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一つの転機

 桜丘中学での生活は緩やかに進展していった。三日経ってもクラスメイトとの関係は変わらなかったが、黄瀬とは親しさを深めていくことができた。クラスメイトの馨に対する警戒も、いくらか緩んできているようだった。

 黄瀬が案内役を買って出たので、校内の配置はすぐに覚えることができた。そうすると、北棟はほとんど使われていないことが分かった。普段使われている教室は南棟に集中していて、北棟には視聴覚室や理科室、図書室や部活に使われる教室などがあるのだ。

 その北棟で偶然に出会った茶髪の少女は、あれから見かけることがない。他にも何人か茶髪の生徒を見かけたが、いずれもあの少女ではなかった。

 馨はまだ子供っぽい想像力で、あれは幽霊ではないかと考えたりもした。といっても、現実に幽霊が存在するはずはない。少女が生きている何よりの証拠として、彼女には柔らかそうな足がついていたのだから。

 黄瀬はといえば、相変わらず他のクラスに出かけていくようで、短い休み時間に教室の中で姿を見ることはなかった。それでも昼休みなどの長い空き時間には馨と過ごしたが、この雨の日にはふらりと姿を消してしまっていた。急にぽっかりとした穴が開いたようになって、馨はどう時間を潰せばいいのかまるで分からなくなったのだ。

 前にいた学校には小学校のときからの友達がいて、大抵は誰かと行動を共にしていたのだが、この学校には黄瀬以外に友達といえるほどの友達はいない。ふと思い出して紫村の姿を探したが、彼女もあいにく席を立っている。

 雨の窓外を陰鬱な気持ちで瞥見して、馨は図書室に向かうことに決めた。

 三年生の教室は南棟の二階にあって、図書室も北棟の二階にある。一階部分の渡り廊下はピロティになっていて、その上に連なる四階までの渡り廊下は側面が露出していた。馨は雨に濡れないように通路の真中を渡っていく。

 中庭から声がするので覗いてみると、雨だというのに鬼ごっこをしている生徒がいて、女子も混じってずぶ濡れになっていた。その楽しげな様子に馨も愉快な気持ちになった。雨音が軽快に踊っている。

 音といえば、馨は昼食の時間に流れていた校内放送の音楽に、奇妙な好感を抱いていた。放送部員の説明によれば、それはサラサーテのツィゴイネルワイゼンという曲で、以前にもどこかで聞いたような曲だった。古めかしく録音の状態も良くなかったが、心に迫る何かがあった。それは知的な好奇心を刺激するようにも感じられた。馨が図書館に赴こうとしたのも、それが理由としてあったのかもしれない。

 学校の扉はどれも引き戸になっているが、図書館だけは開き戸になっている。いやに重い扉を開けると、紙とインクの匂いが漂ってきた。当然ながら図書室はしんとしている。雨音さえ聞こえない。喧騒から静寂へ。そこに音のリズムが生まれたと思うと、ついさっき歩いてきた渡り廊下が特別な場所のように感じられた。

 心が弾む。馨は読書に特別の関心は持っていなかったが、並の中学生よりも本を読んだ。それは未だに義務的な作業だったけれども。中学校の図書室であるから、どうしても蔵書数は少ないのだが、その中に面白そうな題名や、優れた装丁が並んでいるのを見つけると、興奮してくるのを抑えきれなかった。

 あるいは黄瀬がいるのではないかと思っていたが、どうやら予想は外れたらしい。そうなるともう一つの想像、彼女と密かに語りあう黄瀬の姿が現実味を帯びてくるのだった。十和子というのはどんな人だろう。活字に囲まれているせいか、その名前や漢字が想像の中で特別な意味を持ってきて、きっと古風な人だという根拠のない結論に至った。

