カワサキの六五〇
白地に赤で「Kawasaki」と読み取れ、その大きな看板が目の前にどんどん迫って来るごとに、フルフェイスの中で血の流れる音が響くくらい鼓動が速く打った。二月上旬の肌寒さは、鼓動の速さに驚かされるようにいつの間にか消え去っていた。
僕のカワサキはワックスで細部まで丁寧に磨き上げられ、広い一階ショールームの真ん中に堂々と佇んでいた。フェンダー、エキゾーストパイプ、エンジン周りなどのメッキパーツが室内の照明を吸収して輝き、手を触れることさえためらわれるほど工業製品としての完璧さを持っていた。
説明を受けている間もほとんど上の空で、視界の端にはずっとカワサキが入っていた。せっかくだからと今時珍しいキックペダルでエンジンに火を入れ、お店から走り出すと、下取りに出した二五〇とは比べ物にならない分厚いトルクに、これが大型バイクかと環状線を一瞬でリードできる爽快感を味わった。
市役所の同期、由布子とは付き合ってちょうど三年で、僕らは二十七歳になっていた。バイクを買い換えることを由布子には一応話した。仕事が忙しい時期、平日の夜や土日に時間を見つけて大型自動二輪の免許を取ったのは、カワサキの六五〇に乗るためだった。今までの二五〇では二人乗りしようとは思えなかった。六五〇になれば二人乗りも楽々だと話しても、由布子は「そう」と小さく返事をするだけで、僕のアパートのソファーに寝転がって女性用ファッション誌を読み続けていた。
「土日に教習を入れちゃってごめん。埋め合わせはするからさ」
「怒ってなんかいないよ。いいんじゃない? 趣味があるって」
女の子はバイクになんて興味がないから皆こんなものか。そう割り切って僕はカワサキと過ごすそれからの日々を思い描いた。二五〇ではあまり遠出をしなかったけど、カワサキなら日光や伊豆なんて楽勝。ビーナスラインや八ヶ岳、会津や喜多方だって余裕で行ける。食べたい物や走りたい道、見たい景色、想像は無限に広がっていき、思わずにやけてしまうのを抑えられなかった。普段だったらまずしないのに、僕の方から由布子に話しかけて積極的に会話を始めようとさえしてしまった。
「由布子。どこに行きたい? カワサキだったらどこでも行けるよ?」
「わたしは、乗らない」
「え?」
「バイク、乗るなって言われてるから」
「でも……俺が安全運転なの知ってるでしょう? ゴールド免許だし……」
由布子は黙って立ち上がると、玄関に置いてある女性用フルフェイスを持ってきて僕の目の前に突き出した。
「他の女の匂いが付いてる」
それには答えられなかった。確かに、フルフェイスの顎や頬に当たる部分には、以前交際していた子のファンデーションが付いたままだった。由布子を後ろに乗せることは取り敢えず諦めた。カワサキと行った場所の写真を見せれば、羨ましがって自分から乗せてと言うだろう、その程度に考えていた。
けれど、由布子は頑なに二人乗りを拒んだ。そんなに親が怖いのか、尋ねても詳しくは答えてくれなかった。伊豆スカイラインから見た富士山、中禅寺湖と男体山、桧枝岐と燧ケ岳、九十九里、清里、奥秩父……カワサキと一緒に写る写真をいくら見せても、「綺麗だね」と言うだけで、私も一緒に行きたいとは言わなかった。僕とカワサキだけでどんどん思い出を作ってしまうことが、多少申し訳ない気がした。
「由布子。俺は真剣に由布子のこと考えてるよ。下手な運転で怪我なんてさせないよ。だから安心して乗っていいのに」
「真剣? どんな風に?」
「え? そりゃ、将来のこと考えてるよ」
「はっきり言ってよ」
「結婚、考えてるよ」
「うそ。シチュエーションは? デリカシーないんだから!」
はっきり言えと言ったくせに、と口にはしなかったけど、日を改めて夜景の綺麗なみなとみらいのレストランで、プロポーズのやり直しをさせられた。ビルの明かり、街灯、遊園地の照明、星、色々な明るさが窓の外には広がっていて、統一感のないそれらを見ているとどこに焦点を合わせればいいのか迷った。急遽準備した婚約指輪はものすごく高価なものではなかったけど、由布子は僕の部屋にいるよりもずっと多くの笑顔を見せてくれ、指輪を少しずつ傾けながら変化する輝きを様々な角度から眺めていた。
