旅立ちのときは白
事態は急転した。十和子が堕胎を果たしたのだ。馨は前後の経緯を把握していなかったが、黄瀬は黙ってそれを受け止めたらしい。両親から聞かされた事実を告げる黄瀬の、沈鬱な表情が印象的だった。
誰かが事の経緯を公表したわけではないが、堕胎の噂は広く流布されていた。それまでの噂は上塗りされて、後には向上心のある少年と、活動的で成績の良い少女だけが残った。
しばらくはその話題も新鮮さを保ちつづけたが、いよいよ迫る夏休みへの期待と不安が波となって押し寄せ、生徒たちの関心をさらっていった。
この情報を最も冷静に受け止めたのは、おそらく崇だったろう。崇は一応の一区切りがついたことに安堵し、同時に一つの生命の死を悲しんだ。足が棒になるまで情報収集に勤しんでいた彼の情熱は、日々募る暑気に反比例して、夏の空に霧散していった。
「僕は年上の兄弟のように、黄瀬さんのことを感じていました。どうしてそう思ったのか、今でも分かりませんが」
崇は赤塔を見つめながらそう告白した。その心に赤塔への憧憬は兆していない。
「僕のことはいいんです。それよりも雪定さんはどうなんですか」
「僕は……」
信じているとは言えなかった。これが黄瀬の望んだ結果なのか、判断としなかったのだ。
「どうなんだろう」
「元気を出して下さい。僕もまだ本調子とはいかないけれど、夏休みの計画は立てているんです」
「聞かせてくれないか、その計画」
「墓参りに行こうと思っているんです。十年前に死んでしまった姉の」
理由を聞かずとも、崇が墓参りを計画した気持ちは分かった。
「そうそう、いつか話そうと思って話せなかったんですが、一本桜の下には死体が埋まっているそうですよ。だから春になると、とても綺麗な花が咲くんです」
「へえ」
面白くもない話を崇がするのは珍しかった。
「ご機嫌よう」
背後から音もなく歩いてきた桃子が、通り過ぎざまにそう言った。崇の表情がさっと変わる。
「夏休みに入る前に、もう一度だけ黄瀬と話してみる。このまま時間を置くのは、僕もすっきりしない」
「あ、ああ、そうですね。それが良いと思います」
赤塔の赤と入道雲の白との対比は、病的な美しさを世界にもたらしている。
「おっ、そこにいるのは紫村か。ちょっと手伝ってくれないか」
通りかかった教員に呼ばれて、じゃあ、とだけ言って崇は去った。
人気のない北棟の四階を、純白の静寂が浸していった。
一学期の最終日、馨は黄瀬との約束をとりつけた。それが夏休み前の最後の機会だった。
夏休みに向けた諸注意が終わり、起立と礼を済ませると、生徒たちは弾けるようにして教室から散っていく。その慌ただしさのなかで、馨は桃子と会話する機会を失った。一月ほどの別れとはいえ、このまま離れ離れになってしまうのは寂しいものがあった。
馨は図書室で時間を潰し、人気がなくなるのを待って一本桜の下に向かった。桜の下には、黄瀬と十和子の姿が見えた。馨を待つ黄瀬が、偶然に十和子と出会ったらしかった。
馨は近寄っていこうかとも思ったが、物陰に隠れて様子を窺った。二人の深刻な気配が、言葉に乗って伝わってくる。
「全部、終わっちゃった」
十和子の寂しげな表情に、馨も沈痛な思いを感じた。
「両親とは上手くやってるのか」
「妹のこともあるし、私の年齢で出産することの危険もある。何より、産んだ後の生活はどうするんだって、そう言われたの。両親の望み通りになっちゃったけど、それでも腫れ物を扱うように接してくる」
「俺のところと変わらないな。軽蔑の目で俺を見てきたよ」
会話は尋常な始まりをみせた。この会話が終わったときに二人の関係がどうなっているのか、二人にもまだ分からなかった。
「俺はこうなった以上、最後まで面倒をみる。どれだけ周りに反対されたとしても、俺はそうするつもりだ」
