60.「本気と本音と」
五年前――
僕は大聖堂のベッドの上で目を覚ました。
「レヴィ……?」
鈴鳴りの声、鈴蘭の香り、これは――
『どうした?』
「いえ、今少しレヴィの魔力に変化があったような……」
『何も感じなかったが……どれ』
男の手が僕の手首に触れて霊視をしだした。
僕は魔力を最小限に押さえ、意識のある気配を消した。
『特に変化はないな』
「すみません、気のせいでした」
ひめゆり……君はここで何をして――
『それにしても、凄いものだな』
「はい」
『僅か数ヶ月で体がこれほど成長するとは……常軌を逸している』
「妖脈が閉じきったせいですか?」
『だろうな』
「魔力が枯渇して老化しているんじゃ……」
『いや、老化ならば細胞がそのまま朽ちていくだけ。これは行き場のない魔力が、体の発育を促進させているのだな』
発育を促進……?
「大丈夫なんですか?」
『前の小さな体に比べれば、今の見かけの方が遥かに大丈夫だろう』
「……」
『冗談だ。成長はここにきて急に穏やかになった。これ以上大きくなることはあるまい。オーガほど大きくなる人間というのも、見てみたいものだったが――』
「……」
『これも冗談。成長が止まってからの容態は安定している』
「気がつきますか」
『それは分からない。なにせ例の無いことだ』
「そうですよね……」
『成長が止まり容態が安定した以上は、なにか能動的な実験をしてもいい頃かもしれんな』
能動的な実験――
『意識を覚醒させることが出来ればまたとない例となる。色々と術を試して、どんな反応が出るか慎重に探っていこう』
「その実験に、立ち会わせては貰うことは出来ますか?」
『うん?』
「駄目、ですか?」
『うーん……』
「お願いします。どうしても、立会いたいんです」
彼女は食い下がる様に魔力を強めた。
『君は大聖堂の中でも彼の存在を知る例外だ。だからこそ、この場に立ち入る事を許されている。それだけでは不服か?』
「……」
『監察神官を目指しているそうだね?』
「はい」
『君ならば遠からずその夢は叶うだろう。監察になれば、彼の調査担当は間違いなく君だ。焦ることはない』
「はい……」
『そう心配せずとも、彼は大聖堂における大事な被検体だ。丁重に扱う』
被検体――
「もしも彼が目を覚ましたら、どう言う扱いになるんですか?」
『その時の容態にもよるが、どうあれ監察の監視下に置かれることにはなるだろう』
「レヴィの――彼の巡礼神官の任は?」
『任も何も、巡礼神官の位は言わば彼の存在を隠蔽する偽装だ』
「……」
『さ、今日の調査はこれまで。君も退室時間だよ』
「……」
彼女の気配が、男の僧侶に促されて席を立った。
『彼に関する実験に立会いたいのであれば、一日も早く監察入りすることだな』
「……はい」
二人が部屋を出て行く。
一人になった僕はゆっくりと腕を上げ、手を握ったり開いたりしてみた。
「……僕は誰だ?」
腕が長い、手が大きい、何から何までもが記憶と違う。
探り慣れた魔力中枢が、最小限の活動しかしていない。
妖脈はおよそ雑草程度にまで萎縮して閉じきっている。
「被検体に、能動的な実験、ね……」
間違いの塊である僕が行なった実験は、何やら予期せぬ結果を生み、果てに人権のない被検体という身分へと至った。
ひめゆり、君は――
「んふッ……」
それ程に、実験を御所望か――
僕の欲求は揺るぎないものになった。
○
「あっははははははッ! 議事堂前で竜が大暴れとは、実に痛快じゃないか」
無意識の空に浮かぶ都の絵に、僕は額に手を当てて笑った。
「しかし、猫が増えてるのはなんだ? 僕が惑わされたのはあれか……?」
議事堂前の広場がウィルだらけになっている。