「あら、こんにちは」

 振り向けばそこに桃子がいた。貸し出し手続きを終えたらしい三冊ほどの本を、両手で大事そうに抱えている。

「やあ」

「今日は一人なのね。黄瀬くんはお元気?」

「さっきまで一緒だったんだけどね。多分、他のクラスの友達のところじゃないかな」

「そう。私、貴方の方に興味があるわ」

 目を細める桃子の表情に淫靡なものを感じた。いや、それはただの妄想。

「紫村は本が好きなの?」

「いいえ。書いてあることが同じなら、ちり紙であっても構わないわ」

「本じゃなく、読書で知識を得るのが好きってことか」

「そうね。本質至上主義ってところかしら。やっぱり貴方って物分かりがいいのね」

 馨は桃子が手にしている本を一瞥した。

「これ? 定義集とハムレットと死に至る病。今の私に必要な本ね」

「必要、か。僕はそんなことを考えて読書したことはないな」

「今に必要になるわ。私だって貴方と同じだったもの。前を向いて歩いていれば、いつかはそうなるわ」

 桃子はいつにも増して大人びた発言をする。馨は桃子の様子がいつもと少し違うことに、この時は気付かなかった。

「そうそう、良い機会だから貴方におすすめしたい本があるわ」

 急に色めき立って書棚に突進していく桃子の姿は、尋常な中学生のそれといえた。口では色々と言っていたが、実は本や図書室が好きに違いない。彼女にもまだ子供らしい部分が残っているのだ。

「あったわ。読んでみてちょうだい」

「方法序説……、デカルト。どんな話なの?」

「小説じゃないわよ。百聞は一見に如かず、まずは読んでみることね」

 決して分厚い本ではない、むしろ薄いといえるほどだった。そのこじんまりとした文庫本の中に、まだ見ぬ世界が広がっているのだった。

 点と点とが線になり、直線が生まれ、矩形を成す。それはやがて幾何学模様へと発展していき、壮大な宇宙の基礎となるのだ。身体の浮遊する感覚。肉体と精神とは分離される。精神は結合と分裂を繰り返し、無限の螺旋階段を駆け上っていく。そうして行き着く先は。

「駄目よ。妄想は読んでからにしなさい」


 渡り廊下を南棟の方へ戻ってくると、ちょうど黄瀬が階段を上ってきたところだった。

 馨は独り教室に取り残されたことを恨む目をしたが、黄瀬は気付かない素振りをしてみせた。それでも視線を外さなかった馨は、黄瀬が渡り廊下の方を一瞥するのを見逃さなかった。馨はほのかな予感がして振り向いた。

「あっ」

 向こうから歩いてくる茶髪の少女が馨の姿に気付いて、驚いた拍子に声を上げた。同時に馨の動悸が高まる。

「この前の転校生さんだよね」

 駆けよってきた少女が、親しげな調子で話しかけてきた。馨は突然の再会にどぎまぎして、少女の顔が不用意な近さにあることに気付かなかった。

「あ、そうです。お久しぶりです」

「覚えててくれたんだね。えっと、黄瀬くんとはお友達?」

 一転して値踏みするような視線を送ってくる少女に、馨は初めて小さな反感を覚えた。

「友達、なのかな」

「友達だよな。そう、こいつとは友達なんだ」

 黄瀬もそわそわとして答える。

「そう。あなただったら信用できそうね、黄瀬くんのことをよろしく」

「う、うん」

「また時間のあるときにお話しましょ。あなたに興味があるの」

 これは一種の告白ではなかろうか。その疑問に対して馨は無条件に肯定の判断を下した。

「じゃあ、さようなら」

 そう言って少女は三年二組の教室に消えていった。二人は無言で自分たちの教室に戻り、馨が席についたところで、ようやく黄瀬が口を開いた。

「あいつとは知り合いなのか?」

「ああ、転校してきた日にちょっとね。道案内をしてもらったんだ」

「そうか、それならいいんだ」

 黄瀬の口調はどこか歯切れが悪い。馨もようやく疑いをもって、黄瀬に尋ねた。

「彼女とは友達なの?」

「十和子だ」

「えっ?」

「あれが赤司十和子だ。付き合ってることは秘密にしてる、お前以外にはな」

 その瞬間の世界に音はなく、それでいて腑に落ちるものがあった。その事実が当たり前のように思えたからだ。もっと早く、黄瀬や十和子の様子で察することができただろう。またそれが事実であると知ると、彼ら以外の組み合わせはありえないように思えたのだ。

 桃子の言葉が鮮やかに蘇る。自己防衛本能。それは今日も支障なく機能しているのだった。

「そうか、そうだったのか」

「すまん」

「いや……、教えてくれてありがとう」

 顔に書いてあるから分かると、よく人は口にする。馨の十和子への好意も、そのようにして明らかだったのだろう。そうでなければ黄瀬が謝る必用がなかった。

 十和子――、十和子は馨の好意に気付いていただろうか?

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