婚約者ができたから頼るなって言ったのはそっちですよね?
琥珀色のとろりとした液体が入った小瓶が、テーブルの上に十本。
それらを値踏みするように、元から細い目を更に細めて、テーブルを挟んで向かいに座る男──ジーンは、見積書へさらさらと羽根ペンを滑らせると、こちらに差し出した。
「ま、こんなもんかな。この金額でどう?」
「…………はぁ!?」
提示されたのは、買取相場の八割ほどの金額。前回お試しに、と初めて買い取ってもらった額よりも、更に一割ほど値を落としている。
「どういうつもり? 薬の品質は間違いないはずよ。前回納品した薬に問題がなければ、次は相応の金額で、って約束だったじゃない!」
「それはそのつもりだったけど、こっちも客商売なんでね。需要がないものにそんなに金は払えないよ」
「……それはつまり、まだ薬師としては一人前とは言えない、学生が作った薬だから売れない、ってこと……?」
「うーん。ま、それもそうかもね」
肩をすくめて、ジーンは見積書を自身の手元へと引き寄せる。
「ともあれ、もっと薬の改良をした方がいいんじゃない? 金額に納得いかないなら、別に無理に売ってもらわなくても、俺は困んないしね」
見積書を懐にしまい込み、薬の入った小瓶をそのままに、ジーンが席を立とうとした、その時。
「──っ、待って!」
声を上げたのは、隣でずっとわたしたちのやり取りに口を挟まず見守っていた、薬を作った張本人──ウィルだった。
「この金額で構わないから、全部買い取って欲しい」
「……ウィル!」
「いいんだ、エマ。他に僕の作った薬を買い取ってもらえるアテなんてないんだし」
「でも! ウィルの作った薬の効果は、市場に出回っているものの五割増しの効果があるのよ!?」
「……それでも。せっかく作った薬を手元で余らせておいたって、お金にはならないよ」
ウィルがきっぱりとそう言うと、腰を浮かせていたジーンは再び座り直し、見積り通りの銅貨をテーブルに並べる。銅貨の数を確認するウィルを横目に、小瓶を全て袋の中へ素早く移動させたジーンがにやりと笑った。
「毎度」
そう言うと背を向けて、あっという間に昼休みで賑わうカフェテリアの人混みに紛れていく。その背中を睨みつける。
──足元を見られた。
悔しくて顔を歪ませるわたしの横で、ウィルは苦笑いしながらぽつりと呟いた。
「……改良かぁ。困ったな。レシピ通りに調合してるだけだからなぁ」
ウィルは天才薬師だ。
……と言っても、正式にはまだ薬師とは名乗れない。貴族学園に通う学生という身分だからだ。
薬学科を専攻する学生は、卒業試験に合格し、学園を卒業して初めて薬師として認められる。
しかしウィルの薬師としての腕は確かで、彼の精製した薬は軒並み何割増しもの効果があると、学園の効能検査で認められている。
未来を嘱望される、薬学科一の天才。
それがわたしの幼なじみであり、いずれ結婚を予定している子爵令息ウィル・ヘイワードだ。
わたしとウィルの家は領地が隣同士で、家族ぐるみの付き合いがあり、まるで姉弟のように仲良く育った。
だからだろう。
いつからか、二人は結婚するんだろう、という空気感があった。
と言うのも、ウィルは嫡男なのに気が弱く、領地経営にもいまいち興味を示さなかったのだ。
決して物凄く不真面目とか、不出来だとかいう訳ではなく、彼は何より薬師の真似事をするのが好きだった。
