カンナさんの居場所
「ほんっとにもう!天気悪過ぎっ!洗濯物全然乾かないんだからっ!」
カンナはぶつくさ文句を言いながら 洗濯物を干す為の突っ張り棒をより高い所に設置しようと脚立の上で伸び上がった。
その時足元がぐらぐらして カンナは脚立から真っ逆さまに落ちてしまった。
カンナは夫が亡くなってから女手一つで中3と中1のふたりの息子を育てている。
夫が元気なうちは専業主婦だったが、夫が突然の心筋梗塞で亡くなってからは子どもを育てる為に働かなければならなくなった。
幸いにも祖母の影響でかなりの腕前だった書道を教える事と 文字を絵に表現した作品を創る芸術家として、このところ売れっ子になり結婚式等に呼ばれてライブで作品を披露したりしていた。
自宅で書道教室を開いているので 部屋の中に洗濯物がひらひらしているのは格好が悪い。
息子たちは野球部で 毎日泥だらけの洗濯物を山の様にこしらえて来る。
毎日洗濯機を回しても 追いつかない程の洗濯物は 雨の日が続くとなかなか乾かなくて
「乾燥機が欲しい〜。」と叫びたくなる程だった。
そんな毎日が続いたある日とうとう我慢しきれなくなって カンナは洗濯干場を増設しようと重い腰を上げ始めた矢先の出来事だった。
「きゃ〜っ!まだやりたい事があるのにぃ。」
頭の中の電気がぷつんと消えた。
夕暮れの中 ソフトボール部のセンターは監督からノックの洗礼を受けていた。
高いフライを 声を出して追いかけグローブにおさめる。
バシッ。小気味の良い音と共に 大きなボールはグローブの中に入る。
「オーライ、オーライ...あれっ?」
一瞬 ボールを見失った彼女は 掲げていたグローブを目の前から外した。
次の瞬間 大きな影が彼女の眼前に現れ 激痛と共にソフトボールが眼窩に激突した。
彼女の頭の中の電気はぷつんと消えた。
「カンナ、大丈夫?」
眩しい明かりの中 自分の周りをいくつもの目が取り囲んでいた。
「あぁ、大丈夫だった!監督、カンナ目を覚ましたよ!」
「おぉ!そうか!もう大丈夫だ。心配かけやがって。カンナ、もっと練習に集中しなきゃだめだぞ。」
ずきずきする右目を抑えて起き上がろうとして体を抑えられた。
「まだ無理しちゃダメ。もう少しじっとしてて。」
『あぁ、キャプテンの声だ。懐かしいなぁ。中学校の部活の夢見てんだわ。』
「カンナったらもう、心配かけないでよ。ほんとにドジなんだから。」
『あれっ!お母さんの声だ。いつ来たんだろう。』
薄目を開けてぼやける視界の中で 母親の由紀子の方を向いた。
『あれっ!おかあさん、随分若作りじゃない?』
「カンナ、ほら、もう起きて。ゆっくり歩いて帰ろう。大丈夫だから。」
「待ってよ。お母さん。病院から何時退院したの?」
「何言ってるの。入院なんかしてませんよ。頭も打った?」
『だって、でも、末期の....』
だんだんはっきりと周りが見えて来た。
起き上がった時 私はソフト部のユニフォームを着てるのに気が付いた。
「えっ! なにこれ? まだ夢見てるのかな?」
周りで笑い声が一斉にわき起こった。
「まったく、カンナの天然が一段と冴えてるよ〜。」
すっかり視界がクリアになって 私は中年女から 元気溌剌の中学生に戻っている事に気が付いたのだった。
「なにこれ〜。SFだぁ〜!」
みんなの呆れた視線の中 私は大声で叫んでいた。
『うわ〜タイムスリップしてる、わたし。』
あちこちきょろきょろ見回しながら カンナは若い母 由紀子に引っ張られる様にして家に帰った。
老朽化して壊され、無くなってしまった懐かしいアパートが元気に建っている。
階段を4階迄一気に登っても息切れ一つしない若さが嬉しかった。
カンナはすぐに自分の部屋に行き 机の引き出しを開けた。
「ああ、これこれ!懐かしいなぁ。」
カンナは一枚のレコードを取り出した。
もうこれ以上食べられないと思う程のチョコレートを食べて集めたチョコのパッケージ。
それを送って グループサウンズのアイドルの生声が入っているレコードが当選したんだった。
「キミだけにそっと教えてあげる僕の秘密。」なんていうようなたわいの無い内容を甘い声で録音されていたものだった。
カンナは早速レコードにダイヤモンドの針をそっと置いた。
