72.「最後の星」
――たれそかれ、かはたれそ
彼女が、俺の姉――
「あ、ああ、あ……!」
俺は限りなく灰色な、自意識の舞台に膝を折って崩れ落ちた。
「う、あ――」
記憶の中にある彼女との輝かしい想い出、彼女と再会した時に生まれた恋、交わした口づけ、全てが胸をズタズタに切り裂いていく。
かのじょが、あね――
終焉の境界に差し掛かってもなお、俺を突き動かしていた意思は、意思を支えていたものは、生を希求する全ては愛だった。
カノジョガ、アネ――
思えば容易に飲み下せない嫌悪感はずっとつきまとっていて、それでも俺は雨の公園で、その嫌悪感を乗り越えた。
俺の心はあの瞬間に一線を超えた。
超えてしまった。
忘れて、いたのか――?
「手に入らない。結ばれない。たどり着けない」
ワイズ・グレーが静かに言葉を続けた。
「それでも僕は、手に入れようとしてしまう」
俺は恐怖に駆られて顔を上げた。
ワイズ・グレーは、一度執着したものを手放すと言う事を知らない。
レヴィ・チャニングの中の僕は、酷く諦めが悪い。
諦めると言う事を知らない。
消すことの出来ない、生まれ続ける僕――
「生みの親に向かって、そんな顔をしないでくれよ」
ワイズ・グレーは、涙を流して笑っていた。
「お前は妄執の塊である僕から生まれた存在だ。僕が生んで整えた存在なんだ。彼女に固執し続けることだけは、僕も俺も変わらない」
「ち、が……お、れ、あ……!」
涙が止まらない。
息が詰まって言葉にならない。
頭の中が白じんで思考が停止する。
動き続けていた意志が、生まれ続けていた俺の欲求の全てが止まる。
「僕にとって、女とは彼女だ」
ワイズ・グレーが体を引きずりながら俺の前に立った。
「レヴィ・チャニングにとって、彼女は世界で唯一の女だ」
涙に濡れる、悲しそうな、子供の目――
「お前は、僕が忘れてしまった赤黒いものがなんであるかを思い出すために、ずっと探し続けていた」
「さが、す……?」
過敏な感覚による紙の魔法抵抗力が出会う女性の体が発する魔力に影響されて、あっという間に恋してしまう。
恋に悩んでは修行に身が入らず脱落し、あとはひたすら酒・女・喧嘩のループで破戒街道まっしぐら。
複雑な魔法術式などつかえない、初歩に近いことしかできない、神父服着た遊び人。
プレイボーイと言うほどでもなく、単に惚れっぽいだけの傍迷惑な発情犬――
「愛を思い出せる何かを、傾けられる誰かを、探し続けていたんだよ」
「そん……な……」
逃げ回って、探し回って、挙句に俺が行き着いたのは、欲求の消失だった。
でも、救われた。
彼女に出会って俺は欲求の消失、絶望から救われた。
他ならない、彼女に出会って――
「手を伸ばしたところで届くことのない。彼女はそんな僕の星……」
ワイズ・グレーがゆっくりと俺に手を翳した。
もはや無意識の闇が見えないほどに空の記憶の星が閃光を放ち始めた。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ
自意識の舞台が地響きを立てて揺れ出した。
四方の端から、灰色の地面がボロボロと崩れ始める。
「おわ、る……?」
俺は記憶の鮮烈な光の中で、崩壊していく自意識を呆然と眺めた。
「結局、お前でもダメだったんだよ」
ワイズ・グレーの手に魔力の光が灯り、聖なる拳の威力を収束させる。
今の俺の体には魔力がほとんどない。
意思の力がない。
無防備の状態で発勁を喰らえば、一溜りもないだろう。
「おわ、り……?」
「僕は、お前は、絶対に間違っている」
ワイズ・グレーが腰を落とした。
自意識の舞台を踏み鳴らす震脚、
強烈な体重移動が生む衝撃を、各部関節が単調な動作に見えるほどの高速可動で加速させていく。
聖なる拳の威力が乗った掌打、
ああ――