同じ姿の半竜人が何体居ても不思議には思わないが、同じ人間が溢れかえっている光景というのは何処かおぞましい。
「善戦しているようだが、さて、エルグラドの災厄相手にどこまでもつものかな」
腰の後ろで手を組んで、僕はゆっくりと後ろを振り返った。
「ぐ、ごぼッ――!」
宙に浮かぶコインの下で、彼女が地面に手を突いて喀血する。
「やあ、こちらはこちらで苦戦の様子。白い聖職胴衣の君は、絹糸のような髪を持つ君は、血化粧が良く似合うね」
聖職胴衣は血がまだらに広がり、穴が開いてズタズタだ。
「治療ぐらいならまだ出来るだろ?」
喀血したということは、内蔵のどこかが傷ついていると言うことだ。
軽い負傷ではない。
彼女が腹に手を当てて自己治療をした。
「もう立たない?」
僕はニッコリと笑って首を傾げた。
「……どう引っくり返そうか計算してただけよ」
強がって立つ彼女に、僕はぞくぞくを背筋を震わせた。
そうか君はまだ立つか――
聡い彼女が、持久戦で僕を消耗させようとする作戦でくることは想像に難くなかった。
だから僕は、手練手管で彼女に魔力を消費させた。
加速と無敵盾、コインと魔法銀の鞭の使用、普通の僧侶ならば魔力の枯渇でとっくに心神喪失に陥っている。
「こんなに差がつくなんて自信喪失ね……戦闘術の修行にはそれなりに時間を割いたはずなのに」
「大したものだと思うよ? 対魔戦なら、君の火力は僕の比じゃない」
大陸で名を馳せる聖ライアリス教の中でも、彼女程に戦える僧侶は数えるほどしか居ないだろう。
僕が身に備えている戦力は、彼女の持つそれに到底及ばない。
「対人に限って言えば、僕の方が上手と言うだけのことさ。僕というのは祓魔術で人を征する技を研鑽してきたものだから」
「貴方は相変わらずの変わり者か……」
「やあ、ありがとう」
「褒めてない」
「なら喜んでくれ」
僕は笑った。
「君と闘うためなんだ。君を虐げるためなんだ。君を苦しめて殺すために、僕は技を練って来た。五年間修行し続けたんだ。喜んで欲しい」
「涙が出そうで目が上げられない」
彼女が血を丸めた唾を吐いて言った。
「うふッ」
絶望の風など微塵も見せない彼女に、心の底から愉悦が沸き上がる。愉悦が沸けば沸くほど、欲求は一層高まった。
体の中に波立つ魔力が、一瞬だけ理性を超える。
――ダァンッ!
「……ッ!」
抜き打ちで放った銀の弾丸は、彼女の左肩を穿って抜けた。
もう気息集気法が殆ど体を強化していない。
何度となく出血をしたせいで反応も大分鈍い。
「僕のマジックポーションをあげようか?」
「飲んでもどうせ回復しないわ」
「なんだ、わかってるのか」
僕は舌を出して笑った。
術式を阻害する僕の魔力は、中枢のコンディションを低下させることで効果を生んでいる。
中枢がガタガタになれば、マジックポーションを飲んだところで大した効果は得られない。
「ねちっこい嫌がらせね……」
「うふッ」
彼女の言葉にまた嗜虐心をそそられる。
「猫の目には、ワイズ・グレーは鼠に映ったそうだ。どんな気分かな、ひめゆり。小さな一匹の鼠に、じわじわと体を蝕まれて行くというのは。君の気分を教えて欲しい」
「こそばゆい」
「言うじゃないか」
――ダァンッ! ダァンッ!
――ギンッ! ギィンッ!
彼女が僕のコインを剣にした杖で弾いた。
「これは驚いた。加速を使わずにそんな芸当が?」
剣の扱いに長けた剣士騎士ならまだしも、彼女は一僧侶だ。
「貴方の射撃はもう覚えた」
「うふッ」
――ダァンッ!
再びの射撃、
「くぁッ!?」
彼女の剣は空を斬り、弾丸は左肩に開いた風穴を寸分違わずに穿った。
「覚えたんじゃなかったの?」
頭を掻いてからまた一発、
――ダァンッ!
