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夫の初恋相手を屋敷に招いたら、彼女が「その恋文、私じゃありません」と言い出しました

作者: カルラ
掲載日:2026/04/28

「リディア、君を妻として愛するつもりはない」


初夜の寝室で、夫となったカイル・グランヴェル辺境伯は、蝋燭の火よりも冷たい声でそう告げた。


銀灰色の髪。鋭い青い瞳。戦場では氷の辺境伯と呼ばれる男。


政略結婚とはいえ、今日から夫婦になる相手である。多少のぎこちなさは覚悟していた。愛など、これからゆっくり育てればいいと思っていた。


けれど、初夜の寝室で最初に与えられた言葉がそれだとは、さすがのリディアも予想していなかった。


普通の花嫁なら泣いただろう。


怒ったかもしれない。


あるいは、どうか愛してくださいと縋ったかもしれない。


けれどリディア・エルフォードは、ほんの少しだけ首を傾げたあと、静かに微笑んだ。


「承知いたしました。では、契約書を作りましょう」


「……契約書?」


カイルの眉間に皺が寄る。


「はい。一年後の円満離婚に向けて、財産分与、社交上の体面、使用人たちへの説明、領地運営の引き継ぎについて、今夜のうちに確認しておくべきかと」


「離婚?」


「妻として愛するつもりがないのでしょう? でしたら、婚姻を継続する意味は体面以外にございません。グランヴェル辺境伯家とエルフォード伯爵家の政治的な結びつきは、一年あれば外聞を損なわずに解消できます」


リディアは寝台の横に置かれていた小卓へ歩み寄り、羽根ペンを手に取った。


「まず確認いたします。白い結婚でよろしいのですね?」


「……ああ」


「では、夫婦としての同衾はなし。互いの私生活には干渉しない。ただし社交上は夫婦として振る舞う。期間は一年。その間、私は辺境伯夫人として必要な務めを果たします。あなたは私の生活と名誉を保証する」


