第53話
レノワールは鼻血を伝わせながら、無言で仰向けに寝転がっていた。
しばらくして、
「……っくぅ……」
痛む頬を押さえながら、のろのろと体を起こす。
「今のは効いたんじゃない? 流石の大賢者様でも、老いで体力が落ちてきてるようね」
私はにじり寄りながら、じっとレノワールの目を見据える。
「……ぐ……。あれは単なる物理的接触による感情の表現……つまり、"論破"などではなく……ただの"暴力"だろう……」
「そういうとこよ! いちいち理屈っぽいの、ほんっと腹立つ! どうでもいいでしょ、そんなこと!」
胸の底から、ずっと溜め込んできた言葉が、堰を切ったみたいにあふれ出した。
「あんたは昔からそうだった。いつだって最適解ばかりを追って、人の気持ちなんて見もしない。命にだって勝手に価値を決めつけて、低いと判断したものから切り捨てていった」
「……当然だろう? 後に続く被害の規模まで考えれば、その根本を解決する方が総合的な損失は少なくなる。だからこそ、俺たち朝露の白は、魔王を迅速に討伐することができた」
「ええ、確かに魔王を倒したわ。世界を救った英雄だって、私も思ってる。――でも、その裏で被害にあってた町や人々は? そこに生きる人たちの想いは? ……いつだって二の次だったじゃない!」
私の声が、震える。
人々の命を最優先して戦う『灰燼』と、魔王討伐の効率を最優先して戦う『朝露の白』――かつて魔王討伐隊だった二つのパーティは、理念そのものが真逆だった。
もしあの頃、私たちが手を取り合っていたなら……もっと救えた命があったはずだ。
けれど、"朝露の白"の名を掲げ、その思想を定めたのは、紛れもなくレノワールである。その輝かしい功績の影で、犠牲になった命はあまりにも多く――あまりにも重すぎた。
――積年の不満、そして怒り。ずっと胸の内に渦巻いていたものが噴き出す。
「切り捨てた人々の痛み……今こそ思い知りなさい!」
私の拳が、レノワールの顔面に吸い込まれる。
「――積年の恨みッ!」
「うぐっ……!?」
押し殺すように声を漏らして、彼は大の字で再び倒れ込んだ。私はもう一発、馬乗りになりながら容赦なく拳をめり込ませた。
「待ッ――」
「積年の恨みッ!」
そして、もう一発。
「わ、わかった。わかったから一度、落ち着――」
「積年の恨みッ!」
私は叫びながら、躊躇なくレノワールを殴り続けた。
「おい、待て! まずは話し合――」
「積年の恨みッ!」
「痛ッ、おい……! 止まれ! やめ――」
「積年の恨みッ!」
まるで聞こえていないかのように、容赦なく無視をする。
拳を叩き込むたびに、胸の奥に溜まっていた澱が、少しずつ晴れていく気がする。
「はぁ……はぁ……すっきりした……」
ぼろ雑巾のように地面に倒れ込むレノワールを見下ろしながら、私はふぅ、と息を吐いた。肩を上下させながらも、少しずつ熱を冷ましていく。
地面に仰向けのまま沈んでいた彼は、しばらく黙っていた。
だが――やがて虚空を見つめながら、弱々しくぽつりと口を開いた。
「……ときに、聖女ミレミ」
「――なによ」
レノワールの瞳が、ようやくいつもの冷たい色を取り戻す。
「最近の冒険者たちは……お前にはどう映る? ――明らかに能力値が下がっているだろう。3年前と比較して、目に見えてな」
「はあ? いきなり何なの。何が言いたいのか、全くわからないのだけど」
私は腕を組みながら鼻を鳴らす。
「……まあ、確かに。今の冒険者たちは、昔と比べてずいぶん甘いとは思うわよ。平和ボケして、たるんでるんでしょうね。――でも、あんたが責任者なんでしょ? 育成指導、もっとシャキッとさせなさいよね」
