10.「鈴蘭の香」
俺は滂沱の涙を落として床に転がっていた。
もう鞭いや――
横では大聖堂の英雄、修道騎士アリオスが大の字になって昏倒している。
目を回した寝顔は存外幼く、こうしてみれば英雄も「ちょっと体の引き締まった学生」だ。
お前はいいなアリオス……銀の散弾一発だもんな――
俺が無防備ゼロ距離でそれを喰らったならば、漏れ無く解脱してしまうが。
――シパーンッ!
鞭が体のすぐ横を叩き、俺はビクリと体を強ばらせた。
適時防御をするだけの魔力はまだ辛うじてあるが、もはや鞭の痛みを受けきるだけの気力がない。
初歩の初歩、自己治療すら満足に出来ないほど精神的に魔力中枢的にガタガタである。
「もう立たない?」
見目麗しい毒花が満面の微笑みでもって鞭をしごいた。
「ふッ……この遊び人を舐めてもらっては困るな。これしきプレイで――」
――シパーンッ!
の音に、条件反射で体がプルプルし始める。
愛らしい子犬の様に。
一つだけ言っておく――
過敏な体質の俺が痛みで幸せになれると言うことは断じてない。
相手が絶世の美女だろうとも、幸せにはなれなかった。
今日も救われなかった――
「レヴィ、そろそろ『アメ』が欲しいのではなくて?」
彼女が微笑みを絶やさずに言う。
飴と鞭の「アメ」だろう。
「……何をいただけるんで?」
「結ぶ祈り、汝を癒さん――治療!」
彼女は俺に手をかざし、魔法によって体を回復させた。
「ふむ?」
といって、全快したわけでもなく、とりあえず身を起こせるようになった程度の回復だ。
――シパァーンッ!
「ぐやぁあああッ!?」
気の緩んだところに鞭一閃、
「今のがムチ」
言われんでもわかる。
「ぁああああああああ……」
ひとしきり床で転げ回り、俺は気絶するアリオスにそっと寄り添った。
「アリオッシュ、疲れたろう? 俺も疲れたよ……なんだかとっても眠いんだ……」
俺は涙目でアリオスの銀髪を優しく撫でた。
「う……く……?」
俺の優しさが届いたのか、幼い寝顔を晒すアリオスが徐々に覚醒し始める。
「あれ、俺――」
目を覚ますアリオスの横で、俺は徐々に床に身を沈めていった。
「アリオス……もう、ゴールしてもいいよね……?」
「なにいきなり終わろうとしてんの!?」
アリオスのブラッドレッドの瞳に正気が舞い戻る。
「あんた――あんた俺をハメたな!? 俺の気持ちを利用してッ!」
アヤと同じ火の気によった瞳に違わず、アリオスは猛火の如く怒り俺の首を絞めた。
超重量の両手剣を扱っているだけに握力が半端ではない。
「英雄君、苦しい……君の気持ちというのは一体なんであるのか……ギブ、ギブ」
若き英雄の肩を十六ビートでタップする。
「あ、いや――」
アリオスがパッと俺を頚動脈を開放した。
心なしか顔が赤い。
「気がついたのね、アリオス」
「……へ?」
――シパーンッ!
「うぁあッ!? がッ、くぅぅぅッ――」
起き抜けに鞭の一撃を喰らったアリオスが、痛みで転げ回りながらも無理やり声を押さえ込んだ。
「――ふぅぅぅぅッ、ふぅッ!」
「アリオス、英雄と言われているだけあって君は強いな」
「い、今の、今の何……!?」
アリオスが床に顔を伏せたまま聞いてくる。
「ふっ、拙僧が考案した魔法銀を固形化させる武具だ。彼女はそれを鞭として君の体に振るったのだよ」
「魔法銀の固形化!? そんなもの神官長に持たせたら――」
「なに?」
「……」
静かに微笑みを消した彼女に対し、アリオスは滝のように汗を流しながら愛想笑った。
「鬼人に棍棒と言いたいのであろう?」
――シパァーンッ!