さらさらと紙に書き付けていくリディアを、カイルは呆然と見ていた。


「君は、泣かないのか」


「泣いてほしいのですか?」


「いや、そういう意味では……」


「でしたら問題ありません」


リディアは顔を上げ、にこりと笑った。


「私は、私を愛さないと決めた方のために泣くほど、暇ではありませんので」


カイルが息を呑む。


その夜、夫婦の寝室で交わされたのは甘い口づけではなく、一年後の離婚に向けた実務的な取り決めだった。


そしてカイルはまだ知らなかった。


自分がこの一年で、誰よりも彼女を手放したくなくなることを。



グランヴェル辺境伯領は、王国の北端に位置する広大な土地である。


魔獣の森に接し、冬は長く、土は痩せている。だが鉄鉱石と薬草に恵まれ、正しく管理すれば王都の貴族たちが思うほど貧しい土地ではない。


リディアは嫁いで三日目に帳簿を見せてもらった。


そして五日目には、執事長と家令、倉庫番、商人組合の代表を呼び出していた。


「この冬用の毛布の購入費ですが、相場の三倍になっていますね」


穏やかな声でリディアが言うと、家令の男がぎくりと肩を揺らした。


「北部は輸送費がかかりますので」


「ええ、もちろん存じております。ですが、同じ商会から伯爵家が仕入れた際はこの半額以下でした。輸送費を加えても不自然です」


「そ、それは……」


「こちらの薬草売却益も、収穫量に対して少なすぎます。中抜きされていますね?」


会議室の空気が凍りついた。


リディアはにこやかなまま、持参した書類を机に置く。


「三日差し上げます。その間に正直に申告した者は、横領額の返済を条件に解雇だけで済ませます。黙っていた者は、王都の法務官へ突き出します」


「奥様、いきなりそのような……!」


「いきなりではありません。三日も猶予を差し上げます」


リディアはそこで初めて微笑みを消した。


「私はグランヴェル辺境伯夫人です。この屋敷と領民に損害を与える者を、身内とは呼びません」


それからの半月、屋敷は嵐のようだった。


不正を働いていた家令は解雇され、共犯の商人たちは取引停止。倉庫の在庫は洗い直され、冬支度の物資は適正価格で再手配された。


リディアは休む間もなく働いた。


孤児院の暖炉を修理し、診療所に薬草を届け、兵士の家族に配給される麦の量を見直した。使用人の給金が二か月遅れていると知ると、真っ先にそれを支払わせた。


最初、屋敷の者たちは新しい奥方を遠巻きに見ていた。


王都から来た貴族令嬢など、どうせすぐに音を上げるだろう。


氷の辺境伯に愛されない妻など、名ばかりの飾りだろう。


そう思っていた。


だが一か月後、リディアが廊下を歩くと、使用人たちは自然に頭を下げるようになった。


「奥様、孤児院の子どもたちからお手紙が届いております」


「あら、ありがとう。あとで拝見しますね」


「奥様、東の村の井戸の件ですが、職人が手配できました」


「では予算をこちらに。冬が来る前に終わらせましょう」


「奥様、厨房の者が新しい保存食の試作を見ていただきたいと」


「もちろん。お昼のあとに伺います」


リディアは忙しかった。


悲しむ暇など、本当になかった。


一方、カイルはそんな妻を遠くから見ていた。


愛さないと告げた女。


泣きもせず、縋りもせず、怒りもせず、ただ淡々と離婚の準備を始めた女。


それなのに、彼女は辺境伯夫人として完璧に振る舞っている。


朝は領地の報告書を読み、昼は使用人や商人と面会し、夕方には村人からの陳情を聞き、夜は王都の社交界に送る手紙を書いている。


カイルの生活に干渉することはない。


食卓では礼儀正しく会話をするが、必要以上に近づかない。


彼が遅く帰っても、責めない。


彼が無言でも、媚びない。


ただ時折、領民のために必要な決裁を求めに来る。


「北砦の兵士たちの外套を新調したいのですが」


「好きにしろ」


「ありがとうございます。ではこちらに署名を」


「……君は、俺に何か言いたいことはないのか」


「ございます」


カイルは思わず顔を上げた。


「北砦の水車が古くなっています。修理費用の承認をお願いします」


「そうではなく」


「では、何についてでしょう?」


リディアは本当にわからない、という顔をしていた。


カイルは言葉に詰まる。


なぜだ。


愛さないと言ったのは自分だ。


白い結婚を望んだのも自分だ。


なのに、彼女が自分を求めないことが、なぜこんなにも胸をざわつかせるのか。


「……いや、何でもない」


「そうですか。では署名を」


差し出された書類に、カイルは無言で署名した。



カイルには、忘れられない女性がいた。


名をセレナ・ロクスウェルという。


王都の子爵令嬢で、幼い頃、カイルが王立学院に通っていた時の同級生だった。


彼女は優しく、よく笑い、孤立しがちだったカイルに手を差し伸べてくれた。


――いつか、あなたの隣に立てたら嬉しい。


そう書かれた恋文を、カイルは今でも大切にしまっている。


だが卒業直前、セレナは突然、王太子の側近候補だった男と婚約した。


カイルには何の説明もなかった。


ただ一通の手紙だけが届いた。


――辺境に縛られる人生など、私には耐えられません。あなたとのことは、若気の至りでした。


