70.「むげんのきょうかい」
――汝はたれそ、たれそかれ
野を流るる清流如き涼やかな声色だった。
――汝はかれそ、かはたれそ
僅かに混じるハスキーな響きは、時折気が抜けた様に鈍くなる。
――たれそかれ、かはたれそ
どちらにせよ、鈴鳴りのような発声だった。
「おれ、は……」
目を開けると辺りは真っ暗闇だった。
「だ、れ……?」
見渡す限りに広がる闇、闇、闇――
正体定まらずに首を巡らせていると、突然空に花火が広がった。
「な――!?」
花火と言っても音はなく、どれもこれもが放射状に展開はするものの、形は歪で光の粒も何やら極彩色だ。
広がる灰色の地面、空に明滅するサイケデリックな光、そして闇、
「己れ……己れ――ッ!」
「へ?」
すぐ横で、灰色の神父服を来た少年が、地面に手を突いて呼吸を乱していた。
「己れ己れ己れ! どこまで言っても僕は自分が敵だ、自分と向かい合って、自分しか見ていないッ!」
神父服はズタズタ、血みどろになって泣き叫んでいる。
「君は……?」
恐る恐る話しかけた俺を、底光りするサファイアブルーの瞳が睨んだ。
瞳孔が限界まで引き絞られた瞳は、殺意の光に燃えている。
「……」
俺は身の危険を感じ、立ち上がりながら少年と距離を取った。
「気が付けば、いつもここだ……!」
少年は腕を押さえてゆらりと立ち上がった。
「いつまで続く、いつ終わる! 僕はこの否定のリングを、いつ抜けられる!」
「なに、何を――」
「ああああああああああああッ!」
少年が魔力を爆発させて飛びかかって来た。
真正面から、真っ向からの、真っ直ぐな踏み込み。
伸びる右の直突き、
「く――お!?」
俺は相手が誰かもわからず、前蹴りで迎撃した。
加減などしている余裕がなかった。
――シュンッ
「なッ!?」
少年の姿が掻き消える。
背後に魔力の気配、
まずい気がする――
「すぅ――」
俺は咄嗟に息を吸い込んだ。
――ダァンッ
震脚の音と共に、強烈な衝撃が腰を襲う。
「ぐ、うッ!?」
なんとか魔力による防御が間に合った。
吸い込んだ息と共に魔力で体を硬化させる――なんと言う技術だったろうか。
「気息集気法!?」
「確かそんな――」
俺は前に出した足を引き戻して後ろを蹴り込んだ。
「名前だ!」
「ぐ、ぅ――ッ」
当たった感触はあったが、相手が少年だとしても手応え軽すぎる。
自分で跳んだな――
振り返ると、満身創痍の少年が間合いの外で地面にひっくり返っていた。
「いきなり脊髄を狙うとか、どういう教育を受けてるんだボク」
俺は振り返って足をゆっくり下ろしながら、少年に笑いかけてやった。
内心冷や汗ダラダラである。
「まだ足りないのか、まだ――」
少年が身を起こして、鈍い動きで拳を構えた。
「僕のこの意志では、まだ足りないと言うのかッ!」
形相激しく、魔力が滾っている。
「すまないがちょっと小休止、いや中休止でも大休止でも一向にかまわんのだが、とりあえずお話でもどうでしょうか」
「お前は……!」
少年が憎悪を燃やして俺を睨む。
怪我をしている上にいたく興奮しているようだ。落ち着かないことには話にならない。
「まずはちょっと休んで――」
「黙れッ!」
「のわァ!?」
問答無用で飛び蹴りをする少年を、俺はひらりと躱した。
反撃できなくもなかったが、状況が掴めないのに相手を攻撃するのは気が引ける。
大体にしてここは一体――
「どこだ……?」
辺りを見回しても、灰色の地面、広がる闇、極彩色の空以外は何もない。
「え、あら……?」
何故自分がこんな所にいるのだろうと考え、次の瞬間恐ろしいことに気がついた。