もう記憶の中ではセピア色に変わっていた懐かしい思い出が 生き生きとした色を取り戻してゆく。
会社から戻って来た若い父 勝と向かい合って食事を摂るのも嬉しかった。
「ボールがぶつかったんだって? お前の課題はもっと精神集中出来るようになる事だな。まあ、怪我がなくて幸いだったけど。」
笑いを押し殺す様にして勝は言った。
「お父さん、元気そうで良かった。あまり無理しないでね。いつも家族の為に働いてくれてありがとう。」
父 勝は箸を止め カンナを不思議そうに見ていた。
カンナはその夜 懐かしのベッドでぐっすりと眠った。
次の朝 いつもの様に朝早く目が覚めたカンナは台所に行って朝食の支度を済ませ、自分と父のお弁当を作り上げた。
遅れて起きて来た母は 目をまんまるにしてテーブルの上に出来上がった朝食を見ていた。
「今日は雪が降るか、嵐になるだろうね。寝坊助のあんたがこんな事するなんて。」
カンナはセーラー服姿の自分を見て目を細めていた。
『ふふ。この歳になってセーラーを着れるなんてなんて幸せ。』
通学路には中学生がまばらに歩いていた。
まだ7時半なのでゆったりとした通学風景だった。
案の定教室の一番乗りはカンナだった。
カンナは黒板にチョークで 〈おはよう 今日も一日笑顔で過ごそう〉 と大きく書いた。
チョークの柔らかさが新鮮だった。
書き終わると 満足そうに黒板を眺めた。
いつもの様に流麗な文字で 絵を描く様にして書いた言葉は黒板の上をまるで生き物の様に飛び跳ねていた。
しばらくすると続々とクラスメイト達が登校して来た。
「カンナ〜、どうしたの、こんなに早く登校するなんて。いつも遅刻ぎりぎりなのにさ。頭打って改心したの?」
男子が黒板を見てざわついている。「誰だ〜。こんなダサイの書くヤツ。」
「ダサイなんて言わないの。笑顔で過ごすと自分も周りも幸せになれるんだから。」
思わずカンナは男子生徒に向かって機関銃の様にお説教した。
「それに ズボンはきっちり穿きなさい。ボタンも開け過ぎ。制服はきちんと着てこそ美しさが映えるのよ。」
口をあんぐりと開けて聞いていた男子は、「うっせー、かあちゃんみたいな事いうなよ。」とその場から逃げながら言った。
「カンナ、どうしたの?上島君の事ちょっと気があるって言ってたのに。あれじゃあもう脈なしだよ。」
親友だった倫子が言った。
「みっちゃ〜ん、会いたかったぁ! ずっと連絡取れなくてどうしてるか心配してたんだよ。それにあの時、吉本君とは偶然出会っただけで交際を申し込まれた訳じゃなかったんだよ。 すぐその後みっちゃん突然転校したから喧嘩別れになっちゃったままで私、心苦しかったんだよ。」
カンナは倫子に思いっきり抱きついて言った。
倫子は また口をあんぐり開けたままカンナに抱擁されていた。
「上島君かぁ、随分かわいかったんだね!。あの頃は突っ張っててちょっと不良でかっこいいと思ってたけど。」
とカンナが言うと 倫子が 「カンナ、何ぶつぶつ言ってるの? 昨日頭打ったんだって?まだ後遺症あるんじゃないの?それに私、転校なんかしてないし。」
『あぁ、そうか。まだその時が来てなかったんだ。』
「ねえ、みっちゃん、今 いつ?」カンナが真剣に聞くと、倫子が心配そうに答えた。
「1968年 7月24日だよ。ねえ、カンナもう帰った方がいいよ。先生に言ってあげるからさ。」
『あぁ、7月25日まであと1日!』カンナはある事を思いついた。
「こうしちゃいられないわ!」
カンナはみんなの心配顔をよそに、鞄も持たず学校を飛び出した。
倫子の家に向かう為だった。
倫子の家とカンナの家は学校を挟んで丁度南北に離れていた。
『あぁ、車があったら楽なのに。昔はよくこんな距離我慢して歩いていたもんだわね。』
夏の日差しはカンナの夏服の白いセーラーにハレーションが起きるくらい強く照りつけていた。
今井薬局は倫子の実家だった。
この地域ではそこそこ大きな店舗でお客さんの出入りも多かった。
しかし 繁盛している陰には衰退して行くものもある。
ちょうど東側に小さな薬屋があった。今井薬局が改装して大きくなったとたん、客はみんな大きな薬局へと流れ小さな薬屋の経営は傾いて行った。
もともとここの店主と倫子の父とは商店街の顔役同士だったが、事ある毎に反目しあっていた。
