63.「笑うひめゆり」
完全に油断だった。
彼女は魔力が尽きて、本当に命が消えかけていた。
僕はかつての彼女を知っている。
でも、彼女がどんな艱難辛苦を乗り越えて今に至るかを知らない。
こんなことを自らしでかす彼女を知らない。
知らない――
貪るような口づけの中、僕の体には違和感と悪寒が走り続けていた。
「〜〜〜〜〜〜ッ!?」
薄目を開けた彼女の青い瞳が笑っている。
中枢から、魔力を吸い出されている――
「が――ふ、ぐむぅッ!?」
首を振ってキスをそらそうにも、体から力が徐々に抜けていき拘束を解くことが出来ない。
――ギリギリギリッ……
魔力を得た彼女の指が、僕の腕を締め上げた。
――ボキィッ……
気息集気法による身体強化が解け、両の二の腕の骨が粉々に砕け散った。
「んぐ――はッ!?」
苦痛に顔を上げた瞬間に、彼女は僕の体を人形の様に投げ捨てた。
「ぐ、く、あ……」
遠のく意識を必死に繋ぎ留める。
折れた腕を自己治療するのに回せる魔力がほとどんどない。
中枢で生成される魔力が、片っ端から体から抜けていく。
「ふ、ふふふふふ――」
彼女は顔を伏せて笑い、ゆっくりと立ち上がって青いリボンを解いた。
「あははははははははははッ!」
額を押さえて彼女が高笑う。
「あーぁ、ようやく追いついた」
絹糸ごときブロンドの髪が、漏れ出る濃い魔力によって水草の様に宙を漂っている。
流れる清流の声はいつもより低く奔放で、鈴鳴の発声からはやる気が消えてまったりと鈍い。
「タッチこぉーたぁーい」
「な、に……?」
僕は彼女を見上げながら、魔力をかき集めて腕の骨を治療した。
回復速度が、圧倒的に遅い――
「不用意だよ、レヴィ。術士が口づけをするのが――粘液交換するということがどれだけ危険なのか、知らないあんたじゃないでしょ?」
鈍い声に見合った、気だるげな語調だった。
前髪に隠れて目元は見えないが、口があらん限りの笑みを象っている。
「き、君は――」
僕は体を起こして立ち上がった。
魔力欠乏による激しい虚脱感に見舞われ、体が鉛の様に重い。
「君は……だれ、だ……」
彼女の魔力の質は全く変わっていない。
いや、いつもに増してより濃い――
水を張ったような己を律した気配が欠落し、常人よりも濃い魔力が遠慮も無しに体から漏れ出ている。
「ふ、ふふふふふ……」
彼女は身を揺すって笑った。
「いつもみたいに愛称で呼ばないの? 確かあんたがつけた名前だと思ったけど」
彼女はそう言ってゆっくりと顔を上げた。
眉宇の筋力が消え失せたかのような半眼の奥に、満ち満ちる魔力によって瞳孔が引き絞られた、前にも増して知恵の輝きをギラつかせたサファイアブルーの瞳が収まっている。
鈴蘭の香りが、一段と濃い――
「ひめ、ゆ、り……?」
「そう」
彼女が腰に手をあてて首を傾げた。
「昔はその仇名、あんまり好きじゃなかったけどねー」
「一体、何が――」
――ダァンッ
言葉を遮って彼女が足を踏み鳴らし、目にも止まらない加速で僕の首を鷲掴んだ。
「う、ぐ……!?」
何がなんだが分からない――
魔力の枯渇によって妖脈が収縮し、僕の体が大きくなり始める。
「ぐ、ぐ――ッ」
体の変化と共に、服の装備が勝手にシューティングドッグ用に切り替わった。
「ああ、魔力が無くなると体が元にもどるんだ?」
彼女が右手一本で僕の体を支え持ち上げていく。
「中身はどうなのかなー」
「なにが……どう、い、う……?」
「よかった。ワイズ・グレーのままね」
目を糸にして微笑んだ彼女の、体の像が激しくぶれる。
――ドキュッ!