カイルはその日、何かを失った。


恋をする心を。


誰かを信じる弱さを。


だからリディアとの結婚が決まった時も、愛するつもりなどなかった。


王都の令嬢は皆同じだ。


きらびやかなものを好み、辺境を嫌い、都合が悪くなれば去っていく。


そう思っていた。


思っていた、はずだった。


「旦那様」


ある日、リディアが執務室を訪れた。


「来週、ロクスウェル子爵夫人が当家を訪問されます」


カイルの手からペンが落ちた。


「……誰だと?」


「セレナ・ロクスウェル様です。現在は婚約を解消され、お父上の子爵家に戻っていらっしゃいます」


「なぜ、君がその名を」


「旦那様の初恋の方と伺いましたので」


カイルは立ち上がった。


「誰から聞いた」


「屋敷の噂です。隠すほどのことでもございませんでしょう? 契約上、私たちは互いの私生活に干渉しないことになっています」


リディアは淡々と言った。


「一年後、私たちは離婚します。その後、旦那様がセレナ様と結ばれたいのであれば、今のうちに誤解や障害を取り除いておくべきかと思いまして」


「余計なことをするな!」


初めて荒げられた声に、リディアは少しだけ目を見開いた。


だが、すぐにいつもの微笑みに戻る。


「申し訳ございません。ですが招待状はすでに受諾されています。お会いになるかどうかは、旦那様のご自由です」


「君は……君は平気なのか」


「何がでしょう」


「夫が初恋の女と会うのだぞ」


「契約上、問題ありません」


「契約、契約と……!」


カイルは苛立ちを抑えきれず、机を叩いた。


「君には感情がないのか」


その瞬間、リディアの表情がわずかに変わった。


笑みは消えなかった。


けれど、その瞳だけが、静かに冷えた。


「ございますよ」


彼女は穏やかに言った。


「ございますから、初夜に傷つきました。ございますから、泣かないよう努力しました。ございますから、あなたの前でだけは期待しないと決めました」


「リディア……」


「感情があるからこそ、私は私を守っております」


リディアは一礼する。


「セレナ様の訪問日は来週の水曜です。ご判断は旦那様にお任せします」


そう言って彼女は部屋を出ていった。


カイルはしばらく、その背中を追うこともできなかった。



水曜日。


セレナ・ロクスウェルは、春風のような女性だった。


淡い金髪に、柔らかな琥珀色の瞳。昔と同じ優しい笑みを浮かべている。


応接室で彼女を迎えたのは、リディアとカイルだった。


「お久しぶりです、カイル様」


「……ああ」


カイルの声は硬い。


セレナはちらりとリディアを見た。


「奥様、このたびはお招きいただきありがとうございます」


「こちらこそ、急なお誘いに応じていただき感謝いたします」


リディアが紅茶を勧める。


しばらくは当たり障りのない会話が続いた。


だがカイルの沈黙に耐えかねたのか、やがてセレナが小さく息を吐いた。


「カイル様。私はずっと、あなたに謝らなければならないと思っていました」


「謝る?」


「はい。ですが、その前に確認させてください。あなたは、私があなたを裏切ったと思っていらっしゃいますね?」


カイルは唇を引き結んだ。


セレナは悲しげに微笑む。


「やはり。では、これをご覧ください」


彼女が取り出したのは、古い手紙だった。


「これは、私が卒業前にあなたへ送った手紙の控えです」


カイルは受け取り、目を通す。


そこにはこう書かれていた。


――突然の婚約で混乱しています。ですが、これは私の意思ではありません。どうか一度だけ会ってください。お話ししたいことがあります。


カイルの顔から血の気が引いた。


「こんな手紙、俺は受け取っていない」


「でしょうね。私も、あなたからの返事を受け取っていません」


「待て。なら、あの手紙は」


カイルは執務室から古い箱を持ってこさせた。


中には、彼が大切に、そして憎しみとともに保管していた手紙がある。


――辺境に縛られる人生など、私には耐えられません。


セレナはそれを見た瞬間、顔を歪めた。


「……私の筆跡に似せていますが、違います」


「そんな」


「カイル様。私はあなたを愛していたことはありません」


はっきりと言われ、カイルが硬直する。


リディアも思わずセレナを見た。


セレナは続ける。


「正確には、恋ではありませんでした。あなたは大切な友人でした。孤独なあなたを放っておけなかった。ですが恋文など送っていません。隣に立ちたいと書いた覚えもありません」


「では、あの恋文も……」


「偽造でしょう」


カイルは椅子に沈み込んだ。


彼が何年も抱えてきた恋は、恋ですらなかった。


裏切られたと思っていた記憶も、誰かに作られたものだった。


「誰が、何のために」


リディアが静かに問う。


セレナは指先を震わせながら答えた。


「王太子殿下です」


応接室の空気が凍った。


「当時、王太子殿下は北部の軍事力を警戒していました。グランヴェル辺境伯家は王家に忠実ですが、強すぎる。だから、次期辺境伯であるカイル様を王都から精神的に孤立させる必要があったのです」