「忘れないよ、今日のこと」
丸い瞳が輝くように見え、唇の端からは八重歯が白く浮かび上がっていた。由布子はそれまでで一番魅力的に見えた。でもその時はまだ、結婚とは何であるか完全には理解できていなかった気がする。
父が嫌いだった。憎んでいたと言ってもいい。
幼い頃に母が死に、僕には母親の記憶がない。父親と息子が二人きりの父子家庭が嫌で嫌で仕方なかった。父は中卒で水道周りの修理を請け負う仕事をしていた。粗雑で、乱暴で、いつも汚れた作業着を着ている父を僕は恥じていた。友人の家に行って、エプロンをした優しいお母さんや、休みでたまたま家にいたお父さんがこじゃれたポロシャツなどを着こなしているのを見ると、父の元を早く飛び出して行きたい衝動に駆られた。父の作るご飯は親子丼やカツ丼、カレーやチャーハンばかりで、どれもこれも大きめの丼からはみ出すほど大量に盛られていた。オムライスやハンバーグを食べたいと言って作ってもらったことがあるのだが、卵は焦げてしまい、ハンバーグは大き過ぎるそぼろになった。仕事から帰ってきて汗臭い作業着のまま調理し、勢いをつけて丼をかっこみながら旨そうにビールを飲む父は憎悪の対象にしかならなかった。砂や土が付いたまま畳に上がるので、部屋は常に汚れていて、掃除は必ず僕がやらされた。砂や土くらい払ってから入ってくるか、脱げばいいのに、と言うと、
「いいんだよ。汚れたら掃除すれば」
父は何も考えていないように答えた。僕の忠告に従うほど父は出来た人間ではなかった。
授業参観の時、他の生徒の父兄はスーツやジャケットでおめかししてくるのに、父は仕事を抜け出してきたこともあっていつもの作業着だった。その日の夕食の際、「おろしたての奴にしたんだぞ」と言われたけど、作業着は結局作業着に過ぎなかった。
「とうちゃんは、親父がいなかったんだ。お前は幸せだぞ、とうちゃんがいるんだから」
父の口癖だった。父は父親、僕にとっての祖父が出征してから生まれ、祖父はそのまま戦死してしまったので父親に一度も会ったことがない。だからって日曜日のたびに強制されるキャッチボールは、運動の苦手な僕にとって苦痛以外の何物でもなかった。
「とうちゃんの球を受けられるんだから、お前は幸せなんだぞ!」
球を上手く捕ることができずに、僕は週末ごとにあざだらけになっていた。
中学生の頃、片思いしていた女の子を呼び出して、死ぬほど緊張しながら思いをぶちまけたのに、
「遠山君のお父さん、仕事で良くうちにも来てくれてるけど、大変だよね。夏は暑くて冬は寒くて。ごめんね。うちのお父さん、一応上場企業に勤めてるから」
そう言われた時は父を抹殺してやりたいと本気で思った。親を選べないことがこんなにも不幸だと改めて思い知った。
由布子と結婚したいと思ったのは、彼女のことが好きであるとか、お互いの相性がかなり良いとか、勿論そういった理由もあるのだけど、一番大きな理由は「父の元を離れたい」というものだった。社会人になってからは実家の近くで一人暮らしをしていたけど、僕が独り身である内は「父の息子」であり、法事などでも父の付属品のようについて行くだけで、家庭を持っていない内は一人前の人間とはみなしてもらえない気がした。少しでも早く「父の息子」という呪縛から解放されたかった。
由布子にプロポーズした数週間後、彼女の実家に誘われた。由布子は実家に両親と祖父と同居していると聞いていた。いよいよその時が来たかと背中に妙な力を入れてしまったけど、彼女の両親が不在の時に呼んでくれたと知って少しは安心した。気軽に来てと言うので、スーツではなく、いつものカワサキで行くことを決めた。
彼女の住む一軒家に着くと、駐車場の隅っこ、邪魔にならない場所にカワサキを停めた。エンジンを切るのとほぼ同時に玄関のドアが開いた。由布子が出てきたかと思ったら、現れたのは老人で、彼女の祖父だとすぐに分かった。ヘルメットを脱いで会釈すると、老人はしげしげとカワサキを見ながら、
「いいオートバイに乗っているね」
