48.「星が見えなくなった日に」
「あら……?」
気がつくと、俺は廃墟と化した聖堂に立っていた。
天窓のステンドグラスは割れたんだか割られたんだか、辺りに転がっている監察神官は倒れたんだか倒されたんだか――
「――って!?」
見覚えのない――否、見たことがあるような気がする光景だった。
廃れた聖堂も、辺りに伏した監察神官も。
これは所謂一つの既視感――
「な、なんだ……?」
壊れた影から覗く空は暗闇、夜のようだが星が一つも輝いていない。
酷く厚い雲がかかっているのだが、風が乾いていて雨の降る気配がない。
「雨の匂いがしない……」
何かがおかしい――
「いや、そうじゃなくて!」
俺はすぐ近くに転がる監察神官に手を当てた。
全身に走る妖脈が損耗し、魔力が酷く希薄だ。
「結ぶ祈り、もってこの手を女神の御手にせん、汝の艱難を払わん――浄化!」
知識はあっても、魔力を瞬間出力でしか扱えない俺ではどうしても応急処置になってしまう。
だが、何もしないよりはマシだ。
「おい! 大丈夫か!」
監察神官の上体を抱き起こし、頬を軽く二三度叩く。
主だった外傷は見られないが、魔力中枢の状態が乱れに乱れていた。
呼吸の数と換気量が異様に少なく、酷く衰弱している。
『う、うぅ……』
監察神官が呻きながら薄目を開けた。
「気付いたか」
俺はほっと胸を撫で下ろし、監察神官の前に指を立ててみせた。
「この指は何本だ? 分かるか?」
『……』
監察神官は虚ろげな瞳ながら、指ではなく俺の顔を見つめていた。
「おーい、大丈夫かー? 指ですよ指、見えますかー?」
少し声を大きくして呼びかけてみる。
指を揺らしてみても目の注意が向かない。
『ふざ、ける、な……』
苦悶に表情を歪めながら、監察神官が声を搾り出した。
「ふむ」
開眼機能に問題は無いようだが、会話が成立しない。
言語機能から判断するに、見当識がどうにも妖しい。
霊視の限りでは命に別状はないようだが――
ザッと辺りを見渡すと、聖堂内に倒れている監察神官が全員同じ状態にあるらしい。
「気を楽に、ゆっくり呼吸をして。徐々に徐々に深く――」
『ふざ、ける、な!』
憎悪に満ちた目、おどろおどろしい声だった。
「……別にふざけちゃいない。大丈夫、落ち着いて。危機は去った」
俺は口元を「にへっ」と緩めて笑いかけた。
『危機は、去った、だと……?』
「ああ、大丈夫だから。まずは落ち着いて――」
『お前が――お前がどの口で!』
監察神官が歯を食いしばって体を力ませた。
殆ど発現出来ていない魔力が、それでも強烈な感情に揺らめいていた。
酷く気が立っているらしい。
「どの口で」と聞かれても、「この口」でとしか答えようがないわけだ。
「一体、何があったんだ?」
『全て、貴様が、やったこと、だろうが……!』
「俺が?」
俺は取り敢えず相手の会話に合わせてみることにした。
気の高ぶった人間を落ち着かせるには、言いたいことを言いたいだけ吐き出させるのが一番だ。
『貴様が、やろうと、していることが……!』
「ふむ」
適当に相槌を打ちながら、なおも監察神官の容態を確認し続ける。
やはり会話が成立しない。
体は思うように動かせないらしい。
浄化で応急処置をしただけなので劇的な回復も見込めないが、それにしても妙な塩梅だった。
これが彼一人ならば持病の既往を疑うが、辺りに倒れた全員が同じとあっては、何らかの外的な要因によって今の状態になった可能性が高い。
「なんにせよ、落ち着いて呼吸を整えて。今すぐ彼女を――」
と、俺はそこで言葉に詰まった。
彼女――
「……彼女って、誰だ?」
自分で口にした代名詞に当てはまる、固有名詞が全く思い浮かばない。
思い起こそうとしても頭が上手く働かない。
「なん、だ?」
脳裏を掠める絹糸ごときブロンドヘアー、
鎮守の森の湖畔の様なサファイアブルーの瞳、
野をながらるる清流に似た、清廉とした鈴鳴りの声、
「なんで……」
記憶をたどろうとすると、頭が真っ白になって目の前までもが白じみだす。
俺は頭を振って意識を保った。
『狂人、が!』
嫌悪、憎悪、拒絶、軽蔑、僅かに哀れみ、そんな感情が瞳に浮かんでいる。
体から薄く立ちぼった魔力は、濃い敵意を匂わせていた。
「狂人……?」
狂った人を現す言葉で間違いがない。
『今日は、何月、何日だ……』
監察神官は薄ら笑って俺に質問をした。
今は身を丸めた竜を現す「4」の月、睡竜月、日付は――
「あら?」
分からない。
『ここは何処で、お前は誰だ、ここでお前は、何をしている?』
「こ、ここは――」
廃墟と化したこの教会には覚えがある。
この場所の香りは記憶にある気がする。
確か彼女と出会った――
「え……?」
思い出しかけていた記憶映像が霧散するように掻き消えた。
何も思い浮かばない。
「お、俺は……」
俺は、俺だ間違いない。
間違いなく俺なんだ。
だが、しかし――
「『俺』って、誰、だ……」
名前が言えない。出てこない。
「『俺』は、ここで――」
何をしているかが分からない。
ここは何処で、俺は誰だ?