俺は眼前に迫るワイズ・グレーの手と、その奥で崩壊する自意識、消滅していく記憶の星を眺めていた。
世界が消えようとしている。
そうか、これが――
肉体が滅び、記憶と自意識が消失し、全てが無意識に飲まれて消える。
死――
○
雨が降っていた。
『女神の恵み』と呼ばれる、リディア特有の通り雨とは少し違う。
しとしとと街を濡らす本降りの雨だ。
吹く風が湿り気を帯びていて、肌にまとわりつくような空気だった。
戦勝記念公園の東屋で、僕は彼女と向き合っていた。
「今日は雨の匂いがしたんだ」
雨が降る前に吹く風は大抵温く湿っていて、水の甘さを含んでいる。
湿った空気を受けて、土や木々が匂いを変える。
世界が雨を教えてくれる。
「この様子じゃ大分長そうだ。いつもの『女神の恵み』と行った具合にはならないらしい」
東屋の手すりに片膝抱きに腰掛けて、僕は垂らした片足をブラブラと揺らした。
体のどこかを動かしていないと落ち着かない。
普通に背のある人間が見ている景色が見たい。
自分の足が着かない場所に腰を据えたかった――
「雨の日と言うのはどうにも気が滅入ってしまうね。空が暗いと気分が沈む」
「私は嫌いじゃないけれど」
改まった一人称に、僕は一瞬だけ魔力を乱した。
二人きりでいるとき、彼女の言葉遣いは普段にも増してずっと無防備になる。
彼女の中には、我が儘で激しい、毒を持ったひめゆりが住んでいる――
「雨なら屋内がいい。雨音を聞いて濡れる表を眺めるのは好きだよ」
「うん」
「でもどうせなら、晴れた日にここから公園を眺めていたかった。明るすぎず暗すぎずのここで、陽の当たる公園を眺めるのが好きなんだ」
「ふぅん……」
表情を消して、彼女は目を横に流した。
「どうして雨なものかな……いや、先の通り降るだろうなとは思ってたんだけど」
「……うん」
彼女の声のトーンが少し落ちた。
安定しているように見せているが、魔力が小刻みに揺れている。
鈴蘭の香りが、雨の香りよりもなお湿って沈んでいる。
「そう言えばこの間、素敵なクレムブリュレを出す店を見つけたんだ。と言っても、公園を出てすぐそこなんだけど」
「うん」
僕は間を作らないように話題を振った。
彼女の話を避けているのが自分でもわかる。
「ただドリンクの方がいまいちでね。いや味は普通なんだ、シロップを混合させて作った普通のジュース。しかし、氷が大きい上に多過ぎる」
「うん」
「基本ジュースと言うのは全部薄めて飲みたい方だから、僕は全然構わないんだけど……それにしてもあの量であの値段は如何なものか。流石は城北のカフェだよな」
「ふぅん……」
「コークが五ディール半と言うのは少し高すぎだと思わないか? アイスを乗せてマドラーにチョコスティックを付けてくれるなら、そのぐらい出してもいいけど」
「……うん」
言葉が湯水の様に湧いてくる。
このままいつまででも話し続けていられそうだった。
右手で忙しなく弾き続けるコインと同じで、頭の中のコインが回転し続けている。
「折角表に抜けて来たというのに、雨と言うのだからまったく間の悪い。『女神の恵み』と言うほど強くもないし今日の空はどうなっているんだか」
声が上ずって必要以上に通ってしまう。焦りがひたすらに頭のコインを回転させる――
「レヴィ」
「うん?」
「少し、私が話してもいい?」
「……」
普段受けの彼女が、遂に攻勢に出た。
回避する術が見当たらない。
「何かの雑誌のコラムで読んだ気がする。自分の話ばかりする男性は嫌われるんだって」
僕はぼんやりとした顔で、東屋の天井に目を向けた。
「おあつらえ向きの天気だな」
曇天の空模様が、気分を象徴しているかのようだった。
「レヴィ」
「聞くよ。面白くなさそうな匂いがするけど」
「……ごめんなさい」
○
「妙、だな……」
俺は自意識の舞台に涙を落としながら呟いた。
瞬間的に喚起された記憶の衝撃に、頭の中がチカチカする。