と言葉をかけた。由布子がサンダルをつっかけて玄関から飛び出て来たけど、僕と彼女の祖父を遠巻きに見ているだけで、特に声をかけてこようとはしなかった。
「二気筒だね。シリンダーが垂直に配置されているからバーチカル・ツインか。エンジンの造りは随分手が込んでいる。キックペダルまで付いているじゃないか。今でもこんなオートバイがあるとは知らなかった」
老人はじっくりと時間をかけてカワサキを見ながら、ため息をつくように言った。
「バイクに乗られていたんですか?」
少年のように目を輝かせてカワサキを見る老人に問いかけた。
「昔ね。軍隊にいた頃だ。陸王というやつに乗っていた。あれは同じ二気筒でもV型だったな。V・ツインだ」
「聞いたことがあります。日本で造っていたハーレーダビットソンですね」
僕がそう答えると、エキゾーストパイプを下から覗きこむように観察していた老人は顔を上げて、にんまりと笑った。しわが顔中に広がって、ただでさえくしゃくしゃの顔が余計にくしゃくしゃになった。その顔はなんだか可愛らしくさえ見えた。
「そう。良く知っているね。変速機が前進三速と後退一速で、重くて遅かった。時速八十キロくらいしか出なかったかな? 普段は側車を付けて乗っていたんだけど、たまに側車を外して単車にして走らせると、風を切って気持ちが良かったよ」
僕はその時初めて、「単車」の語源を知った。昔は側車付き、いわゆるサイドカーが主流だったから、サイドカーを外したバイクだけの状態を「単車」と言ったそうだ。
「君の愛車は、昔あったオートバイに似ているね。私が四十と少しの頃だから、四十年以上前か」
老人のその言葉に、カワサキW一のことを言っているのだとすぐに分かった。僕の乗るカワサキの六五〇は、カワサキW一、通称ダブワンの復刻版として造られたからだ。
「ダブワンですね。もしかして乗られていましたか?」
老人はまだ熱のあるマフラーに指の先だけをそっと触れながら、視線を落としたままゆっくりと答えた。
「あんな贅沢な物、乗る余裕はなかったよ」
その口調はどこか遠い場所から持ってきたように聞こえた。
「私は寿司屋だったから、スーパーカブとか、そういう実用的な物ばかり乗っていたよ。最後はCD一二五だった。二十万キロは走らせたかな。店をたたんだ時廃車にしてしまったから、もう五年も前になるけどね」
「二十万キロ? さすがホンダですね」
僕のカワサキはそんなにもたないだろうな、あと十五万キロを走らせることを想像して、すぐにそう思った。由布子はサンダルをつま先にひっけかけてぶらぶらさせながら、僕と自分の祖父を交互に眺めていた。彼女の表情は、どこか気恥ずかしそうな暖かみを帯びているように思えた。老人が舐めるようにカワサキを見続けるので、声をかけた。
「良かったら、エンジンをかけてみますか?」
老人は笑いながら、手を振って一旦は断る素振りを見せたけど、それでも僕が勧めると、じゃあお言葉に甘えてとおもむろにカワサキにまたがった。ハンドルを握る彼の指は細かったけど、節が異様に出っ張っていて、ごつごつしていた。勿論セルスターターでエンジンをかけるかと思っていた。だけど彼はキックペダルに右足を置き、一気に踏み込んだ。骨しかないような細い足のどこにそんな力があるのか、力強い蹴り下げは、ペダルが下がる鈍い音とともにカワサキのエンジンに一発で火を入れた。老人はアクセルを一捻りすると、高鳴る排気音にしばらく耳を傾け、余韻を楽しんでいるのか、ゆっくりとカワサキを降り、自分が腰を下ろしていたシートを左手でさすった。
「キックが軽いね。最近のオートバイは」
老人は右足の向う脛をさすりながら、キックペダルから伝わった振動を確かめているようだった。
「ああ。すまないね。ずっと立たせたままで。由布子、お茶でも入れてあげなさい」
そう言って僕を家に迎え入れてくれた。
女の子の実家にお邪魔するのは初めてだった。由布子と二人で緑茶を飲みながらせんべいをつまんでいると、老人がなにやら古い紙の箱を持ってやってきた。
「少し、年寄りの話し相手に付き合ってもらおうかな」