「セレナ様の婚約者は、王太子派の方でしたね」


リディアが言うと、セレナは頷いた。


「はい。私の父は借金を抱えていました。王太子派の貴族に援助を受ける代わりに、私は婚約させられました。そして、カイル様と距離を置くよう命じられたのです」


「手紙は?」


「私が出したものは握り潰されました。カイル様に届いたものは、おそらく王太子派が用意した偽物です」


カイルは拳を握った。


「俺は……そんなもののために」


セレナは彼を見つめる。


「カイル様。あなたが傷ついたことは事実です。ですが、その傷で奥様を傷つけたことまで、誰かのせいにはできません」


カイルは弾かれたようにリディアを見た。


リディアは静かに紅茶のカップを置く。


「セレナ様。証拠はありますか」


「あります。父が亡くなる前、私に残した書類です。王太子派からの借用証、密書、私の婚約に関する取り決め。すべて保管しています」


「拝見しても?」


「そのために参りました」


リディアはゆっくりと頷いた。


「では、王太子殿下には舞踏会でご説明いただきましょう」


「舞踏会?」


カイルが顔を上げる。


「三週間後、王宮で春の叙勲舞踏会がございます。北部防衛の功績を称えるため、旦那様も招待されていますね」


「ああ」


「王太子殿下も出席されます。貴族たちの前で証拠を示せば、握り潰されにくいでしょう」


「危険だ」


カイルは即座に言った。


「王太子を相手にするんだぞ。君を巻き込めない」


リディアは瞬きをした。


「巻き込んだのは、旦那様ではありません。私は最初から当事者です」


「しかし」


「私はあなたの妻です。少なくとも、あと九か月は」


その言葉に、カイルの胸が痛んだ。


あと九か月。


彼女は本当に、終わりを数えている。



その夜、カイルはリディアの私室を訪ねた。


「少し、話せるか」


「はい」


リディアは書類から顔を上げた。


机の上には、領地の予算書と王都の貴族名簿、そして離婚後に設立する予定らしい商会の計画書が広げられていた。


カイルはその一枚に目を留め、息を詰まらせる。


「本当に、出ていく準備をしているんだな」


「はい。契約ですので」


「……リディア」


カイルは深く頭を下げた。


「すまなかった」


リディアの手が止まる。


「君を見ようとしなかった。君の優しさも、強さも、傷ついた顔さえも。俺は夫である前に、人として君に最低だった」


沈黙が落ちる。


暖炉の薪が小さく爆ぜた。


「謝罪は受け取ります」


やがてリディアは言った。


「ですが、傷ついた時間が戻るわけではありません」


「ああ」


「私は、あなたの過去を責めるつもりはありません。騙されていたことも、傷ついていたことも、お気の毒だと思います」


リディアはまっすぐにカイルを見た。


「けれど、あなたが私に『愛さない』と告げた夜、私は何もしていませんでした。あなたを裏切っても、傷つけてもいませんでした」


「……わかっている」


「わかってくださったなら結構です」


あまりにも静かな拒絶だった。


怒鳴られる方が、泣かれる方が、まだましだった。


「俺に、償わせてほしい」


「償いは領民のためになさってください。北部が安定すれば、私も夫人としての務めを果たした甲斐があります」


「君自身には?」


「私は自分で幸せになります」


カイルは何も言えなかった。


彼女は強い。


その強さに、自分はどれほど甘えていたのだろう。



三週間後、王宮の舞踏会は絢爛だった。


大理石の床にシャンデリアの光が反射し、貴族たちの宝石が星のように煌めいている。


リディアは深い瑠璃色のドレスをまとっていた。


北部の夜空を思わせる色だ。