それは 小さな薬屋の店主昭夫が 倫子の母和恵の元恋人だったことに端を発している。
あの火事の後 大人を中心にいろんな噂が流れ、カンナの耳にも入って来た。
昭夫は和恵をより財力のある倫子の父 潤に盗られたと思い込んで恨みを持っていたのだったが、実はそうではなく、和恵は昭夫の粘着気質でギャンブルになると我を忘れてしまう性格に嫌気をさして別れたのだった。
経営を立て直すための資金をギャンブルで賄おうとして大損をした昭夫は お決まりのサラ金に手を出した。
あっという間に雪だるま式に増えた債券の取り立ては日ごとに執拗になっていった。 夜討ち朝駆けでやって来るヤクザまがいの男たちに神経をやられた昭夫は 怒りの矛先を今井薬局に向け恨みを募らせていった。
今井薬局は今日も賑わっていた。
ドアを押して入ると 倫子の母和恵はカウンターを拭き掃除しているところだった。
中学生の頃は倫子の母としてしか見てなかったが 今改めて良く見ると 和恵は化粧品のマネキンをしていただけあってなかなかの美人だった。
和恵はカンナを認めるとにこやかに しかしすぐ心配そうな顔になって迎えてくれた。
「あら、カンナちゃん、どうしたの?学校は?」
「こんにちは、おばさん。おじさんいらっしゃいますか?」
「今、会議所に行ってるけど。何か急用なの?」
カンナは和恵の質問に答えずに矢継ぎ早に言った。
「あの、お店の裏の段ボール積んである所早く片付けて下さい。それから明日の夜までにみんなどこかに避難して下さい。」
和恵は困った様な中途半端な笑みを浮かべて、 「どこかに避難って、なあぜ?」と言った。
「信じていただけないかも知れませんが 明日の夜 この薬局は火事で全焼するのです。」
和恵はますます困った顔になって 「カンナちゃん、昨日頭打ったんですってね。」と言った。
「ええ。でもそれとこれとは話が違いますから、私の事を信じて下さい。私 未来からタイムスリップして中学生の私の中に入ったんです。だから、これから起こる事も知ってるんです!」
カンナは言えば言う程現実離れしすぎて 俄には信じて貰えない事を痛い程感じていた。
「あははは。カンナちゃん、作り話がうまい!」そう言って和恵は 掃除を中断していた手をまた動かし始めた。
「遅刻だけど、早く学校に行きなさい。先生に連絡しておいてあげるから。」和恵はもうカンナの方を振り向かなかった。
『だめだ〜!信じてくれそうもない。こうなったら、あの人のところに行って説得してみよう!』
正義感の強いカンナは無謀にも小さな薬屋に向かった。
店のドアは半分閉まり 庇の下の赤と青のビニール製のカーテンも色褪せ所々破れている。
お店は開店しているが商品はかなり少なく埃を被り 期限が切れているようなものまでありそうだった。
「こんにちは。」カンナは恐る恐る店に入って行った。
店の奥の和室から のそっと昭夫が出て来た。
「何か用かな。」
昭夫の髪はぼさぼさとだらしなく伸び 髭も無精髭で 着ているスウェットもよれよれと いかにもギャンブルに狂った生活破綻者の態だった。
けれども両の目だけはぎらぎらと相手を威圧する光を宿していた。
カンナはつばを呑み込んでから言った。「お願いです。明日の事、考え直して下さい。わたしの親友の家なんです!」
昭夫は唇をわなわなと震えさせて言った。「おまえ、何者だ?明日の事っていったい何だ?おまえは何を知っている?」
「みっちゃんは私の親友で、あの薬局はみっちゃんの家で...みっちゃんのお母さんと何があったか知りませんが、今はそれぞれ家庭があって、家族を守って生活しているわけで...だからこれ以上お互いを傷つけ合うのは良くないから...」
カンナは自分の言ってる事に全く説得力がないと感じていた。『まるで中学生だ。』
「お願いだから放火しないで!あなたもあなたの家族も傷つくでしょ!これ以上みんなを悲しませないで!」
昭夫は低く笑い出した。「オレの家族か。もうそんなものねえよ。」
その声はだんだん大きくヒステリックに引きつった笑い声に変わって行った。
「おじょうちゃん、大人の世界はそんなキレイゴトじゃ片付けられないんだよ。もう用がないなら帰んな。」
背中を向けて昭夫はまた隣りの部屋に引っ込んでしまった。