「ぐ、は――ッ!?」
光って唸る彼女の左拳が、僕の肝臓を痛烈に打ち据えた。
「どういうことかって? それをあんたが聞くの? 五年前に身勝手をして、今日また同じ事をしようとしてるあんたが、それを聞くの?」
彼女が半眼の瞳で僕を冷ややかに見据えた。
「――五年よ」
瞳孔の収縮しきった、サファイアブルーの瞳が座っている。
「あたしは五年間我慢し続けた。一刹那の瞬く間に、常人のそれを遥かに上回る情報を収集し記憶し続ける者にとって、この五年という歳月がどれほどだったか――あんたには理解できるんでしょ?」
「……」
僕は宙に吊り下げられながら身を震わせた。彼女を恐れた。
こんなひめゆりを、僕は知らない――
「いいえ……分からない、あんたには分からない! あたしがどんな想いをしてきたか、あんたは何一つ理解してない! 理解しようとしない!」
憎悪に似た怒り撒き散らし、彼女が魔力を波立たせた。
「なに――なに、を……?」
「ほらね」
彼女が目を糸の様に細めて微笑んだ。
「あたしにはあんたみたいな自己顕示欲はない。ないからくどくど説明しない。してあげない」
――ダンッ
彼女が激しく足を踏み鳴らした。
加速の魔法によって、彼女の体が青白く発光する。
「ああああああ――ッ!」
――ドドドドドドドドッ!
鳩尾、脾臓、肝臓、心臓、ありとあらゆる体の急所に拳打が打ち込まれ、粉々に砕けた肋骨が肺をはじめとする主要臓器をずたずにした。
気管を熱い塊が遡る。
「お――ぶッ!」
嘔吐感を覚える間もなく、鼻と口から飛び出す血。
突き抜けた聖なる拳の威力が脊髄をも砕き、下肢の感覚が完全に死んだ。
「ぐ、は――」
地に足が触れそうになった瞬間、彼女の右手が僕の胸ぐらを掴んだ。
「結ぶ祈り、汝を癒さん、治療」
――ガキ、ゴキ……ミキミキ……!
彼女の濃い魔力が体中を駆け巡り、体の損傷を一気に回復させていく。
「的が大きいと殴りがいがあるなー」
彼女がニッコリ微笑んで、子供のような口調で言った。
「まだまだいくよー」
――ドドドドドドドドッ!
「ぶふッ!?」
再びの拳打に、また口から血が飛び出す。
顔面に喀血を浴びながら、彼女は僕の脚の間に膝を差し込んだ。
――ドゴォッ
膝が股間を打ち上げて、恥骨仙骨が粉々に砕け散る。
「〜〜〜〜〜〜ッ!!」
あまりの激痛に視界が一瞬白じんで、喉の奥から血の泡が出た。
「う、ぶ……ぁ……!」
膝から床に崩れ落ちたところに、スリットを割った彼女の脚が迫る。
――ドバンッ!
気息集気法によって強化された鋼鉄のような脛が、鼻の軟骨を潰して顔面を弾いた。
「……ッ」
もはや呻き声も出ない。
倒れ込んだ僕を、彼女の手がまた引き起こす。
「結祈り汝を癒さん、治療」
また、体中の傷という傷が回復していく。
「や、やめ――」
僕は痛みが緩和され消えていく治療の効果にゾッとした。
「ん、ふふ――ッ」
前髪で眼を隠した、彼女の口の端が持ち上がる。
「だめ」
――ドドドドドドドドッ!
「ぐ――ぶッ」
再三の拳打、再三の喀血、魔力が片っ端から体を抜け出ていく。
時間を追うごとに、彼女の体に魔力が漲り攻撃力が増していく。
僕は大人になった体を満足に動かすことも出来ず、ただされるがままだった。
「結祈り汝を癒さん、治療」
甘んじて受け入れる他ない激痛、間を置いて訪れる回復の心地よさに怖気が立った。
散々にひどい目に合わせて来た僕だ、このぐらいの意趣返しは当然と言える。
――だが、激痛より、回復よりも、僕は彼女が恐ろしかった。
彼女の中身が、全く想像出来ない何かであると言う事実。
未知のもの――
それは知識の及ばない無限の可能性の塊で、ありとあらゆる最悪の事象を想像させられる。
知らないことは、恐怖だ――
「きみ、は――」
僕は身を震わせて声を搾り出した。
