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エルグラドの冒険者(推敲及び改訂中)  作者: 井伊嘉彦
第一幕 女神のコイン
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14.「フルボディな彼女」



『結界を適当に維持している僧侶のダイセードー』



 妙な節をつけた間抜けな声が、大音量で街を駆け巡っている。



『魔物による治安の低下、盗賊を捕まえられない都のキシダーン』



 魔力によって声を都中に反響させる演説馬車だ。



『冒険者に媚て増税をする、都のキゾクギカーイ』



 国政に反発する、どこぞの団体の仕業だろうが――



「冒険者に媚びてと言うのは、流石に無理があるだろう……」



 書類の山に囲まれた狭い盆地の中心で、俺は演説に小さなツッコミを入れた。


 処理しきれない監察神官の報告書は日々溜まる一方で、もはや俺の机の上は機密のデフレ状態である。


 日々右肩下がりで下降し続ける俺のテンションとは対照的に、リディア都民の感情はおおいにヒートアップしている。


 大聖堂が維持する大結界の不具合は依然改善されず、相次ぐ魔物の出現によって都の治安は物理的にも霊的にも悪化の一途を辿っていた。


 賊の殆どは国を持たない冒険者で、犯人が冒険者でなくとも盗賊は冒険者とみなされる場合がほとんどだ。


 貴族議会は「問題解決の為にはやはり冒険者雇用制度が必要」などとこれ幸いと増税額の引き上げを訴えている。


 増税額を譲歩したとき、民の同情を得やすくするための準備段階だろう。


 魔物に賊、国政に生活を脅かされ続けている都民は、結界の動作不慮を改善できない大聖堂をばっしばっしとバッシング、盗賊の跳梁跋扈を許す騎士団に非難轟々、貴族議会には増税反対のデモで腐った卵等を全力投球する始末で、「冒険者廃絶すべし」の世論が一層強まっている。



 いやもう、何て言うか――



「……どうでもいいですから」



 書類整理の依頼は達成出来そうもない。


 もはや俺の十年再修行は確定事項になりつつある。


 外がどんな状況になろうとも、今後の人生には一切の関係がない。


 どうせ表に出られなくなるのだ、世の中がどうなろうが知ったことではない。



「うー、ぶー、あー……」



 憂鬱極まった俺は、机の上で首を左右にローリングすると言う意味不明の行動を取ってみた。


 徐々に転がるが動作が加速し、勢い余って書類の山に頭をぶつける。



 ――バサバサバサッ



 書類の雪崩が発生し、俺の首を完全に飲み込んだ。


 紙による物理的圧迫が妙に心地いい。



「……うふッ」



 病んでいる。



 書類の下でビクッビクッと体を強ばらせて反射速度を確かめてみたり、全身を硬直させてブルブルしてみたり、口を金魚のようにパクパクさせてみたり、意味のないことを三つ重ねてみる。



