最後の自動販売機
私は、この村で唯一の自動販売機だった。
だが、もうこの村には、誰も住んでいない。
私は、長年この村を見続けてきた。
昨年の冬、最後の住人が姿を消した。
誰もいないはずなのに、電気だけは通っている。
毎朝、六時に私の照明が点灯し「いらっしゃいませ」と声を出す。
今日こそ、誰か来るかもしれない。
最近は涼しくなって、私にまとわりついていた虫たちも姿を消した。
目の前のひび割れたアスファルトの道は誰も通らない。
たまに、動物が横切る以外は。
私は、崩れかけたたばこ屋の軒先に今もたたずんでいる。
かつては、たばこ屋の主人リノさんが毎朝、雑巾で私を拭いてくれた。
私は、この場所に置かれた三代目の自販機だ。
私が来たとき、彼女はもう腰が曲がっていた。
彼女がいなくなって、もう二年になる。
私は、人間が大好きだ。
だが、今日も誰も来なかった。
また朝が来た。
いつものように照明が点灯し「いらっしゃいませ」と声を出す。
遠くから車の音がする。
誰か来たのだろうか。
目の前の道を軽トラックが通り過ぎていった。
猟師の兄弟だ。
軽トラックの荷台には、仕留めた鹿が積まれていた。
二人は、私から決して買わない。
いつも私の前を通り過ぎるだけだ。
私がこの村にやってきた頃、彼らはこの村でたった二人の小学生だった。
いつも小銭を握りしめて、嬉しそうな顔で私の前に走ってきた。
「お兄ちゃん、早くはやく!」
兄は炭酸ジュース、弟は甘いコーヒーがお気に入りだった。
彼らは、リノさんの店で駄菓子を買い、私からジュースを買った。
それが何もない、この村での楽しみのようだった。
リノさんがいなくなってから、彼らが私の管理を引き継いだ。
月に一度だけ、小銭の回収とジュースの補充にやってくる。
だが、なぜか毎回、コーヒーを三本しか入れ替えない。
だから、いつも私はコーヒー以外は品切れだった。
彼らは、罠や猟銃でイノシシや鹿を狩っている。
人間が嫌いらしく、いつも二人だけで行動していた。
私は、人間が大好きだ。
また朝が来た。
人間は誰も来ない。
いつものように、鳥の鳴き声と木の葉のそよぎしか聞こえない。
昼過ぎ、車の音が聞こえた。
あの兄弟だ。
彼らは軽トラックで乗りつけると、私の中身を確認した。
「やっぱり誰も買わないね。何でかな?」
兄は黙ってコーヒーを三本入れ替え、表示を『あったか〜い』に切り替えた。
そして、扉を閉めて鍵をかける。
軽トラックが去り、静けさが戻った。
私は考える。
私はもう、誰にも必要とされていないのではないか。
補充された温かい缶を、ただ温め続けるだけなのではないか。
日が傾き、美しい夕日が周りをオレンジ色に染め上げた。
今日もお客さんは、誰も来なかった。
私は、人間が大好きなのに。
また朝が来た。
今日も、あの兄弟の軽トラックが通り過ぎる以外は誰も来ない。
リノさんのたばこ屋のトタン屋根が風に押されて、音を立てている。
この村の人たちはみな、どこへ行ったのだろうか。
正午を過ぎ、太陽が西に傾き始めた頃、遠くからエンジンの音が聞こえてきた。
兄弟の軽トラックではないようだ。
しばらくすると、小さな白いバイクがこちらにやってきた。
バイクは、私の前に止まった。
「えっ、こんなところに」
ライダーはバイクを降り、ヘルメットを脱いだ。
若い、可愛らしい女性が私を見つめている。
彼女は肩をすくめ、バイクで冷え切った両手に息を吹きかけていた。
「動いてるのかな」
小さくつぶやくと、彼女は恐る恐る私に近づき、しばらく見つめていた。
意を決したように、小銭を取り出し私に入れようとした。
凍える指で、なかなか小銭が入らない。
やがて、何とか小銭を私の中に滑り込ませた。
「いらっしゃいませ」
久しぶりにお客さんに声をかけることができた。
私の中に喜びが溢れる。
彼女はボタンを押した。
ゴトン。
「ありがとうございました」
やっと言えた感謝の言葉。
彼女は下からコーヒーを取り出した。
「あったかい」
嬉しそうな声を上げた彼女は、丹念に賞味期限を調べ始めた。
「よかった。まだ大丈夫だ」
彼女は小さくつぶやくと、私の向かいにぽつんと置いてある朽ちかけのベンチに腰を掛けた。
蓋を開け、大事そうに両手で持って、彼女はコーヒーに口をつけた。
「ああ、温まる」
彼女は幸せそうに、コーヒーを飲む。
ようやく私は大好きな人間の役に立てた。
午後の秋空は、どこまでも高く透明だった。
コーヒーを飲み終えると、彼女はベンチに体を預けて目をつむった。
きっと、疲れていたのだろう。
彼女は幸せそうな顔をしながら、寝息を立てはじめた。
こんなところで寝たら風邪を引くよ。
私はそんな心配をしながら、彼女を見つめていた。
日は少しづつ傾いていく。
まだ、彼女は目を覚まさない。
このままでは、日が暮れてしまう。
私の不安はどんどん大きくなっていった。
あたりがオレンジ色に染まったころ、またエンジンの音が聞こえた。
あの兄弟だ。
軽トラックが止まると、男たちが降りてきた。
「あれ? 人だ! 兄ちゃん、人だ、女の子だ!」
弟が声を上げた。
「ああ、見りゃわかる」
兄がぶっきらぼうに答えた。
「あ、飲んだんだ」
弟が、女性に駆け寄った。
まるで、小銭を握りしめて私に駆け寄った小学生の頃のように。
「わぁ、人間は去年の冬以来だねぇ」
嬉しそうに弟が笑う。
「よかったねぇ兄ちゃん」
「ああ、本当に飲んでくれる人がいるなんてな」
兄もどことなく、嬉しそうだった。
「でも、このままじゃこの子風邪ひくよ」
弟が心配そうな顔をした。
「毛布を持ってこい」
軽トラから、毛布を引っ張り出すと兄はベンチの脇に毛布を敷いた。
そして、そっと女性を毛布の上に寝かせる。
「僕さ、人間が大好きなんだ」
弟が無邪気に笑った。
「俺もさ」
無表情だった兄が、顔をクシャクシャにして笑った。
兄は丁寧な手つきで、彼女を毛布に包んだ。
「最近は猪肉ばかりだったからね」
二人は彼女を、軽トラックの荷台に乗せた。
バタン。
兄が軽トラックに乗り込むと車を発進させる。
弟は彼女のバイクにまたがり、兄の後を追っていく。
軽トラックとバイクの音が遠ざかると、そこには静寂だけが残った。
よかった。
彼女は寒いベンチで、風邪をひかずに済んだ。
兄弟は人間嫌いじゃなかったんだ。
私は、人間が大好きだ。
また、誰かに「ありがとう」と言える機会を待つことにしよう。
了




