかえて、助け起こすことも出来ない。

「なんで……どうしてこんな……」

 地面に倒れ込んだまま、僕は指先ひとつ動かすことも、うめき声を上げることすらもできない。

 ただそうして、静かに転がったまま。



……けれど僕の内側では、緑青色の嵐が荒れ狂っていた。



 時計塔のV字の影に潜んでいた『猟犬』は、この世に二つとない絶好の標的にかぶりついた喜びに雄叫びを上げながら、鋭角の内側から僕の『回廊』へと荒々しく躍り込んできた。

 けがれた燐光をそこらじゅうに振りまきながら駆け抜け、禍々しい牙をむき出しにして、僕の中で息づく物語を喰い荒らす。

 豊かに生い茂っていた草も花々も無惨に踏みにじられ、みるみるうちにしおれて、赤茶色に醜く枯れて朽ち果ててゆく。

 森の木々も大きく裂けた顎に次々と食いつかれ、無数に茂らせていた枝と葉をばたばたと驟雨しゅううのように降らせながら枯れ果ててゆき、やがて太い幹ごと横倒しになる。

 その枝葉の降りそそぐ只中で、『猟犬』が咆哮を上げる。

 遠吠えのように響くその声が森全体を震わせたかと思うと、『猟犬』の放つ青緑の燐光が火の粉のように風に乗って飛び散り、そこかしこで樹々の葉がいっせいに燃え上がり始めた。

 倒れ伏した無数の大木と、辛うじてまだ葉をつけたまま立っていた樹々とが、異様な緑青色の火炎に包まれ、みるみるうちに焼け焦げてゆく。

 燃え尽きた大樹は、まるで乾き切ったミイラのように軽く欠片を散らばせながら、次々と崩れ去ってゆく。

 あれほどまでに美しかった森の『回廊』が、あっけなく死に絶えてゆく。

 繊細な羽根をひらめかせていた妖精たちの姿も、もうどこにもない。

 そうして幻想の森を無惨な死に追いやっただけではまだ飽き足らず、『猟犬』は小川の流れを見つけると、また雄叫びを上げて飛び込んだ。

 緑青色の骸骨のような不格好な足が、激しい水しぶきを撒き上げる。

 まるで真っ赤に灼けた焼きごてを突っ込まれたかのように、小川はもうもうと湯気を沸き立たせて、清らかな川の水はあっけなく蒸発した。

 瞬時に干上がった小川の底はひび割れ、広げられていた無数の物語のページも、まるで何百年も経った本のように全てぼろぼろに朽ちて、駆け抜ける『猟犬』が巻き起こす疾風に吹き散らされてゆく。


 妖精の森がーー僕の『回廊』が、耳を覆いたくなるような断末魔の悲鳴を僕の中で反響させながら、無惨に滅び去ってゆく。

 いや、叫んでいるのは、僕だった。


ーーこわさないでくれ。


 不気味な青緑の炎に包まれて燃え上がり、灼かれて崩れ落ち、『猟犬』が踏みつぶし破壊するそれは、物心つく頃から今に至るまでずっと抱え込み、僕自身の最も奥深いところで僕につながっていた『回廊』だったのだ。


ーーやめて。たすけて。


 けれどもその外側にある僕の身体は、叫びたくて、叫びたくて、でも声を上げることすらできなかった。

『回廊』を燃やし尽くす劫火が、僕の胸の内側を激しく焼き焦がした。

 胸の中で燃え盛り、むせ返るほどに充満する熱気を吐き出したいのに、息をつくことすらできない。

 しかしそれは、ほんの一瞬の出来事だったに違いない。

「ランディ……ランディ……」

 なぜなら、今にも泣き出しそうな顔のシルヴィアの青い瞳からまだ涙がこぼれ落ちてすらいなかったのだから。

「ランディ!」

 その顔がかすんで、見えなくなる。


 そうして何もかもすべてが青緑の炎の中に燃え尽きてゆく。

 瓦礫のように崩れ落ち、消え去ってゆく。

 からっぽの虚無の中に。

 ずっとずっと、僕の胸の中に抱えてきた、無数の物語の世界がーー


 やがて、豊かな妖精の森がすべて焼き尽され、引きはがされたその下から、むき出しの『回廊』が現れた。

 つややかな琥珀色に古びた『回廊』は、壁の所々にランプがかけられて、揺れる明かりが真っ直ぐな廊下を照らし出している。

 死を撒き散らしながら駆け抜けた『猟犬』が、とうとう『回廊』の一番奥にまでたどり着いた。


 その行き止まりの最奥で。

 一人の男の子が泣いていた。

 とめどなく流れる涙で両の頬を濡らしながら。

 片手にはしっかりと望遠鏡を握りしめている。


ーー九歳の、僕。


 緑青色の『猟犬』はようやく、ずっと探していたものを見つけた。

 物語の世界を幾重いくえにもまとって覆い隠されていた深奥で。

 異様に長く伸びた細い舌が口元から垂れている。

 裂けるように大口が開き、ずらりと並んだ牙がのぞく。

 ごつごつした足が廊下を蹴り、ついに追い込んだ獲物をめがけて雄叫びを上げて飛びかかるーー

 

ーーやめろ。


 ようやっと、こわばったままの僕の唇がふるえながら声を発した。


「来ないで」

 九歳の僕も、声を上げた。

 やめろ。

「出て行け!」

 十六歳と、九歳の僕が、同時に叫んだ。



ーー出て行け!



 地鳴りのような轟きが突如、響いてきて、『回廊』の床を震わせた。

 急激に振動が強まって、壁のランプが激しく揺れ、次々と床に落ちて割れた。

『猟犬』がびくりと動きを止め、辺りを見回す。

 その足元の床が突如、裂ける。

 同時に『回廊』の行き止まりの壁も、巨人の手が握りつぶしたかのような音を立てて大きくひび割れ、そこから膨大な量の水が洪水のように流れ込んできた。

 固く閉ざされて行き止まりになっていた『回廊』の、その向こう側がまだあったのだ。

 この長い長い『回廊』の外側の、さらに果てなく広がる「どこか」から、大量の水がすさまじい勢いでそそぎ込まれ、僕の内側と外側とを裏返すほどの勢いで激流となって押し流す。

 子供の頃に本で読み、そのまま忘れていた幻想と、まだ見ぬ彼方の幻想とが混じり合い、色彩の逆巻く渦となって流れ込む。

 無意識と、さらにその下にある未知の物語とが重なり合って、溶けてゆく。

 だがそれも、だんだんと青く透明にすき通ってゆく。

 決壊し溢れ出す急流の中に、大人の身体よりもはるかに大きい図体の『猟犬』が飲み込まれる。

 あっという間に青緑の骸骨のような姿が流されて見えなくなった。

 九歳の僕の小さな身体も、もみくちゃになって流れてゆく。

 それでも必死にもがき、溺れそうになりながらも、水上へと手を伸ばそうとする。

 かろうじて片手が水面に出る。

 その手を、誰かの白い手が掴んだ。

 引き上げられ、顔が水面に出る。

 九歳の僕の目にその姿が映る。

 黒い髪と黒い瞳の少年。

 十六歳の僕と同じくらいの年だろうか。

 東洋人らしい面差しの割にやや大きめの瞳と、白くなめらかな頬が少女めいて見えた。

 片腕で、懸命に岸へと引き上げようとする。


ーーだが、岸とはいったいどこだ?