一方のわたしは、悲しいほど貧乏な男爵家の娘。
容姿が特段優れている訳でもなく、嫁入り先を探すツテもなかった。その上、貧乏育ちなので金勘定に割とうるさい。
ウィルのご両親は、「エマちゃんはしっかりしているし、気弱なウィルはよそのご令嬢にはきっと相手にされないだろうから、お嫁に来てくれると嬉しい」と言ってくれたし、うちの両親も「ウィル君がエマをもらってくれれば有り難い」とよく言っていた。
互いの家に何か特別な利があるかと言えばそうではないので、正式には婚約していなかったけれど、まぁこのまま結婚するんだろうな、と思っていた。
わたしも、きっとウィルも。
──そしてわたし達は十五歳になり、国内の貴族子女のほとんどがそうであるように、王都にある貴族学園に入学した。
そうして今に至る──のだけれど。
ジーンから受け取った銅貨を広げて、ウィルが無邪気に笑う。
「ねぇ、エマ。このお金で、新しい薬草の種を買おうよ。ほら、前に言ってたなかなか手に入らない珍しいやつ。研究に使いたいんだ」
「えっ。でも、この間薬を売ったお金だって、全部使っちゃったじゃない」
「投資だよ! いい薬を作るには、道具や原料にこだわらなくちゃ。今はまだ魔力回復薬くらいしか作ってないけど、新しい薬草を育てて収穫できたら、今よりすごい薬を作れるし、そしたらもっとお金になるよ!」
「……そう……かも、しれないけど」
「じゃあ決まりだね! 今日の放課後、早速種を仕入れに行こうよ」
笑顔を見せるウィルに、なんだか複雑な気持ちになる。
学生でありながらも作った薬の効果は学園のお墨付きということもあり、せっかくだから売ってみよう、と言い出したのはウィルで。
だから二人でお小遣いを出し合って、薬草は高価だから種を買って、わたしが寮の庭の一角を借りて育てている。
薬草の管理は結構大変で、温度や湿度に合わせて水やりをして、必要なら適度に肥料を与え、虫がつかないように気を配らなければならない。
学業と並行してやっているので、これ以上薬草の管理が増えたら面倒だな……と思う。珍しい薬草なんて、特に管理が難しそうだし。
──でも、ウィルのためだ。
この少し頼りない幼なじみを支えてあげられるのは、わたしだけ。
薬師として才能があるウィルと違って、わたしにできることは限られている。
だからがんばろう。わたしにできることを、わたし達の未来のために。
…………そう思っていたのだ。本気で。純粋に、盲目的に、それはもう当たり前みたいに自分の役目だからと。
それなのに──。
「エマ。僕、婚約することになったんだ!」
「…………は!?」
入学以来毎日一緒に過ごしていた、昼時のカフェテリア。
突拍子もない話に、誰と、という疑問が口から出なかったのは、そんないつもの場所に一人、いつもと違う人物が同席しているから。
にこにこと機嫌よく笑うウィルの横に座る、見知らぬ女生徒。
戸惑う視線を向けるわたしの様子など、ウィルは全く気にしていない。
「彼女はエレノア。伯爵家のご令嬢で、同じ薬学科を専攻しているんだ」
「えっと……。つまり、ウィルのクラスメイト?」
「そうなんだ。それで仲良くなって、僕たちは惹かれ合って、正式に婚約することが決まったんだ」
とんとん拍子に進む話に、軽く目眩がした。
──いや、確かにわたしとウィルは婚約していない。
いないけど!!