「……んふッ」



 物凄く病んでいる。



 最近、春だと言うのに雪が降り積もる夢ばかり見る。


 書類の端に木の絵を書いたりすると、実る果実を書くのに夢中になって魔物の卵のような不気味な芸術作品が出来上がる。



「んふッ!」



 やおらガバっと体を起こし、書類を宙に巻き上げる。


 書類達が優雅に宙を漂い、俺はタクトを振る指揮者ごっこをした。



 末期である。



 一時の愉悦に身を任せていると、一枚の書類が顔面に張り付いた。



「……」



 自分の取った行動のすべからくが馬鹿らしくなって、俺は顔に張り付いた書類を投げやりに引っペがした。



「何ですか君は? ああ、術士捕縛の提案書くん――」



 そこでそのまま、俺の体は固まった。



「……」



 駄犬化していた意識が急速に覚醒し、俺は食い入るように書類の文字に目を走らせた。



 嘘だろ――



 穴があくほど何度も何度も内容を確かめる。


 術師捕縛の提案書には、ある人物の身辺が事細かに記載されていた。


 自分の指名手配の時に似た衝撃が全身を駆け巡り、手がじっとりと汗ばみ出す。



 ――コンコンッ、


「!?」



 不意に鳴ったノックの音に仰天し、俺は椅子ごと床に倒れ込んだ。



「ぐはッ!」



 衝撃で書類の山の一角が崩れ、机から書類の滝が頭に降り注ぐ。



『レヴィ、入るわよ? いま何か音が――』



 鈴鳴りの声の主は、こちらの答えも待たずに扉を開けた。



「「……」」



 静寂――



 原因は報告書が散らばった机周りの惨状でしかない。



「今、片付けますんで……すみません」



 俺は小さい声で言いながら、床に落ちた書類を拾い出した。



「……」



 腰に手を当てたいつものポーズで、彼女が俺を見下ろす。



「あ、鞭とかちょっとだけ待ってもらえます? ホント、すぐ片付けますんで、それからで――」



 身だしなみこそ綺麗になった、遊びを封じられた遊び人の現実がこれである。



 彼女は「どこまで片付いたの?」だとか「進み具合はどう?」といった言葉を一切口にしない。


 サファイアブルーの瞳は、ただじっと俺のはかどらない仕事振りを静かに見据えるばかりなのである。


 何かを言われたほうが、いっそ気が楽と言うものだ。


 のろのろと書類を拾い集めていると、彼女が無言で歩を進めてきた。


 俺は即座に体を緊張させた。



 拳か、蹴りか、抜き打ちで鞭か、さあ何が来る――



 来るべき衝撃に備え防御の体勢を整えてみるも、



「……あら?」



 攻撃が降りかかってくることはなかった。


 部屋に入ってきた彼女が、しゃがみこんでせっせと書類を拾い集めている。



「転んだのでしょう? 手伝うわ」

「すみません、寝てたわけじゃないんですが――」

「聞いてない」

「……すみません」



 謝りながら俺も拾う。



「レヴィ、私、謝罪を要求するような事は何一つ言ってなくてよ」

「すみません」

「……」



 彼女が手を止めて俺を見た。



「ああ、いや――」



 反射的に頭を掻こうとしたのだが、髪を整えている事に思い至ってギリギリの所で手を止めた。


 彼女が僅かに首を傾げる。



「いや、髪を乱そうとしてるわけでは――」



 彼女の瞳に見据えられると、言いたいことが上手くまとまらない。



「……ごめん」



 結局、言葉が謝罪に落ち着いてしまうといった具合だ。



「……」



 彼女は溜息をついた。



「えー……」



 こう言う時はとりあえず愛想笑いだと思うのだが、笑顔と言うものの作り方が瞬間的に分からなくなって、動きばかりか表情までもが固まってしまう。


 彼女の前で守らなければいけないルール、守った方がいいであろうマナーと言うのが脳裏を駆け巡り、己を律しようとする気持ちが先走って身動きがとれなくなってしまうのである。



「ええと……」



 思考停止によって、何をしようとしていたのかさえ忘れてしまう。



 疲れていると言ってしまえば、それまでのことだ――



 目の前にしゃがみこんだ彼女が、書類を膝の上に乗せて両手を俺の顔に伸ばした。



「――ッ」



 俺は迫り来る激痛に耐えるべく、目を瞑って体を強張らせた。


 彼女の手が、洗髪するように俺の頭をグシャグシャとやりはじめる。



「……?」



 片目を開けてみると、いつも通り前髪が眼前を覆っていた。



「これでなくて? 貴方がつまずいたのは」



 彼女が小首を傾げる。



「の、ようです」



 遅れに遅れた愛想笑いが、ようやく口元に浮かんだ。




    ○


 せっせと書類を拾い集め、机の上でも散乱したものの整理もひとしきり、俺はようやく彼女に椅子を勧めることが出来た。


 陽も落ちた宵の口、魔法鉱石の明かりの灯る部屋の中で、彼女の長いブロンドヘアーが飴色に輝いている。


 切れ長で涼しげなサファイアブルーの瞳は相変わらず曇ったところなく、紅をさしていない桜の花弁のような唇は静かに引き結ばれ、純白にして青い縁取りの聖職胴衣はシミ一つない。


