第29話
ソラソラのゆるやかなステップが刻まれると同時に、土舞演が発動した。ふわりと舞い上がる土色の煙が足元を包み、さらさらと肌を撫でるように流れていく。
――そして、膝に走っていたあのズキリと鈍い痛みが、嘘みたいに消えていた。
「これでしばらくは、痛くなくなると思うよっ☆」
ソラソラが無邪気に笑う。
私はそっと立ち上がり、恐る恐る体重をかけてみる。
……確かに、痛くない。何も感じないほどだ。驚いて何度か足踏みをしてみるが、膝は全く痛くない。
「……これはすごいわね」
喜び半分、恐怖半分でしばらく歩いてみる。踵を踏みしめ、膝を曲げて前に一歩――がくん。
「うわっ!」
膝がぐにゃりと沈みかけて、咄嗟に姿勢を低くしてバランスを取る。
膝は動かせるけど、制御ができていない。まるで自分の足じゃないみたいな感覚だった。
「なるほど。これが、痛みを感じさせなくするってことね。治ってはいないってことなのかしら……?」
推測を口にすると、ソラソラが舌をぺろっと出して答えた。
「そーだよ♪ 土舞演はね、感覚をにぶらせるだけの効果がある舞なんだよっ!」
「……まさか、効果が切れた時に、まとめて反動の激痛が来る……なんてこと、ないわよね?」
「それが――バッチリ来ちゃうんだよね~♪ だからムチャはダメだよっ!」
私はそれを聞いてゾッとした。もはや時限爆弾のような状態……ってこと!?
けれど、ダンジョンの目前で立ち止まるわけにはいかない。
「――いいわ、行きましょう。多少のリスクは――"最高級の酒"のためなら……!」
「うふふーっ♪ さすっが、ミレちん☆ お酒のことになると目が違うね!」
足元への不安は拭えない。それでも私は、一歩、また一歩と前へ進んだ。
道は緩やかな傾斜が続いており、周囲は岩肌と疎らな草に覆われている。進むにつれて、古い石と苔の湿った臭気が強くなる。
――やがて、岩場を回り込むようにして、石で縁取られた開口部が見えてきた。彫り込みがびっしりと刻まれており、そこから微かに魔力の気配が滲んでいる――明らかに造られた構造物。
ダンジョン入口のすぐ脇には、すでにラミシーとシドファの姿があった。
「おっ、ようやく来たッスね!」
シドファがいつもの陽気な声を上げる。ラミシーはちらりと私の脚を見て、
「……膝、ちゃんと動いてるみたいですね」
「ソラソラの舞の効果よ。――そうね、言うならば感覚遮断ってとこかしら。無理はできないから、そこら辺は配慮しなさいよね」
「――ほお、感覚遮断ッスか」
何やら悪巧みでも思いついたかのような顔つきで、シドファの口元が、にやりと歪んだ。何を考えてるのかは知らないが、ろくでもないことに決まっている。
だけど、今はそんなことに付き合ってる暇はない。とりあえずは、黙って先を急ぐことにする。
「なるべく戦闘は避けて、慎重に進むわよ」
「了解ッス!」
今回の依頼は、ダンジョン最奥部に潜むボスの討伐。そして、最高級の酒の発見である。
ダンジョン攻略自体は何度も経験してきたが、今回は勝手が違う。タンクもアタッカーも不在だから、敵とまともに戦えばこちらが消耗するだけ。可能な限り、不要な敵との接触は避けたいところ。
ダンジョンの内部は、じめっとした空気と、ひび割れた石壁。頭上にはぽつぽつと光苔が灯り、足元のタイルは長年の侵入者たちによって削られていた。
想像以上に静まり返っていた。天井が低いためか、声が響きやすい。
先頭は私。敵の気配を感じればすぐ下がれるようにと、通路の壁際に身を伏せつつ、視線を巡らせながら進んだ。