カイルはその姿を見た瞬間、息を忘れた。


「似合わないでしょうか」


「いや」


彼は少しだけ視線を逸らした。


「とても、美しい」


リディアは意外そうに目を瞬いた。


「ありがとうございます」


それだけだった。


以前なら、カイルもそれでよかった。


だが今は、胸の奥に物足りなさが残る。


もっと笑ってほしい。


自分の言葉で、嬉しそうにしてほしい。


けれどその資格を、自分はまだ持っていない。


舞踏会の中ほど、王太子エリオットが近づいてきた。


金髪碧眼の、絵に描いたような王子だ。だがその笑みは、どこか人を見下している。


「グランヴェル辺境伯。北部防衛、ご苦労だった」


「恐れ入ります」


「そちらが噂の奥方か。王都では、ずいぶん有能な夫人だと評判だ」


王太子の視線がリディアを値踏みするように動く。


「しかし残念だな。夫に愛されない結婚生活は、さぞ寂しかろう」


周囲の貴族たちがざわめいた。


カイルの表情が険しくなる。


だがリディアは、優雅に微笑んだ。


「ご心配ありがとうございます、殿下」


「強がらずともよい。女の幸せは、夫に愛されることだろう?」


「いいえ」


リディアの声は柔らかく、しかしよく通った。


「私は、愛されることより、尊ばれることを選びました」


ざわめきが広がる。


王太子の眉がぴくりと動いた。


「面白いことを言う」


「殿下ほどではございません。偽の恋文で一人の青年を傷つけ、子爵令嬢を脅し、辺境伯家を孤立させようとなさったお方の言葉は、さぞ面白いでしょうから」


一瞬、音楽すら遠のいたように感じた。


「……何を言っている?」


「証拠がございます」


リディアが合図すると、セレナが進み出た。


彼女は震えていたが、顔を上げていた。


「王太子殿下。ロクスウェル子爵家へ送られた密書、借用証、婚約に関する契約書。すべてこちらにございます」


「下がれ、セレナ。お前は自分が何をしているかわかっているのか」


「はい。ようやく、わかりました」


セレナははっきりと言った。


「私はもう、誰かの道具にはなりません」


リディアはさらに一通の手紙を掲げる。


「こちらは、カイル様に送られた偽の手紙と、王太子派の書記官が作成した草稿です。筆跡鑑定人にも確認済みです」


「馬鹿な。そんなもの、捏造だ」


「捏造がお得意なのは、殿下の方では?」


王太子の顔が赤くなる。


「無礼だぞ、辺境伯夫人!」


「無礼を承知で申し上げます。北部は王国の盾です。その盾を、私怨と権力欲で内側から腐らせようとした罪は、王家への忠誠ではございません。反逆に等しい行いです」


「女ごときが政治を語るな!」


その言葉に、周囲の貴族たちの空気が変わった。


特に夫人たちの目が冷たくなる。


リディアは一歩も退かなかった。


「女ごときに暴かれる程度の陰謀を、政治と呼ぶのですね」


誰かが小さく吹き出した。


王太子は歯ぎしりする。


「グランヴェル! 貴様、妻の躾もできんのか!」


カイルがリディアの前に出た。


「私の妻は、私よりよほど正しく、強い方です」


彼は腰の剣に手を添え、王太子を睨んだ。


「その妻を侮辱することは、グランヴェル辺境伯家への侮辱と受け取ります」


王太子が言葉を失った。


そこへ、低い声が響く。


「そこまでだ、エリオット」


国王だった。


王妃と宰相を伴い、広間の奥から歩いてくる。


王太子の顔色が変わった。


「父上、これは罠です!」


「黙れ」


国王は疲れたように息を吐いた。


「近頃、北部への不正な監査命令や、王太子派による軍需物資の横流しの報告が上がっていた。まさかとは思っていたが……証拠が揃ったようだな」