これまでのわたし達って、一体何だったんだろう、とか。
ウィルを支えるためにがんばってたつもりだったのに、とか。
わたしの嫁入り先はどうしたらいいんだろう、とか。
いろんなことが頭の中で渦巻いて。
でも、何より一番、真っ先に確かめたかったことは──。
「……っ、それじゃあ、ニコラの……弟の学費はどうなるの!?」
途端に、ウィルの笑顔が消えた。
「…………。ねぇ、エマ。こんな時に、その話はやめようよ……」
「こんな時だからでしょ。我が家にとっては、死活問題なのよ……!」
「わかってるよ……。ちゃんと援助はするから」
渋い顔をしながらそう言うウィルの横で、エレノア様の目が吊り上がっていく。
「その話、どういう意味です? エマ様とウィルはただの幼なじみだとうかがっておりますけど。どうしてウィルが、エマ様の弟の学費を援助する必要があるんですか?」
「……えっと、それは、事情があって……。エマの家は余裕がないし、僕は薬師として収入の見込みもあるし……」
「まぁ。ウィルが天才薬師だとわかったからって、婚約者でもないあなたが、彼をあてにして依存しようとしていらっしゃるの?」
エレノア様がわたしを睨みつける。
そうやって言葉にして説明されれば、わたしってずいぶん悪女だな、と感じる。
ちらりとウィルを伺い見ると、彼は気まずげに視線を彷徨わせるだけで口を開こうとしない。
……本当に、相変わらず。ウィルは見栄っ張りなところがあるのだ。エレノア様の前で、格好悪い話はしたくないんだろうけど。
そもそもの話、わたしには貴族学園入学の予定はなかったのだ。何しろうちは貧乏だし。
学費は、家を継ぐ弟のために残しておかなければならなかった。
けれど、それに異を唱えたのがウィルだった。
「嫌だ。僕は、エマと一緒に入学したい」
「でも学費が……」
「僕は学園を卒業したら、領主としてだけでなく、薬師としても働きたいんだ。薬を売って稼いだお金は、エマの弟の学費として全額援助する。だから……どうしても、エマと一緒に学園に通いたいんだ!」
普段あまり自己主張をしないウィルの熱意に心打たれ、うちの両親はわたしの入学を決めた。
ウィルは夢を叶えるため、薬学科へ。
わたしはそんなウィルを結婚後も支えるため、経営科を専攻した。
入学後しばらくして、ウィルが薬を売ろうと言い出したのも、弟の学園入学までに少しでもお金を貯めておこう、という理由からだったはず……。
そんな過去に一瞬意識を飛ばしてしまったけれど、エレノア様はまっすぐな目でこちらを見つめて言葉を続けた。
「エマ様。私はウィルを尊敬しています。同じ薬学科で学んで、ウィルの素晴らしい才能を目の当たりにして、この先薬師としての成功を、私が支えていきたいと思っています。ですからどうか、これからは節度ある距離を保っていただけませんか」
「……わかりました。わたしも、二人の邪魔をするつもりはありませんので。ウィル、あなたもエレノア様と同じ気持ちなのね?」
「えっ!? ……いや、うん……。その、学費のことは……ちゃんと、する、から。……あの、余裕ができたら、だけど……」
しどろもどろで言い訳していたウィルは、エレノア様に睨まれて黙った。そして意を決したように、しかしごく小さな声でぽつりと呟いた。
「できれば、その……。僕に頼るのは、もうやめて欲しい。僕はもう、エレノアの婚約者だから」
「…………」
反論したいことはたくさんあるはずなのに、ひとつも言葉にならない。
結局ウィルは婚約者ができたことで、わたしが邪魔になってしまったんだろう。はっきり言わないところが、本当にウィルらしいけど。
そしてそのまま、満足そうなエレノア様に引きずられるように、挨拶を残して去って行った。
賑やかなカフェテラスに、ぽつんと一人取り残されて。
思わずテーブルに突っ伏した。
「……っどうしよう……!!」
ウィルに対して思うところは山ほどある。
が、今わたしが一番に考えなくてはならないのは現実的なこと──弟の学費だ。
あの様子だと、ウィルからの学費の援助は見込めない。経緯を知っているウィルのご両親に泣きつけば、責任持ってウィルが支払うよう手を回してくれるかもしれないけれど……。
結局、天才薬師に依存するただの幼なじみ、の構図は変わらない。
わたしも、いずれ入学する弟も、そういう目で見られるのだ。そんなの、とんでもなく癪に障る……!!