自分が誰か、わからない――
「なん――」
「お前はレヴィ・チャニングの思考が作り出した人格未満の存在。僕はシューティングドッグと名づけていた」
頭が混乱し停止しかけた所で、少年が早口に言葉を浴びせてきた。
「レヴィ、シュー……なんだって?」
「ここはレヴィ・チャニングの想像が作り出した精神の空間、見渡す限りの大地が自意識、広がる闇が無意識、明滅する光が知識――即ち記憶だ」
「想像……精神の空間……?」
俺は少年の言葉を真に受けて、天を見上げた。
サイケデリックな光が、あらん限りに展開収縮を繰り返して明滅している。
「随分と前衛的な心象風景で……」
ぼんやりと呟く俺の視界の端で、少年が女神のコインを構えていた。
「ちょッ!? まっ――」
「だまれ」
少年は右手でコインを弾き、銀の弾丸を放った。
――タァンッ
今度は反応する間もなく、俺は胸を打ち抜かれた。
「……って、あら?」
痛みは全く感じなかった。
出血する様子もなく、少し待ってみても、身体に異変は起こらなかった。
「これは、一体――」
「ここは想像の世界、精神の空間だと言ったはずだ。現実のコインなど呼び出せようはずがない」
僕が荒い息でまた俺を睨む。
「なに? 何を言って――」
戸惑う俺に、少年は舌打ちをして額から垂れる血を拭った。
そもそも、なにゆえ彼は負傷しているのだろう。
「今お前に打ち込んだのは、レヴィ・チャニングの中の、ワイズ・グレーである僕が持ち得る記憶の全てだ」
「は? レヴィ・チャニング……?」
その名詞には、確かに聞き覚えがあった。
「何度――何度繰り返せば終わる!?」
少年が魔力を乱して吼える。
「己は、僕は、俺は、一体いつまで――あああああああッ!」
目をあらん限りに見開いた少年が、血に濡れた金髪を掻きむしって唸る様はおぞましいものがあった。
良くわからないが一つだけ理解したことがある。
彼は今、何らかの妄執に囚われている。
妄執そのものといいっていい程だ。
レヴィ・チャニングの、妄執――
「う、ぐ、お――!?」
突如頭の中で強烈な光の爆発が起こり、俺はその場に蹲った。
光の粒が頭の中で展開し、収縮し、明滅を繰り返す。
その光の粒は、よくよく意識を集中させて目を凝らすと、過去から現在に連なる数多の記憶映像で、どれもこれもに覚えがあった。
次々と浮かぶ過去に、涙が止まらない。
感情があふれて、言葉にならない。
「あ、あ、あ……!?」
「ようやく思いだし始めたか」
少年が、よろめきながらそう言った。
「さあ、答えを謳え、シューティングドッグ」
双眸をギラギラとさせてはいるものの、体からは帯びただしい出血をしていて、表情には余裕がない。
「お、俺は、君は、ここは――」
俺は目の中で飛び回るサイケデリックな星に頭を振って、呼吸を整えた。
頭の中に溢れかえる情報に意識がついていかない。
「僕とお前は死んだんだ」
「な、に……!?」
意味が分からない。
「じゃあ――」
「いいや、死後の世界じゃない」
俺が何かを考える前に、少年が言葉を被せた。
「僕と『俺』の体は確かに死んだ。それでもまだ、ここは完全な死とは呼べない。ここは終焉を迎える魂がたどり着く境界」
「境、界?」
俺は辺りを見回した。
灰色の地面、それは俺が歩める限りの自意識という舞台。
広がる闇、それは認識することの出来ない人の無意識。
サイケデリックな光、それは今なお俺の頭の中で広がり続ける記憶。
「魂がたどり着く、境界の場所だと……?」
少年の言葉に、喚起される記憶と知識に、俺の意識が徐々に追いつく。
