手と手を交わして
十和子の衝撃は呆気ないくらいに色褪せていった。一つには事態があまりにも急に展開したこと、一つには失恋を引きずるほど、十和子と深く関わったわけではないことが、それぞれ原因した。
桃子に薦められた「方法序説」を読みふけった――ある意味では逃避といえるが――ことも、失恋の打撃を和らげるのに一役買ったのだろう。その週末は「方法序説」との格闘で明け暮れていった。
月曜日になると、自分でも驚くほどに、黄瀬と無理なく接することができた。黄瀬にも態度の変化は見られない。この頃になると、馨は他のクラスメイトとも、挨拶を交わす程度の仲になっていた。昼休みになると黄瀬はどこかへ消えて、馨は借りた本を返すために図書室へ向かう。
すると黄瀬の姿があった。外交的な黄瀬が読書に没頭する様子は想像できなかったが、案の定、他の生徒を従えているのだ。書棚を探るふりをして二人の様子を観察してみると、もう一人の生徒は下級生の少年だということが分かった。
その少年が黄瀬に対して敬語を使っていたためだが、その挙措は随分と大人びていて、貴族然としている。つまり、育ちの良さがふとした動作の端々に見てとれたのだが、黄瀬に軽んじる風でもなければ、へつらう風でもない。全てにおいて調和がとれた少年、それが馨の抱いた印象だった。
すぐに黄瀬が馨を発見した。馨は初めて二人に気付いたように装い、黄瀬からの紹介を受けた。
「こいつは二年生の崇。なかなか面白い奴なんだ」
「初めまして。雪定さんのことは伺ってますよ」
そう言って崇が手を差し伸べてきた。馨はその手を握ったが、特別に何かを感じたということはなかった。
「へえ。どんなことを言ったのさ」
「牛乳をかけて争った仲、って言ったっけな」
「変な紹介をしないでくれ。ただでさえ友達がいないのに」
「だったら僕を友達の輪に加えて下さい。お願いします」
崇は思いのほか、率直な懇願をしてくる。こう頼まれてしまえば、断ることはできない。
「じゃあ、よろしく」
「よかったな、馨。こいつはどこで知識を拾ってくるのか、なかなか博識な奴なんだ。ま、線の細いところが難点といえば難点か」
「自分で言ってしまうのもどうかと思いますが、両親に過保護に育てられたもので」
「僕のところは普通の家庭だな。黄瀬はどうなの、兄弟はいたっけ?」
「一人っ子だ。二人と似たようなもんだな、普通の両親だよ」
「なかなかどうして、普通というのが一番むつかしいんです。今度、僕の家に案内しますよ。そうすれば僕の言ってることが分かりますから」
天性の才能か、崇には会話を弾ませる潤滑油としての働きが、知らず知らずのうちに身についているらしい。それで馨の人見知りも引っ込んで、三人の会話は随分と盛り上がった。崇の機転で場所を移さなければ、図書委員に注意を受けたことだろう。
崇は北棟の四階へ二人を案内した。無機質な理科室を前景に、市街の風景が一望できる場所だった。丘の上の校舎の四階から見る風景は、果てしない広がりを見せている。閉鎖的な場所が視点になっていることが、外界への憧れをより一層強めるのだ。
「ここは僕のお気に入りの場所なんです。放課後にここへ来て、赤塔のライトアップの瞬間を見るのが好きなんです」
「赤塔?」
「ああ、そうか。馨は転校してきたばかりだから知らないんだよな」
崇は市街の中心地に屹立する赤い電波塔を指し示した。高さは二百メートルを越えないくらいだろうが、主要なランドマークであることに違いはなかった。
「正式名称は長津タワーで、赤塔と呼ばれているのには理由があるんです」
「色が赤いから、ってだけじゃないみたいだね」
「ええ。度重なる工事の遅延で建設費がかさんだ経緯から、赤字の赤で、赤塔と呼ばれているんです」
なるほど、崇は博識といえた。そこに何十年と暮らしている大人といえども、自分の住む街のことなど、知っているようで知らないものなのだ。崇はその知識を語るのにも嫌味なところがなく、馨も心地良く解説を聞くことができた。
「面白いね。この学校も歴史があるみたいだけど」