「なんとかしてお金を稼がなくちゃ」
でも、どうやって?わたしはウィルと違って、薬なんて作れない。
ぽつりと零した言葉に、でも頭の中で無理だと返した、その時だった。
「お金が必要なの?」
「……えっ?」
頭の上から降ってきた疑問の声に、顔を上げる。
そこにいたのは、できれば今は会いたくなかった男──ジーンだった。
「さっきの話、聞こえちゃった。君たち、婚約してるんだとばかり思ってたけど、違ったんだね?」
当たり前みたいに、さっきまでウィルが座っていた向かいの席に腰を下ろす。その細い目が、楽しそうに輝いている。
──他人事だと思って、面白がって。本当に、この男は性根が悪い。
ジーン・クローデル。
国内でも三つの指に入る大商会、クローデル商会の一人息子。金で男爵の地位を得た、新興貴族の令息でもある。
同じ経営科のクラスメイトで、他に商人の知り合いもいなかったために、ウィルの薬を買い取ってもらっていたけど……。
「あなたには関係ないでしょ」
「まぁ、そうだけどね。お金が必要なんでしょ? そういうことなら、力になれると思うなぁ」
うさん臭い笑顔に、警戒心ばかりが募る。ウィルの薬を買い叩いたこの男を、わたしは全く信用していない。
「結構です」
「まぁまぁ、話だけでも。君さぁ、薬草自分で育ててるんでしょ? それを買い取らせてもらうよ。もちろん、ちゃんと適正な市場価格で」
「薬草を? ……それも、市場価格で?」
「初回はね。買い取った薬草は、品質検査にまわす。結果が良ければ、次回からそれなりの額を上乗せするよ。どう?」
薬草を売る、という発想はなかった。
種の購入代金に、世話をする手間賃。頭の中で計算してみれば、薬に加工した場合よりもずっと金額は安いけれど、それでも十分利益は得られそうだ。
……むしろ。
最近ウィルは売却用の薬を作る分以外にも、課題や研究用にまで、学園で支給される薬草ではなく、わたしが育てた薬草を使っていた。
ウィルに渡していた量を全てお金にかえられるならば、いっそ薬草をそのまま売却した方がお得な気さえする。
──ただし、ジーンのことだ。どうせ難癖をつけて、二回目以降はまた買い叩いてくるんだろう。
それでも、せっかく育てた薬草を無駄にするよりはマシだ。
わたしに頼ってくるなと言った以上、どうせウィルの方も、もうわたしの薬草をアテにすることもないんだろうから。
「わかった。でももし市場価格を下回るなら、次からあなたには売らないわよ」
「強気だなぁ。お金に困ってるんじゃないの? でもまぁ、検査結果次第だけど、きっと悪いようにはならないと思うよ」
「……どうだか。結果がどうあれ、適当に言いくるめるつもりじゃないの? ちゃんと書面で結果を提示した上で、価格は相談して。騙されたくないの」
「人のこと詐欺師みたいに言わないでくれる? これでも信用第一の商人の息子なんだけど」
「生憎わたしはあなたを信用してないのよ」
わたしの率直な物言いに、ジーンは気を悪くするどころか、心底愉快そうな笑顔を見せた。
「いいねぇ。どっかの誰かさんみたいに言われるがままな奴もやりやすいけど、君とはいい取り引きができそうだよ」
◇◇◇
それからたった、数日後のこと。
ウィルはなんだか焦った様子で、わざわざ経営科の教室に現れた。
「ねえ、エマ。薬草は?」
「…………は?」
「薬草だよ! なんで持ってきてくれないの?」
「なんでって……。これからは必要以上に関わらないって、そういう話じゃなかった?」
「あれはエレノアがうるさいから、つい……。それに、薬草は必要だよ? そこは今まで通りでいんじゃないかな」