「ぐ、ふ――」
交差法で突き出された俺の拳を腹に受け、ワイズ・グレーが苦悶の声を漏らす。
「なにゆえ俺は、彼女と相対したあの日の記憶を見た? まさに死なんとするこの瞬間に」
俺はゆっくりと顔を上げた。
「姉としての彼女が、一向に思い出せないワケだが――」
「……ッ」
ワイズ・グレーがよろめいて後ろに下がった。
「思い出せないのは、ストレスを回避しようとする無意識の逃げがさせる忘却……の、可能性がある」
ワイズ・グレーの言葉を、信じればの話である。
思考が記憶と知識の幅を取り戻した。
「ならば絶望の裏付けたる記憶が喚起されないのは逃げか? しかし、思い出せたとて――」
頭の中で思考のコインが回転を上げる。
「彼女が姉で有ると言う事実が、今の俺には絶望たり得ない」
立ち上がって、俺は拳を握り締めた。
「消えて、いない……?」
前髪で表情を隠したワイズ・グレーが、ボソリと呟いた。
「消える?」
「……」
ワイズ・グレーは、俯いたまま少し黙った。
「死に、辿り着いたのか……?」
「死に辿りついた?」
俺は訝しげに首を傾げて考えを巡らせようとした。
「そうだ……」
俺は頭に思い浮かぶ浮かぶ記憶に目を瞑った。
死――
「五年前に、俺は一度――」
「まて! シューティングドッグ、それは待てだ! 考えるな!」
ワイズ・グレーが俺に平を向けた手を出した。
「は?」
「……」
言葉通りにポカンとする俺の前で、俯いたワイズ・グレーがなにやら熟考し始めた。
「お前は一体何を――」
「妙だと思ったのは、それだけか?」
思いのほか強い語調で、ワイズ・グレーが俺の言葉を遮った。
「近親相姦と言うのは確かにヘヴィだが……」
俺は涙を拭って溜息をついた。
人の常識に照らし合わせて考えれば、それは確かに延々と答えの出ない否定ともなり得る。
自分は絶対に間違っていると、思い悩んでもおかしくはない。
「しかし、瞬間瞬間の欲求から無限に発生し続ける俺やお前に、果たしてそんな一般常識の範疇にあるものが否定のリングになるものかな」
確かに俺は、ついさっきまで絶望していた。
想い人が実の姉で有ると聞かされて、決して抜け道のない問題と思い込んだ。
が、よくよく考えてみると――
「有史以来、論争される問題でもある。つまり、ヤってるやつはヤっている」
俺は俯くワイズ・グレーを「ずびしっ」と指さした。
「この遊び人、食指が動けば祖母から孫まで喰らう所存。愛があるなら仕方もなし」
問題発言のような気もするが、気にしない。
自分の中でのことなので全く気にする必要がない。
愛を手に入れたレヴィ・チャニングに、常識は通用しない。
俺はこんな風に、新たな答えを見つけた次の瞬間には、思考や思想が変転する。
「間違っていると……他人に言われても、か?」
ワイズ・グレーが俯いたまま、か細い声で言った。
「繰り返させるな」
俺は猫を真似てちょっとニヒルに笑ってみた。
「誰がなんと言おうが、俺は俺の愛を信じる」
慣れない笑み方にどうにも頬がヒクヒクしてしまう。
「誰が……間違ってると言っても、その意思は揺るがないのか……?」
「くどいぞ『僕』、何もせず死ぬぐらいなら、一度ぐらい拝み倒して姉と契ってみやがれ」
弱冠ウケを狙ったところもあったのだが、ワイズ・グレーはクスリともせず、俯いたままだった。
「愛に、死……」
ワイズ・グレーがよろよろと後ろに下がる。
「……おい?」
「ギリギリ、抜けられそう――か」
――ドドドドドドドッ
俺たちを包囲するように進む自意識の崩壊が、すぐそこまで迫っていた。
「ワイズ・グレー、おい!?」
ボロボロの体を引きずって、ワイズ・グレーが崩壊する自意識の端へと下がり続ける。
「お前の言うとおりだよ。シューティングドッグ」
上げた顔は、泣いても笑ってもいなかった。