カンナはもうどうしていいのか解らなくなり、そこに暫く突っ立っていた。
隣の部屋では昭夫が小さな声で繰り返していた、「家族なんてとっくにいないさ。悲しむやつだっていない。」
いつの間にか夕闇が辺りをすっぽりと包み込み、カンナがとぼとぼと家に戻る途中 向こう側から吉本がやって来た。
「今帰り?おまえの家反対側じゃなかったか?あれ?カバンは?」
カンナが疲れと自分の非力に打ちひしがれて何も言えないでいるのを見て 吉本は心配して家迄送るからと言って二人は並んで歩き出した。
カンナは突然思い出した。 「吉本君、ありがとう。ここ迄来たらもう大丈夫!」
『吉本君と並んで歩いてる所を倫子に見られたらまた誤解の元だからさっ。』
心配そうに立ち尽くしている吉本を後にしてカンナは家ヘと向かった。
角を曲がると倫子が電柱に寄りかかりうなだれていた。
カンナが近づくと 「わたしの吉本君の気持ち解っているくせに、カンナはひどい。」と突っかかる様にして言った。
「違う、違う。やだなぁ、誤解だって。今そこでばったり会っただけ。ほら、わたしカバンも持たずに学校飛び出したからさ。様子が違って見えたみたいだよ。吉本君て優しい人だね。倫子の彼としてピッタリだよ。」
倫子は少し安心した様に 「だって、夜道を二人で歩いてるのを見たら誰だって付き合ってるのかと思うよ。でもカンナの言葉、信じる。これからも応援してね。」と言ってカンナと腕を組んだ。
『そうだ、そうだ、昔は女子同士で手をつないでトイレに行ったり、腕を組んだりしていたっけなぁ。懐かしい。吉本君の事、倫子に誤解されなくて良かった。昔の誤解、一つクリアだ。』
「ねえ、倫子。私の事信じてくれるなら、もう一つ私のお願いきいてくれる?」
カンナは真剣になった時だけ使う倫子という呼び名を、今ここで言わなければと思った。
「なあに?カンナ、改まって。何でも言って。私たち親友でしょ!」
中学女子は親友という言葉で強い絆を築き上げるのだった。
「明日の夜、私のうちに泊まりに来て。勉強教えてほしいの。」カンナは言った。
「うん、いいけどさ、お母さんに聞いてからね。きっとダメとは言わないと思うけど。」
「これで少なくとも倫子は危険から逃れられる。」カンナはまだ気が重かった。
あと1日しかない。
その夜 カンナは手料理で両親をもてなした。
母由紀子は「どうして急にやる気になったのかねぇ、今迄はお皿も洗った事がなかったのに。」と驚きのため息をついた。
父勝は満足そうに箸を口に運び目を細めている。
カンナは「まぁ、いいからいいから、深く考えないで、とにかく沢山食べてね。今迄のお礼のつもりだから。」と言って両親の喜んで食べる顔をにこにこして眺めていた。
夕食が済むとカンナはアルバムを取り出して両親と眺め想い出話に花を咲かせた。
そして家族3人の写真を撮る事を思いついた。「ねえ。皆で写真撮ろうよ。」「なんでこんな夜になってから写真撮るの?」と渋々承知した由紀子も写真を取る為に入念にお化粧をした。
勝は三脚にカメラをセットして待っている。
『また、未来に戻れるかどうか解らないけど、この写真は最も思い出深い写真になりそうだわ。わたしこの日を一生忘れない。』とカンナはしみじみと思っていた。
次の日 7月25日は朝から雨だった。
カンナは家からずっと離れた校区外のある家の側に来ていた。
丁度中学生の男の子が登校する途中だった。玄関の前には彼のお母さんが手を振って彼を見送っていた。彼は何度もお母さんを振り返りながらにこにこして手を振っている。
『やっぱり、あんたは マザコンだったのね。』カンナは思わず吹き出した。
それはカンナの夫の中学生の時の姿だった。
男の子を持つ母として 微笑ましい光景ではあった。『でも、いい加減親離れ、子離れしないとねぇ。』
カンナは彼の後を付けて話しかけるタイミングを考えていた。
丁度信号待ちで止まった時 カンナは思い切って声をかけた。
「おはよう。これから言う事よーく憶えておいてね。まず、大人になったら煙草は吸わない事。それから今からでも遅くないから運動をする事。そしてカメラのセンスがあるのだからしっかり写真の事について学習しておくこと。 忘れないでよ。あなたのこれからの人生に関わる事なんだから。」
ぽかんとしている彼を後にしてカンナは 会議所に向かった。