 魔力も水を張ったように安定していて、椅子に腰掛けた姿は一輪の花のように美しい。



「そろそろ、祈祷訓練の時間だったか」



 無言で見つめ合うことに耐え切れなくなり、俺は頭を掻こうとしてまた手を止めた。



「止めなくていい」



 彼女は静かにそう言った。



「……うん?」

「衛生上良くないけれど、乱してしまったのだから止めなくていい」



 別に痒くて掻きたいわけでもなく、一種の癖なので、やれと言われると特にやる気も起きない。


 俺はゆっくり手を戻した。



「レヴィ」

「うん?」

「どうしてロビーに降りて来ないの?」



 彼女が清流のような声色で静かに問う。



「いや、俺と言うのは仕事が日々ノルマに達していないわけだから……」

「今日は日曜日よ」



 と言われ、机のカレンダーに目を向ける。


 月の表示は4、竜が体を丸めて眠る様を現わした数字の形から、「睡竜月」などと呼ばれている。


 しかし、今日が何日であるかがすぐに思い浮かばず、曜日を確認するまでに至らない。



「日曜だったのか……君は? 日曜学校の勤務はなかったのか?」

「ここで行いました」

「話し声が絶えなかったわけだ」



 おかげで今日はまだ一度も下のロビーに降りていない。



「朝食はロードワークの後に摂っているからいいとして、貴方今日お昼はどうしたの? 夕飯もまだでしょう」



 彼女が尋ねる。


 ここ最近、進まない仕事のバツの悪さが極まって、一同が寝静まってから下に降りて冷蔵庫を漁る生活を続けている。


 遊び人転じて完全なる引き篭りである。



「君は俺のお袋さんか」



 苦笑しながらそう返す。



「私が母親なのではなく、貴方が子供なだけではなくて?」



 彼女は特に表情も変えず淡々と言った。



「……すいませんね、どうも。腹が空いたという感覚がなかったものだから」



 憎まれ口というわけでもなく、本当に食欲が希薄になっている。


 「うっ、食べられない」と言う不快な感覚すら無い。



「煙草も吸いたいと思わないし、あれほど通っていた夜の街にも興味が沸かない。これも日々の修行の賜物だろうか」



 俺は腕を組んで「にへっ」と笑った。


 皮肉のつもりは毛頭ない。


 禁酒禁煙は一カ月間続いている。



 ――ドンッ!