「…………はぁ?」
頭が痛い。
これまでわたしはウィルを甘やかしてきた、と思う。しかし、これほどまでとは──。
「逆に聞くけど、なんでただの幼なじみに、わざわざ育てた薬草を渡す必要があるのよ。学園支給のを使えばいいでしょ」
「もう、わかってないなぁ。ボクは摘んだばかりの新鮮な薬草の方が、扱いやすいんだよ」
知るか。
呆れ果てる私の視界の隅に、ジーンの姿が映る。口を手で覆い、肩を震わせ、笑いを堪えている。なんて性格が悪いんだろう。
「わたしには関係のない話よ。ウィルがわたしに頼るなって言ったんだから、そっちも頼ってこないで」
「でっ……でも! 種を買ったのは、二人のお金だよね?」
「初期投資回収分以上の薬草を、わたしはこれまでに十分渡してる」
「……そんな……」
これ見よがしに落胆の表情を浮かべたウィルは、わたしの意思が固いことを察すると、肩を落としてぽつりと呟いた。
「なんでエマって、昔からそうなの? 勝手に生えてくる草を分けてくれるくらい、ケチケチしなくてもいいのに……」
それは完全に地雷だった。
わたしのやってきたことに一切目を向けず、天才と持てはやされることで芽生えた慢心が、支えられて当然という傲慢さが透けて見えた。
とても許せる発言じゃない。
「──出てって。もう、顔も見たくない」
零れた声は、思ったよりずっと低かった。
ウィルがはっとしたように顔を上げて、目が合う。
わたしは今まで、ウィルにこんなに静かに怒ったことはなかったと思う。
ウィルの顔がみるみる青ざめて、逃げるように教室から出ていった。
わたし達は大声でやり取りをしていたわけではないけれど、なんとなく周囲に気まずげな雰囲気が漂う。
そこに遠慮なく呑気な声で割り込んできたのがジーンだった。
「いやぁ~参ったね。今の聞いた? 新鮮な薬草じゃないとうまく扱えないだなんて、とんだ天才様だねぇ、彼は」
明らかにウィルを小馬鹿にしている。
やっぱりこの男は、性根が腐っていると思う。
それでも周りから失笑が漏れて、ほんの少し空気は和らいだ。
教室内が賑やかさを取り戻すと、ジーンはわたしに近付いてきて声をひそめた。
「ねぇ、エマ。俺は君の価値をちゃんと理解しているよ?」
「……。そういう商売もやってるの?」
「何それ。言っとくけど、結婚詐欺じゃないからね?」
「詐欺師の自覚はあるのね。わたしを騙しても、お金は引っ張れないわよ」
「だから誤解だって。この間のさ、薬草の品質検査の結果が出たんだよね」
ジーンの瞳が爛々と輝いている。
……と、いうことは。
「結果は良かったみたいね」
「いいなんてもんじゃないよ。期待を遥かに超えてたね。君の薬草、市場の最高級品の五割増しの魔力保有量があったよ」
「…………なんて?」
「君って本物の天才だね! ねぇ、俺と専属契約を結ぼうよ。大量栽培すれば、大儲けできるよ」
「ちょっ……ちょっとまって!」
理解が追いつかなくて、制止の言葉を口にする。
だってただ薬草を育てただけなのに、こんなことある?
「何かの間違いじゃないの?」
「ないね。君の品質管理は完璧で、葉っぱの状態がすごく良かった。その上君、無自覚に薬草に魔力を流してたんだよ。そのタイミングが種まきの時点なのか、水やりのたびになのか、どういう条件であそこまでの魔力保有量になったのか、とことん調べたいんだよね。それがわかれば、最高級品質の薬草を大量栽培できる。……ね? だから俺と契約しよう!」
そう言うなり、ジーンは分厚い契約書類をわたしの机の上にどさりと置いた。準備が良すぎない?
