第40話
いつもなら賑わっているはずの酒場は、嘘のように静まり返っていた。
そんな中、扉が開くと同時に明るい声が響く。
「ごめんくださーいッス! ミレミさん、いるッスかー?」
軽やかな調子で現れたのは、シドファだった。だが、カウンターで酒をあおっているはずの、ミレミの姿が見当たらない。
彼女は首をかしげつつ視線を巡らせる。すると、奥からマスターが現れ、そして首を横に振った。
「おう、いらっしゃい。悪いがミレミさんなら、ついさっき出ていったところだ。古い友人が訪ねてきてな」
「あれ? もしかして、入れ違いッスか……」
シドファはがっくりと肩を落とすが、マスターは朗らかな笑みを浮かべて手招きする。
「そのうち戻ってくるさ。ここで待ってりゃいい。今日はサービスしてやるから、好きなもん飲みな」
「え、いいんスか!? じゃあ、遠慮なくいただきまーッス!」
その返事と同時に、シドファはさっとカウンターに腰を下ろす。鼻歌でも歌いそうな笑顔で、「ちょっと甘めのお酒、お願いするッスね」と注文を伝えた。
マスターがグラスを用意しているあいだ、シドファは視線をカウンターの一角に投げる。先ほどまでミレミがここにいた痕跡なのか、使いかけのコースターや、空になった酒瓶が散らばっていた。
「――にしても、ほんと、痔くらいで大げさッスね。あんなに恥ずかしがらなくても……あたしなら痔ごと愛すのに」
「ははっ、なんだそりゃ」
笑いながらグラスを差し出すマスター。シドファは一口飲んで、目を見開いた。
「ぷはぁ……。いやあ、うんみゃいッスね!」
「あんまり調子に乗って飲みすぎないようにな」
「大丈夫ッスよ、ミレミさんじゃないんだから。……ところで、マスターとミレミさんって、昔からの知り合いって感じッスけど、どういう関係なんスか?」
シドファが尋ねると、マスターは一瞬遠くを見るような、沈んだ目つきになった。仕込まれた酒瓶の並ぶ棚へと視線を向け、どこか思い出を辿っている風である。
「関係、って言われると――そうだな。待ってるあいだ、少し昔話でもしてやろうか」
「ぜひ聞かせてほしいッス!」
シドファはグラスをカウンターに置くと、素直に耳を傾ける姿勢をとる。
「――俺はな、昔は冒険者で、荒くれ者だらけのギルドにいた。そこで連中をまとめて、俺が頭を張って牛耳ってたんだ。……当時は冒険者の価値が、今の何倍も高くてな。食うためなら汚れ仕事だってやったし、金になることならどんな手でも使った。妻と子どもを食わせなきゃならなかったからな」
マスターはひと息ついて、酒の香りを確かめるようにグラスを傾けた。
「そんなときに現れたのが、灰燼って連中だった。ミレミさんも、その一人さ。……ただ、人手が足りなかったんだろうな。魔王軍の大群から村を守るために国が送ってきたのは――あいつらのパーティ、たった一組だけだったんだよ」
言葉が途切れる。マスターの声は次第に硬くなる。
「予想をはるかに超える猛攻だった。被害は甚大で、俺の妻と子どもも……その犠牲になった」
「…………」
「……見つけたときには、もう手遅れでな。妻と子どもが倒れていて、血を流してる姿を見たとき……頭の中が真っ白になったよ。けど、まだわずかな可能性があるとでも思ったのか。倒れてる妻子に――ミレミさんは、必死で回復魔法をかけ続けていた」
語りながらも抑えていた感情がこみ上げてきたのか、マスターはふいにグラスを拭いていた布を強く握りしめ、その手元が微かに震えた。
「それを見た途端、彼女に怒りをぶつけてしまったよ。『ふざけるな、お前らが来て何の意味があった? 俺の女房とガキが死ぬくらいなら――お前が死ねばよかったのに』ってな」
マスターはシドファの方へと穏やかにゆっくりと視線を向けた。
「――それでも。そんな、俺の怒りに気づかないほど……ミレミさんは必死で回復魔法をかけ続けていたよ。しかも、あんな笑顔で、大丈夫、大丈夫だから、って。まるで――安心させるようにな」
「……マスター……」
「結局、守れなかったのは俺自身のせいだ。それを、ただ誰かのせいにしたかっただけだった。妻子を一生懸命に救おうとしていた彼女を見て……そう気づかされたんだ」