 彼女が懐から一本の白ワインを抜き出して、書類積み重なる机の空きスペースに突き立てた。



「……え、何? どうした?」

「聖書に記される、光の女神ライアリスが長女の水女神、レイクレイラがティア海の龍神に嫁ぐ下り、二神の間を取り持った聖人オヴォリオの言葉」



 ワイン瓶を握りながら彼女が問う。


 聖書――つまり聖ライアリス教の経典からの出題だ。



「『神も人も魔物でさえも、飲まねば宴は始まらない』」



 書写させられていたということもあって、求められた一節がスラリと口を突いて出た。


 彼女が懐から銀のワイングラスを取り出し、一つを俺に渡す。



「……飲もう、という事でいいのかな?」

「光の女神ライアリスが二女の土女神、アーシャクエスがグァレス山岳で聖獣と巡り合った下り」



 また出題、



「『わざわざ問う愚かを愚問という』」



 彼女は満足げに頷いて、俺にワインとコルク抜きを手渡した。



「開けるのね。俺が……」

「三女の風女神、ノスタレイアがハヴェスタ平原で――」

「『花を儚くさせるは時だ』」



 時間を惜しむことわざとして用いられる聖書の下りである。


 俺はテキパキとコルクを抜いて、彼女のグラスにワインを注いだ。


 自分のグラスにもワインを注ごうとすると、彼女に瓶をひったくられた。



「四女の火女神ヴォルカナ」



 俺のグラスにワインを注ぎながら、彼女がまた出題をした。



「えー……と」



 主語だけに絞られると、該当する節の範囲が広すぎて流石に答えが浮かばない。


 聖書における、地水風火の四女神の馴れ初めから引用をしているようなのだが――



「『私は燃やしているのではない。燃えているだけ』」



 彼女が答えを口にして、自分のグラスを掲げた。


 感情激しく、嫉妬深い火女神ヴォルカナが、浮気性の旦那である力の神マクスに送った歌だ。


 人によって解釈が分かれる一節である。



「今日は何に怒っていらっしゃるんで……?」

「飲め」



 彼女は思いのほか低い声で言い放ち、グラスの淵に口をつけた。



「……」



 俺も小さくグラスを掲げておいてグラスを傾ける。



 きめ細かく滑らかな口当たりは深窓のご令嬢の肌触りのようで、


 抜ける香りは野原を駆ける領主の御息女の吐息ようで、


 優しい甘さと清涼感ある酸味は恥じらう十七歳修道女の首筋のようで、



 要するに良くわからない。


 味の情報量が多いにも関わらずキレがよく飽きが来ない。


 以上の印象からワイン素人に推察できるのは、決してお安くないであろうということぐらいだ。



「どう?」

「君のようなワインだね」

「……」



 表情には出なかったが、彼女の魔力が大きく揺らいだ。


 博打手だったが好感度アップの気配か。



「そうかな……どうしてそう思うの?」



 彼女の言葉遣いが砕ける。



「君がこうだから」

「……」



 遊び人の情緒論法をなめるなよ。



「ショックだなー」



 彼女が独りごとのように言う。


 ごめんなさいダメでした。



「何がショック?」

「私はこんなフルボディだったりするのかしらね」



 グラスを回してワインを空気になじませながら、彼女がぼんやりそう呟いた。



「どのぐらいなら満足なんだ」



 良くわからないので、さも知ってる風に苦笑する。



「……ミディアム」

「理想があったのなら申し訳ない」



 俺はグラスを傾けて首を傾げて見せた。


 彼女がどんな答えを返してこようが、こちらから返す言葉は変わらない。



「君に誘われて飲んだ久々の酒がこれ以上ないほど美味しかった。だから俺が知るこれ以上ない女性をあてがった。貧乏舌ではこれが精一杯さ」



 サファイアブルーの瞳がチラリとこちらを見た。



「それを『申し訳』と言うのではなくて?」

「……」


 一杯目を飲み干さないうちから絡まれている。


 しかし、彼女はそれっきり口を開かなくなり、俺も特に何も思い浮かばず、お互いに黙々とグラスを交わすだけとなった。



「「……」」



 熟成された果実酒が醸す味わいは、舌と鼻腔に確かな刺激を残して行くのだが、読み取った数多の情報に何を思っていいのかが分からない。


 酒を飲みたい等と無駄吠えしておいてなんだが、酒の味に対して感情がまったく働かなかった。



「何も食べてない所に飲んで、大丈夫だった?」

「ええ、まあ」



 薄暗い部屋で銀の杯を傾ける彼女の姿は、まるで動く宗教画のようで、ただひたすら美しい。


 熱ぼったい吐息すら聞き取れる差し向かいの距離で、しかし触れえることの出来ない神聖なものに思えてならなかった。



「久々の割には、酔わないもんだ」



 俺は首を小さく傾げた。


 アルコールによる火照りは感じない。


 酔いと言うものが一体どんなものであったかが思い出せず、口元が再三の苦笑をかたどる。



「私は少し酔ったかな……」



 彼女が気怠げに髪をかき揚げた。


 分け目に逆らった金の絹糸がパラパラと指の間からこぼれ落ちる。



「日々の激務に加え、拙僧の監視に目を光らせていては気が休まる暇もございますまい。どうぞご自愛の程を」

「……」



 切れ長の瞳が、すっと細まって俺を見た。



「レヴィ」

「うん?」



 彼女はまた少し黙り込み、グラスのワインを飲み干した。



「私の監視下にあるからと言って、常時畏まる必要はないんじゃないかな」

「はあ……」



 俺は曖昧に相槌を打った。



「……」



 彼女の魔力が更に何かを言おうとする気配見せだのだが、視線は隅に伏せ落ちて思考を巡らせる呈となり、言葉がなかなか出てこない。



 また、静寂――



 言いたいことか聞きたいことがあるのだろうが、それが何んであるかなど皆目見当がつかない。


 今差し向かいで飲んでいること自体、俺にとっては不審な状況なのである。



「以前の貴方は……」



 彼女がようやく切り出した。



「うん?」

「少し前の貴方は、人に対してもっとフランクだったというか」



 口元に拳を構えて彼女が言い淀む。



「フランク……」



 俺はグラスをテーブルに置いて立ち上がり、彼女に手を差し出した。


 彼女もグラスを置き、俺の手を取って立ち上がる。



「こう?」



 左手を腰に回し、体をグイッと引きつけて、息もかからんばかりに顔を接近させる。


 開いた右手は彼女の胸に「ひたり」と当てた。


 もちろん胸というのは、彼女の女性らしい膨らみという解釈で間違いない。



「ふふっ……」



 彼女は満足そうに目を糸にして笑うと、大胆にもガータベルトが魅惑的な脚を俺の股間に擦り付けるように差し込んで、物静かなる体重移動(シフトウェート)の完了と共に凄絶なリバーブローを放った。