「この空間がそうだと言っているんじゃない。今起きている世界の現象についてを言っているんだ」
「――なるほど」
俺は涙を拭って溜息をついた。
「ここはレヴィ・チャニングという人間の魂が想像した世界、俺と僕が直面する魂の最後の瞬間か」
思考のコインが溢れかえる知識と記憶をものにし始め、想像力に幅が生まれ始める。
「もう一度確認するぞ、ワイズ・グレー」
俺は目の前に立つ『僕』のかつてのあだ名を呼んだ。
ずっとずっと認識出来ずに苦しんでいた、俺の裏に潜んだ『僕』と言う欲求、探っても探ってもたどり着く事の出来なかった不可侵の記憶の塊が、いま目の前にある。
「俺たちは――」
と、俺はそこで言葉をと切った。
「死んだ」
ワイズ・グレーが苛立たしげに俺の言葉を継いだ。
たどり着けなかった記憶領域の広がりによって、俺はワイズ・グレーがしでかした事の全てを理解した。
「そうか、ステラに魔力を奪われて――」
――ギリィッ
僕の口元で歯ぎしりが鳴った。
「お前がその名を口にするな! 虫唾が走るッ!」
「んふっ」
俺は口元を緩めて笑った。
「そう言うな。俺を作ったのは僕なんだろう? いやこの場合は、レヴィ・チャニングの自意識と言うのが正しいのか……」
「したり顔をするな。どうせお前はまだ辿り付けていない」
ワイズ・グレーが目を細めて俺を見据える。
「確かにな、氷上を滑っている感覚だ」
触れたことのない記憶、使ったことのない知識に振り回されて思考のコインが少々空回り気味だ。
まだ、俺がどういう性質をもった人格未満であるかが認識出来ない。
「しかし、なぜこの段になって、俺に記憶を与えた?」
俺は小首を傾げてワイズ・グレーを見た。
「手間を省いているだけだ。時間がない」
ワイズ・グレーが双眸の光を強める。
「中枢が欠損して僕らの肉体は死んだ。今は魂がまさに死のうとしているところ。普段見えることのない無意識に眠る記憶達までもが明滅しだした。これが走馬灯」
「そうま――」
俺は口を開けっ放しにして天を仰いだ。
思っていたのと違う。
全然違う。
いやいや、いくらなんでもこれはサイケデリック過ぎるだろう――
あの光の一つ一つが映像であり音、記憶情報だと言うことは強烈に体験済みなのだが。
「肉体の死の場合、走馬灯は危機を回避するための脳のデータ漁りと言われているが、真偽の程は定かじゃない。脳が死ねば記憶の崩壊を起こす。その崩壊の模様が走馬灯だろうと言うのが僕の見解だ」
「経験者は語る――か」
自分の事なのだが、妙に可笑しかった。
「肉体の死の直前に見るものと違って、魂の死の直前に見る走馬灯は一方通行だ。過ぎ去ってしまえばもう、後戻りは出来ない」
「ふむ……?」
俺はなんとなく空に手を伸ばした。
「記憶とは星だ。手を伸ばしたところで、空の星に手など届くはずがない」
「あのなぁ……」
当意即妙をしてみせるワイズ・グレーにカチンと来て、俺は目を細めた。
「上手いこと言ってる場合か? 食い止める法は?」
「何を?」
ワイズ・グレーが眼光を強める。
「生きる術はないのかと、聞いている」
「人に聞く前に自分でよく確認しろ。僕はお前に、魂の走馬灯を打ち込んだんだぞ?」
「そうでした」
俺は両手を上げて口元を緩めた。
目をつむって頭の中の情報を片っ端から探り出す。
――たれそかれ、かはたれそ
想像の世界に響き渡る彼女の声、
「……そうか」
それは記憶の奥の奥、俺がたどり着けなかったワイズ・グレーが抱えていた知識、
「君は、あの術式を――」