 疑問がかすめた途端、彼は足場を失って九歳の僕もろとも急流の中へと落ちた。

 うす青く透き通る流れの中に二人で投げ出される。

 目を閉じて意識を失った九歳の僕を、だが少年は水中でしっかりと抱きかかえた。

 細めの腕が、全く重さを感じないかのように軽く僕を抱え、水上を目指そうとする。

 片手で水をかきながら、まるで空気のように容易たやすく水を呼吸し、浮上してゆく。

 その目の前に、白い何かが流れてくる。

 

ーー猫だ。


 気を失ったまま流されてゆく白い猫の体を、少年は反対の手を伸ばして捕まえ、九歳の僕と一緒に両腕で抱えた。

 ふっ、と水の中でひとつ息を吐いて、黒髪の少年は水底の方へと目をやった。

 深い青に染まった膨大な水のはるか底の方に、押し流されて瓦礫となった『回廊』の残骸や焼け焦げた森の樹々が海底遺跡のように黒々と積み重なっていた。

 少年の黒い瞳は静かにそれらを見つめていたが、再び頭上に目を向けると、九歳の僕とシルヴィアを抱えたまま、魚のように両脚で水を蹴って水上に向かって泳ぎ始めた。


 

ーーだけど、それをこうして見ている僕はいったい誰で、どこにいるのだろう?

 


     *     *     * 



ーーかすかに、遠くで猫の鳴き声が、奇妙にひずんで耳に届いた。



 横向きになった視界の中に、その姿があった。

 壁際に置かれた大きめの勉強机の前で椅子に座り、僕になかば背を向けたまま、頬づえをついて窓の外を眺めている。

 少年の白い横顔を、満月の明かりが静かに照らしている。

「シルヴィア……?」ベッドに横たわった身を起こして、呼びかけた。

 頬づえをついたまま、やや大きめの黒い瞳がこちらを見た。


「あ……」


ーー違う。


 だが、少年は僕の呼びかけを否定も肯定もせずに振り返り、真正面から僕を見た。

 シルヴィアよりもずっと短く真っ直ぐな黒髪は、うなじのところでふっつりと切り揃えられている。

 黒い詰め襟の学生服を身に着けたその姿は、シルヴィアとはまるで似つかない。


ーーそれなのに……。


 なぜ僕は、彼を「シルヴィア」と呼んでしまったのだろう?

 その少年の身体が、姿を変える。 

 背もたれに片手を添えて立ち上がったかと見えた少年の体が、月明かりの中に吸い込まれるように小さくなり、椅子の座面の上で丸い固まりに変わる。

 黒くつややかな毛並みに身体が包まれる。

 とがった耳がふたつ、小さな頭の上でぴんと立つ。

 長い尾が、座面から下へするりと伸びる。

 黒猫のしなやかな四つ脚が胴体を支えて立ち上がり、ひらりと椅子から降りて、毛足の長い絨毯の敷かれた床の上をゆったりと歩く。

 部屋の中は寄宿舎の僕の自室とは比べ物にならないほど広く、繊細な模様の壁紙が一面に貼られ、テーブルセットや作り付けのクローゼットが立派に備えられていて、壁際には天体望遠鏡までが飾られている。

 ベッドのそばまで来ると一瞬、体を縮こめてからひょいと飛び上がり、ベッドの上の僕の隣りへやってきた。

 黒ビロードの毛並みが僕の傍らに寄り添う。

「君は……」

「シルヴィアと呼んでくれていいよ」黒猫の小さな口が開いて、答えた。

「え……?」

「だって、せっかく君が名付けてくれたのだから」

「でも……」

「君の大切な人の名前なんだね」

 猫が僕を見上げ、黒く輝く瞳でのぞき込む。

「そう……、そうだ、シルヴィアは?!」

 慌てて僕は部屋の中を見回した。

「そこにいるよ」

 黒猫のシルヴィアがベッドの足元の方を見やる。

 壁際に置かれたベッドの隅っこに、身を丸めたまま目を閉じた白い猫がいた。

「彼なら大丈夫だよ。でも、もう少し寝かせておいてあげよう」

 そう言って、黒いシルヴィアはベッドの端に座り直した僕の膝の上に乗り、丸くなった。

 ベッドに腰掛けた僕の足は床に届かず、ぶらりと浮いた。

「……その、君が助けてくれたんだね。ありがとう。もし、あそこに君がいてくれなかったら、僕たちは……」

「あの時、なにが起こったのか、わかるかい?」再び僕を見上げて、黒猫が問いかけた。

「……いや……」

「『回廊』が裏返ったんだよ」

 黒い瞳で見上げたまま、生徒に説き聞かせるようにゆっくりと黒猫は説明を始めた。

「ある種のカエルは毒虫や異物を飲み込んでしまった時に、自分の口から胃袋を裏返しに吐き出して、異物を出そうとする。それと同じことだよ。『回廊』の一番奥にまで『猟犬』に入り込まれてしまった君はそれを吐き出そうとして、『回廊』の中を幻想で押し流しながら内と外とをひっくり返したんだ」



ーーやめろ。

ーー出て行け。



「あ……」

 あの時、叫んだ自分の幼い声が、頭の中で再び響いた。


「『回廊』が裏返るなんて、僕も初めてだったから、見に行ったんだ。そうしたら君が流されていて。助けようとしたんだけど、つい足を滑らせて」


ーーだが岸とは一体どこだ?


「それは……」

 僕のせいだ。

 だが黒いシルヴィアは気付かず、話を続けた。

「結局、僕も一緒に君の『回廊』に落ちて、閉じ込められてしまったんだ。……だから、申し訳ないんだけれど僕は君を、その白猫くんも含めて、助けられたわけじゃないんだ。おまけに、いくつか問題が発生してね……」

「問題って?」言いよどむ黒いシルヴィアに、問いかける。

「うん。……君は、いま何歳?」黒いシルヴィアは、ふと僕から目をそらした。

「僕? 僕は十六歳だけど……?」

「そうか……」

 僕の答えを聞いて、黒い猫は小さな口からふっと溜息をもらした。

「十六歳の誕生祝いに、僕は天体望遠鏡を買ってもらったんだけど……」

 黒曜石の瞳が壁際の白い鏡筒を見つめ、光っている。

 不意に、僕は自分のズボンのポケットの中に重さを感じた。

「あ……」

 ちらりと、黒いシルヴィアは僕の方を見た。

「君も、望遠鏡を持っているよね。それを買ってもらったのは、いつ?」

 おそるおそる、ポケットに手を差し入れて、それを取り出す。

 伸縮式の鏡筒を持つ、小さな望遠鏡。

 九歳の誕生日に買ってもらって。

 大切にズボンのポケットに入れて、僕はあの日、森へ行った。

 けれど帰り道で、僕はその望遠鏡を落として、壊してしまった。

 なのにーー


 その望遠鏡が、僕の手の中にあった。

 傷ひとつなく、古びてもいない。


 その望遠鏡を持っている、僕の手。

 指が短く、手のひらは小さく柔らかい。

 自分の着ている服を見る。

 学校の制服ではない。

 森の黒土にまみれ、枝葉にこすれて汚れ切った、子供の服。

 ベッドに腰掛けた僕の爪先はぶらりと、床に届かずに……。


「僕はーー」


 これが、いまの僕……?


