黄瀬という男
三十五人分の給食が、三年五組の教室に運びこまれた。主食は豆腐でできたハンバーグで、ご飯と味噌汁とサラダ、それに牛乳がついている。味に不満はなかったが、特段美味しいといえるものでもなかった。量も少し物足りない。食べ終わったときには、まだ時間が十分も余っていた。
昼休みは何をしよう。昼休みが終わって、今日が終わって……。明日になったら友達ができているだろうか。憂鬱な思いに包まれる頭を午後の日差しが撫でた。
「おっ? 今日は誰か休んでいたか、牛乳が一つ余っているんだが」
「欠席はありません」
「おかしいな。誰かもう一本飲みたい奴はいないか?」
暖かい日差しに兆した眠気を、担任の呼びかける声が覚ます。ちょうど胃に物足りなさを感じていたところだった。他に応じる気配がないのを確認して、馨は立ち上がる。教壇に近づけば近づくほど、注いでくる視線の数が増えていくのを感じた。
教壇の前で背の高い少年と出くわした。見覚えのない生徒だったが、一日で全ての生徒を把握したわけではないからと、馨は不思議に思わなかった。黒い学生服のよく映える少年だ。今時の痩せたのっぽではなく、程よい筋肉を具えた紅顔の美少年だった。
「じゃんけんだな」
少年が呟いた。それは牛乳をかけて、二人がじゃんけんをするということらしい。少年が構え、馨も構える。教室の全視線が注がれる。たかが牛乳を巡って、それだけの注目を浴びるのは妙な気分だった。
「最初はグー、じゃんけんポン!」
空に交わされる、パーとパー。真横から見たその様子は、さながら握手を交わす少年たちの姿。馨は茶髪の少女に引かれて歩いた、北棟と南棟を繋ぐ渡り廊下を想起した。両側の出口から歩み寄る、学生服を着た二人の少年。馨は南棟の方から歩いていく。やがて二人はその中央で対峙する。そしてまさしく握手を交わした。それは二人の精神の出会いと結びつきを、象徴しているかのようだった。
少年は名を黄瀬寛二といった。とても軽快に話す男だが、それでいて軽薄さを感じさせない。馨はむしろ実直な印象を受けた。黄瀬は勝ち取った牛乳を片手に、あれやこれやと語った。今日の給食の感想から好きな音楽の話まで、黄瀬の心情が余すところなく語られる。最初は馨も圧倒されたが、黄瀬の内面的な輪郭を知るうちに、自然と自分の感情や信条を表白するようになった。
「きみのような人がこのクラスにいたなんて、今まで全然気付かなかったよ」
「ああ、それには理由がある。このクラスが嫌いなわけじゃないが、他のクラスに友達が多くてな、暇があればそっちの方に出かけてるんだ。だからこの教室にいることはあまりない」
「そうなんだ。僕なんて人見知りだからさ、なかなかクラスの輪に入れなくて」
「このクラスじゃ仕方ないわな。話してみれば良い奴ばっかりなんだけどさ。じゃあ、このクラスで喋ったのは俺が最初か」
「そうだね。……いや、違った。紫村だったっけ、彼女と一度だけ話した」
そんな馨だが、放課後の教室で黄瀬が発した告白には、さすがに面食らった。
「俺、実は好きな相手がいるんだ。というか、もう付き合ってるんだけど」
「へえ、どんな人?」
「トワコって子なんだ」
トワコ、といえばあの紫村の名ではなかったか。馨は思わずのけ反った。
「ト、トワコって紫村のこと?」
「ん? 二組の赤司十和子だ。知ってるのか?」
そういえば、と馨は思った。紫村の名前はトワコではなく、トウコだったはずだ。
「い、いや、勘違いだった。それにしても彼女がいるのか」
「馨は好きな相手とかいないのか?」
「えっ、いや、その」
好きと断言できるほどの感情ではなかったが、今朝の茶髪の少女には好意を抱いていた。それは明白な事実だ。とはいえ、一度会話をしただけの相手を好きともいえず、また相手の名前すら知らなかったので、馨はその事実を伏せた。
「まだ引っ越してきたばかりだから。これから、これからゆっくり探すよ」
「まあ、こればっかりは努力だけじゃなんともならんからな。良い相手が見つかるかどうか、運次第ってわけだ」
それにしても。話しているうちに気付かされたが、黄瀬は人間として馨よりも一回り大きな存在だった。考え方がしっかりしていて、コミュニケーションに長けていて、おまけに恋人もいる。馨はそう感じるのを免れていたが、嫉妬の対象になっていてもおかしくはないのだ。
午後の間中、ずっと黄瀬を観察していたが、クラスの内外に大勢の友人がいて、多くの笑顔に囲まれている。もしも彼が嫉妬の的になっているとしたら、そして、それに気付きながら飄然としているとしたら。馨は黄瀬に同情した。
「それは違うわね」
教室で黄瀬と別れ、一本桜の下で桃子に出会った馨は、漠然と感じた不安を打ち明けた。彼女は黄瀬を除けば、最も信頼のできる人物だったが、帰ってきた返答は予想だにしないものだった。
「貴方は黄瀬くんのことを心の中で見下してしまったの」
「そんなはずはない。何が言いたいんだ」
「怒らずに聞いてちょうだい。貴方は黄瀬くんという立派な、あまりにも立派な存在に出会ってしまったことによって、無意識に自己防衛本能を働かせたの。妄想の中で黄瀬くんに同情の余地を見出して、安心しようとしたのよ。そう考えてしまうのは仕方のないことで、問題はその妄想を事実と思いこんでしまったことよ」
そこまではっきりと断言されてしまうと、桃子の主張が全て正しいことのように思えてきた。怒り心頭に発したとしてもおかしくはない場面だが、桃子のさっぱりとした口調に、悪意のないことが明確に表れている。
「そ、そうなのか」
「でも、貴方の憂慮は的外れではないわ。今は彼に対する悪い感情が表立っていないけれど、何かのきっかけがあれば、周囲の反感を買うかもしれないわね」
「それってどうしようもないのかな」
「そうね、どうしようもないわ。貴方にできるのは、黄瀬くんを支えることだけ。支えたいっていう気持ちがあるだけでも、素敵なことだと思うわ」
桃子はそう言って微笑んでみせた。作られたのではなく自然な、それでいて大人びた表情に、馨は絶対的な隔たりを感じた。
空の朱が星々に四散していくのを、二人は一本桜の下でいつまでもいつまでも見ていた。
一部の表現、誤字を修正しました。