「あの人、ちゃんと憶えていて実践してくれるといいけど。」
カンナの夫はヘビースモーカーの雑誌の編集記者だった。
本当はカメラが好きでプロ並みの腕前だったが、自分の雑誌に掲載する事は絶対にしなかった。それは自分が写真学校の出身でない事が、コンプレックスとなっていたからだった。
会議所には倫子の父がいる筈だった。
受付で 倫子の父を呼び出してもらっている間、カンナはふと外の雑踏に目を向けた時信じられない光景を見てしまった。
それは 倫子の母和恵と 元恋人の昭夫が人目を避ける様に1本の傘に入って 路地に入って行く姿だった。
呼び出してもらった事を忘れて カンナは路地の暗闇に二人の姿を求めて入って行った。
二人の後ろ姿は雨の中で とても過去の恋人同士の様には見えなかった。
むしろ今現在の恋人同士の様に艶かしいも雰囲気が漂っていたのだった。
なんだか二人の後ろ姿も 後を付ける行為も汚れたものに思えてカンナは追跡するのをやめた。
自分の目が信じられなくなったカンナは会議所に戻るのも 嫌になってそのまま学校へ向かった。
あまりにも赤裸裸な 大人の事情だった。
倫子には決して言うまい。
カンナは涙を流しながら歩いた。カンナの感情は次第に中学生の頃の様に 純情無垢になっているのに気が付かないまま。
学校では カンナの変な行動がうわさになっていた。
学校を抜け出したり 大幅な遅刻をしたり おばさんみたいな事を言ったり いつものカンナと違うのはやっぱり頭を打ったからなんだね、なんて皆はひそひそ囁いていた。
そこへ 涙を流しながらカンナが遅刻して来たので先生も心配になり倫子の付き添いで保健室に連れて行かれた。
保健室のカーテンの陰でカンナは倫子の手を取って言った。「どんなに悲しく、辛いことがあっても私たちは親友だよ、倫子。わたしの心はいつでも倫子の中にあるからね。決して一人じゃないからね!」
倫子は 訳が解らないまま うん、うんと頷いた。
カンナは何も阻止出来ない自分の非力さに情けなくてまた涙が出るのだった。
放課後 倫子はカンナと肩を並べてカンナの家に帰った。
今夜は倫子の母に許可を貰ってカンナの家で勉強するという約束をしていた。
最初倫子の母和恵は外泊を渋ったらしいが、倫子のたっての希望で運命の夜をカンナの家で過ごす事が出来る様になったのだった。
和恵は動揺していた。
ここ最近 昭夫から無言電話や店のまわりをうろうろされる事が多くなって来ていた事に加えて、不思議で信じられない火事の情報をカンナから聞いていたからだった。
そしてついに 今日 昭夫を呼び出して話を聞き出したのだった。
最初昭夫は和恵の目を見ようともしなかったが、和恵の親切な態度と昔と変わらない優しいまなざしに少しずつ心を開いて行った。
待ち合わせの途中で雨が降り出し 昭夫は和恵の差し出す傘に一緒に入った。
大通りから少し入った喫茶店で 久しぶりに向かい合って座った昭夫は 実際の年齢よりもずっと上に見えた。
注文した珈琲がテーブルに置かれる迄二人は何も語らずただお互いを見ていた。
「本当にお久しぶりね。なんだか少し痩せた?時々はあなたの姿を見ていたんだけど、こうして向かい合ってゆっくりお話しするのは何年ぶりかしらね。」
「14年ぶりだな。あれからお前は幸せそうにしているじゃないか。俺はあれ以来何をやってもついてないよ。見ての通りだ。」
「私だって、表向きは幸せそうに見えるかも知れないけど、この歳になればそれなりに色々あったのよ。」
昭夫は和恵を上目使いで見て 「で、何か話があるのか?ただ想い出話をしに来た訳じゃないだろう?」とゆっくり聞いた。
和恵は 珈琲を一口飲んでからおもむろに言った。「もしかして あなた、わたしに復讐しようとしてる?」
昭夫は横を向いて笑った。「ふっ、何を言い出すかと思ったら。復讐ときたか。復讐ってヤツはまだ強い感情が残っているから出来る行為で、今の俺はうろつくことくらいしか出来ない哀れな亡霊さ。」
「だってあなた、無言電話したり お店の周りを...てっきり私はあなたが放火...」
昭夫は目を剥いて大声を出した。
「俺は 確かに借金を抱え込んで泥沼に沈みそうになってるけど、そこまで魂は腐っていない。」
そして思い直して付け加えた。