一体ここで何をしている――
「馬鹿な!」
冗談じゃない、冗談ではない。
自分が分からないだなどと、そんな事があってたまるか。
俺は俄かに混乱をした。
思考のコインが焦って空回りをし始める。
今日は何日?
ここは何処?
自分は誰だ?
何をしてる?
何が起った?
答えが浮かぶより先に疑問ばかりが浮かび続け、謎から枝分かれに派生する謎が無限に広がり続けていく。
「え、あ、あ……」
増え続ける疑問符に、混乱が一層深まっていく。
何も考えることが出来ない。
何一つ、答えが浮かばない。
『狂人、が……!』
それだけ呻いて、監察神官は再び気を失った。
俺は彼の上体をそっと床に寝かせ、自分の額に手を当てた。
「きょう、じん?」
俺が……?
今一度辺りに目をやると、やはり見覚えがあるようなないような、定かではない廃教会の聖堂にいる。
十数人にもなるであろう横たわった監察神官。
全員が全員、外傷もないまま衰弱している。
ふと、口の端が持ち上がる。
「うふっ」
漏れ出たのは失笑だった。
「ふふふふふ――」
その感情がどうして生まれたかは分からない。
ただ、可笑しかった。
教でも厳しい修行を受ける修道神官のうちの、選ばれたほんのひと握りがなれるとされる監察神官が、来る日も来る日もこうして目の前で這いつくばっている。
来る日も来る日も――?
「はははははははッ!」
俺は立ち上がって哄笑した。
良くわからないまま感じる、胸の空く思いに恐怖した。
「はは、ははははは……ッ!?」
自分が誰か分からない。
自分が何をしているのか理解出来ない。
自分がどんな感情を沸き上がらせているのか認識できない。
わからない――
体を突き動かして止まない喜びの中に、恐怖を覚えている。
戸惑いながらも気分は爽快なのである。
熱い何かが溢れて伝う。
俺は笑いながら泣いた。
泣きながら笑った。
「は、ははは……」
膝を負って、俺は床に手をついた。
何だ一体何が起こっている?
