始まり前のひととき
とある高校のどこかの教室で、時計の針が午後五時半を指していた。時々カラスの鳴き声が聞こえてくる窓の外は夕焼けに染まっている。校庭にいるのはサッカーボールを蹴り合っている学生と、それを応援する学生くらいだった。
教室にたった一人残っている少女がいた。彼女の名は川原雪。彼女は文庫本を広げ、黙々と本を読んでいる。
「ふう、危ない危ない!」
教室の扉が開き一人の男子生徒が中に入ってきた。しかし雪は目を向けることもなく、本に集中している。男子生徒は雪の隣の席をあさっている。「あれ、どこだ? これは……違う」という声が聞こえ、雪は不快だった。彼はまだ机の中を調べている。雪は気にしないようにしようと必死に自分に言い聞かせた。徐々に本を持つ手に力がこもる。
いくら我慢していても、限界はくるものである。
「よし、見つけた!」
「……静かにして」
歓喜の叫び声をあげた少年に、雪は冷たい視線を向けた。彼の名は井上光一。雪のクラスメイトで、二週間前の席替えで隣になって以来、毎日最低一度は彼女に声をかけている。その度に無視されるのだが、それでもめげずに関わってくる。彼女にとってはうっとうしい存在だった。
雪は音を立てて文庫本を閉じると、無造作に鞄の中へと入れる。
「お、川原。偉いな読書なんて。俺、どうも文章とか苦手なんだよ」
光一は仲のいい友人であるかのように話しかけてくるが、雪は無視して歩き出した。待てよ、と呼び止める彼の言葉など、雪には必要ない。
ようやく廊下に出られると思った矢先、今度は別の少年に遭遇した。彼が入ろうとしてくるので、雪は出口を抜けることができない。
「どいて」
「……何だよ突然」
「お、健一! お前も忘れ物か?」
光一は少年を健一と呼び、にやにやしながら険悪な雰囲気を生み出す雪たちの方へやってくる。
「ああ。数学の宿題、やりたくねえけど仕方がないよな」
健一は大きくため息をつく。その横で雪は首を傾げていた。
「……宿題?」
「川原はもうやったか? あの数学のプリント。二枚だぞ、しかも両面印刷!」
光一に聞かれ、雪は鞄を開いた。奇麗に整頓された中からファイルを取り出し、確認する。しかしどこにも見当たらない。
雪は急いで席へと戻り、机の中を調べた。何かが手に触れ、取り出してみる。それは両面印刷されたプリントで、色々な計算式や文章題が記されていた。
「川原も忘れてたのか」
光一が側にやってきて、意外そうに話しかける。
「……別に」
「照れるなって。俺も健一も忘れてたんだ。恥じる必要はないぞ」
「一緒にしないで。あなたなんかと同じなんて、最悪」
雪はファイルにプリントを突っ込むと、足早に去ろうとした。
「お前、光一のおかげでプリント忘れずにすんだんだ。なのにその言い方はないだろ」
健一は眉をひそめている。
「別に。忘れたら忘れたらでそれは私の責任。他の人に責任は一切ない。全ては自己責任よ」
「だったら宿題置いてけよ」
「なぜ? 私は宿題を思い出したから、やるわよ。しっかりと」
雪と健一はにらみ合う。光一は「二人とも落ち着けよ」と間に入ってなだめようとしているが、それで雰囲気が和らぐとは微塵にも思われなかった。
「お、何だあれ!」
「今度は何だよ、光一」
健一がいらだった様子で光一に問うと、光一は興奮していた。
「あれ見ろよ! あれ! 黒い何か!」
「黒?」
健一が眉をひそめながら光一の指差した方に目をやった。その途端に止まる健一の動き。
「……何事?」
雪も視線を向け、沈黙した。目の前に黒い球体が浮かんでいたのだ。直径は机を二個並べたくらいだろうか、それが自転をしながらその場にとどまっている。見つめているとその色が透け始め、光を発した。
雪は目を閉じた。彼女は気づいていないが、光一や健一も同様だった。
光が消え、室内に元の明るさが戻った頃、教室には誰も残っていなかった。その数分後に見回りに来た教師は、異常なしと呟き去って行った。