丘の上の桜
初投稿の作品です。
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緑色の市バスが走る大通りから、傾斜のきつい舗道の坂を登る。五分ほど歩けば、西側の正門にたどり着く。ここが桜丘中学の入口だ。振り向けば桜の木がずらりと並んでいて、きっと春の日和には美しい花びらが開くのだろうと思った。
六月の空はいつになく晴れやかで、新しい門出を祝福されているような気持ちになった。そんな幻想を信じることができるのが、雪定馨の美点だといえる。馨は父親の転勤という平凡な理由で、この長津市に引っ越してきた。けれども馨にとっては、それが人生の一大事といえたし、三年生のこの時期に引っ越すことは珍しいともいえた。
深呼吸で気持ちを整え、正門をくぐる。馨の心の半分を占めているのは、新しい世界の広がりへの期待と、今までの生活への未練だ。自然と伏し目がちになる。校舎へ向けて歩く馨は、どこか冷たさを残した風に揺れる、青葉のささやきを聞いた。
ふと目を上げると、大きな一本桜が優雅に枝葉を伸ばしている。少し古ぼけた校舎と真っ青な大空を背景に、桜は威風堂々と佇んでいる。その姿は馨の心を打った。脳裏に浮かぶ、大地の抱擁の光景。桜は少女の形を成して、馨の頬を撫でる。少女はどこか懐かしい顔をしていた。
束の間の幻想を経て、生の充溢が胸を浸していくようだった。それは、新たな学校生活の春を予感させた。
上履きに替えて校舎に足を踏み入れる。前に一度だけ母親と来たが、職員室の場所が思い出せない。案内板のようなものもない。路頭に迷った馨は携帯電話を取り出した。そこに答えがあるわけではないが、困ったときの癖だった。自分のことながら情けない気持ちがする。そうだ、母親に確認してみよう。
そこへ、元気のいい足音が近づいてくるのに気がついた。階段を駆け下りてくる人物の足が、まず視界に入る。赤いチェックのスカートから伸びる、肉付きのいい太もも。春の予感を覚え、すかさず視線を上げた。それはふわりとしたボブカットの、まさしく可憐な少女だった。
「あれっ、何してるの?」
馨の様子に違和感を覚えたらしい少女は、そのまま駆け下りてきた。その駆けよってきた少女との距離があまりに近かったので、馨は返事をするのも忘れてどぎまぎする。
「あ、ああ。そうなんだ」
「何が?」
自分でも何を言いたいのか、よく分からなかった。それがあまりにもおかしくて、つい噴き出してしまう。
「ごめん、ちょっと混乱してて。転校生なんだ」
「迷ってるの」
「うん」
少女が馨の不審な応答に嫌悪感を抱いた様子はなかった。馨はようやく落ち着いて、少女の顔を直視することができた。小さめだが形の良い瞳と、小ぶりな鼻の持ち主で、愛らしい印象を作りだしている。少し厚めの唇からちらりと見える歯並びは、広告塔の女優のように整っている。目の下の隈の強さだけが、欠点らしい欠点だった。
「どこへ行きたいの?」
「職員室まで」
「なんだ、職員室か。だったら南棟だよ」
結論を全て聞いてしまう前に、馨は自分の失敗を悟った。二つある棟のうちの、正解ではない方に足を踏み入れてしまったのだ。
「そうだったのか。じゃあ、ここは北棟か」
「そうだね。誰もそんな呼び方はしないけど。とにかく、連れてってあげる、ただし電話はポケットにでも隠して。校則で禁止されてるから、見つかるとまずいよ」
少女は馨の初々しい制服の袖を引いて、職員室に向けて歩き始めた。馨はといえば、表情の愛らしい少女との接触に動悸を早めながら、少女のふわりとした茶髪を飽きることなく見つめていた。
「では教科書の三十八ページを開いてくれ」
無事に職員室にたどり着いた馨は、自分の担任と顔を合わせ、これから短い学校生活を送る教室で、新しいクラスメイトたちに簡単な自己紹介を済ませた。人見知りがちな馨は、もそもそと口ごもるようにしか喋れなかったが、クラスの反応が冷たいのはそれだけが理由ではないらしい。
どこか陰鬱な雰囲気のするクラスだった。それが当たり前とはいえ、授業中の談話は皆無で、教師が時折発する冗談への反応も冷ややかだ。
