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故意の恋

 一学期の期末試験が終わり、七月に入った。長津市はいよいよ夏を迎え、街中にそわそわとした雰囲気が拡散していく。黄瀬が欠席したのは、試験後の弛緩と夏休み前の緊張が入り混じった、不思議に暑い日のことだった。気候の変化に体調を崩したか、あるいは学校をサボったのか、いずれにしてもたいした問題ではないと馨は思った。

 ところが三日も欠席が続くと、さすがに何かがあったらしいことに気付かされた。馨はメールを送ってみたが、黄瀬からの返答はない。この頃になると馨もクラスに馴染んでいて、隣の席の生徒に黄瀬の安否を尋ねられたが、馨に用意できる答えはなかった。

 その翌日になって黄瀬が出席し、健康を崩したのではないかという不安は拭われた。それと同時に妙な噂が流れてきた。赤司十和子が妊娠したのだという。黄瀬との関係は知られていないはずだったが、二人が同じ時期に長い欠席したことから、二人の関係が噂された。赤司はその日も学校に姿を見せていなかった。

「まずいですよ。学校中の噂になってます」

 崇が図書室に行こうとする馨を掴まえて、そう耳打ちする。馨はその深刻な表情を見て、初めて重大な事態であることを認識した。崇の狼狽は、十和子との関係を誰にも教えていないという、黄瀬の言葉を裏付けている。残念ながら、今の馨にはそれを喜ぶ余裕はなかった。

 黄瀬と仲の良い馨までがクラスの中で忌避されるようになった。馨はそれを痛くも思わなかったが、黄瀬に弁明する様子がないのを訝った。

 結局、その日は黄瀬と会話を交わすことはなく、相変わらず超然とした態度の桃子との会話が、馨のささやかな慰めになった。

 馨は中庭の花壇の傍にしゃがみ、桃子は校舎の日蔭に隠れている。淡雪を敷きつめたようなほっそりとした身体を、あの傲慢な太陽に汚されたくないのだろうと馨は思った。

「雪定くんは二人の関係を知っていたんでしょう」

「付き合ってるとは聞いた。でも、そこまで深い関係だなんて……」

 馨は桃子に対してだけは正直に打ち明けた。桃子がそれを口外する心配はなかったし、馨も不安を打ち明ける存在が欲しかったのだ。

「今時の中学生はそんなものよ。私が意外だったのは、二人が避妊をしていなかったことね。もう少し賢いと思っていたのだけれど」

 切って捨てる桃子だが、その口調に軽蔑の色はなかった。ただ事実を事実として語っている。馨にとってはありがたいことだったが、同時にあることを馨に気付かせた。

 どうして、彼女はここまで泰然としていられるのだろう。そうだ、彼女はきっとそうなんだろう。彼女は日蔭者でいるしかないのだろう。

「残念ながら心配は杞憂に終わらなかった。皆が黄瀬くんを叩く口実が、出揃ったことになるわね」

「中傷が始まってしまう?」

「表立っての誹謗はないでしょうね。ここからは陰口が横行することになるわ」

「ふう……。黄瀬はどうするつもりなんだろう」

「介入するか、傍観するか。これは貴方次第よ」

 桃子の言葉に、今更ながら重圧を背負っていることを実感する。馨は自分がいかに安穏としていたか、ようやく気付かされたのだ。馨は立ち上がり、日陰に入る。

「僕に何ができるかな」

「貴方の思うことをとことんやりなさい。きっと、後悔はしないわ」

「上手くいくかな……。ねえ、どうだろう」

 桃子は俯いて、何も答えなかった。


 翌日の朝、崇と打ち合わせて早めに登校した。今後の対策を検討するためだった。

「まず、噂は事実なんですか? ……いえ、事実なんでしょうね」

「そこは今日にでも本人にあたってみるつもりだ。事実と思って行動した方がいいだろうね」

「僕はそれとなく情報を集めてみます。黄瀬さんのご両親は厳格だから、きっと堕胎の方向に話が進むでしょうね」

 先日ははぐらかされたが、黄瀬の家庭のことは何も知らなかった。馨が尋ねると、崇は声を落として答えた。

「黄瀬さんのお父様は市役所勤め、お母様は高校の教員をやっているそうです。ご両親とも公務員です。僕もそれ以上のことは知りませんが」

「そうだったのか。赤司の家庭のことは知らない?」

「残念ながら。今日中に情報を集めます」

 一本桜の下での約束があるために、馨は口に出さなかったが、十和子は家庭のことで悩みがあることを打ち明けていた。それだけのことを言うのだから、きっと両親と不和に陥っているか、他人には口外できない問題でもあるのだろう。

 馨は大きな覚悟を背負って、朝の教室に臨んだ。


 黄瀬は馨を避けていると思われたが、意外にもあっさりと馨の誘いに応じた。二人はあの理科室の前で話をすることに決めた。

 今日も赤塔は市街の中央に鎮座していた。理科室から見える風景はちっとも変わらないが、二人をとりまく環境は大きく変化していた。

 馨は最初の言葉を切りだすために、黄瀬の顔を直視した。身長差のために馨が黄瀬を見上げる格好になる。足の長さもまるで違う。このときほど、黄瀬の長身に威圧的な雰囲気を感じたことはなかった。

「事実なんだね」

「ああ」

 身体が鉛のように重くなっていった。馨は最後の瞬間まで黄瀬の無実を信じていたが、あっさりと噂が真実に置き換えられた。無実。無実でないとすれば、これは罪なのか。思えば、本来なら祝福すべき妊娠という出来事を、ここまで呪わなければならないのは皮肉だった。

「どうするのさ」

 理路整然と話を進めていくつもりだったが、ついつい感情的な言葉が口をついた。

「赤司とはまだ話せてない。俺の両親と赤司の両親が話し合ってる」

 黄瀬は赤司と言った。馨にはその意味がよく分かった。

「二人のご両親は、どう言ってるの」

「赤司の両親は分からないが、俺のところは堕ろせって」

「赤司のご両親はどんな人?」

「父親は会社員で母親はパートをしてるらしい。妹が一人いて、今年で小六だ」

 黄瀬が暗い表情をするのが分かった。この騒動が後を引けば、来年入学する十和子の妹にも類が及ぶ。馨にもそれは理解できた。

「とにかく赤司と話すしかないよ」

「ああ、ああ」

 馨の言葉をかき消すようにして黄瀬は答えた。その黄瀬の視線が、次の瞬間には別の意味を帯びている。ああ、この二人はどうしてここまで似ているのだろう。

「……馨、俺はお前に相談なんかしない。俺たちのことは俺たちで決める。その代わり――」

「その代わり?」

「俺を信じてくれ。何言ってんだろうな、俺。でも、今はこれしか言えない」

ふう、と馨は息をついた。それが精一杯の抗議だった。そして、許してしまった。

「分かった。その代わり、その代わりだ。きみのことを気がかりにしてる後輩がいることを、忘れないでやってくれ」

 黄瀬は意表をつかれて息をのんだ。馨の言葉の力強さに気圧されたのだ。

「ああ」

 黄瀬はそれだけ言って頷いた。万感の思いが、そこにはこめられていた。

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