鞭がアリオスを打ち据える。
「レヴィィィィッ!? くそぉッ! くそぉぉぉおッ!」
嗚呼、仲間の存在とはかくも心の支えになるものか――
俺は腕枕ながらに、悶え苦しむアリオスを生暖かい目で眺めた。
「俺のせいにされても困る。君だって今や破戒の身だ。言っておくが俺はもうそれを三十回は食らっているんだからな?」
「三十!?」
アリオスが目を剥いた。
――シパーンァ!
「い゛え゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!?」
今度は俺の番だった。
「今ので三十」
彼女が厳かに言う。
「さ、さんじゅう……」
アリオスが顔を真っ青にしてガタガタと震え出した。
「わかってくれるか……? 少年」
一発受けるだけでも気が遠くなる。
衝撃や出血で意識が薄れるのではない。
「想像を絶する苦痛」という負荷をかけられた脳が、精神の均衡を保つため強制終了しようとするのだ。
「気が遠くなる」と言うのはつまり、「そのままだと気が狂う」と言うことを意味する。
「貴方も三十回打たれてみる?」
彼女の問いに、アリオスが小刻みに首を横に振った。
閉じたように細くなった目尻には涙が浮かび、半開きの口は三角形にほど近く、英雄らしさが微塵もない。
「もう十分でしょう。二人とも立ちなさい」
彼女は小さく溜息をついて静かに言った。
俺とアリオスが目を合わせ、恐る恐る立ち上がる。
魔法銀の鞭から魔力が失せ、コインの鎖に戻った。
――ジャッ……
彼女が杖を振ると、コインの鎖は先端の宝玉に吸い込まれるように消えた。
夜なべの急造品にしては大した手の込みようである。
「レヴィ・チャニング修道士、貴方を戒律違反の背徳者として大聖堂に連行します。よろしいですね?」
「……はい」
気力体力がほぼゼロの俺は、もはや承諾するしか道はない。
「アリオス・ウォーク修道騎士、貴方がここで何をしていたか、なぜ抜刀していたのかは始末書という形で提出して貰います。いいですね?」
「……はい」
アリオスも至極反省した様子で返事をした。
「うん?」
俺はふと彼女が口にした言葉に首を傾げた。
「彼が俺を狙撃したのは、監察が絡んだ話だったのでは?」
「あ、ば、ばか――」
アリオスが伸ばしてきた手をヒョイっとかいくぐる。
「狙撃って――」
神官長が僅かに息を飲み、サファイアブルーの瞳を細めた。
「監察が警告役を頼んだんじゃ――ない、の……?」
俺は尻すぼみに声を小さくした。
隣の英雄が、戦闘状態に近い魔力を立ち上らせたからだ。
「アリオス、貴方一体……」
神官長が蛾眉を厳しくしてアリオスを睨む。
一方のアリオスは、うつむき加減で身を震わせていた。
前髪が作った影の下で、ブラッドレッドの瞳がギラついている。
「レヴィ・チャニング修道士」
「……なんだろうか」
俺は極力彼を刺激しないよう声を細めた。
「再修業の修行場に隔離されても、眠れる夜が来ると思うなよ? 俺の銀の甲弾はいつでもあんたを狙っている……!」
「なぜ!?」
意味が分からない。
頭撫ですぎて惚れられたか。
「あんたは……俺の敵だ!」
「アリオス、貴方何を言っているの?」
彼女が静かに問い詰める。
が、アリオスは答えずに片足を持ち上げた。
「加速!」
――ダァンッ
足を踏み鳴らすと同時に、アリオスの体が爆発的な魔力を発揮し、全身が青白い光に包まれた。
「アリオス、市街地での速度上昇は――」
神官長が止めるのも聞かず、アリオスは目のも止まらぬ疾さで廃マンションの廊下を駆け抜け、青い残像の尾を引いてコーナーを曲がった。
