71.「否定のリング」
――たれそかれ、かはたれそ
鈴鳴りの声が響く世界で、俺は僕を追い続けた。
「「加速!」」
共に魔力を発揮して、高速化する。
魔力の発揮とは言うものの、欲求が生む人格未満が術式を発動させているのは魔力ではない。
中枢が焼けて魂が終焉の境界に差し掛かった今、夢幻夢想の世界にあって、現実で言うところの魔力は存在しない。
漲っているのは想いであり意志――魂の側面である中枢から魔力を生む、魔力の根源たるもの。
「ワイズ・グレー、お前はどうして絶望をした!」
「それを僕に問うと言うのかッ!」
高速移動での体術の応酬、全ての記憶を共有する今、体格の差、リーチの差、体重の差など問題にならない。
自意識の舞台で、人格未満の俺たちを突き動かす衝動力、意思の力――
「お前は何度、何度繰り返せば気が済む!」
ワイズ・グレーが言い残しざま姿を消した。
――シュンッ
僕が飛ぶのに合わせて、俺も空間を転移した。
かつて修行時代に編み出した瞬間移動で、自意識の舞台から無意識の空へとおどり上がる。
全く同じ場所、同じ瞬間に到達した俺は、顔を歪めるワイズ・グレーを蹴り込んだ。
「ご、ほ――」
腹部を押さえたワイズ・グレーが、自意識の舞台に背中を打ち付けて転がる。
「何度だって、沸いてくれる」
俺は自意識の舞台に降り立って、咥えたままの煙草を吹かした。
「答えてくれワイズ・グレー。走馬灯を得たと言うのに、俺の記憶には絶望がない。これはどういうことだろうか」
「……ッ」
ワイズ・グレーが体を返して、自意識の舞台に這いつくばった。
自意識と無意識の狭間で、欲求同士が闘争をする。
ワイズ・グレーと言う名の妄執、シューティング・ドッグと言う名の否定――
辛うじて、俺の方が紙一重で勝っている。
「俺は未だに絶望を知らない。絶望に負けていない」
体には魔力が、意思の力が漲っている。
シューティングドッグである俺が、未だかつて味わったことのない力だった。
「俺は生きる」
「ぬぐ、あああああああ――ッ」
ワイズ・グレーが執念を燃やし立ち上がる。
神父服は所々が破け、自分の体を治療する意思力もないのか、体の各所から血が滴っていた。
レヴィ・チャニングの精神が、血を自意識に滴らせている。
「絶望を知らないだと!? この段になって、どの口でそうほざく!」
立ってるのがやっとの状態で、それでもワイズ・グレーの青い双眸からは妄執の光が消えていない。
「フラガラックの猪は、なぜ死ななければならなかったのか!」
僕は肩を押さえて大喝した。
かつての友の記憶の喚起に、俺の意志が僅かに揺らぐ。
「……ケインは己の意思を貫いた。猪でありつづけ、自分の理想を追い続けた」
「アイリアという嫁の想いを振り切ってでも、成し遂げなければならない理想だったのか!?」
「……ッ」
脳裏に浮かぶ、旦那の手に縋るアイリアの姿――
俺の体から力が抜けていく。
「答えろッ」
ワイズ・グレーが震脚と共に加速し、一気に俺の懐に潜り込んだ。
――ドッ!
