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静かな時間

 馨と黄瀬と十和子は、昼休みの時間を共に過ごすようになった。十和子との約束を交わした翌日、十和子が二人の教室に現れたのだ。十和子との関係を知られたくない黄瀬は、最初は困惑していたようだが、馨を介在することによって、その心配が随分と軽減されることにすぐ気付いた。

 三人はよく校内を歩きまわった。

 お決まりの散歩コースは校庭で、その隅っこを三人で連れだって何周もした。三人で歩くときの位置も決まっていて、黄瀬と十和子が横に並び、馨がその後ろを付いて行く形になる。馨は二人の後ろを歩きながら、二つの手がもどかしげに空中をさまよったり、角を曲がる拍子にわざと手の甲をぶつけてみたりするのを、何も言わずに見ていた。

 何度か崇を交えて歩くこともあった。黄瀬は崇にも十和子の関係を告げていないようだったが、崇になら知られても構わないと思っているように見えた。実際のところ、感の良い崇は気付いているようにも思えたが、まるで気付いていないようにも見えた。

 それとは違って、黄瀬と二人で歩くこともあった。馨はそのときにこそ心を和らげて、黄瀬と話すことができた。無意識下で十和子の存在が負担になっているのだろう。馨はその傾向を心のうちで認めようとはしなかったが。

 梅雨の季節なので、雨で外を歩けない日も何度かあった。そういう日は各自が自由に行動するようになっていて、馨は北棟の四階まで赤塔を見に行くか、図書館に行くかのどちらかを選ぶ。雨の日だから皆が図書館に集まりそうなものだが、桃子や崇とそこで出会うことは不思議となかった。だから、その日も馨はそのつもりで図書館にやって来て、桃子と出会ったときには意外な思いがした。

「やあ、今日はここにいたんだね」

「こんにちは。読書は続いているようね」

「おかげさまで。紫村の方は?」

「さあ、どうかしら。本を読むようになったのは最近のことだから、何を読めばいいのか分からなくて」

 馨は耳を疑った。

「だって、あんな本を薦めてくれたじゃないか」

「方法序説はね、あれは例外。あれは私の父のお気に入りで、熱心に薦めてきたので読んだことがあっただけ。でもね、私も面白いと思ったから薦めたのよ」

 桃子がする申し訳なさそうな表情は、少し馨の心をくすぐるものがある。

「私、最近まで本を楽しんで読むことができなかったの。ある事をきっかけに、ようやく知識を得られるようになったわ」

「きっかけ?」

「貴方と出会ったことよ」

 馨の目を直視してそう言い切る桃子の意図がどこにあるのか、馨には分からなかった。

「それってどういう……」

「感謝してるのよ。私、ずっと一人ぼっちだったから。こうして話せる相手ができて、私の中で何かが変わったの」

「何かが変わった?」

「ええ。全て貴方のおかげ」

 桃子は既に視線を外して、すぐ傍の書棚の方に目をやっていた。

「残念ながら今の私にはお薦めできる本が無いの。いつかまた、貴方に私の好きな本をお薦めできる日がくればいいけれど」

「うん、待ってる」

 最後に交錯した視線は、新しい色を帯びていた。雨の図書室は、やはり静寂そのものだ。


 図書室からまっすぐ教室に帰ろうかと思ったが、まだ時間が余っているので、四階まで上がって赤塔を見ることにした。すると、先客として崇の姿があった。

「やあ」

「こんにちは、雪定さん」

 馨は少し戸惑った。こうして崇と二人っきりになるのは、これが初めてだったからだ。下級生に萎縮するのも不本意だったし、話題もすぐに見つかったので、馨の方から口を開いた。

「雨の日の景色も綺麗だね」

「ええ。僕は雨の日にここから見る赤塔の姿が、特別に好きなんです。窓ガラスの雨粒でにじんだ赤塔が、まるで揺れているように見えるんです」

「揺れている?」

「まるで揺れているような。あの堅固な建築物が柔和なもののように思えて、とても面白いんです」

「どこか詩的だね」

 茶化すつもりはなかったが、崇ははにかむような表情をした。きっと、嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちが入り混じっているのだろう。

「以前はよく、黄瀬さんと一緒に昼休みを過ごしたんです。僕の面白くもない話に付き合ってくれて。最近になって一人で過ごすことが多くなりました」

「僕といつも一緒にいるわけでもないよ。もしかして、嫉妬してる?」

「いえいえ、嫉妬なんて。僕はそういう感覚は持ち合わせていないもので」

 きっとプライドの高い一面があるのだろう、でも、それを包み隠してしまうだけの人当たりの良さがあるのだろう。馨はそう感じた。

「十年前でした。父と母と姉と僕、四人であの赤塔の展望台に登ったんです。この話、聞いてもらえますか?」

「うん、聞くよ」

「ありがとうございます。そのときに姉が言ったんです。今日という日を大事にできれば、きっと明日も生きていけるって。姉は少し、不思議なことを言う人でした。そのときには気にならなかったんですが、僕の印象に強く残った言葉なんです」