老人はしわを深く沈ませて老眼鏡の位置を微妙に変えながら、箱の中を探った。箱には色を吸い取られたような白黒写真やバッチ、その他にも良く分からない物がごちゃごちゃに詰め込まれていた。
「おじいちゃん、がらくた集めるのが趣味なの」
由布子が笑いながら言うのを聞いて、
「宝箱だよ。ここには宝物が詰まっているんだ」
老人は老眼鏡の奥で目を細めながら由布子に言い返して一枚の写真を撮り出した。
「ほら。陸王だ」
そこにはサイドカーが付けられたオートバイと一緒に映る、若き日の老人がいた。軍服姿で直立不動する彼は若く凛々しく、どことなく由布子に似ていた。
「軍で使われていた陸王は、正式には九十七式側車付自動二輪車と言った」
僕が大きくうなずくと、老人はまた違う写真の一枚を取り出した。
「これは、陸軍三式戦闘機。飛燕と言うんだ。川崎航空機製だから、君のオートバイを造ったのと同じ会社が造った戦闘機だよ」
僕は老人の宝箱に詰まる物たち一つ一つに指をさして聞いた。老人は小さい子どもに教えるように丁寧に解説してくれた。由布子は僕らの会話に入ってくることができなくて、せんべいを何枚も何枚もかじっていた。
気付けば二時間が過ぎていた。老人は、若い二人の邪魔をしてしまったと言い残し、庭に出て盆栽に水をやり始めた。
由布子は怒っていると思った。この二時間、彼女はほとんど言葉を発しなくて、ただ黙って見ているだけだったから。でも彼女は、上機嫌な時に決まってそうする、頬を紅潮させる表情をしながら、
「おじいちゃん、本当は男の孫が欲しかったんだよ」
と言ってえくぼを強調させて笑った。
僕は祖父を知らないから、大正や明治生まれの男の人は考えが古くて頑固者ばかりだと思っていた。だけど由布子の祖父は拍子抜けするほど親しみやすくて、バイクを絡めて会話も弾み、この人がおじいちゃんだったら毎日でも話したいと本気で思った。障害の一切が排除され、由布子との結婚までの道筋がまっすぐ整備された気がした。
「どこに行くんだ? おめかしして」
一張羅のスーツは実家にしまっていた。きちんとクリーニングがかけられていたそれを着て休日に出かけるんだから行先を聞かれることは分かっていた。何通りか言い訳を考えていたけど、ありのままを言ってしまった方がいいと開き直った。
「結婚の、挨拶に行く」
「結婚? ああ。五丁目の宮下さんのお嬢さんか?」
由布子の実家は僕の実家からもそう遠くなかった。父は仕事で由布子の家ともつながりがあるのだろう、由布子の母親から僕と彼女の間柄を聞いていたようだ。
「これで、何か買って行け」
父は作業着のポケットから、しわくちゃの一万円札を取り出した。
「いいよ。もう買ってあるから」
「じゃあ、何かの足しにしろ」
「いいって!」
父を振り切るように玄関を飛び出して、駅までの一本道を歩いた。いちょうの色づいた葉はほとんどが散って地面を黄色く染め、冬はもうそこまで来ているようだった。
「だめだ」
和室に手を付き、由布子の両親に頭を下げて結婚のお願いを伝えると、後ろに座っていた由布子の祖父が間髪入れずに言った。
「オートバイに乗るような男に由布子はやらん」
この前、二時間も語り合ったのが全くのでたらめになったように思えた。由布子がカワサキに乗りたがらないのは、祖父のせいだとやっと分かった。
「由布子に危険な思いをさせることは許さん」
「バイクは、降ります」
「だめだ。わしが死んだらまた乗るだろう?」
僕は何も言い返せなかった。由布子も下を向いて黙っていた。由布子の両親は、うつむきながら僕と老人とを伏し目がちに交互に見ていた。
「後ろに乗せないのは当然としても、一人で乗っていて、大怪我でもしてみろ。下半身が動かなくなったりしたら、由布子は一生君を背負っていかなきゃならないんだぞ」
拳をぎゅっと握って肩に力が入ったけど、やっぱり何も言えなかった。
「わしは軍隊の頃に、陸王を運転中、敵に銃撃された。背中に弾をくらって、それ以来、力仕事はできなくなった」
そう言うと老人は上着をまくった。背中から胸の下に貫通した弾の跡が残っていた。由布子が僕の顔色をうかがうように覗いたのが分かった。その視線に応える気力を、僕はもはや持ち合わせていなかった。