アリオスが使ってみせた「加速」は、自己の敏捷性や思考速度を上昇させる教の祓魔術の初伝である。
通常は多少身軽になる程度の術なのだが、極めれば極めた分だけ速度を上げられる。
効果を高めれば高めるほど魔力の消費量の桁も跳ね上がってしまうが。
場合によっては馬や馬車よりも早く移動できる魔法の為、
「加速での路上走行は原則禁止よ! 走るのやめなさい! アリオス!」
交通の安全を考えて、市街での使用は制限されている。
「羨ましいね、気軽に速度違反出来ると言うのは」
俺は頭を掻いて苦笑した。
監察の神官長に大聖堂の英雄、昨日今日で知り合った人物達のハイスペック振りは常軌を逸しすぎていて、劣等感すら湧いてこない。
「……加速の術なら、貴方でも使えるのではなくて?」
彼女がチラリと俺を見た。
「使えないことはないが」
加速は基本にして奥義、魔術戦体術戦を選ばず用途も広いが、その分無尽蔵に魔力を消費する非常に効率の悪い術だ。
「君だって手を合わせて俺の体質が分かったろ? 魔力が枯渇する危険のある魔法術式など使わないし使えない。速度違反の心配だけはないだろうな」
体を覆う魔力が人に比べて希薄な俺は、魔力を枯渇させてしまうと衣服を脱いだ時に生じる静電気だけで死にかねない。
今の状態とて相当にまずい。
魔力中枢のコンディションが乱れに乱れているため、些細な魔力攻撃で死ねる。
ことあるごとに魔的要素で危機に瀕する虚弱体質――
と言って、彼女の魔法銀の鞭で三十回も打たれれば、俺でなくてもこうなるわけだが。
「……そう」
彼女は少し間をとって静かに相槌を打った。
何処か物憂げな美人の横顔に目を奪われ、
「おっ、とと――」
俺は床の窪んだ場所につま先を引っ掛け、足をもつれさせてしまった。
「あ……ッ」
と、意外にも彼女が俺を抱き支えた。
「「……」」
鎮守の森の湖畔のようなサファイアブルーの瞳が、俺のすぐ目の前にある。
暮れかかった西日が絹糸如きブロンドヘアーを一層輝かせていた。
柔らかな胸が形を変えるほど強く押し当てられている。
彼女の吐息の度に背筋に走る――
――悪寒
俺は魔力中枢が命じる反射で後ろに跳び退いた。
――ヒュンッ! チュンッ!
超高速の銀の甲弾が窓から飛び込んで来た。
目の前をかすめた超高速の弾丸が、壁に二つの黒い穴を穿つ。
魔力の充填に時間が掛かる技であるはずなのに、二発速射と言うのはどいうわけか。
「あ、アリオス……ッ!」
彼女が声を一段低くして窓際に駆け寄った。
走り去りながらも、彼は言葉の通りに俺をストーカーし始めたらしい。
大聖堂監察の指名手配に加え、英雄に命を狙われ出した。
なぜにこう悪条件が重なって行くのか。
「あ……ら……?」
自身の救われなさっぷりはひとまず置いておくとして――
マンションの廊下に尻餅をついた俺は、なおも止まない悪寒に体を震わせていた。
「……?」
廊下の窓際で、夕日を背にした彼女が振り返る。
――シュンッ!
体の中を強烈に不快な何かが駆け巡った。
それはやはり一瞬で、体に強烈な異常を残していった。
「ぐ、ぅ……ッ!?」
胃が、小腸が、大腸が、横隔膜を巻き込んで引きつり始める。
内蔵と言う内蔵が悲鳴を上げて呼吸すら出来ない。
「レヴィ?」
「う、ぐ……!」
鈴鳴りの声が頭の中で反響し、頭痛となって脳髄を貫く。
「レヴィ!」
身を寄せた彼女の魔力が醸す鈴蘭の香りに、俺の視界はホワイトアウトしていった。