「おぐッ!?」
腹部に槍のような頂肘が突き刺さり、俺はたたらを踏んだ。
「答えて見せろ、犬ッ」
ワイズ・グレーの腰が沈み込み、手の平を開いた右手が伸びる。
発勁か――
俺はよろめきながらも、ワイズグレーの軸足に右足のつま先を引っ掛けた。
「――!?」
軸足の膝裏を引いて、体を動きをバラバラにする。
――トッ
体重移動と関節の固定が噛み合わなければ、発勁など気の抜けた掌底でしかない。
「ケインが決めた、ケインの意志、ケインの決意だったこと――」
足を即座に入れ替えて、左の膝でワイズ・グレーの顎を跳ね上げる。
「ぐ、が――ッ」
今度はワイズ・グレーがたたらを踏んで後ろに下がった。
「ならばどうすることも出来なかった、無力な自分を受け入れる他ないだろうがッ」
俺は目からこぼれ落ちる涙をそのままに叫んだ。
どうしても、どうあっても思い浮かばない、あの時あの状況でケインの意思を挫かずに生かす方法、
「どうしようもない自分を、受け入れるしかないだろう!」
叫ばなければ意志を保っていられなかった。
悔やんでも悔やみ切れない、あの日――
「……」
膝を揺らしたワイズ・グレーが、伏せた目を小刻みに揺らした。
「お前は、絶望の淵に立たされる程、赤黒いものを燃やしていたじゃないか……!」
ワイズ・グレーが僅かに落ち着き、目を伏せたまま言う。
「そうだな、俺はあの時、確かに絶望の淵に居た。だが、そこはもう超えた」
「超えただと……?」
「ああ、超えた」
俺は視線を下に向けっぱなしの僕に向かって、ハッキリと答えた。
「人の心は弱い。俺は感情に飲まれて感情に流される。だから己を律し、戒める――」
「それは人の受け売りだ。まだ答えじゃない。自分の中から自分の意思で答えを出せ」
ワイズ・グレーはまだ目を伏せたままだ。
「それだよ『僕』」
俺は口元を緩ませて紫煙を吐いた。
「意志、感情に流されない、意思を持つと言うこと」
脳裏に刻まれた映像が、鮮明な記憶が、いつだって俺を苛ませる。
「記憶から始まる感情の暴走が、妄念を生んで心を掻き乱す。そこから始まるのは赤黒い何かによる負の連鎖だ。断ち切るのに必要なのは、断固たる意思」
「赤黒い、何か……だと?」
ギラリとワイズ・グレーの瞳に光が戻った。
「その正体も分からずに、どう抑えつけると言うのか」
「……」
「敵も知らず、ただ漠然と全てに勝ちうる断固たる意志か? はッ! 赤黒い何かが生む欲求の激しさを、お前だって知っているんじゃないのか?」
僕が腕を広げて声を張った。
「ケインの事を思い出せ! アイリアの悲しみを意識してみろ! サフィアの無念を想い描け!」
「ぐ、あ……!」
俺は頭を押さえてよろめいた。
意思をも越える感情の衝動力が、体中を這いずり回る。
それはドロドロとしていて腸を煮えくり返らせる――
それはゴロゴロとしていて胸を内側から傷つける――
言葉では到底表現しきれない。
持ちうる記憶の全ての、知識を漁って答えを探しても、言い表せる言葉が見当たらない。
雨の公園で俺の身を焼き、僕を秩序の崩壊に駆り立てた、この赤黒いものの正体はなんだ――
「忘れたままで、僕に勝てると思うな!」
――シュンッ
ワイズ・グレーの姿が消えて目の前に現れた。
現れた瞬間には既に飛び回し蹴りのモーションに入っている。
「ふッ!」
「く――ッ」
辛うじて頭をガード、気息集気法によって強化されたワイズグレーの蹴りは鉄骨のように重い。
だが、押さえた――
右拳を握りしめて反撃のストレート、
――シュンッ
ワイズ・グレーの像がズレる。
「!?」
俺のストレートを外し、僅かに位置がズレた場所に滞空している。
先ほどとは逆足での回し蹴り、
「せッ!」
「ぐ――ッ」
重い衝撃の瞬間、またしてもワイズ・グレーの像がズレた。
今度は鳩尾を狙った蹴り上げ、
「はッ!」
「――ッ!?」
俺は両手を交差して足を押さえた。
ワイズ・グレーの体が目の前から消える。
蹴った反動を利用できる位置に飛んでいる――