「……ランディ……?」

 ベッドの隅で丸くなっていたシルヴィアが身じろぎし、目を開いた。

 うす青い瞳が僕に焦点を結ぼうとしている。

 その目が僕を見るのを、僕は恐れた。

「シルヴィア……」

 とっくに声変わりを終えていたはずなのに、僕の喉からはまるで子供のように高い声が、か細く響いた。

 無事にシルヴィアが意識を取り戻した安堵も、僕の怯えと恐れとをはらうことは出来なかった。

 白い猫の目が二、三度まばたきして、まるく大きく見開かれる。

 ぎくりと身を震わせ、ベッドの上に四本の足で立ち上がる。

「ランディ……? 君は、どうしてこんな……」

「シルヴィア、僕は……」

 震える手を握りしめる。

 その手の中に、望遠鏡があった。

 あの日、失われたはずの。



ーー九歳の僕が、今の僕だった。



     *     *     *



「ランディ……」

 シルヴィアの青い瞳が、はっきりと僕の姿をとらえた。

 白い猫が僕を見つめながら、ベッドの上を僕の方へと近づいてくる。

 その足が、ぴたりと止まった。

 とがった耳と、しなやかな尻尾が天井を指してぴんと立つ。

 まるく薄青い瞳の目線が、僕の膝で身を丸めている黒いかたまりの上に止まる。

 そこにはただ静かに、黒猫が座っている。

 白い猫がぴくりと、小さな鼻をひくつかせた。


「お前は……!」

 とたんにシルヴィアは、しゃあっと牙をむき、背中を丸めて毛を一斉に逆立てた。

「えっ?」

 怒りにまなじりをつり上げた白い猫が、まるで同胞の仇にでも会ったかのように激しく、僕の膝の上の黒猫を威嚇する。

「シルヴィア?」

「そいつから離れろ、ランディ!」シルヴィアの声はこの上なく厳しかった。

「なに……? いったい、どうして……? この人は僕たちを助け……」

「そいつは猫でも人でもない!」

 かっと赤い口腔を見せてシルヴィアは叫んだかと思うと、ひらりとベッドから飛び降りて、銀髪の少年の姿になって真正面から黒猫と対峙した。

「この人を知っているの?」

「いいや、だがわかる。『深淵』のにおいだ……こいつは地球の生き物でも幻夢境の生き物でもない。あの『猟犬』と同じ、『深淵』の彼方に棲む存在なんだ」

「え……?」

 シルヴィアの告発に、僕は思わず膝の上の黒い猫を見た。

 だが、黒いシルヴィアは驚く様子もうろたえる素振りも見せなかった。

 代わりに、僕の膝の上からするりと滑り下りると、足音ひとつ立てることなく床の上に降り立った。

 シルヴィアの横を通り過ぎ、窓際の勉強机の方へと静かに歩く。

 しなやかな黒猫の姿が、再び黒い髪と黒い瞳の少年に変わった。

 机の前に置かれた椅子の背もたれに手を添えて、こちらを振り向く。

 その姿は僕とーー十六歳だったときの僕と同じーーごく普通の人間の少年でしかない。

 それでも、シルヴィアはまるで全身の毛を逆立てたままの猫のように、一切の警戒を解こうとはしなかった。

 うす青い瞳が敵意に満ちて、ぎらりと相手をにらみつける。


ーーいったい彼には、黒いシルヴィアの姿がどんなふうに見えているというのだろう?


「『深淵』の彼方に属する存在だというのは、僕も『猟犬』も、確かにそうだけれども」

 黒いシルヴィアは、敵意もあらわなシルヴィアと戸惑うばかりの僕を静かに見つめた。

「同じにおいをさせて、同じ場所に属しているからそいつらは仲間同士で、別の場所に住む者たちを一緒になって狩り立てていると言うのなら、海の生き物たちは魚も貝も海藻すらもみんな同じ仲間で、みんなで一緒になって陸の生き物たちと敵対していると言うのと同じことだよ」

「じゃあ、一体どうしてこんなことになっているんだ!」

 柳眉を逆立てて、シルヴィアは黒い瞳の少年に迫った。

「ここはお前の『回廊』だろう! ランディをこんなふうにしたのもお前じゃないのか!」

「そんな! この人は……シルヴィアは……」

 そこまで言いかけて、僕は言葉をのんだ。


ーーシルヴィア……、シルヴィア?


 僕の前に、二人のシルヴィアがいた。

 銀髪の少年、白い猫のシルヴィア。

 髪も瞳も黒い姿の、黒猫のシルヴィア。


ーーシルヴィアと呼んでくれていいよ。


 だけど。


ーー君の大切な人の名前なんだね。


 そう。だから……


ーーせっかく君が名付けてくれたのだから。


 ああ、でも。

 それなのに……。

 怒りに青く燃える瞳が、黒いシルヴィアをきっと睨みつけている。

 黒い瞳は、ただ静かに僕を見ているーー


……構わないよ。


 その黒い瞳が、確かにそう言った。


「あ……」


 黒いシルヴィアにはわかったのだ。

 白のシルヴィアがいる前で、僕が彼をシルヴィアと呼ぶことはできないのだということを。

 それでも構わないのだと、伝えてくれたのだ。

 だがそれも、ほんの一瞬だった。

 僕の声は、まるで繋ぎ直されたかのように、よどみなく言葉を続けていた。


「この人は、彼は、僕たちを助けてくれたのに……」


……それでいいよ。


 再びその声が、聞こえた気がした。

 だがシルヴィアは気付かず、ベッドに座ったままの僕に向かって言った。

「君はどこまでお人好しなんだ?! こいつは僕たちを自分の『回廊』に閉じ込めているんだぞ! その上、君はこんな姿に……」 

「違う、違うんだよ、シルヴィア!」

 僕はベッドから降り、なおも食ってかかろうとするシルヴィアの腕を掴んだ。

「離せよ、ランディ!」

「シルヴィア、やめてくれ! これは……」


ーー出て行け!


「これはきっと、僕自身が望んだことなんだよ、シルヴィア……そんな僕を、彼は助けて……僕たちを助けてくれたんだ。こうなったのは僕の……、全部僕のせいなんだ」


 まるで本当に九歳の子供に戻ってしまったかのように、僕はすすり泣いた。


『回廊』の奥の行き止まりで泣いていた子供。

 ずっと胸の内に溜め込んで、大切に抱えていた物語の全てを引きがされた僕が、望んだのはーー。


「ランディ……」


 頭ひとつぶん以上も背が縮んでしまった僕を、シルヴィアは小さな弟を泣かせてしまった兄のような目で見つめた。



「彼の心が、ランドルフ・カーターの『回廊』が裏返って、内と外とが全部ひっくり返ってしまったんだ。それで、いくつか問題が発生した」

 黒いシルヴィアは、そんな僕たちを静かに見つめながら、ゆっくりと話し始めた。

「そうまでして『猟犬』を追い出そうとした君の精一杯の抵抗は、けれど、残念ながらうまくいかなかった。裏返った『回廊』は、内側に入り込んでいた『猟犬』を押し流し、勢い余って、いったん図書館の扉から『回廊』の外に出ていた君たちや、それを見ていた僕までも流れに巻き込んだ。そのあげく、どこの世界ともつながらないまま再び『回廊』は閉じてしまった」

「……『回廊』が、どこの世界ともつながっていないって?」

 シルヴィアが、黒い瞳の少年の言葉を繰り返した。

「おかしいじゃないか……そんなことって……」

「『回廊』の入り口と出口がつながって、閉じた円環になってしまったんだ。一匹のヘビが、自分で自分の尻尾に食いついているようにね」

 黒いシルヴィアの指が宙に伸び、虚空にくるりと円を描いた。

 手のひらほどの大きさの円環が、さやかに青く光って、その場に残った。

「そのまま放っておけば、遠からずヘビは自分で自分の身体を全て飲み込んで、『回廊』は消えてしまうところだった。中にいる君たちもね。そうならないように、僕はここに自分の部屋をつないで君たちをかくまったのだけれど……」


……どういうわけか、「中にいる僕たちも」とは、彼は言わなかった。

 代わりに、再び細い指先を伸ばし、宙に描かれた円環の右下に短く、青い線を引いた。

「結局、その先を『回廊』の外のどこかへつなげることはできなかった」


 青い円が僕たち三人の前で、数字の9になった。


 黒いシルヴィアはいったん言葉を切って、窓とは反対側の部屋の端を見た。

 釣られて僕とシルヴィアも、そちらを見る。

 おそらく、本来なら部屋の出入り口であるドアがついているはずだったのだろう。

 だが、そこは他の壁と同じように、こまかな模様の壁紙が一面に貼られているだけて、部屋から出て行けそうなところはどこにも見当たらなかった。

「じゃあ、いったいどうすれば……」

「もうひとつ、問題がある」

 幼い僕の声を、黒いシルヴィアがさえぎった。

「あの『猟犬』は、まだこの閉じた『回廊』の中にいる」

「えっ……」

 冷水を浴びせられたように、僕の全身がぞくりと足先まで冷えた。

「『猟犬』は、今も君を探している。君の身体と魂を食い尽くし、君だけの、ランドルフ・カーターだけがもつ『回廊』を自分のものにしようと狙っているんだ。君がどこへ行こうと、どこまで逃げようと、するどい角度を通じて必ず君を追ってくる」