「だから、あまり力のいらない寿司職人になるしかなかった。わしはオートバイから離れることができなかった。六十年以上、ずっとオートバイに乗り続けなけりゃならなかったんだ」
由布子の祖父のしわがれた声には、僕を屈服させるのに十分な迫力があった。
「台風の前に戸を板で押さえつけたり、そういう作業さえできなかった。去年死んでしまったが、婆さんには苦労をかけた」
口にたまった唾を一気に飲み込んだら、余りにたまり過ぎていたのか、喉に軽い衝撃が加わって痺れた。
「高校生が、車が買えないから乗るのとは違う。君は趣味としてオートバイに乗っている。例え今降りたとしても、君は必ずまた乗るようになる」
畳に付きっぱなしだった手が小刻みに震えているのが分かった。肩にずっと力が入っていて、突っ張った痛みを感じた。十一月だと言うのに、脇には汗がにじんできて気持ち悪かった。
「ごめんください!」
玄関の方から突然大声がしたので緊迫した空気が切り崩された。聞き覚えのある声だと思っていたら、対応に出た由布子の母に連れられて何と僕の父が入ってきた。作業着姿は今朝と少しも変わらなかった。
「うちのせがれが、いつもお世話になっています」
父は僕の左隣に座り、純米酒の一升瓶を差し出した。瓶の底がずずっと畳を滑った。
「実は、オートバイに乗る男性にはうちの子をやれんと話していたところです」
「えっ」
由布子の祖父の一言に父は絶句した。しかしすぐさま、派手に音を立てて畳に両手を付くと、頭を下げながら信じられないような大声を出した。
「バイクは、必ず辞めさせます! 許してやってください! おとうさん!」
父は額を畳に擦り付け、短く刈った髪が畳にこすれる乾いた音が響いた。
「お願いします! 必ず、バイクは辞めさせます!」
父の狂気じみた大声だけが午後の静かな部屋にこだました。父の声の余韻が消え去っても何の音も聞こえてこないので、時間がどれだけ経っているか皆目見当がつかなかった。じっと父を見下ろしていた由布子の祖父は、父が差し出した一升瓶に手をかけて、
「由布子、盃を持ってきなさい」
と言った。その声を聞いて父は顔を上げた。額はこすれて赤くなっていた。
父は老人に酒をつぎ、老人は父についだ。なみなみと酒の注がれた盃をお互いの目の高さにまで上げて、口を付けると二人とも一気に飲み干した。それから二人はしばらく見つめ合い、父が口を開いた。
「よろしくお願いします。おとうさん」
由布子の祖父はゆっくりとうなずいた。肩に入れていた力が、すっと抜けていくのを感じた。
僕が父の軽自動車を運転しながら帰る際、父は助手席で真っ赤な顔をしながら、
「なあ、おとうさんって生まれて初めて呼んだぞ。母さんの父親も若い頃に亡くなったんだ」
と上機嫌だった。独り言だけじゃ物足りないのか口笛まで吹いて、それは「サトウキビ畑の唄」だった。思い出してみれば、そのメロディーは父が昔から良く口笛で吹いている曲だった。
―お父さんて呼んでみたい お父さんどこにいるの
歌詞の一節が頭の中に強烈に入りこんできた。
「父さん、ありがとう」
「気にするな」
それだけ言うと、父はいびきをかきながら眠ってしまった。信号で停まる度に父の寝顔を見た。少し開いている口が子供のようで、とても六十五を過ぎているようには見えなかった。二十年以上前、父も僕の寝顔を同じように見ていたのだろうか、ふとそう思った。
「良い、お父さんだね」
さっき由布子の祖父に言われた言葉が蘇った。
父に癌が見つかったのはそれからすぐのことだった。肝臓癌で、健康診断が嫌いだったことが災いし、発見された時は既に手遅れだった。体格の良かった父は毎日同じずつ体重が減少していき、お年寄りのように皺が体中に刻み込まれていった。カワサキを買ってちょうど一年が経つ頃、父はとうとう入院し、春を迎えられるかどうかさえ怪しくなった。
病室の枕元に、若き日の由布子の祖父が陸王と一緒に写る写真を見つけて僕はびっくりした。
「おとうさんが見舞いに来てくださった際、いただいたんだ」
その写真を、父はいつも手が届くように枕元に置いていた。