「違います、私は国のために」


「国のために、国境を守る家を害したか」


国王の声は冷たかった。


「エリオット。お前の王位継承権を一時凍結する。詳細は後日、貴族院で審議する」


広間がどよめいた。


王太子――いや、王太子だった男は、その場に膝をついた。


ざまぁ、という言葉がリディアの頭をよぎったわけではない。


ただ、胸の奥で何かが静かにほどけた。


セレナが隣で小さく泣いている。


リディアはそっと彼女の手を握った。


「終わりましたね」


「はい……ありがとうございます、奥様」


「私だけの力ではありません。あなたが立ち上がったからです」


セレナは涙の中で笑った。


「女同士を争わせて得をするのは、いつだって椅子に座って笑っている男たちですものね」


「ええ。ですから、椅子から落ちていただきました」


二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。



王太子派の不正が暴かれたことで、北部への妨害は一掃された。


カイルの名誉は回復し、グランヴェル辺境伯家の立場は以前より強くなった。


リディアはその後始末にも奔走した。


王都の商会と新たな契約を結び、北部の鉄と薬草の販路を整え、冬の備蓄を増やした。


カイルも変わった。


以前のように執務室に閉じこもることは少なくなり、リディアの意見を聞くようになった。


「この契約、君はどう思う」


「悪くありませんが、輸送費の負担割合を見直すべきです」


「なるほど。では交渉に同席してくれるか」


「夫人として必要であれば」


リディアの返事はいつも丁寧だった。


だが、距離はあった。


カイルはそれを責められない。


ある夕暮れ、彼は庭園でリディアを見つけた。


彼女は白い封筒を手にしていた。


「それは?」


「離婚届です」


風が止まった気がした。


「……そうか」


「一年にはまだ少し早いですが、王太子派の件も落ち着きました。両家の体面も保たれています。今なら円満に解消できます」


リディアは封筒を差し出した。


「署名をお願いします」


カイルは受け取れなかった。


「リディア。俺は君を愛している」


初めて、口にした。


言葉にした瞬間、それがどれほど遅すぎたかを思い知った。


リディアは目を伏せる。


「ありがとうございます」


「もう一度、やり直させてほしい」


「カイル様」


彼女が夫を名ではなく、家名でもなく、初めて静かに呼んだ。


「これは、あの夜の私を救うために必要な一枚です」


カイルの胸が締めつけられる。


「あの夜、私は花嫁でした。怖くて、不安で、それでも少しだけ期待していました。あなたと夫婦になれるかもしれないと」


「……」


「その私に、あなたは『愛さない』と告げました。私は泣かなかったのではありません。泣けないように、自分を固めただけです」


リディアは封筒を彼の手に押し当てた。


「この離婚届は、私が私の尊厳を取り戻すために必要なのです」


カイルは長く目を閉じた。


ここで縋れば、また彼女を傷つける。


愛しているなら、彼女の自由を奪ってはならない。


「……わかった」


彼は封筒を受け取った。


「君の自由を、俺が奪う資格はない」


リディアの瞳がわずかに揺れた。


「ありがとうございます」


「だが、ひとつだけ許してほしい」


「何でしょう」


「離婚後、君に求婚することを」


リディアは驚いたように彼を見た。


「それは……」


「夫としてではなく、グランヴェル辺境伯としてでもなく。ただのカイルとして、君に会いに行く。君が嫌なら追わない。迷惑なら二度と現れない。だが、俺は今度こそ君を見て、君に選ばれたい」