「角度?」

「鋭角の中からしか、『猟犬』は現れることができないんだよ」

「あ……」

 いくつかの光景が僕の脳裏に浮かんだ。



『回廊』をV字に切り裂いた、鋭角の中から飛び出す青緑の鉤爪。

 交差する流星の軌跡が、夜空を鋭く切り欠いた。

 とがり屋根の影がまるで槍のように僕をつらぬいてーー。



「そういうことだったのか……」

 しぼり出すように、シルヴィアはつぶやき、僕を見た。

 思わず、僕は自分の胸元に手を触れた。

 けれどそこには傷あとひとつ残ってはいなかった。

「今、あいつは闇雲に君を追いかけようとして、この『回廊』の円になった部分をぐるぐると走り回っている」

 黒いシルヴィアの瞳が、宙に浮かんだ『9』の字のまるい部分を見つめた。

「けれどいつか『猟犬』が振り返って、気付く時が来るかも知れない。ここに……」

 長い指先で、虚空に書いたアラビア数字を指差す。

「ひとつだけ角度があって、その先に僕たちが潜んでいることに」

 数字の『9』の、丸とそこから斜めに伸びる線との境を指し示す。

「……それじゃあ……」

 シルヴィアと僕の目が、その角度に釘付けになる。

「今はまだ、どうやら気付かれてはいない」

 黒いシルヴィアはちらりと窓の外を振り返った。

「でも、それがいつまで続くかは、僕にもわからない」

「じゃあ、僕たちはここから出られないのか? ずっとこの行き止まりの部屋に閉じ込められて……いつまたあの『猟犬』が襲ってくるかもしれないって言うのに……」

 同じように窓の外を見るシルヴィアの瞳が焦燥に揺れる。

「ここを出る方法はあるよ」

 事も無げにあっさりと、黒いシルヴィアは言った。

「僕のところへ来るといい。あそこなら『回廊』が通じなくても僕が……」

「冗談じゃない!」

 シルヴィアが即座にぞくりと怖気おぞけをふるって拒絶した。

「シルヴィア! 彼は……」

「猫や人間が『深淵』の彼方にたどり着いて、まともでいられるわけがないだろう!」

 だが、シルヴィアは僕の言葉に耳を貸そうとしなかった。

「そんなこと……だって彼は、僕らを助けるために……」

「君は知らないから! こいつは僕らとはまったく相容れることなどできない存在なんだぞ! 見た目に騙されちゃ駄目だ!」

 僕の声にも構わずに、シルヴィアは叫んだ。

「信じてくれという方が、どだい無理な話なのだろうけれどもね」

 その様子を黒い瞳で見据えたまま、黒いシルヴィアは続けた。

「でも、確実に『猟犬』の脅威からは逃れられるというのは本当だよ。それも永遠に」

「そんな永遠なんて真っぴらだと言っているだろう!」

 うわずった声で叫んだシルヴィアの瞳は大きく見開かれ、いつまた『猟犬』が襲ってくるかもわからないと聞かされた時とは比べ物にならないほどの恐怖に染まっていた。

「……シルヴィア……」


ーー『深淵』とは、そんなにまで、シルヴィアを恐れさせる場所なのだろうか。

 

 僕は黒いシルヴィアの方を見た。

 優しげな面持ちの少年は、黒い瞳に夜の輝きをたたえたまま、シルヴィアに反論することもなく静かに立っている。

 そのたたずまいは、それほどまでにも恐るべき世界に棲む存在には到底見えなかった。

 僕や、猫のシルヴィアと全く変わらない。

 だが、それは見かけだけなのだとシルヴィアは言う。

 僕たちとは相容れることなき『深淵』に生きる者なのだと。

 けれど……。


 激流にのまれた僕に差し伸べた白い手。

 流されてゆく猫も、一緒に抱きかかえてくれた。

 その光景は今もはっきりと僕の中に残っている。

 だとしたら……。

 

「でも……もう他に方法は……」

 目を伏せて呟いた僕に、黒いシルヴィアが言った。

「他の方法はあるよ」

「……えっ……?」思いがけない答えに、僕は顔を上げて黒髪の少年を見た。

「同時に『猟犬』も、この『回廊』から排除することが出来る」

 交互に僕とシルヴィアとを見つめながら、黒いシルヴィアは静かに告げた。

「本当に?」

「ただし、君たち自身がそれを望むのかどうか? ということ」

「え……」

 ほんの少しだけ大きめの黒い瞳が僕を見つめながら告げる彼の意図を、僕は計りかねた。

「どういうこと……?」

「まず、閉ざされた円環の『回廊』をここから切り離して、鍵をかける」

 再び、彼は青く光った数字の9の丸い部分を指差した。

「さっきも言ったように、『猟犬』は今、ひたすらここをぐるぐると走り回っている。その注意を引き、僕たちのいるこの部屋の方へとやって来させる」

 やや長い爪の先が、青い円環の下に真っ直ぐ伸びる線に触れる。

「あらかじめ『回廊』の直線部分を引き延ばしておき、『猟犬』がその真ん中まで来たところで、『回廊』を切断する。そこへ『猟犬』も巻き込んでしまえばいい」

 線の途中で、指が真横に引かれる。

 直線が真ん中でふっつりと切れる。

 真っ直ぐな青い線と、9の数字が虚空に残った。

「『回廊』のあちら側とこちら側とに切り離されてしまえば、たとえ『深淵』に属する存在と言えども、消えてなくなる以外にない。二度と元には戻らない。あとは『回廊』に鍵をかけて、それから」

 左手を数字の9に、右手をその下の直線に触れる。

「このふたつを、こうすれば……」

 片手でくるりと青い数字の上下を回転させる。

 反対の手が、直線をすべらせて数字の隣りに並べる。

 宙に浮いた数字と直線が、手品のように形を変える。



 僕たち三人の目の前で、「16」の数字が青く光った。



「これで完成。ランドルフ・カーターの『回廊』は十六歳の形に戻り、同時に、君自身も十六歳の身体と、日常に戻れる」

「十六歳の……日常に戻る……?」ゆっくりと、僕は黒いシルヴィアの言葉を繰り返した。 

「そうだよ」

「帰れるの?」

「うん。……ただ、そのためには切り離した『回廊』に鍵をかけなければならない」

「鍵?」

「君の『回廊』は一度、壊れてしまったんだ」

 幼い声で問う僕に、黒いシルヴィアは静かに答えた。

「『猟犬』に喰い荒らされ、焼き尽された上に、心の深奥まで入り込まれたのを、強引に裏返して追い出そうとしたせいでね。そのまま閉じた円環になって消えてしまうところだったのを、辛うじてこの九歳の形で安定している。それをただ切り離して形を変えただけでは、また元の形にーー尻尾に食いついたヘビとなって、君もろともそのまま消滅してしまう。そうならないためには、『回廊』に合った鍵を使って、しっかりと鍵をかけておく必要があるんだ」