「彼女が実の姉だろうと、そうでなかろうと、僕には、『俺』には、あまり関係がない」
ただ知恵の光りに満ちた、澄み切ったサファイアブルーの瞳が前髪の奥で輝いていた。
「世間一般が言う常識など、なんら制限にならない。常識外れのことを当たり前に思い浮かべ、当たり前に発言し、当たり前に実行してしまう。それが自身の信じる欲求であるならば、なんら躊躇を抱かない。他者から見ればいっそおぞましい、良識無き存在……それが、レヴィ・チャニングと言う人間だ」
「おい――」
――ビシィッ
足を踏み出した瞬間、自意識の舞台に大きく亀裂が入った。
「シューティングドッグ、時間がない」
ワイズ・グレーが右手にコインを呼び出した。
「いや、それは、重々、分かって――」
亀裂から大きく傾いでバラバラになろうとする自意識のにしがみついて、俺はワイズ・グレーに目をやった。
バラバラになった自意識の欠片に乗って、ワイズ・グレーの体が無意識の闇に飲まれようとしている。
「ワイズ・グレー!?」
「お前に打ち込んだ魂の走馬灯には、実は少し欠損があってね」
「な、に……?」
「お前はこの境界を抜ける、最後の決め手を知らないだろ?」
「それは――」
この終焉に向かう魂の境界は、かつてワイズ・グレーが編み出した術式の効果によって維持されているものだ。
彼女が術式を行使し、俺達を世に留めている。レヴィ・チャニングの魂を維持し続けている。
その先が分からない――
「くそッ、分からないじゃない、考えろ!」
「あははは! 無駄無駄。僕が意図的に記憶を抜いているんだからな」
砕けた自意識の欠片にしゃがみこんで、ワイズ・グレーが笑う。
「そんな、くそ、こんな――!」
俺は安定しない地面に這いつくばって、上へ上へと流されていくワイズ・グレーに手を伸ばした。
「必死の中で自意識にしがみつくとは、僧侶の風上にも置けない男だな。『俺』は」
ワイズ・グレーがクスクス笑う。
「やかましい! 解脱すなら彼女の上と決めている!」
危機に瀕して煩悩全開、無様でもみっともなくても、俺は記憶の全てを取り戻したい。
彼女を取り戻したい。
「くそぉおおお! ワイズ・グレー!」
「何度も何度も絶望を繰り返す、お前の相手は骨が折れた」
ワイズ・グレーが髪をかき揚げて心底うんざりとした顔をしてみせた。
「繰り返し――!?」
それは幾度となく、ワイズ・グレーが口にした言葉だ。
「最後に見ておくかい?」
ワイズ・グレーは、屈託のない子供のような微笑みでコインを弾いた。
――タァンッ
「ぐ――ッ!?」
胸に打ち込まれたコイン――記憶の星が、頭の中に映像を溢れさせた。
脳裏に閃いた記憶の星の一粒は、精神世界で闘う二人の姿を映し出していた。
俺とワイズ・グレーが闘っていた。
闘いの途中、俺は崩れ落ちてそのまま動かなくなってしまった。
『時間がないんだ、シューティングドッグ! 想い出せよ!』
『なに……なに、が……!?』
茫然自失とした俺が、途切れとぎれに言葉を発している。
『彼女が姉だと僕に教わってそれで終わりか!? お前の欲求は、お前はそこで終わりなのか!?』
ワイズ・グレーが必死に揺さぶっても、俺は何にも反応を示さなくなり、やがて全ての記憶を失った。
『……あら、君は?』
記憶を消し終わった俺が、再度立ち上がりワイズ・グレーと出会う。
ワイズ・グレーが魂の走馬灯を打ち込み、混乱する俺の記憶を喚起させる。
今度の俺は、ただひたすらワイズ・グレーに恐怖していた。
『どうしてお前は、俺を殺そうとする! そんなに俺は、俺たちは、間違った存在だと言うのか!?』
錯乱した俺が、ワイズ・グレーに襲いかかっていた。
『違う、聞け! お前がたどり着かなかればならないのは、記憶にある死の概念だ! 死を認識しろ! この世界は生死の境界にあって、お前は死のうとしているんだ! 死と向き合え!』