リディアはしばらく黙っていた。


夕陽が彼女の頬を淡く染める。


「……お友達からなら」


やがて彼女は小さく言った。


「考えます」


カイルは、戦場で勝利した時よりも深く息を吐いた。


「ありがとう」



半年後。


リディア・エルフォードは、王都と北部を結ぶ商会の代表になっていた。


彼女の商会は北部の薬草や鉄製品を王都へ運び、代わりに医療品や書籍、冬用の布を北部へ届ける。


離婚した元辺境伯夫人が商会を立ち上げたと、最初は好奇の目も向けられた。


しかしリディアは気にしなかった。


彼女には仕事があり、仲間がいて、自分の足で立つ未来があった。


ある日、商会の応接室に花束が届いた。


北部に咲く、淡い青の雪解け花。


添えられたカードには、短くこう書かれていた。


――明日の午後、お茶にお誘いしてもよろしいでしょうか。カイル。


リディアは少しだけ笑った。


翌日、カイルは時間ぴったりに現れた。


以前のような威圧感はない。緊張した青年のように、花束を持って立っている。


「リディア嬢」


「はい、カイル様」


「俺と、もう一度出会ってくれませんか」


真剣な声だった。


リディアは紅茶を注ぎながら答える。


「ではまず、お友達から」


「ああ」


「友人として、最初に申し上げます」


「何だろう」


「花束は嬉しいですが、商談中に届くと従業員が騒ぎます。次からは閉店後にしてください」


「……わかった。気をつける」


あまりに真面目に頷くものだから、リディアはつい笑ってしまった。


その笑顔を見て、カイルは泣きそうな顔をした。


「どうしました?」


「いや」


彼は首を振る。


「君が笑ってくれたから」


リディアは少し困ったように目を逸らした。


「大げさです」


「俺にとっては、大げさではない」


その日から、カイルは毎週のように商会を訪れた。


時には北部の新しい販路の相談をし、時にはただ茶を飲み、時にはリディアの従業員たちに混じって荷運びを手伝った。


辺境伯が荷物を運ぶ姿に、最初は皆が仰天した。


だがカイルは真面目だった。


リディアが困ることはしない。


約束を破らない。


言葉だけでなく、行動で示す。


春が過ぎ、夏が来て、秋が深まった。


リディアの心の中にあった硬い氷は、少しずつ溶けていった。


それでも彼女は急がなかった。


カイルも急かさなかった。


ある冬の初め、二人は北部の丘に立っていた。


リディアの商会が建てた新しい倉庫の完成式だった。


遠くには、かつて彼女が夫人として整えた村々が見える。屋根から煙が上がり、子どもたちの笑い声が風に乗って届いていた。


「リディア」


式のあと、カイルが彼女を呼んだ。


「はい」


「一年、経った」


「そうですね」


「君に、もう一度求婚したい」


カイルは片膝をついた。


差し出されたのは、豪奢な宝石ではなかった。


小さな指輪。


北部の鉄に、雪解け花を模した青い石が嵌め込まれている。


「今度は政略ではなく、義務でもなく、過去の傷の代わりでもない。俺自身の意思で、君を妻に望む」


リディアは指輪を見つめた。


初夜の冷たい声を思い出す。


その夜、泣かなかった自分を思い出す。


離婚届を差し出した夕暮れを思い出す。


そしてこの一年、彼が不器用に、けれど誠実に積み重ねてきた時間を思い出す。


「私は、もう愛されない妻にはなりません」


「ああ」


「私の仕事を尊重してください」


「もちろん」


「意見がある時は、黙り込まず話し合ってください」


「約束する」


「私が怒った時に、逃げないでください」


「逃げない」


「それから」


リディアは少しだけ笑った。


「今度の初夜に、契約書の話はしたくありません」


カイルは一瞬固まり、それから耳まで赤くなった。


「……努力する」


「そこは約束してください」


「約束する」


リディアは手を差し出した。


「では、もう一度。よろしくお願いいたします、カイル様」


カイルは震える手で、彼女の指に指輪を嵌めた。


「ありがとう、リディア」


彼はその手に、祈るように口づけた。



翌春、グランヴェル辺境伯家で二度目の結婚式が行われた。


一度目よりも小さな式だった。


けれど、そこには心から祝福する人々がいた。


セレナも招かれていた。


彼女は王都で女性たちのための法律相談所を開き、今ではリディアの大切な友人である。


「綺麗ですわ、リディア」


「ありがとうございます。セレナ様も、とてもお元気そうで安心しました」


「ええ。私も私の人生を取り戻しましたから」


二人は笑い合った。


式のあと、カイルはリディアの手を取り、皆の前で深く頭を下げた。


「私は一度、この方を傷つけました。夫として未熟で、人として愚かでした。それでも彼女は、自分の足で立ち、私にもう一度機会をくれました」


リディアは少し驚いてカイルを見た。


彼は真剣な顔で続ける。


「これからは、彼女を愛するだけでなく、尊び、共に歩むことを誓います」


拍手が起こった。


リディアは小さく囁く。


「人前でそのようなことを言うなんて、ずるいです」


「嫌だったか?」


「いいえ」


彼女は微笑んだ。


「少し、嬉しかったです」


カイルの表情が柔らかくほどける。


その夜。


二人は新しい寝室にいた。


一年前と同じように、蝋燭が揺れている。


けれど、空気はまるで違っていた。


「リディア」


「はい」


「君を妻として、心から愛している」


リディアはしばらく彼を見つめ、それから穏やかに笑った。


「私も、あなたとなら、同じ未来を選んでもいいと思っています」


「まだ、愛しているとは言ってくれないのか」


「焦らないでくださいませ」


彼女は少し意地悪く言った。


「白い結婚から始まったのですもの。色づくまでに時間がかかるのは当然です」


カイルは苦笑し、彼女の手を取った。


「なら、一生かけて待つ」


「それは少し長すぎます」


「では?」


リディアは彼の胸にそっと額を預けた。


「今夜は、待たなくてもよろしいです」


カイルが息を呑む。


リディアは目を閉じ、小さく囁いた。


「愛しています、カイル」


その言葉に、彼は泣きそうなほど優しく彼女を抱きしめた。


かつて白い結婚から始まった二人は、遠回りの末に、ようやく同じ色の未来を選んだ。


そしてその未来は、北部の春のように、ゆっくりと、けれど確かに、あたたかく花開いていくのだった。


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