修行時代の淡い映像と共に眠っていた、レヴィ・チャニングが編み上げた、複雑な術式の型がある。
「わかったろう? 彼女が余計な事をしてくれたお蔭で、時間がない」
ワイズ・グレーがボロボロの体で構えた。
「……なぜ?」
俺は口元を緩めて「にへっ」と笑った。
「僕が僕として死ぬためには、お前を否定しきらなければならないからだ」
「ふむ、先にこぼれた『僕』の欲求は無視するとして――」
俺はコインを呼び出して、右手で弾いた。
ここは想像の空間、このコインは女神のコインとは違う。
俺の想いが作り出した幻、銀の弾丸に変じる事はない。
ただ、どうにも手元でコインを弾かないことには、上手いこと考えが纏まらなかった。
「『僕』が俺を否定する必要性は?」
「お前が僕を否定する存在だからだ」
「……」
俺は笑ってコインを弾いた。
世界を否定する僕を否定する俺――
「つまり俺って、正義の味方?」
「勘違いも甚だしい」
拳を構える僕が、目を怒らせて魔力を漲らせた。
レヴィ・チャニングの自意識が、ワイズ・グレーという妄執に力を与えている。
「お前は何度消しても、何度消しても次の瞬間には僕の目の前に現れる僕の中の間違い。僕が否定すべき、否定でしかない!」
「無限増殖はレヴィ・チャニングの生来の特性だ。仕方がない」
俺は懐から煙草を取り出して口に咥えた。
戦勝記念公園で手の上で転がした、くしゃくしゃの煙草のケースが頭に思い浮かんだ。
「……生来、この自意識の舞台には確固たる自分がない」
クラップを鳴らして、煙草に火を付ける。
ここは考えることが力になる、想像による精神の空間だ。
今、俺と『僕』は全ての終焉に臨み、夢幻夢想の中にある。
「俺と『僕』すら、レヴィ・チャニングの魂が見続けてきた幻想なんだな。欲求の達成と共に消え、次の瞬間には欲求によって生まれてしまう、そんな刹那的で曖昧な、曖昧ゆえに終わることのない、一瞬の夢――」
確固たる自分を組み立てることのない自意識は限りなく灰色で、サイケデリックに輝く記憶ばかりを無意識に記録し続ける。
欲求の赴くままに人格に似た夢を生み続ける、レヴィ・チャニングと言う世界――
それでも消せない俺がある、それでも消えない僕がある。
俺はそんな、一瞬の、俺で良い――
「答えをうたえ、シューティングドッグ」
ワイズ・グレーがぐっと腰を落とした。
「お前は今、どんな欲求を抱えてこの舞台に立つ」
俺は煙草を吹かして「にへっ」と笑った。
「生きる」
ただの一言、俺はそう言った。
目に見えて、ワイズ・グレーの顔が歪む。
「レヴィ・チャニングは、まだたどり着けないのか! 自分の死に!」
「辿り着いてたかまるかそんなもん」
俺は頭を掻いて溜息をついた。
「可能性があるなら生き残りたい、それは人間の性ではあるまいか?」
「黙れッ、僕はお前を消し去って、自分を死にたどり着かせる!」
「聞き分けのない……」
ワイズ・グレーはレヴィ・チャニングが生んだ強烈な妄執、数多の記憶を身に刻み事実妄想がこんがらがった、言わば術式の紐だ。
否定しか生まなくなってしまったのには必ず原因がある。
何処かに必ず矛盾が存在する。
それを見つけて紐解く――
「もう『僕』の好きにはやらせん」
「お前はなぜ、なぜ僕の邪魔をする!? 僕のこの意思を、否定しようとする!」
僕が一層魔力を高めた。
「なぜ、か……」
目を瞑れば一瞬にして思い浮かぶ鮮烈な記憶、鈴蘭の香りのする光の女神如き女性、泣き叫ぶ少女のような君――
「答え合わせの時間だよ、『僕』」
俺は問いに答えず、コインを消して拳を構えた。