「……持ち帰って考えさせて……」
「もちろん。君に不利な内容じゃないから、よく読んで」
「そんなこと言って、ものすごく小さい字で、まずいことが書いてあるんじゃないの」
「詐欺じゃないってば。ちゃんと俺は、誇りを持って仕事してるんだから。価値あるものに払う金は惜しまないよ」
「……でも、ウィルの薬は買い叩いたでしょ?」
わたしの言葉にジーンはきょとんとして、それから心底おかしそうに笑い出した。
「あー、それで俺、信用なかったんだ? そりゃそうでしょ、あんなゴミみたいな薬に高い値はつけらんないよ」
「ゴミなはずないでしょ! 効果が高いのは確かなんだから!」
「だってあいつが作ったあの薬、クソマズいんだよ?」
「……えっ!?」
「どうやったらあんな味になるんだろうねー。どんなに効果が高くても、味が悪ければ誰も飲みたがらないよ。学園じゃ評価されても、市場に出れば価値はないって、そういう話」
呆然とするわたしの耳元に、ジーンが口を寄せる。
「ねぇ。あいつさぁ、君の薬草に頼りきりだったんだよね? 学園の課題にも使っちゃってさ。あの薬の効果が、自分の腕じゃなくてエマの薬草のおかげだってわかったら、どうするんだろうねぇ」
細めた目が、弧を描く口元が、愉快で仕方がないと饒舌に語っている。……ああ、本当に性格が悪い。
「どうなの? 哀れな幼なじみを、また助けてあげたくなっちゃう?」
「……ならないわよ。先に手を離したのは、向こうだから」
「それは良かった。じゃあ、心置きなく薬草で商売できるね。早速契約書にサインを」
「それはちゃんと全部読んでから。どさくさに紛れて急かすその手口、あからさますぎるわよ」
「へぇ。世の中には悪い詐欺師がいるもんだね」
ジーンが肩をすくめてみせて、呆れながらも思わず笑ってしまった。
ウィルの一言で、怒りとか虚しさとか、そういう気持ちでいっぱいになっていたはずなのに、気づいたらそういうのはすっかり消えていて。
わたしは受け取った契約書を、大切にかばんにしまい込んだ。
◇◇◇
あれからわたしの日常はずいぶんと変化した。
家庭菜園レベルから、いきなり大規模農場での薬草栽培に関わることになって。プレッシャーと忙しさでどうにかなりそうだったけど、順調に成果が出始めて、ほっとしている。
そうやって慌ただしい日々はあっという間に過ぎて、間もなく学年末考査の日がやってくる。
試験をクリアしなければ進級できないので、放課後の人もまばらな教室に居残り、テスト勉強に励んでいた。
やがて陽が傾き、射し込む西日がわたしの背に長い影を落とす頃。
「エマっ!!」
長らく聞いていなかった声が、教室に響いた。
「ウィルじゃない。久しぶりね」
教室に飛び込んできたウィルに、そう返す。
一度は顔も見たくないほど怒りを覚えたけれど、改めて目にすれば、今更なんとも思わない。
ウィルはなぜだか泣きそうな顔をしている。
わたしの目の前までやって来ると、勢いよく頭を下げた。
「エマ、ごめん……!」
「? 何が?」
「僕、気づいたんだ。今までずっとエマに支えられていたんだって。それなのに僕、エマに酷いことを言って……傷つけたよね。本当にごめん」
「ああ……そう。もう、いいけど」
正確にはどうでもいい。何もかもが遅すぎて。気づくのも、謝罪の言葉も。
けれどウィルはそれを許されたと思ったのか、ぱっと表情を明るくした。
「ありがとう! やっぱり僕は、君がいないとダメなんだ」
「はぁ……? エレノア様はどうしたのよ。彼女が支えてくれるんじゃなかったの?」
その名前を出した途端、ウィルは笑みを消してむっとしたような表情になる。
「それがさ、酷いんだよ! エレノアってば、僕の成績がちょっと落ちたからって、『天才じゃないなら用はない』って、すぐに婚約解消してきたんだ。エレノアは、僕の薬師としての才能にしか興味がなかったんだよ!」