銀の弾丸が彼女の剣を避けるように軌道を浮かせ、また肩の傷をえぐる。
「う、ぐッ!」
彼女が左肩に手を当てて治療を始めた。
「射線が――」
「イングリッシュ、って言うんだよ」
僕は左手をポケットに入れて右手でコインを弾いた。
「ビリヤードの玉を曲げる技術でね。当ててはいけない的玉を避けて目標に当てる時に使うんだ」
銀の弾丸はコインを用いた技の基本中の基本、一発の威力もたかが知れている護身術なだけに、大抵の人間が連弾や散弾、甲弾の修練に時間を割く。
曲げられるのは単発、変わる軌道はほんの少し、打てる様になるまでの労力を考えれば、他の技や術を磨いた方がずっといい。
魔法が並みに使えるのなら、だが。
「次から次と、良く思いつくものね……貴方の発想には感心させられる」
彼女が肩で息をしながら笑って見せた。
サファイアブルーの瞳に、未だに希望の光が見て取れる。
「しぶといなあ」
僕は右手で頭を掻いた。
「もしかしてと思うけれども、君は忘れいているんじゃないか? 君が死ねば、リディアは崩壊するんだよ?」
「私が死ななくても、貴方はいつでもリディアの結界を崩壊させられるのではなくて?」
「して見せれば、君は絶望するのかな?」
「どうかしら」
彼女はただ真っ直ぐに僕を見据えていた。
「僕にその気がないなどと思っているのなら、見当違いも甚だしいことだ」
「……貴方は世界を憎んでいるのでしょう?」
「ああ憎いね」
「でも、私に世界崩壊をベットするぐらいなんですもの、同じぐらいに私を憎いと思っている」
右手のコインを弾くストロークが早まる。
「ああ、憎い――」
僕の頭の中には、酷く赤黒い感情が常に渦巻いている。
どんな本にも、これを現す言葉は見つけられなかった。
言葉では到底表現しきれない。
それはドロドロとしていて腸を煮えくり返らせる――
それはゴロゴロとしていて胸を内側から傷つける――
「だからこそ、それ故に、君を絶望させなくては気が済まない。絶望の誘惑に引きずり込まなければ気が済まない!」
「ふ、ふふふふふ……」
彼女が俯いたまま笑う。
「なにか?」
僕は彼女を睨みつけて聞いた。
「『引きずり込む』」
彼女が顔を上げて言う。
「なんの事はないのよレヴィ」
「うん?」
「貴方、寂しいのでしょう?」
「……なに?」
「貴方はこの世界の中で、自分を肯定する材料を全て失ってしまった。だから絶望した。貴方の中には『イエス』が存在しない」
鎮守の森の湖畔のようなサファイアブルーの瞳が、真っ直ぐに僕を見据えている。
「だから、人を絶望させたいのではなくて?」
僕の右手のコインが止まる。
「私に同じ気分を味わって欲しいのでしょう? 人に、同じ気分を味あわせたいのでしょう? 秩序の崩壊なんてものを使って」
「違うね、秩序崩壊は修行時代からの僕の悲願だ。僕のそれがもう――」
「なるほどなー。修行時代から寂しかったのか」
「人の話に割り込むな。違う」
「貴方のやっていることは全部そうではなくて? 術式を阻害する魔力も、自分と同じ立場に相手を立たせるための技でしょう?」
「否定するのも馬鹿馬鹿しい」
僕は髪をかきあげて溜息をついた。
「頭に渦巻くこれが、単に孤独と言う名で片付くものか」
「『いいや――いいや、分からない、誰一人として分からない。この僕の感覚は、誰一人理解することができない。僕を理解できるものなど、この世界には存在しない』」
僕が口にした科白を、彼女が一言一句違わずに引用した。
「……孤独に感情が高揚することがあるのは認めるよ。でも、それが僕を絶望せしめたものじゃない。ノーだ」
「じゃあなに?」
「それが僕にも分からないから、こうして苦心している」
「ふ、ふふふふ……」
また彼女が笑った。