「……その鍵はどこにあるんだ?」

 尋ねたシルヴィアの方を、黒いシルヴィアがちらりと見た。

 その黒い瞳を動かすことなく彼は答えを続けた。

「……鍵はとても重要で、誰でも作れるわけではないし、誰でもが鍵になれるわけでもない」

「鍵になれる……って……?」

 問いかけた僕に、黒いシルヴィアは答えた。



「猫のシルヴィア」



「え……?」

 彼の声が、僕の耳に重く響いた。

「どういうこと……?」ずしりと、その意味するものが僕の胸で音を立てた。

「『回廊』の鍵になれるのは、ウルタールの猫だけなんだ。そして、鍵が作れるのは、僕だけだ」

 黒いシルヴィアは右手を差し伸べ、開いてみせた。

 僕とシルヴィアの目が、釘づけになる。

「あ……」

 形の整った白い手のひらの上に、それが乗っている。


ーー銀の鍵。


 表面にびっしりと、複雑な浮き彫りの文様が彫り込まれた、古びた鍵。

 小さく、固く、冷たい銀色の輝きを放っている。


「これは別の『回廊』の鍵。もともとは、これも猫だよ」

 事も無げに言うシルヴィアの言葉に、僕の胸が凍り付いた。

「……猫……って……」

「そもそも、かなり強い親和性があったのだろうね。だからこそ、一度ならず引き寄せられていたんだ。君の『回廊』に」

「あ……」シルヴィアが小さく呟いた。



ーーそうか、君の『回廊』か。

ーーたぶん、君の『回廊』に引っかかってしまっているんだ。……そもそも、ゆうべ僕があの図書館に出てきてしまったのがおかしいんだ。

ーー屋根からここまで直通だったよ!



「だめだ、そんなの!」まるで教師のように淡々と説く黒いシルヴィアの言葉に、僕は抗議の声を上げた。

「だってそれは……つまりそれは『回廊』を閉じるためにシルヴィアを利用して……全く別の存在に作り替えて、『回廊』に縛り付けておくってことじゃないか! そんなの……いや、それとも『猟犬』さえ退治してしまえば、またすぐに鍵を開けて……」

「鍵を開けることは、当分できない」

 あっけなく、黒いシルヴィアの言葉が僕の希望を切り捨てた。

「さっきも言ったように、『回廊』は一度壊されてしまったんだ。その中に蓄えられていた幻想も、物語も、妖精たちも、あの激しい流れにすべて流されて、失われてしまった。だからもう一度、君自身がそれを取り戻さなければならない。そうすることなしに『回廊』に足を踏み入れたところで、鍵を解放することはできない。真空状態を開くことはできないんだから。鍵が開かれるのは、再び君の中に、幻想と、妖精のいる物語の世界を取り戻した時だけだ」

「そんなーー」


 僕の中に、一瞬にして、数えきれないほどたくさんの記憶の風景が広がった。


 両親の本棚をひっくり返すほどの勢いで、片っ端から本を引っ張り出してきては読み漁っていたころ。

 魔法使いと妖精を求めて森を彷徨った九歳の僕。

 見つけられなくて、それでも、ずっと忘れられずに、探し続けた。

 図書館の閉館時間まで読み続け、借りられる限りの冊数を寄宿舎の自室に持ち込んで、それでも足りずにとうとう夜の図書館に忍び込み、ひたすらに本を読み耽った。

 そうして溜め込まれた無数の物語が、僕の中の『回廊』であれほどに豊かな森と妖精たちを育み、ついには僕とシルヴィアをめぐり会わせた。

 だが、それはもうない。

 たった一夜にして全て消え去ってしまった。

 あまりにはかない夢のようにーー


「そんなの、いったい何年かかるかーーいつのことになるかわからないじゃないか!」

 僕はまるで本当に九歳のだだっ子のように、黒いシルヴィアに向かってわめきたてた。

「それまでずっとシルヴィアを……僕のために犠牲にするってことじゃないか! そんなのひどすぎるよ! だって、だってこんな……」


ーーウルタールの猫は、みんな自由だ。


 ふたたび溢れ出した涙が、僕の言葉を途切れさせた。


ーーこんなに銀色で、奇麗なのに。


 シルヴィア……シルヴィア……。


「こんなに……ウルタールの猫みたいに自由な存在を、鍵に……あんな小さくて冷たい金属の塊に変えてしまうだなんて……そんなひどいこと……。それも僕なんかのために……だったら……」

 身体だけでなく心までも九歳の子供になってしまったかのようにしゃくりあげる僕に、黒いシルヴィアは黙ったままだった。

 その冷静さが、僕の幼く縮こまった心をいっそう高ぶらせた。

「だったら僕は元に戻らなくたっていい! 十六歳の日常になんか戻らない! 僕は君と一緒に、君のもといた深淵へ行く……シルヴィアも連れて行ってよ! そうしたら……」

「それは無理だよ、ランディ」

 激情するままに僕の口から発せられる言葉を静かに制したのは、だが銀色のシルヴィアの方だった。

「シルヴィア……?」

「僕が、『回廊』の鍵になる。それですべてうまくいくんだな?」

 黒いシルヴィアを見据えて、猫の少年がそう言った。

「やめてくれよ……! 僕のためにそんな……そんなの絶対だめだ! 深淵の彼方だろうが、『回廊』ごと消えてなくなろうが、君を犠牲にするぐらいだったら僕はーー」

「犠牲なんかじゃないよ」

 静かに、だが穏やかな声ではっきりとシルヴィアは僕に告げた。

「僕は君のために犠牲になるんじゃない。僕が選んで、鍵になるんだ」

「え……?」

 黒いシルヴィアの方をちらりと見やって、シルヴィアは言葉を続けた。

「……僕はこいつのところへは行かない。そんなのまっぴらだ。君だって、いくら君自身が望むからと言ったって、行かせない。僕が、行かせたくないんだ。かといって、ここに留まったところで、いつかは『猟犬』に嗅ぎ付けられて、ずたずたに喰い殺されるのだってごめんだ。僕は自分で選びたいんだ、君の『回廊』の鍵になることを。そうして、いつか必ず君が『回廊』を取り戻して、僕の鍵でその扉を開けてくれるのを、たとえ何十年、何百年かかろうとも待ち続けていたいんだ。だから、お願いだ、ランディ。頼むから僕に、君を待っていさせてはくれないか。君の『回廊』の入り口で」

「……シルヴィア……」

 猫の少年を見つめる僕の頬に涙が流れた。

「これは僕のわがままなんだ」

 ふいと、シルヴィアが僕から目をそらした。

「君自身が望むのに、行かせたくないだなんて。『回廊』を失った君をもとの十六歳にーー味気ない日々の中に閉じ込めて……。あれほど豊かな『回廊』を再び取り戻すのに、何年何十年かかるかもわからないというのに……」

「そんな、僕の方こそ……僕のせいで、君をあんな鍵に……」

「もういいんだよ、ランディ。これは僕が決めたことなんだから」

 涙を流し続ける僕の肩を、シルヴィアは両手で抱いて、黒いシルヴィアに向かって言った。

「助けてもらう立場なのに、『お前と行くのはまっぴらだ』なんて、恩知らずにも程がある言い草だとは思っているんだが……」

 黒いシルヴィアは、そんな僕たちを静かに見つめながら答えた。

「人間以上に、猫は深淵とは本来的に相容れない存在だからね。にも関わらず、僕の提案を受け入れて、その身を委ねてくれるというだけでも、僕は君に感謝しなければならないよ」

「その身を委ねる、なんて言われたら、ますますぞっとしないな」

 シルヴィアが形の良い口元を歪めて言った。

「でも、どうして僕たちに手助けをしてくれるんだ? 『回廊』なんかなくたって、お前は自分で深淵の彼方に帰れるんだろう?」

 問われて、黒いシルヴィアはふと僕たち二人から視線をそらした。

「『回廊』のあるじと、『回廊』を行き来する者たちとが心を痛め、傷つくことは僕の望みではないよ。僕にとって『回廊』が失われるのは、僕自身が欠け落ちて、失われていくのも同然なんだ。それが誰の『回廊』であってもね」

「あ……」

 激流に飲まれる僕に向かって差し伸べた白い指先と、手のひらに乗せた小さな銀の鍵を僕は思い出した。

「『回廊』と、それをはぐくむ幻想を持っていること。それ自体が、この世にふたつとない、とてもかけがえのないものなのだから」

 黒い夜空の光を宿した瞳を伏せて、彼は答えた。

「今の僕自身が、そうして生まれたのだから」

 まるで何かを、誰かを思い出してでもいるかのように、小さな声がそう呟いた。

「君は……」

 その黒いシルヴィアを、僕は見つめた。

「君の持っている、その鍵は……」


ーーあれはいったい、誰の『回廊』の鍵だったのだろう?