「校舎は痛んでますが、創立三十年のまだまだ若い学校です。卒業生に国会議員のいることが、唯一の誇りらしいです。そういえば、あの一本桜にまつわる話ですが……」
そこまで言ったところで、学校の予鈴が鳴った。崇はまだ話足りないようだったが、授業に遅れる面倒は避けたいらしい。馨は赤塔のある風景を心に焼き付けて、二人に続いて階段を駆け下りていった。
放課後、馨は黄瀬の誘いを断って図書室にこもった。「方法序説」の興奮がまだ冷めておらず、ついつい長津市の歴史を記した書籍などを読みふけった。図書室の閉館時間を迎え、さらに空腹感を覚えたので、ようやく帰路についた。
図書室に向かったのは、そこに桃子がいるのではないか、いたとすれば桃子に感想と謝意を伝えようと考えたためだが、あいにく紫村は現れなかった。
一本桜の向こうに沈む落日の最後の輝きが、死を帯びた美の壮絶さを虚空に描いている。しばらくそこに立っていると、あの十和子が馨の肩を叩いた。この時間まで十和子が学校にいることを、馨は不思議に思った。それは十和子も同じだったようで、ほぼ同時にその理由を尋ねたのだった。
「私は部活だったの」
「僕は図書室にこもってたよ。何部なの?」
「吹奏楽部。もしかして、似合わない?」
そう問われれば、たしかに十和子には運動系の部活が相応しく思えたのだが、それが吹奏楽部にそぐわないという理由にはならない。何より、十和子が肺活量のいる楽器を担当しているのだとしたら、それなりの運動をしているに違いない。馨はそのようなことを言った。
「黄瀬くん……、寛二が気に入る理由が分かった。雪定くんって面白い」
「そんなこと、初めて言われたよ」
「馬鹿にしてるわけじゃないよ。素直にそう思っただけ。寛二が雪定くんのことを面白いっていうから」
「へえ、どんな風に?」
「あんなくだらないことに情熱をかけて、じゃんけんまでするような奴だからって」
十和子はくくく、と笑った。牛乳のことをくだらないとは思えなかったし、その理屈でいけば黄瀬も同類に違いない。と、馨はつい口に出しそうになったが、またおだてられるのも嫌だったので、ぐっと言葉を飲み込んだ。
その一瞬のうちに、十和子の表情はまるで一変した。心にさっと冷やかなものがしみこんでくるのを感じた。
「私ね、……どうしよう、どうしてこんなこと話そうとしてるんだろう」
「何さ」
「私、色んなことに悩んでるの。寛二のこともそうだし、勉強のことも部活のことも、家庭のことでも悩んでる」
話題は予想外の方向へ進んでいる。馨は危険な匂いを嗅ぎとったが、話をさえぎるのは得策ではなかった。
「周囲の期待があって、私はそれに応えてるつもり。ここまでは順調にきたと思う。でも、どこかで踏み外してしまいそうな私がいるの」
「う、うん」
「あのね、聞いてくれるだけでいいの。……それで寛二にも相談したんだけど、私は今のままで大丈夫だからって、そう言うの」
「……」
「でもこの気持ちはたしかに存在してる。それをどこにぶつけたらいいのか分からなくて……、あなたに話してしまった」
外灯に照らされた十和子の頬に、一粒の涙が煌めいていた。この場面を誰かに見られてはならない、きっと勘違いされる。馨は当惑した。
「ごめんなさい、急にこんな話しちゃって」
「いや、いいんだ。それよりも……」
「えっ?」
「もし自分の中で答えが決まっているのだとしたら、それを信じて進めばいいと思う。ごめん、今の僕には、こんなことしか言えない」
「ううん、ありがとう」
精一杯の言葉を投げかけてくる馨を、十和子は好ましく思った。そして、自分のしたことの残酷さにも気付いた。
「ねえ、約束してくれる? 寛二には言わないって」
馨は頷いた。十和子が小指を差し出す。馨は黙って小指を絡ませ、約束を交わした。
それは曖昧で弱い、すぐにも崩壊してしまいそうな柔らかい感触だった。こんなにも脆い不確かな存在を、黄瀬は支えている。馨は心から黄瀬を尊敬した。
そんな二人の応答を、じっと遠くから見つめている瞳がある。桃子の表情は、闇夜に溶けて判然としなかった。
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