――しばらく進んだその先、通路がぐっと狭くなり、片側が崩れていて一列でしか進めないような幅になっていた。そこで、私は立ち止まる。
その先にいたのは――複数体の小型モンスター。その体表には無数のトゲ状の突起がある。
「……あれは、"トゲクルル"ね」
私はそれを、しばらくじっと観察する。
……これは通れなさそうにない。
というのも、何匹も集まっているせいで、完全に通路を塞いでいた。
「これは……迂回するしかなさそうね」
ぽつりと呟いた、その時──
「――シドファさん!? だ、だめですよ……!」
突然、ラミシーの驚愕した声が後ろから響いた。私は反射的に振り向いたが――全員が、明後日の方向を見ていた。
「……え、なに? どうしたってのよ」
私が声を潜めて尋ねると、ラミシーが真っ赤な顔で答えた。
「シドファさんが……その……感覚遮断されてることをいいことに……! ミレミさんに……く、口ではとても言えないようなことを……っ!!」
「――はぁ!? ちょっとシドファ! あなた、私に何してくれてんの!」
私は思わず声を荒げた。
――その瞬間、通路の奥で、トゲクルルたちがピクンと反応した。
「しーっ! ミレミさん、声でかいッス!」
シドファが慌てて小声でたしなめてくる。
……いやいや、あなたのせいでしょうが!
心の中でツッコミを入れつつも、トゲクルルたちが警戒しているのを見て、私は口を噤んだ。改めて目を向けると、ぴくぴくと針を震わせながら、戦闘態勢に入っている。
――が。
「――えっ!? シ、シドファさん!! だめです! そんな破廉恥なことを……! ――やっ、どこに顔をうずめてるのですか!? ソラソラさんは見ちゃダメです! あっ……! その距離で深呼吸しちゃ――はわわわわッ!?」
ラミシーの実況に、私はついに限界を迎えた。
「――ねえっ! ちょっと!! 一体、後ろで何が起こってんのよ!?」
思わず再度、後ろを振り返る。目に飛び込んできたのは、口笛を吹きながら目を泳がせるシドファと、ラミシーが顔を真っ赤にしながら、ソラソラの両目をがっちりと手で覆っている姿だった。
私は無言でシドファに歩み寄り、その頬を容赦なく鷲掴みにした。
「……言いなさいよ。今すぐに」
「ふぉ、ふぉへんふぁふぁい……。 ――ファッ!? ひれひはん、うひろ! うひろぉ!」
「後ろ……?」
私はゆっくりと首を回す。
――トゲクルルたちが、超接近していた。
「げぇッ!! 退散ッ!!」
咄嗟に叫び、全力で踵を返した。
「シドファ! 俊敏強化、早くッ!」
「了解ッス! 【俊敏強化魔法】!」
私たちは一斉に駆け出した。シドファの俊敏強化魔法が全員に行き渡り、体が軽い。空気が巻き上がるほどのスピードで、狭い通路を駆け抜けていく。
だが――
「――うわあっ!?」
次の瞬間、私の膝がぐにゃりと沈んだ。
感覚が麻痺しているせいで、自分の膝の限界に気づけなかったのだ。全力で駆けたこともあってか、前のめりに倒れ込む。
やばいやばいやばいッ!!
すぐ後ろから、トゲクルルたちの群れが迫ってきている!
「ミレミさん!?」
シドファの声がした――その直後だった。
――ズブリ。
群れの先頭にいたトゲクルルの一本が、私の――尻に突き刺さった。
しかも、よりにもよって、ピンポイントで致命的な場所に。
「あっ」
ピキ……ッ。
そして、次の瞬間。運悪く――感覚が戻った。
土舞演の効果が切れたのだった。
「――ぎゃああああああああッッ!!!!」
「ミレミさぁーんッ!!」
麻痺が解けた瞬間、封じ込められていた痛覚が一気に噴き出す。
膝の激痛と、尻の刺痛が、同時に襲いかかってくる。
その絶叫は、ダンジョン全体に反響した。