「どうして?」

「そのすぐ後に姉が自殺をしてしまったんです。高いところから落ちて、真赤な血を散らして」

 反射的に息が詰まる。ゆっくりと息を吐いて、とても静かな場所に立っていることに気づかされる。

「まだ姉が死を選んだ理由が分からないから、それを知りたくてここに来てしまうんでしょうね。こんな話、つまらないですよね」

「いや。好きだったんだ、お姉さんのこと」

「優しくて頭が良くて、綺麗な人でした。今の僕は姉の死がなければ存在できなかった、そうやって肯定的に考えるしかないんでしょうね」

「亡くなった人のことを考えるのは、後ろ向きかもしれないけど悪いことじゃない。好きなだけ考えて答えを見つければいいんだ」

「雪定さんに話して良かったです。これ、二人だけの内緒ですよ」

 崇の目配せに馨が答える。崇の瞳は、雨上がりの空のような、からっとした透明な色をしていた。


 放課後、馨は黄瀬の居残りに付き合わされることになった。いつになく、黄瀬が数学の宿題を終えていなかったのだ。馨は赤司にでも手伝ってもらえばいいと皮肉を言ってみたが、黄瀬は聞こえないふりをして問題に取りかかった。

「最近、十和子と一緒にいることが多いだろう」

「うん」

 馨は頬杖をついて、雨の窓外を見やる。今日が晴れの日であったなら、野球部の練習でも見ることができたかもしれない。それを望む格別の理由はないが、もしそうであったなら、もっと放課後らしい時間を過ごせたことだろう。

「だから話す話題もあまりなくてさ、電話やメールの頻度が減ったんだ」

「へえ、電話料金を節約できるじゃないか」

「おいおい、真面目に聞いてくれよ。俺はそれでも不満はないんだが、十和子はそれが物足りないらしくて。どうすればいいんだろう」

「僕に訊くことじゃないだろう」

 黄瀬が視線を上げて、馨の顔を見つめた。見られていることを知りながら、馨はそれに気付かないふりをした。黄瀬は諦めてプリントの上に意識を戻した。

「……十和子、実はお前に気があるんじゃないか」

「はあ?」

 馨らしくもなく、大げさな調子で聞き直した。が、すぐに咳払いをして、黄瀬の言葉を耳を傾ける。

「あいつ、よくお前の話をするんだよ。今日の雪定くんは寝不足だったみたいとか、牛乳の飲みすぎでお腹を壊したような顔をしてたとか」

「二つ目は黄瀬の考えた冗談だろう」

「まあ、それはそうだが。いや、そんなことじゃなくてさ、お前はどう思う?」

「赤司が僕に好意を持っているかどうかってこと?」

「うーん。それは俺たちが考えても答えが出ないだろうな。それよりも、お前がどう思っているかが、この際重要だと思うんだが」

 つまり、馨は十和子に対して好意があるのかないのか。馨は少し考える素振りをしてみせたが、とっくに心は定まっていた。

「赤司はとても魅力的で――内面も外面も――だから、好意はある。でも、それは恋愛的な意味じゃない」

「ふうん、意外だな」

 黄瀬はおどけた様子でそう言ったが、心の底からそう思っていることが伝わってきた。

「僕は赤司には特別な感情を持ってないよ。それに……」

「俺の彼女だから、か」

「さあね」

 馨は再びぷいと横を向いて、頬杖をついた。雨はいつまでも降り続けている。

「まあでも、お前がいてくれて良かった。こうして放課後に付き合ってくれるのはお前だけだよ」

「気になってたんだけどさ、黄瀬って皆と平等に仲良くできるのに、どうして僕なんかとこうして一緒にいるのさ」

 黄瀬が数式を書く手を止めて、何と言うべきか困ったような表情をした。

「一つ言えるのは、このクラスに特別親しい相手がいなかったからだな。でも、実は俺にもよく分からない。それに、俺は平等に仲良くできるわけじゃないぞ」

「納得できないな」

「うーん。強いて言うなら、俺とお前は波長が合うとか。いや、こんな言い方は好きじゃないな。あれだ、運命の赤い糸で結ばれてるんだ」

「よせよ。それで勘弁してやるから黙ってくれ」

 そう言いながら、馨は満更でもない表情をしていた。手で隠していたが、黄瀬は一瞥してそれを見てとった。

「まだ二年生だったら良かったのにな。なあ、そう思わないか」

「どうして」

「俺もお前も十和子も、あと一年は気楽に校庭を歩いていられる。これからの時期は、どこか緊張したまま過ごさなくちゃならない」

 つい先日に引っ越してきたばかりの馨には、まだ実感が追いつかない話だが、この学校にいられる時間は一年もない。今のような関係が続けられるのは、あとどれくらいのことだろう。

「ずっとこのままだといいのにな」

「うん」

 雨はやはり、いつまでも降り続けている。どこまでも変わらない雨音を聴きながら、二人は時間の流れの一滴を掴もうとするのだった。

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