『どうしてお前は、俺を殺そうと、する、どう、して……!』
『他者とは鏡だ! 人は自分の中にあるものでしか他者を見ることが出来ない! お前は僕が、死にしか見えていないのか!?』
『だって、おまえは、それに辿り着かせると……』
『それとはなんだ、口に出して言ってみろ!』
『それは……そ、れ……?』
迫り来る死という未知の恐怖に耐えられず、俺はそのまま記憶を失った。
記憶を失い、失うたびに俺は魂の走馬灯を打ち込まれ、記憶を喚起させられて、しかしその記憶の喚起は何処か歪で、何かを忘れた状態の俺だった。
『お前は死と言う言葉に、死そのものに辿り着かなければならない! こんな自意識の崩壊じゃない、彼女のために、ラブリッサのみんなのために、辿りかなければならないんだ!』
『みんなの、ため……?』
『絶望から逃げるなよ! ちゃんと思い出せよ! 自分で超えて、自分で立って、この境界を抜けて見せろ!』
『なにが、どう、いう……?』
『初め言った通りの事だ! お前は僕を否定する、レヴィ・チャニングの中の否定! 今この世界で、否定のリングに囚われているのは、お前なんだシューティングドッグ!』
『な……え……?』
『逃げ続けているのは、お前なんだ!』
『に、が、る……?』
打ち込まれる記憶に、俺が絶望と言う拒絶反応を示し、全てを忘れる。
ワイズ・グレーが戦闘を交えて記憶の喚起と定着を試みる。
その、くり返し――
『ああああああああああッ!』
赤黒い何かを、愛憎の関心と認識出来なかった俺がワイズ・グレーを攻撃する。
『お前を消して、俺は生きる!』
ワイズ・グレーを死の恐怖としてしか認識できない俺が、ワイズ・グレーを攻撃する。
「おれ、が……ずっと、繰り返して……!?」
瞬間的な記憶の喚起に、俺はまた涙を溢れさせた。
目が覚めた時、ワイズ・グレーは既にボロボロだった。
時間がないと何度も何度も口にしていた。
意思を燃やし続けていた。
「お前は、ずっと生きようと、生かそうとして……!?」
「……よし。繰り返した自分にも拒絶反応を起こさないな」
俺の問を無視して、ワイズ・グレーはホッと溜息をついた。
「十一回だ」
「え……?」
呆ける俺に、ワイズ・グレーがクスクスと笑った。
「ここで僕が、お前を構築し直した数さ」
「ワイズ、グレー……!」
自意識の舞台の上で、望みを絶ち続け、死の誘惑に逃げ込もうとしていたのは、俺だった――
「僕は肉体の死の間際、彼女に全てを思い出させてもらった。愛と死を強烈に体験した。お蔭でレヴィ・チャニングの記憶を全て飲み込むのに、さほど時間がかからなかったのだけど」
ワイズ・グレーが小首を傾げる。
「成長した『俺』と言うのは、実に頑なだな。思考に柔軟性が足りてないんじゃないか?」
流される自意識の欠片の上で、ワイズ・グレーが額に手を当てた。
「いや、それほどに、レヴィ・チャニングも歳をとったと言うことなのかな。社会における、常識を重んじるほど、人並みに歳をとったと言うことなのかな……」
絶望を超えて、生きようとする僕を阻んでいたのは俺だった――
「僕が与える記憶の全て、魂の走馬灯を飲み込む事が出来れば、お前は現世に戻ることが出来る!」
自意識の欠片の上で、ワイズ・グレーが叫ぶ。
「ワイズ・グレー!」
俺は無意識の闇へに体を浸食される、俺を生んだかつての自分、過去の僕に手を伸ばした。
「さあ正真証明、これが最後の記憶喚起の鍵――インセスト・タブーなどよりよっぽど重い、非常識に幼稚な、僕の記憶の星だ」
ワイズ・グレーが右手をゆっくりと構えて、俺に狙いを定める。
「全てを思い出せ。そしてもう二度と忘れるな? 一度忘れた愛と死を」
「ワイズ――」
「僕のステラを、忘れるな」
――タァンッ
無意識の闇に消えるワイズ・グレーが放った最後の記憶が、俺の胸を撃ち抜いた。