グラスを置く音が静かに響いた。
「――っと、つい話しすぎたな。その後、俺は魔王討伐に協力して、各地を動き回ったよ。そして今じゃ、平和が来て……ただの酒場のマスターってわけさ」
グラスの氷が、かすかに音を立てて溶けていく。
「……魔王の爪痕は、どこに行っても大きいッスね。あたしの故郷も、似たような被害を受けたんで。……でも、あたしもミレミさんのあの笑顔に救われたッス」
「ああ、そうか。恐らくお前さんも、同じものを見たんだろう。あれはまさに――聖女ってところだな」
「あはっ、やっぱりミレミさんはミレミさんッスね」
シドファの声には、哀しみと静かな決意が滲んでいた。
「……さて。マスター、ありがとッス。やっぱりあたし、ミレミさんを探してくるッス」
「そうか。待ってりゃ戻ってくるかもしれないが……いいのか?」
「大丈夫ッスよ。ちょっとしたアイデアを思い付いたッス。じゃ、また!」
シドファはそう言って腰を上げると、マスターに一礼し、さっとカウンターを離れていく。遠ざかる背中を、マスターは静かに見送った。扉が開き、外の空気が流れ込む。
その背中に向かって、マスターは誰にも聞こえないほどの小声で囁く。
「……もし叶うなら、あの人の"希望"になってくれればいいんだがな」
ぱたん、と扉が閉まると、酒場は再び静けさに包まれていった。
◇◇◇
――夜風がそよぐ夜の高台。
私は柵に寄りかかったまま、街の明かりをただ見下ろしていた。
ギルと会って話したあと。いろいろ思うことが多かったせいか、どうにも気持ちが落ち着かず、ついこの見晴らしのいい場所まで足を運んでしまった。
「――あ、やっと見つけたっス!」
背後から声がして振り向くと、シドファが息を切らしてこちらに手を振っていた。
「へえ、よくここにいるって分かったわね」
「コイツのおかげッスよ」
彼女の足元に目をやると、犬型モンスターの"トレイルハウンド"がちょこんと座って、嬉しそうに尻尾を振っている。
なるほど、先ほど『召喚獣くじ引き』で召喚したモンスターか。
「さっき、酒場に行ったら入れ違いで会えなくて……。でも、マスターと昔話してるうちに、コイツのことを思い出したッスよ」
「昔話……ね」
「ミレミさんの昔のことまで聞いちゃったんスけど……勝手に聞いて、気を悪くしてないッスか?」
「……まあ、マスターとも色々あったわね――」
その瞬間、胸の奥に張りついていた何かが、ふっとほどけていく感覚があった。
「――マスターの奥さん、エレナさんはね……物静かだけど、芯の強い人だった。誰にでも優しいけど、自分のことは滅多に話さなかった。朝になると必ず、マスターの無事を祈って花を飾っていたの。娘のミアちゃんは……そう、まだ六つだったかしら。おてんばで、いつも泥だらけになってた。それでも、マスターが帰ってくるときだけは、靴をきちんと揃え、正座してじっと待っていたの」
「ミレミさん……」
「ポーション売りのレオンさんは、口が悪いくせに雨の日はよく傘を貸すような人だった。仕立て屋のマリエさんは、自分で縫った服しか着なかったし、どんな暑い日でも袖の長いのを選んでた。花売りのナディアさんは、誰よりもよく笑うのに、誰にも涙を見せなかった。宿屋のロミルダさんトールさん夫妻は、子どもを持たなかったけれど、二人とも子守唄がとても上手だった。花屋の息子アンドレくんは、毎朝、卵に挨拶してたの、生まれてくると思ってたのでしょうね――」
「――えっ? え? ミレミさん……? どうしたんスか!? それに、人の名前を覚えるのが苦手なミレミさんが、名前を……」
「みんな、みんな……私が助けられなかった人たちよ。救えなかった命の名前は、可能な限りすべて覚えてるの。どんな人か分からないときは、聞いてまわったわ。小さな記憶でもいいから、残しておきたかった」
「…………」
夜空は澄み渡り、どこまでも広がっている。
吹き抜ける風の中で、私は深く息を吸い――決意を込めて言葉を紡いだ。
「……ちょうどよかった。シドファ、あなたに伝えなきゃいけないことがあるの」