「うん?」
「きみは、どう、やって、僕の、魔力を……」
「魔力譲渡」
「……?」
魔力譲渡は教の上伝にあたる魔法で、自分の魔力を他者に与え共有する技術だ。
必要詠唱も長く、魔力出力に難のある僕には到底使えない。
「強制的に発動させたのよ。粘液交換でね」
彼女は小首を傾げてニッコリと微笑んだ。
「ば、か、な――」
キスの最中、魔力中枢を侵すような間は一切存在しなかった。
魔力の譲渡はキスの瞬間から始まっていた。
中枢に侵入しなければ、強制発動などまず起こすことなど出来ない。
「あんたって自信過剰だよね? 自分にまったく隙がないとでも思ってるの?」
「な、に……?」
彼女が笑みを消して瞳を半眼にさせた。
「あんたのトンチンカンな祓魔術闘法に、『修道女』がただ振り回されてるだけだと思ったの?」
「しゅう、どう、じょ……?」
「あたしが、何の策も無しに『受けて立つ』なんて言ったと、あんた本気でそう思ってたの?」
「……」
「修道女」と言うのは、彼女が己を律する神官長然としていた時の人格の事だろう。
「まさ、か――」
僕は目を剥いて彼女を見た。
「交戦中、ずっと、僕の中枢に、侵入を試みて、いたの、か……?」
攻撃の際、僕は必ず中枢のコンディションを乱す術式阻害を行なっている。
僕の中枢から発生する魔力が、相手の中枢へと侵入を繰り返すのだ。
それは誰にも捉えきれないほど一瞬――のはずだった。
「そん、な――」
深淵を長く覗くならば、深淵もまた等しくこちらを見返している――
「三十点」
彼女が眼を細めて笑う。
「全然浅い」
「……」
僕は必死に思考のコインを回転させて、彼女の思考を読み解こうとした。
やはりどんなに記憶を探っても、目の前の「ひめゆり」に関する情報が見当たらない。
彼女の思考を読み取る雛形が、僕の知識に存在しない。
分からない――
「五年、前、から、準備していたと、言うのか……!?」
サフィアですら、僕の行動を完全に追う事は出来なかった。
一瞬の僕を、捉えるには至らなかった。
「教えない」
彼女は子供のような笑みを浮かべてそう言った。
分からない――
「んふッ、ふ、はは……ッ」
僕は笑った。
笑いながら、泣いた。
「何がおかしいの?」
彼女が冷ややかに目を座らせる。
「結局は、全部、君の手の平の上、だった、のか……」
彼女にはこんな逆転手が残されていた。
死の直前に僕が近寄るのを計算して、自分の命を掛けた最後の一手が残されていた。
ワイズ・グレーがシューティングドッグに体を任せ、裏で密かに準備し続けていたように、彼女の中のひめゆりが、状況の全てをひっくり返す用意をし続けていたのだ。
「希望を、失わない、はずだ」
なんのことはない。
彼女が絶望しなかったのは、僕の導き出した答えのさらに上が見えていたからだ。
「馬鹿じゃないの?」
彼女が半眼の瞳で僕を睨み上げる。
「自分の推測が、全部正しいだなんて思うな」
彼女の魔力が、体が激しく震えていた。
「人が全員、自分の想い描いた通りに生きてるだなんて、思うな……ッ」
魔力が、空気を震わす程に乱れている。
「あたしの、あたしの五年間は――」
――ゴゴゴゴゴッ
彼女の体を通して出る、僕の中枢が生んだ魔力が、自意識の舞台を激しく揺さぶった。
「辛い想いをしてきたのは、あんただけじゃない! あんただけじゃないんだッ! あ゜あ゜あ゜あ゜あ゜――ッ!!」
髪を振り乱し、彼女が僕の無意識に向かって咆哮した。
僕はこんな彼女を知らない――
こんな風に感情を他人にぶつけたがる、嵐の様な彼女を僕は知らない。
「人を美化するのも、大概にしろッ!」
彼女は半眼の瞳から涙を流して、そう吐き捨てた。
「しら……な、い……?」
本当にそうか? 僕は本当に彼女を知らないのか?