馨に用意された席は窓際の一番後ろで、馨にとっては喜ばしい待遇だったが、時期外れの転校生のために仕方なく用意されたという感が否めない。それでもクラスを観察するには好都合で、後ろ姿の美しい女子を記憶するのに労力を使ったりした。
そうするうちに段々と生じてきた違和感は、明るい髪の色の生徒が一人としていないということだった。前の学校では夏休み中に髪を染めてきた女子や、元々が茶髪の生徒などもいたが、このクラスの生徒は黒髪で占められている。
黒髪の中に埋もれることで、記憶のなかのあの少女、袖を引いて馨を案内してくれたあの少女の魅力が、より鮮明な色を帯びていくのを感じた。
一時間目の授業が終わる。すると張りつめていた空気が和らいで、教室中に談笑の花が咲く。馨の心配は杞憂に終わったらしい。あたかも片田舎のコミュニティのように、排他的なクラスでないことを馨は祈っていたのだ。しかし、転校生に対する関心は薄いようで、馨は誰にも話しかけられないまま二時間目を迎えた。
やがて四時間目も終わり、昼食の時間になる。前の学校は弁当を持参していたが、新しい学校は給食なので助かると、母が言っていたのを思い出した。突然の転勤だったから、一つでも負担が減るのはとても嬉しかったのだろう。新しい生活はまだ不安定に成り立っていた。その気苦労や不安は大人だけのものではない、中学生の馨にも強い実感として心を揺さぶっているのだ。馨は早くも孤立しかけていたのだから。
気晴らしの必要を感じた馨は初めて席を立った。慣れない校内を歩く気分にはなれなかったし、廊下には見知らぬ生徒が溢れている。さて、トイレにはどちらへ行けばいいかと思案する馨の足下に、何か異質なものが入りこんだ感覚があった。思わず退いてみれば、それはピンク色のボールペンだった。
「あら、ごめんなさい。それを落としてしまったの、拾ってくれるかしら」
この教室に入って初めて声をかけられた。そう思って顔を上げれば、そこにはやはり黒髪の、美しい少女が座っていた。先程の少女とは違って長髪だったが、彼女もまた見た目に優れた美少女だ。よく観察して初めてそれが美貌だと分かる、控えめな美しさだったが、馨の好みによく合致した。
ペンを拾って無言で差し出した馨は、そのまま立ち去ろうとしたが、少女の方が言葉を継いだ。
「悪気はなかったの。許してくれるかしら」
「いや、別にいいんだよ。気にしてないから」
「そう。ちょうど足を怪我して、落とした物を拾うにも難儀していたの」
少女はそう言ってスカートを少しまくってみせた。怪我をしているという事実を証明したいらしい。一応、逡巡してから覗きこんだ。
「よく分からないな、どこが痛むの」
「見ただけでは分からないわね。階段から落ちて足を痛めたの」
「へえ、それは災難だったね」
馨はどうして少女がそんな話をしたがるのか、よく分からなかったが、相手が自分に好意を抱いているらしいことは分かった。
「私は紫村桃子っていうの。よろしく、雪定くん」
「よろしく、紫村さん」
「このクラスにはなかなか馴染めないでしょう。ここの子たちはまだ子供だから、怯えているの」
「僕に怯えているってこと?」
馨は意外な思いがした。てっきり彼らに無視されていると思いこんでいたからだ。
「貴方に、というより他人にね。狭い価値観しか持っていないから、外から来た人間を警戒しているの」
「そう言う君はどうなのさ。僕にはそんな臆病者には見えないけど」
「あら、嬉しいわね。幸か不幸か、私は彼らとは違うと言えるわ。でも彼らだって慎重に接していけば、いつか分かり合える時が来るわ」
「ふうん、そんなものか」
不意に桃子が笑った。それはとても大人っぽい、羨ましくなるような仕草だった。
「貴方って人見知りに見えたけれど、案外そうでもないのね。ずっと物分かりがいいわ」
「そ、そうかな」
「ええ、そうよ。自信がないわけじゃないのね、傷つくのが怖いだけで……」
「えっ?」
「何でもないわ。そろそろ給食が来るから、トイレに行くなら今のうちよ」
そう言って桃子はもう一度笑った。
一部の表記、一部の表現、段落の下げ忘れを修正しました。