「確かに無言電話はした。しかし嫌がらせじゃなく お前の声が聞きたかったからなんだ。このところ追いつめられて精神的に参ってた。お前の声を聞くとほっとして安らいだんだ。いや、迷惑行為だったな。すまん、謝るよ。だが、放火なんて事、考えもしなかった。あの子の口からその言葉を聞く迄は。」
和恵は思わず叫んだ。「カンナちゃんね!カンナちゃんはあなたの所へも行ったのね?なぜ、放火なんて恐ろしい事を言ったのかしら。明日の夜家が火事になるって言うのよ。理由はわからないけど、どこかへ避難して、って。だからてっきりあなたが...本当にごめんなさい。疑ったりして。謝って済む事じゃないけど許して下さい。」
和恵は昭夫の体調を気にかけて言った。「あなた、顔色が悪いけど、本当に大丈夫?具合が悪いところがあるんじゃないの?別れたとは言っても私が本気で好きになった人なのよ。放っとけないわ。」
昭夫は和恵をじっと見て何か言いたそうに口を動かしたが、また横を向いて笑い、「いいとこの奥様が、いつまでもフッた昔の男の事を気にかけるなんて、そんな理屈に合わないことをしちゃいけない。俺のことは放っておいてくれ。もう電話もしないし、うろつかないから。俺は自分のおとしまえは自分できっちりつける。自分の身内はもう誰もいないし、例えどうなったって気楽なもんさ。」と突き放す様に言った。
和恵は目をぎゅっとつぶって言った。「私、あなたの心の闇を取り除いてあげられなかったばかりか、現実から逃げ出す様にして今井と結婚したわ。あなたを置き去りにして裏切ってしまった。本当にごめんなさい。でも 決してあなたは一人じゃないのよ!あなたの血縁が身近にいるのよ!」
昭夫は瞬きもせず ゆっくり和恵の方を向いた。
「血縁って、何だ? 一人じゃないってどういうことだ?」
和恵と昭夫が待ち合わせをしている頃、会議所にいた倫子の父 潤は受付から呼び出され1階まで降りて来た。
受付のカウンターの前に倫子の友達のカンナが通りの外を見ながら立っているのを見つけて、潤は急いで階段を駆け下りようとした。
その時カンナは一点を見つめたまま急に外に飛び出して行った。
潤もつられて外に出るとカンナを追いかける様な形になった。
そしてカンナの視線の先をたどって見ると、そこには俄には信じがたい光景が待っていた。
潤はもはやカンナの事は眼中になかった。
妻の和恵が昔の男と1本の傘におさまって仲良く路地裏へ向かっているではないか。
もう周りも見ず道路を横切り 潤もまた路地裏に入っていった。
ふたりが喫茶店に入ってゆくのを見届けて、深く深呼吸をしてから潤もまた喫茶店へと入って行った。
和恵の席の後ろには植木がパーテーションになっていてその陰に隠れる様に潤は腰を下ろした。
二人の話している様子はなかった。
ウェイトレスが注文を取りに来て潤の額の汗の多さに驚き、いぶかしげに言った。
「お客様、大丈夫ですか?お加減がよろしくないのでは?」
潤はおしぼりで顔の汗を拭ってから 「いや、大丈夫だ。私に構わないでくれ。水でいい。」と言った。
ウェイトレスは呆れた様に首をすくめてから 足早に去って行った。
潤は和恵達の話を一言も聞き漏らすまいと じっと耳をすましていた。
『どうしてまた こんな男と話をする必要があるんだ?。』
和恵は息をひとつ吐いて 昭夫の目を覗き込む様にして言った。「倫子はあなたの子よ。」
それを聞いた昭夫のうつろだった目に光が戻った。
「それは、本当か? なぜ今迄何も言わなかった?」
「だって、あなたはギャンブルしか興味が無かったでしょう。私の体調にも気付かずにいたわよね。」
「もっと早く言ってくれたら、俺だって変われたのに。」
「今更何を言っても もう元には戻れないのよ。あの頃は 自分の生活を守るのがやっとだった。私もぎりぎりの決断だったのよ!」
「だから金のある男と一緒になったのか?」
「...」
潤の耳にはもう何も聞こえてこなかった。
「倫子は俺の子じゃない?!昭夫の子だというのか?!」
夢遊病のようにふらふらと喫茶店を出て それから何人かと肩をぶつかり怒号を浴びせられながら潤は家に向かって行った。
「とにかく命だけは守りたかったの。今井に愛情も持ってるわ。あの子に暖かな居場所を作ってあげたかった...