赤黒い感情が頭と体を駆けずり回る。
脳が軋んで体が強ばる。
「なにが……何がおかしい!」
「サフィアは五年前の貴方の実験を『魔力中枢を分解し再構築する実験』と言った。でも私はそうは思えなかった」
「当然だ、僕の実験は――」
言いかけたところで思考が止まった。
彼女の思考が運ぼうとしている会話の先が頭に浮かび、体が固まる。
「『人は自らが生んだ悪意を越えられるのだろうか、絶望の誘惑に耐えられるのだろうか――』」
彼女がまた僕の言葉を繰り返す。
「貴方は五年前に絶望を超えようとした。でも、超えられなかった。自分の中枢をバラバラにしても、絶望を超えるだけのイエスを見つけられなかった」
「……」
「貴方は人に絶望を超えさせようとしている。自分が五年前に乗り越えられなかったから、失敗してしまったものだから、お手本を見せて欲しがってるのね」
頭の中のありとあらゆる情報のノーのレッテルが貼り付けられ、機能が完全に停止しようとする。
「だまれ、違う、ノーだ……!」
じくりと脳が痛み出す。
「ワイズ・グレーは確かに鼠ね。好奇心旺盛で、何でもかんでもかんでもすぐ齧る。気に入らないものにはすぐ歯を立てる。人がちょっとにしか感じない事も、大きく感じ取ってしまう――」
「……ッ」
頭の疼痛に苛まれながら顔を上げると、鎮守の森の湖畔のようなサファイアブルーの瞳に、苦しむ僕の姿が映っていた。
「貴方はそんな、臆病で寂しがり屋の鼠よ」
「だま……れッ!」
「ふふふふふッ――あははははははッ!」
呻く僕を前に、彼女は高笑った。
「――レヴィ、私の今の気持ちが貴方に分かって?」
目を細めた、谷間の姫百合ごとき微笑み――
「『こそばゆい』よ。世界の秩序崩壊なんてものを持ち出してまで、私をこんな目に合わせてまで、貴方は駄々をこねるんですもの」
「だま、れ――」
「どんな酷いことをしても、どんな大きい事をしてみせても、貴方の行動はすべからく、ただの『おねだり』なのよ」
子供のことだ――
「黙れぇぇぇぇぇぇぇぇ――ッ!」
僕は頭痛を振り切って、両手にコインを構えた。
「絶望を超え方を僕が知りたがっているだと? はッ! それこそ勘違いというものだ! 君が死ぬ、リディアは消える、大陸の秩序は崩壊する! 導き出した答えに変更はない!」
「出来ないわ」
「なに……!?」
「貴方がリディアの結界を崩壊させることはない」
彼女は言い切って静かに僕を見据えた。
「その状態で何が出来ると言うのか」
「さあ、何かしら?」
彼女の瞳と魔力は、頑として揺らがなかった。
「むしろ私の方が聞きたいぐらいなのだけど」
「なに?」
「貴方が言う陵辱って、この程度のこと?」
「なん――」
「『絶望なんてするもんか』」
僕は余りの怒り視界がチラついて頭を振った。
両手を下ろして、呼吸を整える。
――すぅぅぅぅぅぅッ
気息集気法によって魔力を高める。
考えうる自己最高の魔力の多寡を体に集める。
彼女は杖を翳して身構えた。
「お望み通り、陵辱開始だ」
僕は片足を持ち上げて、宙に浮かんだコイン群に目を走らせた。
狙うは一点、全てが終わるブレイクポイント――
「唯一球ッ!」
――ダァンッ!
震脚と共に加速を発動させ、僕は右手のコインを弾いた。
――ギギギギギギギギギッ!
コインの連鎖が放射状に広がり続け、やがて全てのコインに衝撃が行き渡る。
全てが銀の弾丸へと変わる。
――ガガガガガガガガガッ!
「――ッ!?」
四方八方から降り注ぐ流星雨のような弾丸に晒され、彼女が必死に剣を振る。
凌ぎきれるものか――
僕は更に両手でコインを弾いた。
――ダダダダダダダダダッ、
魔法銀の弾丸の眩い光の中で、彼女の体が人形の様に踊った。
「はははははッ!」
――ダダダダダダダダッ!