何もかもが分からない。
分からない――
「分からないじゃない、考えろ――!」
俺は地面に額を打ち付けた。
「分からない事を、分からないで投げ出すな! 目の前の問題から逃げるな!」
そう、俺は逃げる。
逃げる性質を持っている。
それを忘れるなと教わった筈だ。
彼女に教わった筈なんだ。
教わった筈なんだ。
「誰が、誰に……?」
思い浮かべようとすると視界が白じむ。
脳の中に否定があふれて全ての情報が消滅していく。
「――ッ」
頭の中の情報とはつまり記憶だ。
その記憶が、思い浮かべた端から消えていく。
記憶とはつまり自己を構成するための経験と知識である。
自分自身となりうる思考が砂のように崩れていく。
「俺」という自己認識が薄れる。
「やめ、止めて、くれ――」
ただ記憶が消えていくだけで、不快感はない。
ただ、行き着く先の分からない場所を滑り落ちるような不安があった。
奈落へと沈んでいくかのような恐怖があった。
浮かんでは消えていく人々の顔。
ゆめみがちな子虎、
静かに飢えた狼青年、
何でもできる猫の剣士、
親しかったような気がするにも関わらず、消えていく彼らに対し、何を思っていいかが分からない。
どんな感情を抱いていいかが分からない。
なにも分からない――
「違う、駄目だ……!」
分からない、でいいはずがない。
消えてしまっていいはずがない。
こんな俺は絶対に間違っている。
否、絶対など世には存在しない。
「ひめ――」
消えていく記憶、無意識の底に落下していく感覚の中で、口をついて出たのがそれだった。
「ゆり……!」
それは何を意味する言葉だったろう。
「ゆり」と言っても百合じゃない。
それは清楚可憐な鈴蘭の異名で、
甘く芳しい香りのする魔力、
「レヴィ」
「……!?」
目の前に、観察神官の青い縁どりの白い聖職胴衣を来た、ブロンドヘアーの女性がしゃがみ込んでいた。
鎮守の森の湖畔のようなサファイアブルーの瞳が不思議そうにこちらを覗き込んでいる。
「レヴィ」
野を流るる清流如き涼やかな声色、僅かに混じるハスキーな響き、廃教会に似つかわしくない鈴鳴りのような発声だった。
「あ、あぁ……」
俺は尻餅をついて、後ろに後じさった。
俺は彼女を知っている。
彼女は俺にとって、何か大切な情報だった筈だ。
五感が目の前の彼女から膨大な情報を取り入れようとしている。
取り入れた情報が脳に記録され、記憶となった瞬間から思考のコインが高速で否定のラベルを貼っつけていく。
脳が彼女を、全力で忘れようとしている。
「わす、れ、て――」
消えてしまう。
消したくない。
名前すら思い浮かばない目の前の彼女を、決定的に消したくない。
背筋も凍るような、恐怖が目の前にあった。
「どうすれば、貴方のそれを納めてあげられるのかしら」
彼女は静かにそう言った。
「な、なにを……?」
彼女が誰か分からない。
何を言っているのかが分からない。
恐怖と相反して、彼女を求める気持ちが湧き上がる。
「……」
彼女は床に膝をつき、俺の方へと身を乗り出した。
「ちか、づくな……!」
俺は声を震わせて後ろに下がった。
下がりながらも、意志に反して腕が自然と彼女に伸びる。
「自分に何が出来るか、私はずっと考えた」
彼女は伸ばした俺の手を取って、さらに体を近づけた。
彼女の魔力がする、甘い鈴蘭の香りが一層強まる。
「どうすれば、思い出してもらえるのかを、ずっとずっと考えた」
サファイアブルーの瞳は潤み、伴って湿っぽい声だった。
「思い出してレヴィ。思い出せないのであれば、私を知って」
「な、に?」
彼女が俺の手を握り、空いた手で自らの聖職胴衣のボタンを外しに掛かった。
「よ、せ――」
俺は彼女の手をしっかり握りながら、それでも後ろに下がり続けた。
「忘れるのが追いつかなるほどに、私を知って」
冗談じゃない。冗談では――
「冗談じゃないのよ」
ボタンが一つ、また一つと外れ、道徳の番人である事を現す青い縁取りの白い聖職胴衣の襟がだらしなく開いた。
覗く胸元から立ち上る、魔力とは違う甘い女性の肌の香り。
暗い廃教会の聖堂に、聖職胴衣の白とは違った、彼女の肩の白い肌が浮かび上がった。
「レヴィ……」
決した媚びた目ではなく、何処かに恐怖と葛藤が満ち満ちた真剣な眼差しだった。
悲しいような、喜んでいるかのような、読み取ることの難しい複雑な感情。
露になった肩が小刻みに震えている。
「嘘をついたりしないから。騙したりなんてしないから。お願い、私を知って」
彼女の指が、自身の胸を覆った下着に掛かる。
これは夢だ――
場所も、記憶も、事象さえ定まらない。
そうだこれは夢なんだ――
「夢じゃない……!」
俯いた彼女が、こちらの思考を読み取ったかのように強い語調でそう言った。
絹糸のように垂れた前髪の奥で、キラリと光る水滴が落ち、廃教会の床を濡らす。
彼女の手が、ゆっくりと、引きちぎるように胸の下着を外した。




