第47話
――それは、今よりずっと昔。まだ"聖女"の二つ名すらなかった頃。
魔法学校の中庭に立ち尽くした私は、まるで祈るように手を握り締めていた。
視線の先に立つのは、あの男。まだ十代だった私にとって、雲の上の存在だった。
賢者レノワール。
当時すでに魔王軍との戦いで名を轟かせ、戦場で数多の人命を救い、さらには複数の魔法体系を極めた者として、憧れと尊敬の的だった。
今日、その賢者が特別講師として学校を訪れるという噂は、瞬く間に全校を駆け巡っていた。私もその例に漏れず……いや、私の場合、周囲以上に心を強く動かされていたのかもしれない。
「話してみなよ。チャンスだよ、ミレミ」
そう背中を押してくれたのは、当時仲の良かった同級生だった。そのひと言がなければ、私はあの日の一歩を踏み出せなかっただろう。
そして私は、思い切って彼のもとへと歩いていった。
木漏れ日が差し込む中庭の片隅で、彼は静かに本を読んでいた。まるで、すべてを見通しているかのような眼差しだった。
「し、失礼します……! 賢者様、ですよね?」
顔を上げた彼の視線が、こちらに向けられる。何の感情も浮かべていないように見えた。
「――ああ。何か用か?」
「えっと……わ、私、ミレミと申しますっ! あの、その……ずっと前から賢者様のこと、尊敬しておりまして……! 私、賢者様に憧れて……あなたの出身校のここに……!」
何を言っているのか自分でも分からなくなりそうだったが、懸命に言葉をつなぐ。
レノワールは本を閉じ、わずかに首を傾けた。
「お前は、なぜ魔法の道を進む?」
唐突な問いかけに、私は思わず息を呑んだ。
「それは……賢者様のように、魔王に苦しむ人々を救いたいからです! 私も、そんな魔法使いになりたいんです!」
レノワールはふっと笑った。
「……そうか」
その笑みに心がほどけ、私は自然と微笑んでいた。
胸の奥に、安堵が広がっていくのをはっきりと感じた。
「お前は……人を救うために魔法を使うのか?」
「はい! もちろんです!」
力強く頷く私に対して、レノワールは微動だにせず、冷ややかに答えを投げつけた。
「ならば――お前は一生、使えないままだな」
「……へ?」
時が止まったようだった。
彼は立ち上がり、論理を並べるように淡々と続けた。
「魔法の本質は、己を掘り下げ、極致を目指す探究だ。制御も構築も研鑽も、すべては自己探究のため。他者のために存在するものではない。過程で他者を救うこともあるが、あくまで偶然生まれる副次にすぎない」
「……あの、それは……」
「魔法にくだらん理想を持ち込むな。誰かを救う術は、必ず別の誰かを犠牲にしてようやく得られるものだ。それとも――お前はそれを承知の上で言っているのか?」
何も言えなかった。心臓がぎゅっと握り潰されるような、そんな圧倒的な否定。
彼の言葉は、理屈として正しかった。
でも。
「――私は!」
私は震える声を張り上げた。
「私は……誰も犠牲にせず、みんなを助けられる魔法を信じたい、ですっ……!」
すると、レノワールは少しだけ眉を上げ、問い返す。
「……お前の専攻分野は?」
「回復魔法です!」
その答えを聞いた彼は、まるで数式の答えを確かめるように、ただ事実として結論を示した。
「ならば断言してやる。すべての魔法体系を扱う俺の中で、たった一分野――"回復魔法"ですら、お前が俺の足元に及ぶことは決してない。……諦めろ」
それだけ言い残すと、レノワールは振り返りもせずに歩き去っていった。
私はその背を、呆然と見送ることしかできなかった。
――これが、現在の大賢者レノワールとの、初めての出会い――。
◇◇◇◇
記憶の中の彼と、今、目の前にいる彼が重なる。
私は空になった酒瓶を、カウンターにドンッと置いた。
「……あんたを見てると、酒がまずくなるわ」
「ふむ。酒の味そのものは変わらない。変わっているのはお前の情動だ。環境や心理による主観的錯誤にすぎず――」
「その理屈っぽい喋りが生理的に無理なのよ!」
私はぐいっと身を乗り出す。
「そっちこそ、コーヒーを何杯も何杯もごくごく飲んで……カフェイン中毒なんじゃないの!? そんなに飲んだら……夜、寝れなくなっちゃうじゃないの!」
レノワールは、すっとカップを置いて言い放った。
「案ずるな。俺は睡眠を取らずともパフォーマンスを際限まで引き出せることを、既に実証済みだ。――今日で5徹している」
「……うっわ。寝てないアピとか、きっつ。あんた今いくつよ?」
私がため息混じりに言うが、彼は目を細めるだけで無表情だった。
「無理をしているのではない。合理性に従っているだけだ」
「……ほんと、昔から変わらないわね」
その呟きに、彼は一言も返さず――そして、核心に触れた。
「話が逸れたな。では、もう一度言う。お前のパーティを、今すぐ解散させろ」
私はにこりと笑って、
「はい、わかりました……なんて言うわけないでしょ! 第一、あんたに何の権限があるってわけ?」
「権限なら、ある」
レノワールは背筋を伸ばしたまま、新しく注がれたコーヒーに口をつける。
「世界を救った勇者パーティ『朝露の白』。魔王討伐後、王国は各メンバーに特別な地位を与えた。俺も"王都ギルド連合の総括"、いわゆる"グランドマスター"の肩書を持っている。名目とはいえ各支部に監督権がある。つまり、冒険者であるお前たちを、俺の裁量で好きに動かすことができる」
「……グランドマスター!? いつの間に……ッ!」
酒浸りの生活を3年も送ってたツケか、ギルドの内情にはまるで疎くなっていた。
そういえば……以前、ギルドが私たちを“緊急時優先派遣対象”――緊急任務の際に最優先で駆り出される対象に指定しようとしている話もあったっけ。
あれも、もしかすると裏で糸を引いていたのは――。
「例えば、お前たちの中に……魔法学校に入れず浪人している、落ちこぼれがいるだろう?」
「――浪人? ラミシーのこと?」
「ああ。俺の権限があれば、その落ちこぼれを魔王幹部との戦いの最前線に一人だけで送り込むことだって――」
ガッ!
気づけば、私はレノワールの胸倉を掴んでいた。
「……今、なんて言った?」
自分でも分かるほど、声は低く、冷え切っていた。けれど、その裏では腹の底で感情の火がじわじわと燃え広がっていた。
つまり、従わなければ、一番生き残れそうにない仲間を強制的に死地へ送り出す……ってこと?
……吐き気がする。ここまで腐ってるとは。
「例えばの話、だと言っているだろう。パーティ解散に応じないというのであれば、そのくらいの武力行使をせざるを得ない」
「――冗談でも、許さないから」
私は勢いよく手を放し、彼の胸元を突き飛ばすようにして離れた。