 ――ドキュッ、


「げ、ふぅッ!?」



 という空気のマウスピースが口から溢れ落ち、胸部を覆う肋骨の下から二本が完全にへし折れた。


 俺は椅子に座って真っ白に燃え尽きた。


 彼女も静かに椅子に座る。



「そんな感じかしら」



 手酌で酒をやりながら、彼女が冷然と言った。



 つまりなんだ、定期的にシバかせろと言っているのか――



 奪い去られた第六肋骨と第七肋骨を、それとなく自己治療(セルフヒーリング)する。



「酔いが……」



 彼女が切れ長の瞳をトロリとさせて額に手を当てた。


 安定した魔力は常日頃の滑らかさ保ちつつ、不規則にうねっていた。


 本当に酔っているらしい。



「急に動くから」



 動きの原因を作ったのは俺である。



「う……んんっ……」



 書類の積み重なった机に肘をついて、彼女が項垂れる。


 たくれ上がってだらしなく乱れたスリットから、レースのタイツをベルトで釣った淫らがましい太ももが露出した。


 俺はワインを飲みながら、ぼんやりと魔法鉱石の光を照り返す彼女の肌色を眺めた。


 以前彼女に感じた、鳩尾あたりで「ギュルリ」とのたくる劣情は、鞭による指導(・・)が恐ろしすぎて首をもたげる気配がない。


 酒にも美女にも動じないあたり、俺は今や賢者に近づきつつあるのではないだろうか。



「立ち上がるのが億劫……」



 うっとりとした様子で、彼女が俺に潤んだ瞳を投げかけた。



「ふ――」



 俺は静かに笑った。



 この遊び人を、試そうと言うわけか――



 俺はゆっくりと椅子を立ちあがった。


 ベッドの上に畳んでったあった毛布を手に取り、彼女の体にそっと覆い被せる。



「……?」



 彼女のトロンとした目が俺を見上げる。


 俺は紳士らしく笑いかけておいて、後は自分のベッドに横になり、そのまま目をつむった。



 さあ、明日も四時起きだ――



「……」



 彼女がのそりと立ち上がる気配がした。



 ――ギシリッ……



 ポケットコイルのベッドが軋み、俺の体の横に彼女の腰が当たる。



「レヴィ……」



 鈴鳴りの声が、僅かに湿りを帯びている。


 ふと目を上げると、彼女の潤んだ瞳が俺を見下ろしていた。


 彼女の白手を嵌めた手が優しく俺の頭を抱え込む。



「「……」」



 無言で見つめ合う二人――



 彼女はどこか恍惚とした表情を浮かべ、



 ――パァンッ!



 右手に握ったワイン瓶を俺の頭に振り下ろした。



「はもがぐぐ――ッ!?」



 火打石を打ち合わせたような鮮烈な芳香が鼻腔を突き抜けた。


 頭部を激しく殴打されると出会える、粉っぽい香りである。


 霞む視界の中で、彼女がワイン瓶の残骸を床に捨て、



「お休みなさいレヴィ」



 ハードボイルドにそう言った。


 振り返らずに部屋を出ていく背中は、男前以外の何ものでもない。



 ――バンッ!



 乱暴に扉が閉まる。



「……」



 飛び回る天使だか鳥だかの幻覚に一度首を振り、俺はガバッとベッドから起きだした。



 一体全体なんだと言うのか――



 もしかしたら、ワインの差し入れは彼女なりの気遣いだったのかもしれないが、大聖堂監察の神官長が執行猶予中の遊び人に本気で身を委ねようとするなど考えられない。



 何にせよ、これで今夜、彼女が俺の部屋を訪ねて来ることはないだろう――



 俺は懐のマジックバッグから一枚の書類を取り出した。


 彼女が部屋に入ってくる前に目を奪われた術士捕縛の提案書である。



「間違いない……今日だな」



 俺は音を立てないように窓を開け、二階の窓から飛び降りた。


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