唖然とした瞬間でした
電車があまり好きではなかった。機械的な造形も、ホームに流れる音も車内で常に聞こえる音も。
なんでこんなにギュウギュウに人間を詰め込んだ箱に好き好んで乗らなきゃいけないんだ。
それに、周りはみな俺に近づくのを拒む。満員電車の時には仕方なくギュウギュウ詰めにされているが、警戒しているのが丸わかりだ。確かに褒められた格好をしているとは思っていない。だが、俺以上に危険な人間なんて星の数ほどいるだろう。
勝手にしろよ。勝手にしてやるよ。
そう思っていた。
「ストラップ、落ちましたよ」
あの日までは。
**
最近、通学途中に良く見かける女が居る。
それはもう、普通を絵に描いたような女だ。黒いまっすぐな髪を肩まで垂らし、大抵は携帯をいじっているか、本を読んでいる。
目線は基本的に下なので、目が合うはずもなく。一度だけ見た瞳は、真っ黒だった。
そんな女を見ている俺はというと、茶色の髪をさらに脱色していた。
ピアス穴も片耳で三つ。合わせて6個は開いている。1つは親友から貰った物で、無くさないようにと常に付けている。だが、大切にしていると相手に分かると面倒なので、横の毛を少し長めにして髪で隠している。他のピアスはといえば、いつも適当選んでその日の気分で変えていた。その中のいくつかは女から貰ったものだったはずだが、どれが誰からなのかは俺には分からない。興味もない。正直、アクセサリーの類は拘りらしい拘りは無いに等しかった。
もちろん見て楽しめる物は好きだ。聞いて楽しめる物も好きだ。
最近はインディーズのロックバンドに熱を上げていたので、耳には常にイヤホンが刺さっている。他の誰も知らないが、今後有名になるだろう彼らに小さな投資をするのが、馬鹿馬鹿しい気持ちてはあるがどこか誇らしい気がした。
視線を感じて顔を上げたが、目があった高校生ぐらいの男に顔を背けられた。
取って食いはしてねえよ。お前に構ってられるほど、暇じゃないし。
俺は着崩した制服のポケットに手を突っ込んだ。乱雑な動作になっちまったことに、少し後悔する。気がついて欲しいが、やっぱり見られたくない。
ジャカジャカ漏れているだろう曲の音量を上げれば、いささか楽になった。
別段、こうなりたかった訳ではない。ただ必要だから、こうしている。
あの女……彼女に声を掛けられたのは、一度だけ。すっと差し出された手に、鍵の形の携帯ストラップを乗せた彼女に、なんの感情もない瞳で見つめられながら、その落とし物を渡された。
俺は、きちんとお礼を言えていただろうか。
彼女は……かなり危機察知能力が低いようだが、大丈夫だろうか。
しばらく彼女を眺めていると、アナウンスが鳴った。彼女が顔を上げる前に、目線をウォークマンへと落とす。
俺みたいなのが彼女を見てると知れたら、時間をずらしてしまうかもしれない。
こんなストーカーじみた感情を、知られたくなかった。
まさか、恋なんて可愛らしいではないよな。
毎回考えるものの、毎回違うだろうという結論に至る。
彼女と会話をしたいか?
答えはノーだ。彼女がクラスの女子みたいにぴーちくぱーちく五月蠅かったら、正直俺が電車の時間を変える。
速度が落ち、ドアが開く。「ご乗車ありがとうごさいました」とホームから聞こえてきた。
彼女はいつも赤羽で降りていく。乗り換えているのか、赤羽に住んでいるのかはもちろん知らない。
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今日も彼女は電車に揺られていた。珍しく髪を一つに結わえている。まあ、似合わなくなくもない。
あんまり見てると、バレてしまうよな。
その後も、なぜか目線を上げられなかった。
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今日は寝坊して、髪の毛がボサボサのまま出てきてしまった。学校の連中に笑われるだろうか。
まあ、良い。
あの子は俺を絶対に視界に入れないから。
やはり手元の携帯に目線を落としている。誰かにメールでも送っているんだろうか。
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しかし。時間が決まっているとはいえ、彼女と同じ電車にこうも乗れるものだな。
俺自身ら最近は夜出歩くことも減ったし、朝は同じ電車に乗れるようになったし。
彼女は生活スタイルを変える気はないみたいだし……。しばらくはこのままだろう。
もうすぐ、衣替えか。
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だいぶ暑くなってきたな。
彼女も汗をハンカチで拭っていた。
……なんつーか。やっぱり気持ち悪いな、俺。しばらく、電車の時間変えた方がいいんじゃないか?