 だが、黒いシルヴィアは僕の問いかけには答えず、代わりに僕に告げた。

「銀の鍵を、必ず君は手に入れる。再び君の中に、幻想と、妖精のいる物語の世界を取り戻した時に」

「うん……。でも、どうやって……?」

「大丈夫さ」

 銀の髪のシルヴィアが、僕に笑いかけた。

「わからないのかい? 君はちゃんとそれを知っているはずだよ。今までだって、ずっと君はそうしてきたじゃないか。いつだってーー」

 

 鬱蒼と茂る森の樹々のように広がる本棚と、そこに仕舞い込まれた無数の本。

 めくられたページの中から、白い蝶の羽根もつ妖精が飛び立つ。

 そのページのひとひら、ひとひらに、収められた幻想の世界を、懐中電灯の明かりが照らし出す。

 ひたすらそれだけを追い求め、渇望し、探し続けた。

 いくつもの昼と夜を、そうして過ごした。

 そうして、ついに出会ったのだ。

 僕の妖精にーー


「そう……そうだね……」

 優しい笑みを浮かべたシルヴィアに、僕は泣き濡れた顔のままでうなづいた。

 白い猫が、机の上に広げられたままの文庫本をのぞき込む。



ーーいつもこんなにあけっぴろげなのかい? 君の『回廊』は……



 そうだ。いつだって、どんな時だって、僕はーー



「……けど、本当にいいの? シルヴィア」

 ベッドに座り直してこぶしで涙をぬぐいながら、僕はシルヴィアに問うた。

「実際、他に選択肢がないんだから仕方ないだろう。解決してくれるのは時間だけ、ということは確かにある」

 隣りに腰をかけ、両手を頭の後ろで組んで、シルヴィアは答えた。

「猫や人間の意志なんて、時間の流れの前にはまるで無力さ。眠たくてしょうがないときは、一晩眠る以外に眠気を取り去る方法はない。それと同じさ」

「でも……」

「僕は君を待っているよ。何十年待つことになろうが、そんなの全然問題ない」

 組んでいた両手を解き、シルヴィアは僕の顔を見た。

「もともと僕には寿命はないし。『鍵』になっても、僕が僕であることは変わらない。そこに僕がいるのだから」

「なるほどね。そうか」

 それを聞いて、くすりと黒いシルヴィアは笑った。

「そう……そうだね。確かに、魂と、そのどころたる肉体が滅ぼされるわけではないのだしね。……それに、どんなに長くとも、三万年を越えることはないだろうよ」

 かすかに口元をほころばせながら、けれど彼の瞳は、はるか遠い昔を思い浮かべているかのように暗い輝きをたたえたまま、背後の窓を振り返った。



 窓の外は一面の夜空だった。

 暗い空にひっそりと青白く輝く満月と、数えきれないほどたくさんの星々が光っている。

 今にもその星が夜空を切り裂いて、鋭い角度の中から彗星のようにあの『猟犬』が飛び出してくるのではないかと僕は恐れた。

 シルヴィアも言葉もなく、ただあやしく輝く星空を見つめている。

 うす青い瞳と銀の髪が、静かに星明かりに照らされている。

 黒いシルヴィアも、椅子の背もたれに手を添え、窓の外を見ている。

 つややかな黒い髪と黒い瞳が月の光を写している。

 シルヴィアもベッドから立ち上がり、窓辺に立つ。

 たった一枚のガラス窓をへだてて広がるのは一面の星空ーー。

 その前に佇む、まるで妖精のような、黒と銀の猫の少年ふたり。

 だが、まるで絵のようなその光景の向こうに隠されているのは、『深淵』の彼方に棲み潜み、僕の心も魂も、幻想と妖精の世界までをも食い尽くし、滅ぼそうとする悪意の塊なのだ。

 黒いシルヴィアが言っているのは、そういうことだった。

 しかし今、その瞳は深く沈み、唇も一言も発することはなく、黒いシルヴィアはまるで人形のようにただ窓の外を見ているだけだった。

 おそらく、彼はいつまででもそうして待ち続けるだろうし、その結果として手遅れになることも、ない。


……彼一人にとっては。


 だが僕たちは必ず、決断しなければならない。

 そのとき、僕はシルヴィアが両手をぎゅっと固く握りしめているのに気付いた。

 