瞬間移動で体勢を裏返し、崩れた体勢から生じる力のベクトルをそのまま攻撃に利用している。
防御すればそれが次の攻撃を生む。
ならば――
「外す!」
俺は腰を沈めて身を伏せた。
「ちぃ――」
頭上に現れたワイズ・グレーのかかと落としが前髪を掠める。
俺はかがんだ体勢を溜めに使って伸び上がった。
「よッ!」
右足の蹴り上げ、
「くッ!?」
体勢の崩れたワイズ・グレーの腕が弾ける。
足を入れ替えて左の蹴り、
――シュンッ
ワイズ・グレーの体が宙から消える。
「折込み――」
俺は煙草を吹き捨てて犬歯を剥いた。
「済みだッ!」
――ドォッ
振り上げた左足は囮、本命は反動を付けたカカト落とし。
地面に現れて飛び込もうとしていたワイズ・グレーが、腕を交差させて俺の足を受け止めていた。
触れ合った体が魔力を発揮して、相手の魔力を乱す。
「これ、は――」
「術式阻害」
俺は地についた右足をすぐさま跳ばせてワイズ・グレーを蹴り飛ばした。
「ぐ、はッ!?」
ボロボロになった『僕』が自意識の地面を転がる。
「いかな自分が相手とはいえ、少年虐待は胸が痛む」
俺は右手にコインを呼び出して、苦笑いを浮かべた。
「反作用を攻撃する力にし続ける。よくもそんな揺さぶりを思いつく」
と言って、知識を共有しているだけに、俺にはワイズ・グレーがする戦法のことごとくが速解できる。
対応する方法がすぐに思い浮かぶ。
「俺と『僕』は、言わば裏と表の――」
コインを弾きかけた、手を止める。
反作用の力、裏と表――
右手に構えられた女神のコインは、精神空間で俺の想いが作り出した幻だ。
俺は、微笑みを浮かべる聖女のコインを、そっと親指でひっくり返してみた。
裏は怒りの、戦女神――
「まさか……」
コインを握る右手が震える。
赤黒いものが体中を這いずり回って、魔力が乱れて頭痛がし始める。
「ばか、な――」
呼吸が乱れ、感情が溢れ出し、涙がこぼれ落ちた。
俺が呆然と動きを止めた隙に、ワイズ・グレーが立ち上がった。
「赤黒いものの正体を知らぬ、お前が――」
瞳孔の締まりきった青い双眸には、なおも妄執がする激情の輝きが湛えられている。
「答えに辿りつけない『俺』に、僕は負けない! それが僕の、断固たる決意だ!」
「……」
俺は涙を流しながら笑った。
思わず笑ってしまった。
「んふっ、ふ、ふ……」
コインを握りしめて泣き笑いする俺を、ワイズ・グレーが鋭く睨む。
「なにか?」
「いや……待ってくれ……」
俺は顔に手を当てて、記憶を総ざらいした。
頭の中を駆け巡る様々な記憶、起きてしまったこと、起こしてしまったことの全てが合致する。
次々に記憶が連結していく。
「こんな、答え……?」
それを現す言葉は、たしかに世界に存在する。
レヴィ・チャニングの記憶の中にも、その言葉は確かに刻まれていた。
でも、俺は、これが何かを知らなかった。
今の今まで気づけなかった。
「辿りついた、答え――」
赤黒い何かが、知識の中にあるこんな言葉を結びつくことを知らなかった。
ずっとずっと忘れていた言葉が、手の中にある――
「時間がないと言っている」
ワイズ・グレーが体を引きずりながら俺に近づいてきた。
無意識の空に明滅する、記憶のまたたきが一層激しさを増した。
「僕は犬と違ってせっかちだ。永の待てを聞くほど従順でもない」
サファイア・ブルーの瞳はなおも燃えている。
赤黒い何かに、燃えている。
「……」
俺は無言でコインをワイズ・グレーに向かって飛ばした。
俺が弾いたコインを僕が受け止める。
「それが、赤黒いものの正体だ」
「ほう?」
ワイズ・グレーが手のひらでコインを弄んだ。
「女神のコインがどうして答えに結びつく」
「んふっ、ふ……」
俺は涙を拭って力なく笑った。
体から力が抜けていく。
崩れ落ちそうな程の、衝撃だった。
――貴方はそんなに……そんなに……
公園で、彼女が涙を地に落とした。
――あんたはいつだって気づくのが遅い! 敏感なくせに鈍感で、見える癖に見ようとしない! 流石レヴィだよ! 流石だよッ!