彼女に「ひめゆり」という名をつけたのは、間違いなく僕だ。
知らない――
それでも、やはり強烈に、彼女の体から漏れ出る魔力は鈴蘭の香りがする。
「……」
僕はハッキリとしない意識と視界の中で、ぼんやり、全ての終りが近づいている事を悟った。
「敗因は……君を忘れて、いたから、かな……?」
「敗因? そんなのわかりきったことじゃない」
彼女は涙をこぼしながら、眼を細めて微笑んだ。
微笑みながら泣いていた。
「あんたが絶望に負けっぱなしだからよ。絶望した理由すら忘れて、絶望と勝負することから逃げ続けてる」
「にが、る……?」
僕は彼女の言葉をなぞる事が出来なかった。
「あんたはあたしをここに引き込んだだけ。一緒に絶望してくれって駄々こねただけ。あたしと勝負すらしていないんだ」
「に、げ――……」
「あんたはずっと、逃げっぱなしなんだ!」
「……」
僕は、眼を瞑って笑った。
「うふッ、ふ、ふ……」
「何がおかしいの?」
笑いながら泣いた。
「勝っても、負けても……得をする、予定だった……僕は、どう転んでも得をするよう、答えを読んで、いたんだよ……」
「負けおしみ?」
「いいや、本当の、事、さ」
僕は重い腕を持ち上げて、彼女に吊るされたまま髪をかき揚げた。
「どんな得かは、教えられない、けど……」
魔力が枯渇した虚脱感が、いっそ心地いい。
「別にいい。あんたが何を考えているのかなんて、大体わかる」
「そうか」
ひめゆりは、何でもお見通しなんだな――
「嗚呼……ひめゆり、僕の、ひめゆり……君ってやつは――」
「言わせない」
――ドキュッ
彼女の左拳がまた肋骨を折る。
「う、ぐ――ッ、ふ、ふ……」
僕は苦痛に顔を歪め、それでも笑って涙をこぼした。
「あたしは、あんたを赦さない」
「ああ――そうあって、欲しい、もの、だ」
「『だからね、レヴィ』」
ふと、彼女の声が変わった。
「……?」
野を流るる清流如き涼やかな声色、僅かに混じるハスキーな響き、血化粧をした顔に似つかわしくない鈴鳴りのような発声――
「『私は、貴方の望む答えを、出してあげられない』」
鎮守の森の湖畔の様に澄み切ったサファイアブルーの瞳が、涙を潤ませて揺れていた。
嵐の前の風に波立って、波紋を広げるように揺れていた。
「『ごめんなさい』」
彼女は静かに眼を瞑り、溜めた涙を一筋落として気配を消した。
「――それでね」
彼女の声の響きが、また鈍くなる。
空いた瞳は半眼――
「これが、あたしの答えなんだけど」
彼女がニッコリと笑って、開いた右手を掲げて見せた。
天に向けた平の上に、青白い光を放つものが浮いている。
回転し続ける、女神のコイン――
「何だか分かる?」
僕は閉じかかった目でそれを長め続け、次の瞬間ハッとなった。
裏も表も、慈悲に満ちた微笑みの聖女――
「ブレイク、ポイント――」
それは僕が見つけた、結界を崩壊させしめる事の出来る唯一の一点。
複雑に折り重なった術式の奥の奥に存在した、全ての崩壊を連鎖させるブレイクポイントを発動させる、女神のコイン。
「いつの、間に――!?」
「聞いてばかりいないで、少しは自分で考えたら?」
「……」
悩む程の事でもない。
彼女は僕の魔力を解析し、魔力譲渡で取り込んでいる。
僕の魔力を掌握した以上、自分のマジッグバックを扱う気軽さで、僕の道具を呼び出せる。
「あんたが五年間、世界を巡りながらもリディア経済に目を光らせて、結界を分析して導き出した、世界の秩序を崩壊させる、人の心を裏替えしてしまう、たった一枚の、小さなコイン」
彼女がクスクスと笑った。
「好きに、すればいいさ……全ては、君の、ものだ……」
結界への接続は誰にも看破されなかったが、彼女は僕を掌握する事で、全てを手中に納めてしまった。
「言われなくても、そうするつもりだったけど――」
彼女は右手に魔力を集め、グッとコインを握りこんだ。
――パァァァンッ
僕の五年間の想いが、持てる全てをかけた女神のコインが、彼女の手の中で、魔力の粒子となって消えた。
これで、何もかもが終わりだ――
「ん、ふふふふ……ッ」
彼女が笑う。
「あははははははははッ!」
体から立ち上る、濃くて甘い鈴蘭の香りのする魔力――
――ゴゴゴゴゴゴゴゴッ……
大気が振動し、僕の自意識の舞台が揺れた。
「……え?」
僕は間の抜けた声を漏らした。
大結界への接続の気配が消えていない――
結界が、全ての術式をひっくり返して衝突し始めている。
衝突が連鎖となって放射状に広がり、溜まりに溜まった魔力が膨れ上がり大地と大気を震撼させている。
「ひめ、ゆり……?」
全てが裏返り始めている――
「きみは、なにを――?」
僕は唇を戦慄かせて聞いた。
「大破壊」
口の端を持ち上げて、彼女はそう答えた。