ーーいや。


 決断は、既に成されている。

 だから、あとはーー。


「シルヴィア」猫の少年の背に、僕は呼びかけた。

 銀の髪が振り返る。

 ベッドから飛び降りるようにして立ち上がり、駆け寄る。

 シルヴィアの青い瞳がまるく見開かれる。

 その胸の中に、真正面から飛び込んだ。

「ランディ……!」

「シルヴィア……シルヴィア……!」

 胸にすがりつき、顔をうずめる。

 また涙がこぼれそうになったが、こらえた。

「……大丈夫だよ、シルヴィア。僕が、いるから。ずっといるから。そして必ず……」

「ありがとう、ランディ」

 ややあって、シルヴィアの腕が僕の頭と背中に回されたのがわかった。

「もう大丈夫だ。……ランディ、僕は行くよ」


「シルヴィア……」


 九歳の僕より背が高かったはずの身体が、僕の腕の中ですうっと小さくなってゆく。

 温かみだけはそのままに、白い猫が僕に抱かれて、そこにいた。

 うす青い瞳が僕を見上げる。

 心地よい和毛にこげの肌触りとぬくもりが僕の腕の中にある。

 その顔に、ほおずりをした。

「くすぐったいよ、ランディ」

 シルヴィアが僕の腕の中で身をよじる。

 構わず、僕は頬を寄せ、顔をうずめた。

「くすぐったいってばーー」



 きん、と固い音が、胸に高く響いた。

 すべらかな毛並みと温かな猫の重みが僕の腕の中から消える。

 代わりに、小さく固い何かがころりと手の中にころげ込んだ。

 金属のきらめきが、僕の目を打つ。

「あ……」

 銀色の、やや細長い楕円形の頭部から棒状に軸が伸びて、複雑な形に刻み込まれた突起がついている。

 鍵の頭部には、青く透き通る宝石が真ん中にひとつ、ついている。

 窓から差し入る月明かりを受けて、青い宝石がさやかに光る。

 銀色の小さな鍵が、そこにあった。



「シルヴィア……!」



 ほんの小さな金属の固まりのはずが、ずしりと重く、温かかった。

 固く、鍵を両手で握りしめる。

 そのこぶしの上に、涙がいくつも落ちた。

 彫刻のように静かに窓の外を眺めていた黒いシルヴィアがようやく、しかし振り返ることなく僕に呼びかけた。

「では、そろそろ帰ろうか、ランドルフ・カーター」



     *     *     *



 黒いシルヴィアが窓の鍵に手を伸ばした。

 かちり、と小さく音がしてガラスの窓が開く。

 ひんやりとした夜風が黒い髪となめらかな頬をなでる。

 その風を受けて、部屋全体がぐらりと揺れた。

 板で作られた直方体の展開図のように、部屋の壁が四方に開く。

 壁と天井と絨毯が、僕のはるか背後へと一瞬に遠ざかる。

 さっきまで窓の中だけに閉じ込められていた夜空の景色が僕の周囲いっぱいに広がった。

 豪華に整えられた調度類も、すべてかき消されるようにして見えなくなる。

 黒いシルヴィアの姿は、いつの間にか、なかった。

 おそらく、自分の配置に付いたのだろう。

 見渡せば四方も、足元も、頭上も、冷たい星の光がとても遠くで瞬く夜空の只中だった。

 数えきれないほどの星々と星雲状の銀河のいくつかが、細かな宝石を振りまいたかのように暗闇の中に散らばっている。

 その星々が、僕の左右を高速で流れ始めた。

 僕の遥か前方で輝いていたはずの星と銀河とが、次々と目の前に現れては、あっという間に左右を通り過ぎてゆく。

『回廊』が引き延ばされているのだ。

 九歳から、十六歳へと。

 無数の光が針のように闇を突き刺しながら流れてゆく。

 どっと吹き付ける風がはるかに前方から押し寄せて、僕を包み込む。

 思わず両手で自分の肩を抱く。

 寒い。

 吹雪の只中に晒されているかのように、凍てつく風が僕に吹き付けてくる。

 一度は完全に失われていた七年ぶんを一息に引き延してゆく反動が、『回廊』全体を震わせる。

 嵐のように吹きすさぶその音が、僕の鼓膜をひっきりなしに響かせる。

 やがてはるか前方に散らばっていた星々と銀河のほとんどが、僕の後背へと流れ去った。

 暗く冷えきった空間に存在するのは、僕と、僕の手の中にある銀の鍵だけ。


 だけど。

 まだ、あった。

 ひとつだけ。

 息を飲んで、『それ』を見つめる。

 銀の鍵を握りしめながら。

 


 激しくうずまく緑青色の銀河がひとつだけ、真っ暗な夜空の中心に輝きながら残っていたーー

 


 星雲状の銀河は、よく見ると、らせんのように渦を巻きつつも、その中から時折鋭い牙や、長く伸びた鉤爪が飛び出している。

 ごつごつとした骨の足が生えては、すぐに銀河の渦の中へ沈んでゆくのを繰り返していたが、やがて全ての脚が星雲の中から生えそろって四足獣の姿になった。

 それはまだずっと遠くにいて、僕のところからでは指先ほどの大きさにしか見えなかったが、そこから次第に実体を確かにしてゆく様子がはっきりと見えた。



ーーティンダロスの猟犬。



 巨大な頭を不格好に突き出し、引き裂かれた顎がぱくりと開いて、長く伸びた牙と注射針のように先の尖った真っ青な舌をのぞかせる。

 あいつをおびき出さなければならないというのか。

 僕自身を餌にして。

 自分で自分を両腕で抱きしめて、それでも僕のふるえは収まらなかった。

 けれど、そうしなければ、僕は永遠に僕自身を取り戻せない。

 


ーーいや、僕だけじゃない。



 じんわりと手の中に残るぬくもりと和毛の手触りを思い出す。

 肩からはなした右手をそっと開く。

 


ーー銀の鍵。



 太陽の光はおろか星の輝きすらもない漆黒の闇の中で、小さな鍵の青い宝石が僕の手のひらの上で優しく光っている。

「シルヴィア……」

 目を閉じる。

 もう一度、鍵を握りしめる。 



ーー大丈夫だよ。僕が、いるから。ずっと、いるから。


 自分が言った言葉を、自分に繰り返す。


ーーそして必ず……。



「僕を捜しているんだろう!」

 再び目を開き、彼方で渦巻く青緑の銀河に向かって僕は叫んだ。

「ここにいるぞ!」

 はるか前方でひたすら円周を描いていた軌道が、その場で回り続けるのをやめ、ぐるりと方向を変えてこちらを向いた。

 遠くから、咆哮が轟いた。

 僕の呼び声が聞こえたのだ。

 緑青色の『猟犬』がやってくる。

 今度こそ、僕の存在全てを食い尽くし、飲み込んで、僕の持つ『回廊』の力を手に入れるという身の毛もよだつ欲望を果たすために。

 緑青をふいた骸骨のような四肢が星ひとつない闇を踏んで、不気味な燐光の火の粉を振りまきながら一目散にこちらへ駆けてくる。

 巨大な顎を持つ頭と胴体が星雲状の銀河の渦から飛び出しながら走ってくるのが、まるで長々となびくマントかたてがみを引きずっているかのようにも見える。

 その青緑にたなびくガス状の銀河が突如、丸く切り取られる。

 見えないコンパスで、くるりと円を描いたように背中の一部がかき消される。

「え……?」

 二度、三度と繰り返し、漆黒の虚無が『猟犬』の渦状の胴体と脚とを削り取ってゆく。

 いや。

 目を凝らす。

 切り取られているのは『猟犬』だけではなかった。

 僕と『猟犬』以外に何もないはずの空間が、それよりもっと暗く、底知れぬほどに深い淵の中へと向けて次々と、見えざる誰かの手ですっぱりと切り落とされていっているのだ。


ーー『回廊』を切断する。

ーーそこへ『猟犬』も巻き込んでしまえばいい。


 そんなことができるのは、一人しかいない……。


 異変に気付いて『猟犬』は辺りを見回しながら怒りの声を上げたが、そんなことを仕掛けてくる相手に反撃などできるはずもないと気付いたか、削られつつある渦の中から再び緑青色の骨の四肢を伸ばして駆け続ける。

 左前脚から頭の半分までもが一瞬に削り取られながらも、次の刹那には青緑に煙る星雲の中から再び失われた部分が生えてくる。

 そいつには諦めることなど微塵も浮かんでは来ないのだろう。

 消される前に、喰らってしまえばいいのだと。

 僕を目がけて襲いかかる。

 まっしぐらに。

 見る見るうちに近づいてくる。

 駆け抜ける彗星のように素早く。

 青黒く燃えるガラス玉の目が僕を捉えている。

 ごくりと、僕の喉が鳴る。

 心臓が激しく早鐘を打つ。

 もうそこまで来ている。

 腐臭の混じる吐息と吠え声が僕の顔にかかる。

 鋭く伸びた鉤爪も、無数に牙の並んだ顎も、そこからのぞく針のように先の尖った長い舌も、今や僕の目の前にいる。

 時計塔の影の中から僕を貫いたときのように。

 その時と同じ声が、僕を呼んだ。

 銀の鍵の中からーー



ーーランディ……!



「シルヴィア……!」

 僕に力を。

 銀の鍵を握りしめ、祈りを込める。

 そう。

 今こそ、鍵をーー



「シルヴィア!」



 目も眩むばかりに輝く銀のいかづちが天頂方向から真っ直ぐに降り注ぎ、『猟犬』の身体を轟音と共に貫いた。

 耳をふさぎたくなるほどの絶叫が果てない闇の中に響く。

 遥か真下からも、同じほどにまばゆい雷撃が駆け上り、緑青色の胴体に深々と突き刺さった。

 続いて右からも、左からも、四方八方から次々とほとばしる銀の光が真っ暗な夜空を裂いて駆け巡り、目の前に迫った獣の図体を激しく串刺した。

 いかづちを受けるたびに『猟犬』は大きく裂けた口からひっきりなしに苦痛の咆哮を上げる。

 だが、貫いた雷光は消え去ることも無く、そのまま僕の目の前で『猟犬』を闇の只中で突き刺し続けている。

 めった刺しにされながら、なおも『猟犬』はじりじりと僕の方へと迫ってきたが、その長い爪がもう少しで僕に届くかというところで、斜め上下から同時に打ち込まれた雷光に縫い止められるようにして遂にそこから一歩も動けなくなった。