「ふむ、やはりそうか。俺も同感だ」
「……だから、それが何だっていうの」
「俺はその原因を調べていくうちに、いくつかの奇妙な兆候に気づいた。どうやら――何者かが、意図的に情報の流通を妨害している。上に正確な情報が届いていないのだ」
「妨害……?」
「冒険者の能力値を意図的に引き下げるなど、魔物側に利する行為と言わざるを得ない。――つまり、ギルド内部に敵が潜んでいると見るべきだろう」
「はあっ!? 魔物に肩入れしてる、破滅願望主義者でもいるってワケ!?」
「協力者はいるかもしれない。……かつて、俺たちが戦った魔王幹部――"ケイルヌス"。奴は力は強大なのに、妙に戦い方が単調で、手応えがなさすぎた」
「……あんたたち、勇者パーティが仕留め損ねたからじゃないの?」
「いや、確かに討伐は完了した。だが、あれは完全ではなかった。近年の調査では、"ケイルヌス"は双子、あるいは分裂体であるという説が濃厚だが――俺の見立てでは、あれは"力"と"知"を明確に二分していた可能性が高い。我々が討伐したのは、肉体と魔力を担う"ケイル"……そして、知能と策謀を担う"ヌス"は、今もどこかで生き延びている」
「――要するに、今脅威となっている魔王幹部は、知能特化型の可能性が高いってこと?」
「ああ。そして、そいつが何らかの干渉を行って、冒険者の成長を阻害しているとしたら? 例えば、化けてギルド内部に潜入する……とかな」
ゾクリと背筋が冷えた。
「……魔物が人間社会に溶け込む!? そんなの、どう考えたってあり得な――」
「まだ推測に過ぎん。だが、警戒はしておくべきだ」
レノワールの声が、低くなる。
「……それに、お前たちのパーティの中にも、魔王の素質を持つ者が――ふむ、そろそろ時間だな」
レノワールが仰向けのまま腕だけを持ち上げて、杖を前に突き出した。
「……は? はぁ!? ちょ、ちょっと待って! 魔王の素質って、どういう――」
「さて、この戦いを終わりにしようか」
「終わりって、なにが――」
私は空を見上げ、凍りついた。
空一面に、数えきれないほどの魔法陣が形成されていた。
「んな、いつの間に……ッ!?」
「いつ? お前がここに来た時、最初からだが?」
彼はふらつく足取りで立ち上がりながらも、それが当然だと言わんばかりの表情を浮かべていた。
「無詠唱魔法は威力が落ちる。だが、相手に気づかれず発動することができる。そして、【不可視化魔法】により、魔法陣を視認不能にしていた」
「ッ……くっ! 【魔法防御強化】ッ!」
私は咄嗟に魔法を詠唱する。だが――
「……もう遅い。戦場では常に気を抜かない――基礎を怠った敗因だ」
レノワールが静かに言い放つ。
「――【多段電撃魔法】」
その瞬間、空から無数の雷が、ゲンビウスの体を襲った。
「グアアアァッッ!!」
私は急いで詠唱に入る。
「【集中回復魔法】!」
天が裂け、雷の槍が豪雨のように降り注ぐ。数十、数百――数えきれないほどの電撃が、ゲンビウスへ容赦なく突き刺さった。
「【集中回復魔法】! 【集中回復魔法】! 【広域回復魔法】!! ――んもう! ふざけんじゃないわよ! いちばん大事なところで話を切るとか……ほんっっと性格悪いッ!! 大嫌い!」
「こうも一気に削られると、回復も追いつかないだろう。――とどめだ、【一閃雷撃魔法】」
レノワールが詠唱を終え、強力な一撃が迫った――そのとき。
ひゅ~……ぱん!
頭上で、大きな花火が打ち上がる音が響いた。
彼の目が大きく見開かれる。
「……ば、馬鹿な……これは……ッ!?」
――それは、シドファたちが討伐を完了した合図だった。




