彼は一言も間違えずに、人生を終わらせた
彼の発言は、すべて「問題ありません」と判定された。
だからこそ、誰も何も言えなくなった。
――――
その発言は、問題ありません
「これ、書いて大丈夫かな……」
スマホの画面を見せると、田中はコーヒーをすすりながら首を傾げた。
「何、愚痴?」
「昨日の会議、無駄だったって書きたいんだけど」
「普通にやばくない?」
「でしょ」
「チェック出してもらえば?」
「チェック?」
「知らないの、ポスト・チェッカー。みんな使ってるよ」
田中は自分のスマホを差し出してきた。アプリのアイコンは青くて、丸くて、優しい形をしていた。
「文章入れるとさ、炎上しない言い回しに直してくれるの。俺ももう自分じゃ書かない」
「自分じゃ書かない?」
「楽だよ。間違えないし」
その場でインストールした。起動して、さっきの文章を貼り付けた。
『昨日の会議、マジで無駄だった。ああいうの時間の無駄だと思う』
送信ボタンを押す。青い丸がくるくる回る。
『その発言は、問題ありません。以下のように調整することで、より多くの共感を得られる可能性があります』
下に別の文章が出た。
『昨日の会議、学びも多かったけれど、構成を工夫すればもっと有意義になりそうだなと感じました』
「……全然違うじゃん」
「そう。でも炎上しない」
田中は笑った。
提案された文章をそのままコピーして、投稿した。
五分後、いいねが十二ついた。知らない人から「わかります」というリプライが来た。会議に出ていた同期からも「たしかに構成大事だよね」と返信が来た。
スマホを置いて、コーヒーを飲んだ。
少しだけ、指先が冷たかった。
次の日、後輩に資料の修正を頼むときに使った。
『悪いけど明日までに直しといて』
『その発言は、問題ありません。以下のように調整することで、より良い関係構築が期待できます』
『お忙しいところ恐縮ですが、もし可能であれば明日までにご確認いただけると助かります』
送った。後輩からすぐに返信が来た。
『もちろんです!すぐ対応します!』
絵文字まで付いていた。
次は、友達のインスタにコメントするとき。
『おめでとう〜!』と書こうとして、一応、チェッカーに通した。
『その発言は、問題ありません。以下のように調整することで、より温かみが伝わる可能性があります』
『わあ、おめでとう!すごく嬉しい知らせだね、今度ゆっくりお祝いさせてね』
そっちを送った。
ハートマークが三つ返ってきた。
一ヶ月が経った頃、ほとんどの文章をチェッカーに通すようになっていた。
炎上しない。怒られない。嫌われない。
みんな優しく返してくれる。
スマホを見る時間が、少し増えた。
昼休みにコンビニで買ったサンドイッチを食べた。
味が、よく分からなかった。
金曜の夜、居酒屋で田中と飲んでいた。
「最近さ、どう?」
「え?」
「仕事」
「ああ、普通」
「普通って?」
「普通は、普通だよ」
田中は枝豆を口に放り込んで、しばらく噛んでから言った。
「お前さ、最近ちょっと変わった?」
「変わった?」
「なんか、喋り方」
「そう?」
「会話、一回止まるじゃん。考えてから話すみたいな」
「気のせいでしょ」
「ならいいけど」
トイレに立った。個室に入って、スマホを開いた。
メモアプリに『気のせいでしょ』と打って、チェッカーに通してみた。
『その発言は、問題ありません』
画面を閉じた。
ある日、実家に電話した。母が出た。
「元気にしてる?」
「うん」
「最近どう、仕事は」
「……」
「どうしたの?」
「……普通」
「普通って、どういうこと」
「普通は、普通でしょ」
母が少し黙った。
「あんた、昔はもっと、いろいろ話してくれたじゃない」
「今もしてるよ」
「してないよ」
電話を切った後、ソファに座って天井を見た。
母に返した言葉を、頭の中でもう一度再生した。
『今もしてるよ』
それは、自分の言葉だっただろうか。
わからなかった。
三ヶ月目の月曜日、会社のチャットで、同期の山本が突然こう書いた。
『みんなさ、最近の投稿、全部AIでチェックしてない?』
数秒、全員が黙った。
『俺してる』と別の同期が書いた。
『私も』
『うちの部署ほぼ全員してる』
『だよね』と山本は続けた。『それってさ、もう自分の意見じゃなくない?』
自分も何か書こうとした。書きかけて、チェッカーを開いた。
『それは考えすぎじゃない?』
送信。
『その発言は、問題ありません。以下のように調整することで、より建設的な議論になります』
『たしかに一理あるね、ただ、便利なツールを使うこと自体は否定されるものじゃないと思うよ』
コピーして、貼り付けて、送信した。
山本から、すぐにリプライが来た。
『それって、本当にお前の意見?』
手が、止まった。
画面を見つめた。カーソルが点滅している。
『もちろん』と打った。チェッカーに通さずに、そのまま送った。
それから、もう一度、同じ文字を自分の頭の中で繰り返した。
もちろん。
もちろん、俺の意見だ。
もちろん。
何度繰り返しても、その言葉が、自分の口から出た感じがしなかった。
その夜、アプリを閉じて、メモを開いた。
何か、書いてみようと思った。
カーソルが点滅している。
指が動かなかった。
『今日は』と打って、消した。
『最近』と打って、消した。
『なんか』と打って、消した。
十五分座っていた。
何も、出てこなかった。
四ヶ月目の朝、通勤電車の中で、アプリが開かなかった。
何度タップしても、青い丸がくるくる回って、止まった。
『サーバーメンテナンスのため、本日午前中はご利用いただけません』
電車が揺れた。
会社に着くと、フロアが少しざわついていた。
「チェッカー落ちてるらしい」
「みんなそうだって」
「困るな、今日役員会議の議事録投稿する日なのに」
自分の席に座った。
今日は、チームの全体チャットに、先月のプロジェクト振り返りを投稿することになっていた。全員が読む。役員も読む。
パソコンを開いた。真っ白な画面。
『お疲れ様です』
ここまでは書けた。
その先が、出てこなかった。
カーソルが、点滅している。
後ろを通った先輩が、画面を覗き込んだ。
「まだ書けてないの?」
「あ、はい」
「簡単でいいよ、いつもみたいに」
いつもみたいに。
指を、キーボードに置いた。
置いただけで、動かなかった。
「どうした?」
同期の山本が、近くに来た。
「……何て、書けばいい?」
「え?」
「何て、書けばいいかな」
山本は少し笑った。
「思ってること書けばいいだろ」
思ってること。
画面を見た。
真っ白だった。
指先が、冷たかった。
口を、少しだけ開いた。
「……思ってることが、分からない」
山本が、こちらを見た。
先輩も、こちらを見た。
フロアの端で、誰かの電話が鳴っていた。
カーソルが、点滅していた。