「でも。でもね、もういなくなっちゃったんだよ」
「それでも俺の気持ちは変わらない」
校内にはまだ生徒が残っていたが、二人の関係が暴かれた以上、こそこそと密会する必要はなかった。
「私ね、どこかで疑ってたの。本当に私のことを愛してくれてるのか。だから証拠が欲しかった。だから……」
「いいんだ、分かってる」
黄瀬は無言で手を差し伸べた。十和子の手は、それを握ることをしない。
「実はね、妊娠したって噂を流したのは私自身なの」
あっと声が出そうになって、馨は寸前で押しとどめた。その瞬間の黄瀬の表情は確認できなかった。
「どうしようもない話だよね。自分の嫌な現実を変えるために妊娠をして、その噂を自分で流して、貴方を傷つけた。現状を壊してくれるものなら何でも良かった。だから雪定くんにも興味を惹かれたし、堕胎だってした。そうすることで昨日までの私じゃなくなるから」
「だったら産んでもよかったんじゃないか」
やっとのことで黄瀬が発した言葉だった。
「私、自分のしてることが怖くなった。自分が自分でなくなるような気がして。でも堕胎をした瞬間、ぷつりと糸が切れたようになって、私は変わってしまった」
「変わってしまった十和子を、俺はどうやって愛すればいいんだ」
「貴方も変わればいい」
それは永遠を手にする言葉だった。少なくとも黄瀬の永遠は、こうして変容していった。
「俺は無力だな。俺は、まだ何も知らなかったんだ。なあ、一つだけ教えてくれ。どうして俺なんだ?」
「だって、好きになっちゃったから」
「……ああ」
今度は十和子が手を差し伸べた。黄瀬はそれを優しく握り返した。それが、黄瀬の結論だった。
「どうかしてるよ」
二人の視線が馨に注がれる。今までの会話を聞かれたと知りながら、それを咎める様子はない。
「二人ともどうかしてる。急にあんなことになったから、おかしくなったんだ。黄瀬、どうしてその身勝手な女を許すんだ」
「なあ、馨。俺は自分のことを特別な人間だと思っていたが、どうやら間違いだったらしい」
「何だって?」
「俺は凡人だ。一人の人間を愛することしかできない。でもそれに気付くことが、かけがえのないことなんだ。それに、これは俺が自分で決めたことなんだ」
黄瀬と十和子は肩を寄せ合った。桜の葉が風に揺れている。
「変わったな」
「ああ、変わったよ」
「僕は昔のきみを信じていたよ」
馨は階段を上り、夏の日差しを浴びる渡り廊下を見た。ちょうど黒い学生服の葬列が、向こう側へ渡っているところだった。葬列は渡り廊下の中央で二股に分かれている。そこに馨と黄瀬の姿があった。二人が握手を交わす瞬間。
馨は思わず目を背けた。そして、もう一度直視する。黄瀬の身体が猛火に包まれる。それが灰になっても、事実だけは変わらずに残るのだ。
再び階段を上り、四階の渡り廊下へ。馨を待っていた桃子が、手招きをしてみせた。
「安っぽい恋愛ごっこ、なんて私に言う資格はないわね。だって、心の底から羨ましいんだから」
「何故だか、君がここにいるような気がした」
太陽が真上にある。ここからどちらへ沈んでいくのか、馨にはよく分からない。
「ずっとここで待っていたわ。きっと、貴方が来てくれると思って」
「君は変わらないな」
「貴方がここに来たのは梅雨の季節だった。今はもうすっかり夏になって、時間はどんどん流れていく。貴方も変わっていくのね」
寂しげな表情。それはどこへ向けられたものなのか。
「僕も変わらなきゃならないのか?」
「ええ。さあ、参りましょう」
桃子が手を差し伸べる。馨はそれをゆっくりと握って、向こう側へ歩き出す。二人は渡り廊下の向こうへ、深い闇の向こうへと消えていった。
そうして、一本桜に淡い桃色の花が開いた。蒼穹に咲いた日輪の光彩を受けて、桜の花びらは雪のように散っていく。