ひめゆりが泣いていた。
「赤黒い何かを現すそのコインには、名前がつく」
「いかに」
ワイズ・グレーがコインを乗せた手を差し出して問う。
「関心」
「……うふっ!」
ワイズ・グレーが顔を伏せて身を揺らした。
「ふふふふふ! 馬鹿を言う。関心が世界を滅ぼそうとしたのか? 彼女を殺したいと願う程の憎しみを――」
と、僕がそこでピタリと言葉を止めた。
「どうした?」
俺は煙草を咥えて火を付けた。
「無関心のものを、憎悪はすまい」
ワイズ・グレーは俯いて、血塗られた前髪で表情を隠している。
「そのコインの裏側には『憎しみ』と名前がつく」
コインが乗せられた、ワイズ・グレーの手が震え出す。
「世界を滅ぼそうとすらしてしまう、感心のコイン。裏が憎しみ、表はなーんだ」
僕の手の震えは、やがて全身のものヘと変わった。
「時間がない……うたえ」
僕は掠れた声でそう言った。
「分かっていることだろう?」
俺は煙草を吹かして、空を見上げた。
目に痛いほど極彩色の記憶の光が拡張し、無意識の空に広がり続けていた。
全ての知識、記憶が輝き出していた。
「お前が答えを出すことに意義がある」
ワイズ・グレーが俯いたまま、しっかりとした声でそう言った。
「では改めまして」
俺はポケットに手を突っ込んで目を瞑った。
かつて小さな体だった僕の中で、ひょんなことから体が大きくなってしまった俺の中で、絶えず膨張を続けてきたもの。
それは出会う物、出会う人、全ての人達に向けられる絶大な興味関心。
時に他者を傷つけようとして、激しさを抑えつけようものならば自分自身がズタズタになる。
裏の怒りの戦女神が憎しみ、表の微笑む聖女は即ち――
「愛だろ?」
俺は口元を緩めて「にへっ」と笑ってやった。
「……」
ワイズ・グレーが、ゆっくりと顔を上げた。
「え……?」
俺は咥えた煙草を地面に落とした。
ワイズ・グレーの、血塗られた前髪の奥の青い瞳はどこまでも澄み切っていて、面立ち、姿に見合った、まるで子供の目つきだった。
涙を湛えた、サファイアブルーの瞳――
「……ならば」
ワイズ・グレーの唇が震えていた。
「ならば、僕は、俺は――」
声が、震えていた。
「どうして、絶望、したんだと、思う……?」
ワイズ・グレーが子供のような顔つき、子供のような口調で首を傾げた。
それは初めて聞く、刺のない、『僕』の優しい声だった。
「それは――」
俺は、言葉に詰まって思考を停止させた。
「僕は世界が好きだ。彼女が好きだ。すべからく、全てのものを愛している」
泣き出しそうになるのを必死に堪えている、子供の声だった。
「朝起きれば、女神が生んだとされるあの太陽という奴が、美しい光で世界を鮮明に映し出す。朝日と共に動き出す街が生きる人々の活力を音として届けてくれる。家路につくころには、人々が料理をしだして街は愛情の香りに溢れかえり、空気は歩く度に僕の手や頬を心地よくくすぐる。生きるために口にしなければならないもの全てが、複雑で深みのある味という刺激を持っている。僕は毎日毎日、恩恵を受け続けている。自分以外の者から受け取る恩恵とはつまり、なんだろうね? シューティングドッグ」
感覚過敏に生まれ落ちた、レヴィ・チャニングの、もっとも感受性の研ぎ澄まされた、ワイズ・グレーと言う名の、僕――
「愛……!」
裏返れば、世界の秩序を破壊しかねないほどの、世界に対する絶大の関心――
「でもじゃあなんで、どうして僕の愛は、憎しみになってしまったんだろう?」
ワイズ・グレーが瞳から涙が零れ落ちた。
なぜ愛は世界の秩序を壊したいほどの憎しみに裏返ってしまったのか。
なぜ、愛は彼女を絶望させて殺そうとするまでの憎しみに変じてしまったのか。
「どうして、終わらない否定のリングに囚われたんだと思う?」
「どう、して……?」
俺ただそのまま言葉を鸚鵡返しした。
思考が停止して何も思い浮かばない。
思考のコインが一向に飛ばない。
「無意識の空に輝く魂の走馬灯は、レヴィ・チャニングの全てなんだよ」
ワイズ・グレーが泣いている。
ただ、泣いている。
「『俺』には、見えていないのかい? 絶望が、見えていないのかい?」
「見えて、いない……?」
俺はよろめいて、額に手を当てた。
赤黒い何かは愛憎のコイン、「関心」であることが分かった。
それは世界の全てに向いている。
ことさらに、彼女に向いている。
俺は彼女を愛している。
でもそれは、まだ答えじゃない――
「時間がないから、僕が答えをくれてやる」
ワイズ・グレーが泣きながら笑った。
笑いながら泣いていた。
「彼女は僕の、姉なんだ」