「日本で造ったハーレーダビットソンだぞ。大きくて、すごくかっこいい音がするんだ。知ってるか? こんなのに、乗ってみたかったなあ」
父は指先で写真をしっかりと握りながら、写真の中の由布子の祖父と陸王を見つめていた。父の病室には、多くの人たちがお見舞いに訪れていた。色が鮮やかな花、化学療法中で食欲がないのを気遣った果物類、父がひいきにしている阪神タイガースのマスコットのぬいぐるみ、誰が折ったのか千羽鶴まである。父は、完璧な父親ではなかったかもしれないけど、父なりに自分の人生を生き抜いてきたということを、病室を埋めたお見舞いの品々が物語っていた。父が五十年近く続けてきた仕事上の人とのつながりを、嫌というほど思い知った。
カワサキを売る日、由布子が後ろに乗せろと言った。僕は聞き間違えとしか思えなくて聞き返した。あれほど嫌がっていたのに、自分から乗りたいと言い出すとは。
「乗せてよ。最後だけ」
由布子はうつむきながらもう一度繰り返し、女物のショウエイのフルフェイスを自分から手に取った。知らない女のファンデーションが付いたままのそれを、構わず被った。
僕はタンデムステップを出し、カワサキにまたがった。由布子を後ろに乗せ、走っている時に握る場所、タンデムグリップの位置を教えた。春がもうそこまで来ているはずなのに、厚手のジャケットに突き刺さってくるように冷気は非情だった。由布子が長い髪を出したままにしているので縛るように言ったが、彼女は僕の忠告を無視した。
由布子は走っている間ずっと僕にしがみつき、片時も離れようとしなかった。タンデムグリップなんて忘れてしまったのだろうか、あまりにくっつき過ぎるのでお互いのヘルメットがぶつかり、鈍い衝撃がヘルメットの中に響いた。彼女の長い髪が風に弄ばれるように暴れた。きつくくっつき過ぎるので、僕は胸が苦しくなったけど、やめろとは言わなかった。
その時、カワサキの前を走る、白黒の陸王が現れた。僕とそう歳の変わらない由布子の祖父が運転し、まだ幼い僕の父がサイドカーに乗っていた。父はサイドカーから飛び出そうになるくらいはしゃいで、顔にあたる風を味わっているのか、頭を突き出すように伸ばしていた。由布子の祖父は時折サイドカーの方を向いてその様子を笑いながら見ていて、二人は本当の親子みたいだった。
「おとうさん!」
幼い父は白黒の顔を崩すように大声で、嬉しそうに叫んだ。
僕はやっと、由布子と夫婦になること、家族になることを実感できた気がした。手放すとは決めたものの、まだどこかにカワサキへの未練があった。今、すぐ横を走っている陸王が、未練を全て持って行ってくれたように、僕は心にたまった思いを全部ひっくり返してカワサキに「さよなら」を言える気持ちになった。陸王に乗る二人が僕を見た。僕も二人を見た。カワサキと陸王も、お互いの排気音をとどろかせながらお互いを認め合っているように思えた。
由布子が僕の腰に巻いている腕に力を入れたので、急に現実に引き戻された。必死に探しても陸王の幻はもうどこにもなかった。
いくつもの交差点を過ぎて、信号にも停められず、順調過ぎる道順を進んだ。カワサキのタンクを見下ろすと、ワックスでピカピカに磨いていたから自分の顔が映った。フルフェイスから出ている眼差しには意外と力強さを覚え、自分の顔であるのについついじっと見てしまった。
あと信号を三つ過ぎればカワサキを売る店だ。僕はクラッチを強めに握りアクセルをあおり、マフラーから甲高い排気音をうならせ、バーチカル・ツインの鼓動と、カワサキの咆哮を耳にしっかりと刻んだ。陸王がどこかから応えてくれないだろうか、聞き耳を立てたが僕が求める音は決して聞こえてはこなかった。
ミラーにはヘルメット越しに由布子の顔が見えた。彼女はヘルメットのシールドを開けていた。危ないから閉めろと叫んだけど、決して閉めようとしなかった。風にあたって彼女の頬を流れる涙が、ミラーに映って輝いた。
まだ、生きていてくれ、お父さん。俺が一人前になった姿を見せられるまで、待っていてくれ。
片側二車線の幹線道路を左折すると、白地に赤で「Kawasaki」と読み取れ、その大きな看板が目の前にどんどん迫って来た。