あなたとはダメだった...。妊娠が解ってあなたと別れどん底に落込んでいた時、今井が優しさで包んでくれた。この子の事情は誰にも言わずに 私一人でお墓まで持って行くつもりだった。だけど...捨鉢になってるあなたを放っておく事は出来ない。 結局、一番ひどい事をしてるのはこの私かも知れない。あなたを見捨て、今井の優しさを今でも裏切り続けている...」和恵は堪えきれずに嗚咽を漏らした。
「わかった... しかし今の話は聞かなかった事にしよう。俺なんか今更親の資格なんかない。今迄通り倫子は今井の子だ。そう言う事だ。他言無用だ。俺は復讐なんか考えてないから安心して今の家庭を守って幸せに暮らせ。」
昭夫はそう言うと喫茶店を出て行った。
和恵は涙を拭き化粧を直してから家に帰った。
家に着いたのはもう夕方4時過ぎていた。
潤の姿が見えなかったので、和恵は夕食の支度に取りかかった。
店はアルバイトに任せていたが午後6時には帰ってしまうため急いで夕食を終えて店番を代わらなければならなかった。
いつもなら5時半には潤も外回りから帰宅するのだったが『急用が出来たのかしら。』と和恵は深く考えもせずにいた。
いよいよ6時になって和恵は潤の分の食事をテーブルに並べ 交代の為に店に出て行くと、潤はもう店番をしていた。
こころなしか疲れている表情が見て取れた。
「あら、もう帰ってらしてたのね。食事出来てますけど。」と言うと、
潤は憎々しげに和恵を見たがそれ以上何も言わずに荒々しくドアを閉めてふらふらと家の中に入って行った。
和恵は潤のそう言う所が嫌だった。何か言いたい事があるのに口に出さず黙り込み物に当たるのだ。
ちゃんと目を見て話し合いましょうと何度頼んでも聞いてはくれなかった。
そしてその機嫌の悪さは倫子にまで及ぶので和恵はここ数年 なるべく潤の機嫌を損なわない様、腫れ物を触る様にして暮らして来た。年々融通が利かなくなってきているのは年のせいかも知れないと、和恵は半分諦めていたのだった。
和恵は何だか嫌な予感がしてならなかった。カンナの言っていた事って本当なのだろうか。
夫婦の間がぎくしゃくしてる時にそんな大変な事が起こったら、協力して解決する事なんか到底出来ないだろうに...
夜9時 和恵は一人で店を閉めた。
居間に行くと潤がソファーにもたれて座っている。いつもはテレビを付けっ放しにしているのに音の無い中で沈黙していた。
「倫子は昭夫の子だったんだな。」潤は抑揚を付けずに言った。
和恵はみるみる血の気が引いて行くのがわかった。
「あなた、それをどうして...」最後は震えて声にならなかった。
「今迄、よくもしらっとしていられたもんだ。親子して俺を騙していたんだな!!」
潤の目は憎悪で血走っていた。
和恵に掴み掛かるとそのままふたりは台所に倒れ込んだ。
和恵はもう抵抗しなかった。潤の目に狂気をもたらしたのは全部自分の責任だと思ったからだった。
「本当に ごめんなさい。」
潤にはもはや和恵の声も聞こえなくなっていた。
「この偽りの家ごとこの世から抹消してやる!!」
潤は叫ぶと 台所に置いてあったポリタンク入りの灯油を滅茶苦茶に撒いた。
和恵は必死に這って居間に逃げようとしたが 脚に力が入らず無意味に床を蹴っているのみだった。
何かが頭に当たって 和恵の意識は途切れた。
和恵が気が付いた時 あたりは火の海になっていた。潤は和恵の隣で死んだ様に動かない。
額に何か生温いものが流れて来るのに気付いた和恵は思わず頭に手をやると そこには大きな傷が出来ていた。
和恵は熱い火の中で 体は反対にどんどん冷えていくような感覚を覚えてまた意識が途切れた。
和恵は何かに包まれ、誰かに抱えられていることに気が付いた。
「和恵、しっかりしろ!もう大丈夫だ!」
それは昭夫の声だった。
和恵はまた意識を失った。
夜8時 カンナと倫子は家族で夕食を済ませて近くの銭湯に行った。
好きな子の話や学校の先生の話題などで盛り上がり結局2時間近くも銭湯にいたのだった。
銭湯を出て向こうの夜空が真っ赤になっているのに気付いた。
『もしかして、あの事件が起こってるの?!』カンナが思った時、
倫子が叫んだ。「家の方角だ!どうしたんだろう?!うち、大丈夫かなぁ?やだぁ!!」
倫子は家の方に走り出した。カンナも慌てて倫子の後を追った。
『やっぱり 火事になってしまったんだ。』
あの立派な今井薬局は 大きな火柱に包まれて轟音をたてて燃えていた。
「おかあさーん! おとうさーん!」倫子はカンナに押さえられながら炎に向かって泣き叫んだ。