高揚した感情が、加速した意識が、忘我の内に高速のコイン連打を体にさせる。
暗い自意識の闇が、魔法銀の干渉によって真っ白に染まっていく。
「ははははは―― はははははははははッ!」
光で何も見えなくなっても、僕はコインを打ち込み続けた。
手応えなど知ったことではない。
全部全部、消えてしまえ――
「変わってないわね」
背後でする鈴鳴り蘭の声、
「――な!?」
首に魔法銀の鞭が巻き付いた。
「ぐ、く――ッ!?」
――ギリギリギリッ……
両の足が地面を離れ、鞭が喉を締め上げた。
魔法銀によって焼ける皮膚の嫌な匂いが鼻腔を掠める。
「が、ぁ……ッ!」
「貴方は一つの物事に集中すると、我を忘れる癖がある」
どうして後ろに――
「瞬間、移動……ッ!?」
「修行時代に貴方が発掘した術を、今の私が使えないとでも思ったの?」
――ギシギシッ……
頚動脈と気道を締め上げるばかりではない。
頚椎が軋んで悲鳴を上げている。
折る気か――
足を振って踵で顎を蹴っても、彼女はビクともしなかった。
呼吸が乱れ、僕の気息集気法が作用していない。
「か、は、ぁ……ッ!」
僕は右手に数枚のコインを握り、拙い魔力を込めた。
「何をしても無駄よ」
「どう、か、な――」
「ふッ!」
彼女の腕力が更に強まり、魔法銀化した鞭の魔力が上昇していく。
「あ、が――」
絞める折るなどと生優しい威力ではない。
首を捩じ切るつもりか――
鞭は辛うじて左手で押さえているものの、コインを握る右手からは魔力が消え失せ、遂にだらりと下がってしまった。
呼び出したコインが地面に散らばる。
「『ひ、め、ゆ、り――』」
僕は掠れた弱々しい声で、「シューティングドッグ」の声を真似した。
「芸のない――ッ!」
彼女が忌々しげに吐き捨てて、逆上したかのように腕に一層の力を込めた。
力んだ――
僕は彼女が僅かに揺らがせた腕の動きに合わせ、彼女の重心に最も負荷が掛かる場所に体を振った。
「――ッ!?」
彼女が僅かに足を踏ん張る。
力んだ、な――
脚に力が入るということは、鞭を締め上げるのとは別の力のベクトルが発生したと言うことだ。
彼女の力きみを利用して、僕はさらに体を振った。
動くたびに喉が締まって首が軋む。
「ぐぅ、う――ッ!」
だがもう少し――
前後左右、発生した力のベクトルを揺さぶり倍加させ続けた結果、
「く……!?」
遂に彼女が重心を動かした。
僅かに動いた彼女の足が、地面に散らばったコインの一枚を踏む。
「じゃん、ぷ、しょ――」
僕は目を瞑って、体に残された最後の魔力を発揮した。
――パァンッ!
彼女が踏んだコインが弾ける。
「あ――ッ!?」
足を乱した彼女がさらに別のコインを踏んだ。
鞭が緩んで吸い込むことが出来た、ほんの僅かな空気――
呼吸から魔力を練り、僕はその全てを発揮した。
「跳ね球ッ!」
――パァンッ!
「――ッ!?」
彼女の体が大きく流れる。
鞭が完全に緩み、僕は身を捻って地に降りた。
そのまま震脚して振り返りざまの頂肘、
――ダンッ!
「くッ!?」
彼女が両腕で僕の肘と肩を押さえる、
身を沈ませて今度は下からの頂肘、
――ダァンッ!
「ぐぅ――ッ」
彼女がたまらず鳩尾をガード、
僕は体を転進させて、背中を彼女に叩きつけた。
――ダァンッ!
「あ――ッ」
彼女がよろめいて後ろに下がり、またコインを踏む。
――パァンッ!
「あぅッ!?」
大きく片足を上げた彼女が、そのまま後ろに飛びずさって距離を取った。
「ぐ、ごほッ――」
僕の方には追撃する余裕がない。
膝に手をついて喉をさすりながら、僕は彼女を睨みつけた。
「ご、ごろじでぐれ゜る゜……!」
感じ取った命の危機に、腹の底から殺意が湧き上がる。
「なにを今更……」
彼女が杖を振るって鞭を脇に構えた。
その体はコインで穿たれた傷が治癒しておらず、肩から足から、体中の至るところから血が滴っている。
治療する程の余力もないようだ。
それでも君は――
僕を見据えるサファイアブルーの瞳には、まだ希望の光がある。
君は、絶望しないのか――
僕は涙を流しながら笑った。




