第3話
「洗った痕跡があることだけは分かるんだけど……」
「……ったく、お前さんね。まずは自分の酔いグセの悪さをどうにかしろっての」
マスターはそう言いながら、カウンター越しに私が抱えている黒いコートに目をやる。改めて見てみると、なかなか上質な生地だ。
「……ひょっとして……」
「えっ、分かるの? これが誰のものか!」
手がかりをつかんだと思い、私は前のめりになる。
「……拾ったんじゃなくて、まさか奪ったんじゃないだろうな?」
「ばか! 失礼ね! そんな追いはぎみたいなこと、するわけないでしょ! ……たぶん」
記憶がないのが悔しい。途中から自信を失ってしまい、否定しきれないのが腹立たしい。
「冗談はさておき。そいつぁ、いい生地を使ってるようだし、その紋章にも見覚えがある。――"騎士団"の誰かのコートかもしれんな」
「騎士団……? 言われてみれば、それっぽい刺繍が入ってるかも」
私はため息をついて肩をすくめる。正直、こんなモノを持ち歩いてるだけで厄介事に巻き込まれそうだ。
「そういうことなら、とりあえず騎士団に預けちまったらどうだい? 持ち主が探してるなら、いずれそっちに連絡が来るだろうよ」
「まあ、それもそうね。余計な厄介ごとに巻き込まれるのはゴメンだし、さっさと済ませちゃうことにするわ」
できるなら今日中にでも引き渡しに行こう。
私はコートを抱え直し、立ち去ろうと身支度を始める――その時だった。
「ミ、ミレミさん! お待ちを……!」
店の奥から見覚えのある男が慌ただしくやってきた。ギルド職員のナスコだった。息を切らせ、私の名を呼んでいる。
「うわ、嫌な予感……」
私は呼び止めを無視して、露骨に足を速めて出口へ向かう。こういうときはろくでもない頼み事が舞い込むに決まってる。
だが、ナスコは店の扉を開けようとした私の腕を掴み、必死の形相でまくし立てる。
「お、お願いです! 話だけでも聞いてもらえませんか?」
「……ったく、手ぇ離しなさいっての」
しばし睨み合いが続く。
カウンターの向こうから、マスターが「聞いてやんな」と言いたげに目配せしてくる。
……もう、面倒くさい。私は仕方なく大きく息をついて折れる。
「……聞くだけだからね」
「ありがとうございます! 本当に助かります……!」
ナスコは書類の束を胸に抱え直すと、急ぎ口を開いた。
「実はこの辺りで出るはずのないランクのモンスターが立て続けに出没していまして……。冒険者たちに討伐を呼びかけているのですが、被害が大きくて手を焼いているんです」
「ふうん。それはご苦労さま。じゃ、私はこれで――」
「まっ! ま、待ってください! どうか討伐に参加していただけませんか? 今、実力あるヒーラーの数が不足してるんですよ……」
「何よ! 聞くだけって言ったじゃない!」
私だって一応、かつては世界平和のために戦った魔王討伐隊の一員だった。困ってる人のお願いを無下にするのは気が咎める。
――でも、冒険者を引退したのに、今回のような件をいちいち全て受けていてはキリがない。
「……実力あるヒーラー、ねぇ」
ふと、思い当たることがあった。
「だったら、今話題の近衛騎士団の若き天才ヒーラー様とやらに頼んだら?」
ところが、彼は申し訳なさそうに目を伏せると、意外な事実を打ち明けた。
「それが……その方、行方不明になってしまいまして。騎士団も捜索をしているようですが、まだ何の情報も得られない状況のようで……」
「――行方不明?」
思わず声が上擦る。いま評判の天才ヒーラーが、どこかへ消えてしまった――にわかには信じ難い話だ。
だけど、その衝撃も束の間。ナスコは切羽詰まった表情を見せる。
「だからどうか、頼みます! ミレミさん! あなただけが頼みの綱なんですよぉ……!」
「……悪いけど、他をあたってちょうだい。私は冒険者を引退したの」
その言葉を残し、酒場の扉を押し開ける。扉が軋む音が耳に残る。
まったく、しつこいったらありゃしない。振り向きもせずに外へ出ると、ひんやりした風が頬を撫でた。
ところが、背後からやけに騒がしい足音が追ってくる。
「ミレミさん、待ってください! もちろん報酬は弾みます!」
「ちょ、なんでついてくるのよ!」
ナスコは必死に食い下がるが、私は早足で歩き続ける。
彼の顔は血の気が引き、目だけが異様にぎらついていた。切羽詰まった様子は本気なのだろうが……あいにく私には関係のない話。
「すみませんすみません! でも、本当に困っているんです! あなたの力が必要なんです……! どうか、なにとぞ!」
「しつこいわね!」
声を荒らげ、私は通りへ飛び出した。石畳を蹴って早足になる。通りを抜け、人気の薄い裏道を目指す。
喧騒が遠のき、狭い路地へ入ると足音が響く。――まだ追ってくる気か。
「まったく、いい加減に――」
そう言いかけた瞬間、異変が起きた。
「うわっ……!」
突然、何か強い力で腕を引かれる。反射的に振り払おうとするが、相手の力は予想以上に強い。
「……あれ、消えた? ミレミさん、どこへ――」
ナスコの声が遠ざかる。
抵抗する間もなく、ぐいっと引き込まれた先は、ほの暗い路地の奥。湿った石壁が囲む狭い空間。空気がひんやりと重く、路地裏特有の埃っぽい匂いが鼻につく。
私は壁に片手をつき、かろうじて踏みとどまった。
「――ちょっ、何!?」
目を上げると、目の前にひとりの女性が立っていた。
長身、ショートヘア、可愛らしい顔立ち――どこか見覚えがある。いや、昨夜見たか? 酔いが回っていたせいでぼんやりとしていたが、あのコートの持ち主によく似ている。
「……あー! あなた……!」
朧げだった記憶が一気に鮮明になる。それは昨夜、私がコートを奪ってしまった相手、本人だった。
私の顔をじっと見つめる彼女は、周囲を警戒しながら低い声で囁いた。
「しつこく絡まれてたみたいッスね。あんまり関わりたくなさそうに見えたんで、ちょっと手を貸したッス」
そう言って、彼女は手を離した。
「助かったわ、ありがと。――それより、ちょうどよかった……これ!」
私は持っていた黒いコートを差し出した。
「丁寧に洗っておいたけど、汚れが落ちきってなかったら、ごめんね?」
「いや、戻ってきただけで十分ッス。今これがないと色々不便で」
彼女はコートを胸に抱え、少し安心したように微笑んだ。その表情がわずかに和らぐのを見て、私も少し肩の力を抜く。
しかし、そこで先ほどマスターが言っていたことを思い出す。このコートの持ち主は騎士団の人間かもしれない……だっけ? 先ほど私を路地へ引き込んだ時の迷いのない動作が、それを裏付けるように思えてきた。
するとやはり、この女性は――
「ねえ、あなた……もしかして、騎士団の人?」
私がそう尋ねると、彼女はわずかに肩をすくめた。
そして、路地の入口へ視線を向け、慎重に周囲を確認してから静かに答える。
「あたしはシドファっていうッス。一応……近衛騎士団の副団長補佐をしてるッス」