その時、一人の男が燃え盛る火の中へ飛び込んで行くのが見えた。
勇敢なその男は和恵と昭夫を助け出して力つきその場に倒れ込んだ。
男の顔も頭も背中もひどいやけどを負っていた。
すぐに3人は救急車で病院に運び込まれた。
潤は大量の薬を飲んでいて意識朦朧となり火傷も負っていたが命に別状はなかった。
和恵も擦り傷と頭の傷だけで 奇跡的に火傷もしないで助かった。
だが火に飛び込んだ男は 大やけどを負ってかなりの重傷だった。
すぐに処置を施されたものの 全身にわたる重い火傷の為かなり危険な状況だった。
男は昭夫だった。
和恵とカンナから火事の情報を聞いていたので、心配になりお店の近くで不審者を見張っていたのだったが、突然住宅の方から火柱が上がり、あっという間に燃え広がったのを見ると、昭夫は迷わず飛び込んでふたりを助け出したのだった。
ICUで昭夫は苦しさに喘ぎながら和恵の名を呼んでいた。
看護師が特別に和恵をベッドサイドに案内してくれた。
「3分だけですよ。」
和恵は包帯だらけの昭夫の手を取って、「助け出してくれてありがとう。火の中であなたの声だけがはっきり聞こえたのよ。」と言うと、焼けただれた唇が微かに微笑んだ。
「俺は遅かれ早かれどうせ死ぬ運命だったのさ。進行性の胃がんなんだ...でも最後の最後に自分の家族を守ってやる事が出来て、俺は幸せだったよ...だが、このことは...倫子に言うな..約束してくれ...」
優しい声で昭夫は言った。
和恵は静かに泣きながら何度も頷いた。
その翌日昭夫は満足そうな笑みを浮かべて亡くなった。
潤は 最初錯乱した事を殆ど覚えていなかった。それは睡眠薬のせいだろう。
しかし薬局は焼けてしまい、廃墟になった家の残骸を見て断片的にあの状況を思い出し後悔の念に苛まれていた。
和恵は潤が服役を終えて帰って来るのを待っていようと思っていた。
やがて和恵は倫子を引き取り和恵の実家に引っ越して行った。
「カンナ、私たち親友だよね。私きっと忘れないから。」
バスに乗り込んでゆく倫子にカンナは叫んだ。「どんなことがあっても、希望を捨てちゃダメだよ!いつでも私を思い出して。いつも心は一緒だよ!!」
カンナは バスが見えなくなる迄いつまでも手を振った。
「カンナ!ちょっと!なにぼーっとしてるの!フライ来てるよ!!」
先輩の声に慌ててグローブを構えたカンナの目に 蒼い空と白い大きなボールが真っ直ぐ飛び込んで来た。
次の瞬間 右目に激痛が走ってカンナの記憶の糸がぷつんと途切れた。
「ママ、大丈夫?ほんとドジなんだから。何回脚立から落ちるんだよ!」
仰向けになっているカンナの真上から心配そうな目が見下ろしていた。
中学生の男子に囲まれた、と思ったら息子達だったことに気付いた。
「あれっ、私また戻って来たんだ。あぁ、よかった。また未来に戻れた。」
カンナが過去に行っている間、ここには中学生のカンナが来ていたようだ。
「ホントに、ママ変だったよ。だって自分の姿に驚いて、毎日鏡で見て泣いていたんだよ。パパ心配しておろおろしてたよ。憶えてないの?」と息子は言った。
「それにさ、お料理なんにも出来なくてさ、僕たちが作っていたんだから。携帯電話にすごく興味持って僕のを貸して貸してってうるさいったらなかったよ。自分の使えばいいのにさ。ママ、頭打ったとこ大丈夫?」
『そうか。あの人健康に気を付けて元気になって生きてるんだ!!写真家にもなってるのかなぁ? あっ、そうだった、私、脚立から落ちて頭をぶつけたんだった。』
「ごめんね、もう大丈夫だから。いつものママになりましたからね。さあ、勉強しにお部屋に行った!行った!」
「チェッ、元に戻ったよ。あのママも面白かったんだけどなぁ。」息子達はぶつぶつ言いながら部屋に入って行った。
カンナは古いアルバムを広げた。
その中にあの事件の前日両親と一緒に撮った写真があった。
そこには確かに今のカンナが若い両親と共に笑っていた。
事件は止められなかったし、犯人も噂とは違っていたけれど、友達の安否も確認出来た事で、カンナはこの思いがけないタイムトラベルに充分満足していた。
「さあ、明日は病院にこの写真持って行って、お母さんに見せてあげよう!!そして今日は、パパと息子達の大好物料理を作ってあげなくちゃ!」
カンナは残りの洗濯物を干そうと脚立に乗って背伸びをした。
その時、足元がぐらぐら揺れて....
さて、今度のカンナさんの居場所はどこになるのでしょうか?
終わり




