第55話
軋むような音を立て、レノワールの杖から放たれたどす黒い魔力は、まるで世界の法則そのものに逆らうように空間を塗り替えていく。
宙に描かれた魔法陣は、呪詛のルーンと毒のスパイラルが絡み合う異形の構造。中心には闇の刻印――見る者の精神を侵すような禍々しい紋章が浮かび上がる。
「っわ、ヤバいッス! さっきまで鎖で繋がれてた化け物の二人が……今度は本気でやり合うつもりッス!」
シドファが震える声で指差した先には、神域の火花が今にも弾け飛ばんとしていた。
「どどどどど、どうすれば……って、ああーっ!! アレは……黒魔術の神級魔法、【崩壊呪毒闇付与魔法】じゃないですか……ッ!!」
ラミシーが目を輝かせて解説を始める。
「【崩壊呪毒闇付与魔法】ってのはですね、魂に直接崩壊の刻印を刻み込んで、さらに毒、呪い、暗闇などを付与する究極の黒魔術で――」
「ラミシー! 今はそんなこと言ってる場合じゃないッスよー!」
私も負けじと、神級魔法を発動させてレノワールに対抗した。
「神級魔法……【持続回復全能強化付与魔法】!」
「……って、ああーっ!! ミレミさんのあの魔法、神級魔法【持続回復全能強化付与魔法】ッスよ! いやあ……すっっっごいスねぇ、初めて見たッス! 持続回復付与と全能力強化付与の複合魔法で――」
「あのねえ、あなたたち! 早く逃げなさいって言ってんでしょッ!!」
シドファまでもが目を輝かせ始めた。ここは解説会じゃない!
その時。ソラソラが二人の襟首をガシッと掴み、
「にっげろ~♪」
軽々と持ち上げて走り出す。
その直後……空を裂く雷。地をえぐる波動。氷と炎、死と再生、天と地がひっくり返るような魔法の応酬が、戦場を完全に一変させる。
――それは、世界がひっくり返ったような、しっちゃかめっちゃかな光景だった。
◇◇◇
戦場を包んでいた熱気が、次第に夜風に冷まされていく。
空の端には、わずかに朱の名残があったが、太陽そのものはすでに地平の向こうに沈んでいた。
「――つまり、まだその時には生きていたの。だから勝負は私の勝ちよ」
「否、日没とは太陽の上縁が地平線の下へ沈んだ時点を指す。日照が残っていても、それは既に日の入り後だ」
「じゃあ最初っからそう言いなさいよ!」
「言ったはずだが? 明確に……日没までに、とな」
薄暗くなった空の下、ゲンビウスの討伐は果たされ――残ったのは、勝ちか負けかという些細な言い争いだった。
ふと、しばしの沈黙が流れる。
「……強くなったな」
「いきなりなによ……負け惜しみ?」
眉をひそめる私に、彼は淡々とした口調で続けた。
「いや、なに。――昔、お前に言ったことがあっただろう。『回復魔法において、お前が俺の足元に及ぶことは決してない』と」
「……そんなこと、あったっけ?」
記憶をたどる。頭の奥の、ずいぶん古い日々の残響。
そして――彼と最初に出会った記憶をハッと思い出した。
「あーっ! あんた、そんな昔のこと覚えてるの!?」
「お前のようなタイプは、すぐに死ぬと思ってな。多少は気にかけていた」
「なっ……!」
「あの発言は撤回しよう。お前の回復魔法は、俺の回復魔法を――超えた」
思わぬ形でされた宣言に、頬がわずかに熱を帯びる。
――憎いはずの相手。けれど、かつて背中を追い続けたその人からの言葉は、不覚にも胸の奥をくすぐった。
「ふ、ふーん。あっそ。……ってか、意外と人間臭いとこあるのね、あんたって」
私が照れ隠し気味に言うと、レノワールはわずかに視線を落とし、低く呟いた。
「"人を救うために魔法を使う"――だったか。結果として、その道筋もまた、正しいことが証明されたな」
「……ふん。でもね、あんたの言った通り――必ず誰かを犠牲にしてようやく得られるものだったわよ。何度も、何人も失って、それでやっと……手に入れたの」
「だが、それを作り上げたのはお前の"理想"だろう」
「……なに? さっきから、らしくないこと言うじゃない」
彼はすっかり暗くなった夜空を見上げた。沈みきった太陽の代わりに、月が静かに浮かんでいた。
「この世界は"理"で組まれている。だが、起こることすべてが理の中に収まるとは限らない。正しくない現象が、時に最も世界らしい顔を見せる」
「……意味わかんないんだけど。つまり何が言いたいわけ?」
「お前たちパーティに、新たに歴史に名を刻む可能性を感じた、ということだ」
私は思考を停止して、彼のことをポカーンと見つめていたが、意味が分かるとくすりと吹き出してしまう。
――恐らく、彼なりの激励だったのだろう。
「ふふっ……だったら『ぷいち☆えんじぇるず』って名前、ちゃんと言いなさいよね」
「……善処する」
レノワールは肩をすくめて笑った。
ほんの一瞬だけ。彼の背を追い続けてきた"憧れ"の姿が、等身大の人間としてそこに重なった気がした。
「いかんな。カフェインが切れてきた」
「こういう日はね、飲んで忘れるものよ。はい、負け犬さん」
私は腰のポーチから取り出した酒瓶を差し出す。
彼は少しだけ目を見開いたが、ためらわず受け取った。
「……これもまた、論理的ではない行動か」
ぼそりと呟きながら、一口。
そのまま、かすかに頬を緩めた。
「アルコールも……悪くないものだな」
「でしょ?」
ふっと笑い合う。
その直後……レノワールはゆっくりと地面に背を預けて、ごろりと寝転がった。
「……って、ちょっと。寝たの?」
返事はない。かわりに、すぅすぅと穏やかな寝息。
「まったく……『睡眠は取らなくてもいい』だなんて、誰が言ったのやら」
あきれながらも、私は小さく笑った。
――と、そのとき。
ガサ……ガサガサ……。
草むらの奥で、何かが動く音。
私は反射的に身構え、そっと彼の肩を揺する。
「おーい。起きなさい、大寝坊賢者。モンスターが近寄ってきたわ。さっさと帰るわよ……って、起きなさいってば! ――ねえ、ちょっと!!」
強めに揺する。さらに揺する。が、起きない。
「もう……!」
すると、月明かりに照らされ、ぬっと影が現れる。
丸い目、長い牙――どう見てもモンスターだ。
「キシャアアア!!」
「……あら、こんばんは。月がきれいですね……」
私はレノワールの腕を掴み、ずるずると引きずって走り出すや否や、大声で叫んだ。
「っざけんな、この大クソ賢者ー! 起きろっつってんの! 5徹なんてするからこうなるんでしょ! ……あとで覚えておきなさいよおーッ!!」
夜の静寂を破る悲鳴が、戦場跡にこだました。