 まるで、銀色の蜘蛛の巣にかかった虫けらのように、『猟犬』は僕の目の前で無様に捉えられていた。

 九歳の僕がはるかに見上げるほど巨大な四足獣の身体が激しく痙攣する。

 はりつけにされたままの『猟犬』は、それでも起死回生の望みをかけて、僕の方へと必死で首を伸ばし、大口を開け、鋭い牙で僕の喉笛に食いつこうとした。

 間断なくうなり声を上げながら、僕を引き裂こうとする前脚の鉤爪が、僕の鼻先を何度も横薙ぎになぎ払う。

 今にもそれらの凶器が僕の身体に届いて喰いちぎり、切り刻み、すべてを終わらせてしまいそうでーー

 だが僕は眼前で猛り狂う『猟犬』から目をそらすことはなかった。

 針のように先のとがった長く鋭い舌が目の前をかすめる。

 底なしの恐怖が僕を押し潰そうとする。


ーーシルヴィア。


 目を閉じてもう一度、鍵に祈った。

 奈落に向かって崩れ落ちてしまいそうになる自分を、かろうじて繋ぎ止める。

 シルヴィア。

 再び目を開く。

 目の前の『猟犬』が、ずらりと牙の並んだ顎で僕に食いつこうと大きく口を開いている。

 だが寸前で、顎に並んだ無数の牙はぞろぞろと抜け落ち、暗い虚空の中へと溶け落ちていった。

 耳障りな吠え声が、徐々に力を失ってゆく。

 異様に細長い舌も途中でぶつぶつと千切れて落ち、蒸発する。

 そのままゆっくりと、動きを止める。

 渦巻く星雲状の胴体が求心力を失い、闇の中に吹き散らされる。

 手も脚も、本物の緑青のようにぼろぼろと崩れ、夜空に消え去る。

 骸骨のように残った身体が急激に色を失う。

 やがて氷河のように真っ白に凍り付いたかと思うと、無数の亀裂が全身を覆い尽くし、鉄槌を振り下ろされた塩の彫刻のようにあっけなく、『猟犬』は微塵に砕け散った。



「あっ……」



 白銀の光が一瞬視界を奪い、僕は片手を上げて目をかばった。

 砕けた『猟犬』の欠片が降りしきる雪のように辺りを覆い尽くし、僕の周囲はまるで吹雪の中のように真っ白に覆い尽くされた。

 その白いカーテンのような景色の中に、一人の少年の姿があった。


 黒い髪に、少女めいた面差しの東洋人の少年。


ーー黒いシルヴィア。


「君はーー」

「うまく鍵を使えたね」

「え?」

 右手を開き、視線を落とす。

 僕の手のひらの中に、銀の鍵はまだあった。

 それが何故か温かく、柔らかな毛並みの感触を宿しているような気がした。

 細長い楕円の頭部にはめこまれた宝石が、猫の目のように青い輝きを放っている。

 こんなに小さいのに、ずしりと重い。

 それを胸に抱いた。

 再びこの鍵に出会うとき、僕の『回廊』は僕をどこへといざなうのだろう?

 手の中からふっと、鍵の重みが消えた。

「あ……」

 開いてみた手のひらに、銀の鍵はもうなかった。

「そんな……」

「また、会えますよ」

 すべてを見届け、黒いシルヴィアは僕に背を向けた。

「待って! 鍵は……!」

 雪のカーテンの向こうに歩き去ろうとする後ろ姿に、僕は手を伸ばした。

 だが、届かない。

「え……」

 こつんと、固い感触が僕の指先に触れた。

 手を伸ばせば届きそうなほど近くにいるのに、黒いシルヴィアと僕の間は、透明なガラスのようなものでくっきりとさえぎられていた。


 既に『回廊』は切断され、鍵をかけられてしまったのだーー


「鍵は、再び開くためにあるのですよ」

 彼の声だけが、僕に届く。

「え……」

「きっと会える」

 黒いシルヴィアは猫のように静かな足取りで、僕の中の『回廊』をそっと帰っていった。

 内側から『回廊』の扉が閉ざされ、白い吹雪のカーテンも見えなくなった。

 遠くから、かちりと鍵のかかる音が聞こえた。

 もう一度、彼に呼び掛けようとしたが、結局、僕は彼の本当の名前すら知らなかったのだと、今さらながらに思い知らされた。



     *     *     *



 ずしん、と重たげな振動が足元に響いた。

 はるか上空から、巨大な金属の固まりががらがらとぶつかり合うような音が聞こえ始めた。

 見上げると、僕の頭上でいくつもの大きな歯車が噛み合いながらぐるぐると回っているのが鈍い輝きを放って見えた。

 それに合わせるかのように、足元がゆっくりと、僕を中心にして回転を始める。

 今度はがたんと、ずっと下の方で、列車の連結器が外れるかのような重々しい音がした。

『回廊』が動いている。

 二つの数字に切り離され、あるべき姿の形に向けて。

 ぐるりと回転しつつ、離れてゆく。

 それに合わせて僕自身も、ぐるぐると回りながら、らせんを描いてどこか遠くへと運ばれてゆく。



『回廊』の扉が遠ざかるーー。



 頭上に見えていたはずの巨大な歯車はいつしか姿を消し、金属同士が噛み合う重い音も、だんだんと遠ざかるうちに、いつの間にか、小さな腕時計の中で回る歯車のようなかすかな音に変わり、やがて消えていった。

 辺りが真の闇に沈む。

 耳が痛くなるほどの沈黙に包み込まれる。

 上も、下も、右も、左も、わからない。

 自分の手も足も体も、なにも見えない。

 ここはどこだ?

 僕はどこにいる?

 いやーー

 僕はいったい誰だ?

 そもそも「僕」は「いる」のか?

 かき消されるように、ぼんやりと薄らいでいく記憶の奥底で、かちりと、小さな金属の音がした。


ーーそうだ。


 どうして忘れていたりなどするだろう。

 

 君がいるじゃないか。

 君がそこにいるのなら、僕もいる。

 やわらかな和毛の手触りとぬくもりーー

 猫の目のような青い宝石をはめ込まれた銀の鍵を、あのとき確かに僕は……




 目を開く。

 机の上に突っ伏していた身をがばりと起こす。

「あ……」

 

 書きかけのレポート用紙にインクがにじんでいる。

 無味乾燥な記述を並べた生物の参考書は開きっぱなしで。

 望遠鏡は、どこにもない。

 電気の消えた懐中電灯だけが転がっている。

 カーテンが開いていて、明るく白い早朝の光が寄宿舎の自室を照らし出していた。

 白い猫の姿は、なかった。

 銀の髪の少年も。

 黒髪に黒い瞳の少年もいない。

 僕の胸の奥底は、どこまでも、どこまでも空っぽで、誰もいなければ、ささやき声ひとつ聞こえても来ない。

 まるで最初からそんなものはどこにもいはしなかったのだとでも言うかのようにーー



「ああ……!」



ーー泣いているのか?



 ゆうべ、そう言ってくれた人は、もうここにはいない。

 胸の奥の、奥の、奥底に耳を澄ませても、何も聞こえてはこなかった。

 鍵が触れる音も、猫の声も。

 妖精の囁く声も……。



「シルヴィア……!」



 なんて味気ない。

 なんて容赦のない。 

 椅子の背もたれに全体重を預け、僕は右手で顔を覆った。

 その手に雫が触れて、それでやっと、どうしてインクがあんなににじんでしまっていたのかが、わかった。


 でも。

 それでも、僕はーー


 顔を片手で覆ったまま、机の上に伸ばした反対の手が一冊の文庫本に触れるーー



ーー僕の銀の鍵はどこにある?

ーー僕の妖精はどこ?



 会いたい……会いたい。

 会いにいこう。きっと。その日のために、だからーー

 嗚咽をこらえきれないまま、ただ必死で僕はその本にすがった。



 だけど、それはいったいいつのことになるのだろう?



 僕の胸の中と、失われた鍵の中に、僕の妖精は今もいる。



            (了)

黒いシルヴィアの本当の名前を知りたい方は『小説家になろう』投稿済みの『青い回廊と西王子家断絶の次第』『猫のゆくえ』をお読み下さいm(_ _)m

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 読みました。 面白かったです。 カーター君と猫、いいですね。 少年と猫は好みのモチーフです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