……そういえば。
ジーンの予言通り、薬草を渡すことをやめて以来、ウィルの作る薬の効果はガタ落ちしたと聞いた。薬学科期待の天才が突然凡人以下になり下がったのだ。学園中で話題となり、その噂はわたしの耳にも届いている。
まぁ、ただの幼なじみがどうなろうと、もうわたしには関係ないけど。
適当に聞き流していたわたしの手を、ウィルが両手で包み込んだ。
「今になってわかったんだよ。僕のことをちゃんと見て、本当に支えてくれるのはエマだけだって」
「……は……?」
「僕のために、ずっと経営科でがんばってくれて、薬草を育ててくれてありがとう。今度こそ僕、ちゃんとするから」
「……まって。何の話してる?」
「もちろん、僕たちの未来の話だよ。遠回りしたけど、僕にはエマしかいないんだ」
わたしに受け入れられると、何の疑いもない目でウィルが見つめている。
幼い頃から、たくさんの些細なことでわたしに許され続けた記憶は、ウィルの中では永遠で絶対みたいだけど、そんなわけない。
つかまれていない方の手で、ウィルの両手を引き剥がす。
「わたし達が一緒になる未来はなくなったの。そうしたのは、ウィルなんだから」
「でっ……でも! エマだって、僕がいなきゃ困るよね。ニコラの学費とか……」
「学費の心配はなくなったから大丈夫。それ以外にも、両親には色々と援助できるようになったし」
「えっ!? そんな……そんなはず……」
ウィルが慌ててわたしの手をつかみ直そうとして、横から伸びてきた別の手に遮られた。
「ねぇお前、さっきからしつこいよ。俺のエマに触んないでくれる?」
「えっ……。あっ、ジーン・クローデル……! なんで、ここに」
「いたよ、最初から。自分の教室なんだから」
不機嫌さを全面に出したジーンは、ウィルの前に立ちはだかってその手を雑に払い除けた。
ウィルは驚いて何も言えずにいたけれど、しばらくして震える声を絞り出す。
「…………。さっき、俺の、エマって……」
「そう。俺とエマは、婚約予定なの。だから潔く諦めて。そんで、ここから消えて」
ウィルが今度こそ言葉を失った。その顔が絶望に染まって立ち尽くす。
けれどジーンに睨みつけられて「早く」と急かされると、怯えたようにびくりと肩を震わせた。そうして呆然としたまま、ふらふらと教室を後にする。
その背中を見送って、そばに立つジーンを見上げる。
「そんな予定、初めて聞いたんだけど?」
「新しい男でもできないと、あいつはきっとずっと君に依存しようとするよ。だから、そういうことにしとこうよ」
「信用第一の商人なのに、口から出まかせ言っていいの?」
「予定は決定じゃないからね」
「さすが……人を騙すプロ。言い逃れまで完璧ね」
わたしが感心していると、ジーンは目を細めて悪戯っぽい笑みを向けてきた。
「いっそ本当のことにしちゃう? 俺は君の価値を、ちゃんと理解してるよ。薬草の栽培技術や才能だけじゃなく、人間性も、異性としても」
相変わらずふざけたことばかり言うジーンの顔を、西日が眩しくて直視できない。
だから、彼の瞳がいつもより熱を帯びていたのも、きっと気のせい。
「そういう詐欺で捕まらないでね。共同事業に影響するから」
「俺、君にしかこういうこと言わないよ? なんで信じてくれないかなぁ。まぁ、そこがいいんだけどさ」
ジーンが楽しそうに笑う。
沈みゆく夕日が、遠くの空を紅く染める。
ウィルとの長い長い不毛な時間も終わりを告げた。期末考査が控えているし、それが終わったら何種類か新しい薬草の栽培にも着手したい。誰かのためじゃない、ちゃんと評価される自分の仕事は、とてもやり甲斐があると知った。
とにかく毎日が忙しくて、満たされていて。
だからジーンとの関係に新しく名前をつけるべきなのか、彼の言葉が本音なのか、そしてわたしが彼をどう思っているのか──。
考えてみても、答えは出ない。
……今は、まだ。




