第9話
――こんなところで寝そべったまま終わるわけにはいかない。
もし放っておいたら、シドファが一人で戦い続けることになる。危ない目にだって遭うかもしれない。
……そんなつもりで、ここに来たんじゃないでしょ、私。
歯を食いしばり、私はよろよろと体を起こす。しがみつくように杖を掴み、膝を震わせながら立ち上がった。関節が軋んで腰が抜けそうになるが……なんとか踏ん張った。
「ミ、ミレミさん……?」
振り返ったシドファの目が、ぱちくりと大きく瞬く。
「私だって……あなたを一人で行かせるほど、無責任じゃないのよ! さっきは泣き言を言ったけど、ここで諦めたら、それこそ寝覚めが悪いわ」
意地とプライドだけで、ぶっきらぼうに言い放つ。シドファは小さく笑ってうなずいた。――気持ちが通じ合った気がする。
でも、現実は甘くない。あの頃と違い、想いはあっても身体はまったくついてこない。腕も脚も鉛のように重く、まぶたは半分閉じかけている。
「……何か、何か手はないの……?」
この状況を打破するために、痛みも苦しみも感じずに済む……そんな都合のいい手が、何か……!
――そう、例えば……酒。酒さえあれば――!
私はハッとあることを思い出し、急いで腰にかけた革袋をガサゴソと探る。
「――あっ!! ……いや、ダメだ。さっき、お酒はあの子に全部捨てられたんだった……」
肩を落として、ガクリと膝が崩れる。最後の希望さえ打ち砕かれたのだった。
しかし、ふと革袋の底に何か硬いものが触れた。
「……ん? この感触……まさか!」
おそるおそる引っ張り出すと、そこには――マスターから貰ったお土産の酒瓶が、燦然と輝いていた。
「や、やった!! これ、マスターがお土産にくれたやつ! 神様、マスター様、本当にありがとう!! ……いける! これでいけるわ……! アルコールさえあれば、こっちのもんよ!」
手にした瓶の栓を抜いた瞬間、私はもう止まらなかった。荒れ果てた砂漠のオアシスに飛び込むように、息もつかずに飲み続ける。
……ごくっ、ごく、ごく――。
飲み込んだソレが体内に染み渡ると……じわじわと血が沸き立つような感覚が広がった。手足の先まで温かく、まるで熱湯が巡っているかのようだ。
――しかし、次第にその熱が、アルコールのせいではないことに気づく。
「……何よ、これ」
そして、私は何が起きたかを完全に理解した。
沸き立つ力があふれ出していたのだ。熱が、力が、全身を駆け巡る。
杖を握り直すと、瞳の奥に炎が宿った。森の奥で身構えるフォレストリザードを睨みつけつつ、駆け出す。
「これ……水じゃないのッ!! あんのクソマスター、やりやがったわねッ!!」
勢いよく叫ぶと同時に、フォレストリザードに向かって走り出す。
怒りに任せて殴りつけると、今までにない鈍い音とともに、フォレストリザードが大きく後退する。「ギェッ!」と悲鳴を上げ、確かな手応えと共に殴るのをやめない。
「オルrrrァ!! 私が酔っぱらってたからって、ただの水をよこすなんて……あの野郎ッ!! オルrrrァ! ……待って、もしかして、今までずっと渡されてたお土産の中身全部、水だったの? オルrrrァ! ――殺す! 帰ったら、ぶっ殺すッ!!」
フォレストリザードは、私の異様な殺気を感じ取ったのか、本能的に身を縮めた。凶暴な尻尾も今は地面に張り付き、小刻みに震えている。
だけど私は止まらない。怒りのままに殴りつけ、ついに鱗が砕けた。
――酒の恨みは怖い。
◇◇◇
あたりはすっかり夕刻の色に染まり、森の木立は橙色から紫がかった闇へと移ろいつつあった。風には夜の冷たさが混じりはじめている。怒りをエネルギーに変え、もう何時間も殴り続けていた。体力はとうに底をついている。
体の芯から湧き上がる疲労を無視し、フォレストリザードまでの距離を思い切り詰めると、シドファも同じタイミングで横から突っ込んだ。
「――オルァァッ!」
二方向からの同時攻撃。鈍い衝撃音が重なり合い、今までにないほど強烈な打撃がフォレストリザードの脇腹を深々と抉り取った。
「ギェ……ッ」
フォレストリザードが苦しげに声を張りあげる。ズザザッと泥を巻き上げながら、奴の巨体がのけぞるように倒れ込む。赤黒い目がわずかに見開かれ、かすれた声を最後にピクリとも動かなくなった。
――勝った。
「や、やったッスね……!」
「はぁ、はぁ……! 倒した……のね……?」
二人とも声がかすれ、呼吸が荒いまま。どちらからともなく手を伸ばし、軽くハイタッチする。ほとんど放心状態だった。まさか、こんな脳筋戦法で勝ってしまうとは。
「……はぁ……」
私はそこに力尽きるように腰を落とし、思わずうつむく。すると――また強烈な吐き気に襲われる。
「うっ……ごほ! ゴパァ――!」
「ちょっと、大丈夫ッスか!?」
むせ返るような苦しみで涙が滲む。シドファが背中をさすりながら、心配そうに声をかける。
「……きっと、お酒の飲みすぎで、吐き癖ついてるんすよ」
「うぅ、はい……」
弱々しい返事をしたあと、吐ききってようやく少し息が整ってきた。
「これからはお酒……少し控えましょうッス」
「……はい」
まるで今後の課題を突きつけるかのように重たく響く。
……今は、こうして無事にフォレストリザードを討伐できた喜びと安堵を噛みしめたいのに……。
「あと、運動不足ッスよ、ホント……。もうちょい身体、動かしましょうッス」
「…………はい……」
私はそのままシドファの腕を借りて、ゆっくりと森を後にする。その背中に、かつて聖女と呼ばれた面影はなかった。