でも、この日常を壊したくない。
俺が普通に学校通って、普通に家に帰って……電車に乗って。
親友にもこっちの俺の方が良いと言われてしまった。
もう、髪色を黒に戻そうか。
しかし、そうしたら彼女は……俺を認識できるんだろうか。
馬鹿馬鹿しい。
何も知るはずないだろう。だって彼女の時間は、あの静かな中で流れているのだから。
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「涼介さあ、イヤじゃねえの?」
俺の疑問に、こいつは何を言っているのか分からないというような顔で見てきた。
秀才の癖に抜けているというか、天然なんだよな……。
「なんだ? 糸井。確かにお前のストーカーじみた奇行に同行するのは本意ではないが、別に俺が変態行為を働くわけでもないしなあ」
「俺だって変態行為なんてもんを働いた覚えはねえよ!」
やっぱりどこかズレている親友に、溜め息を吐いた。
涼介は俺の幼なじみで、幼稚園の頃からの付き合いだ。俺が髪を染めたときも、「日本人のこの黒髪に対して残念なことをしている感は否めないがまあ似合わないこともない」とかなんとかで、離れていきはしなかった。加えて、涼介は自分のスタンスを崩さなかった。周りは周り、自分は自分で他人に流されることなく、自分の遂行しなければいけない事柄を淡々とこなしていくような人間だ。
そんな奴だから、俺と一緒に居れた。
きっと何度か俺から離れるように親にも友人にも教師にも言われているはずだ。しかし、それを俺に悟らせないようにしている。だから、まあそこそこ信頼してはいるんだ。
「人をじろじろ見て、気持ち悪い奴だな。それより、さっさとどの娘なのか教えろ」
「つうか、なぜ俺に同行してんだよ! 俺は普通に学校だけど、お前は創立記念日だっただろ! この暇人め!」
「休日に余興を楽しんでいるだけだ。暇人ではない」
「うるせぇ!」
真っ黒に撫でつけられた髪に、黒縁眼鏡。
電車で見かける彼女が普通の女の子であるならば、こいつはまさに真面目を絵に描いたような人間だった。
「で、どの子なんだ? あの茶髪か? それともあっちの細っこいのか?」
「……お前も大概失礼な奴だな」
「お前こそ、頭は良いはずなのに、こんな世間に失礼な格好をしてるじゃないか!」
「お前には勝てねえよ!」
涼介は失礼な奴、というよりは真っ直ぐな馬鹿だった。
俺をまだ頭が良い奴だと信じているんだから。
まあ、この真っ直ぐ過ぎる物言いが気に入っているんだから、俺も大概だな。
「あの子」
顎で軽く示してやれば、目の前のこいつは思いっきり振り返った。
「……おい!」
あまり大きな声を出せなかった俺は、両肩を掴んで無理矢理方向を変えさせた。
「ふむ」
首を何度か斜めに振りながら、何か考えているようだった。
言っとくけどな、本当に何もしていないんだって。だから、楽しむも何もないわけで。
「あのスカートがめくれている女子か」
「はい?」
「だから、あのスカートがめくれているじょ」
「う……だ!?」
声にならない微妙な音を口から出しつつで、ちらと彼女の方を見る。
いや、まさか。
そんな……。
俺は一分ほど停止した(と後で涼介に言われた)
**
「やばい。やばい」
「お前スカートなんて小学生じみた興奮するとは思わなかったが。やはり変態だな」
「うるせえよ! ってそうじゃなくて、あのまんま行かせたら……どこぞの変態に……」
隣で「いや、だからお前のことだな」と言われたのを聞き流しながら、彼女の事を考えた。
ああいう隙があると、漬け込まれる世の中だ。何より、他の男共に彼女の脚を見られたくない。つうか、見られてないよな!?
「なんだ?」
「……いや」
そういえば、気づいたのは目の前のこいつだった。
……どうやって記憶を消させよう。頭はポンコツにしてしまうには惜しいし、それ以上の恐怖を……いっそ、抹殺するか。
「ふむ。頭がおかしくなったか」
「いや、それはこれからお前にすることだし」
「……面白いな! 思考がダダ漏れだ」
「俺はまったく面白くはないけどな!」
機嫌は最低だ。
認めるよ。俺がおかしくなっているのは、前からだ。
一度会話を交わしただけの彼女にこんなに執着するなんて、絶対変だ。
「声をかければいいじゃないか」
涼介の言葉に、俺はぐらついた。
「だいたい、見続けるだけなんて。いつ彼女が別の男を連れて登校し始めるかも分からんぞ。いいのか? 本当に」
ずっと考えていた事だ。
彼女と会話をすれば、この訳の分からない気持ちも消えていくかもしれないと。
ただ、幻滅するだけかもしれない。
「あ、近くに若い男が……」
「こんにちは」
少しでも彼女に脅えられないように、優しい声を出した。
**
まさか「このまま接点が失われるのが嫌」という理由で俺が告白してしまうなんて事も、「彼女と同じ色が良いから」という理由で髪を黒く染めてしまうなんて事も。
俺はそんな未来知らなかった。
加えて、彼女が本当のカノジョになってくれるなんて事、考えもしなかった。
どんな必然であろうと、偶然であろうと構わない。
彼女が隣にいてくれる。それだけが大切な事実なんだ。