第2話
「またその話か。いったい何回目だよ、ミレミさん」
酒場のカウンター越しにマスターがうんざりした顔で言う。カウンターの上には、私が飲んだ空の酒瓶が大量に転がっていた。
普段ならここはもっと騒がしい。けれど、今は深夜。残っているのは酒好きか酔いどれか、あるいは私のように日々を持て余してる連中ばかり。
明日の予定は二日酔い。それが私の今の日常だ。
「だって、何年経ってもムカつくじゃない。私はまだまだあんたたちと冒険したかったっつーの! ……何よ、みんな勝手にいなくなったりして……」
「そんなに不満なら、冒険者にでも戻ればいいじゃないか」
マスターがねっとりとした目線から言い放つ。恐らく、半分は本心かもしれない。しかし、鼻で笑ってやった。
「……それこそ何回目よ。言っておくけど、私、冒険者には戻る気はないから」
そう、私はパーティ解散を機に冒険者を引退した。だからこそ今、毎日こんな生活を送ることができている。
「――ま。魔王討伐隊時代の貯金だけはたんまりあるの。こうやって毎晩飲んだくれてても、全然平気なくらいにはね」
「はあ。安酒で偉そうによく言うよ、まったく。毎晩付き合わされるこっちの身にもなってくれ」
マスターは肩をすくめ、グラスを拭き終えると、それを棚に戻した。
「せいぜい飲みすぎるなよ」
とだけ言って、新しいグラスを手に取る。私はむしゃくしゃした気持ちを晴らすように酒を流し込む。
「――ところで、王都のほうでちょいと噂を聞いたんだが……」
ちらりとこちらを伺うマスターの目は、やや真剣さを帯びていた。
「若くして近衛騎士団の副団長補佐に就任した……天才ヒーラーとやらがいるらしいぞ。まだ二十代前半だって話だ。それに、階級も最上位のエンライトプリースト。――どうだ、同じヒーラーとして気にならないか?」
私は思わず、酒を飲む手を止めた。――若き天才ヒーラー、ねぇ。もし私が今も冒険者だったら、ライバル心でも疼いてたんだろうか。
でも、今の私はただの『飲んだくれのミレミ』。やりきれない気持ちが込み上げる。
「……だから何よ。それが私に何か関係あるわけ?」
わざとらしく音を立てて酒瓶を置いて、苛立ちを隠さずに答える。するとマスターが声を潜めた。
「お前さん、本当にいいのか? 昔の誇りまで酒に沈めちまう気か」
その言葉が胸を刺す。けれど、私はそれを無視して立ち上がる。少し強く椅子を引いたせいで、ギシッという嫌な音がした。
「マスター、今夜はもう帰るわ。酔いが回りすぎたみたい」
「……そうか。ほら、せめてこれを持っていけ。土産だ」
マスターが酒瓶をひとつ手渡してくる。きっとご機嫌取りのサービスのつもりだろう。私はそれを受け取ると、顔をぷいっと背けながら呟いた。
「ふん、ありがとさん。……じゃあ」
店内の喧騒を背に、私はヨロヨロと千鳥足のまま酒場を出た。夜の空気がひんやりとしてか、それとも何か思うことがあったのか、少しだけ酔いが覚めた気がする。
◇◇◇
貰った酒瓶を小脇に抱えて夜道をふらふら歩いていると、足元が不安定なせいか街灯の光がゆらゆらと揺れて見える。
――ふと視線の先にスラリとした長身の人影が現れた。フードを深く被っていて顔は見えないが、どこか鋭い気配が伝わってくる。
「うわ、危なっ……」
ぶつかりそうになって、私は慌てて体をひねる。ギリギリで踏みとどまったものの、よろけて相手に倒れかける。
「おっと、ごめんよー。酔っ払ってるもんでね……」
私がへらへらと謝罪すると、そのフードの人物はじっとこちらを見据えてくる。闇の中でもわかる、容赦のない視線。怒っているのだろうか。よくわからなかったが、別に構う必要もないので立ち去ろうとする。
しかし、聞き捨てならないような声が微かに耳に届いた。
「……はあ。こんなにも落ちぶれてしまったッスか」
一瞬、耳を疑った。
――何? 私に向けたであろう言葉が微かに聞こえた。酔いも手伝ってか苛立ちが走る。
ムッとして顔を上げ振り向き、相手の肩をぐいっとつかみ、絡むような口調で問い詰めた。
「はあ? あんた、今なんか言った?」
言葉を続けようとしたところで、突如、込み上げてくる嫌な感覚に襲われる。
――やばっ、吐きそう……!
「うっ……ぉろろろろ!!!」
みぞおちを押さえ、私は我慢できず吐いてしまう。そして最悪なことに、そのフードの人物のコートに思い切りぶちまけてしまった。
「ちょっ! 大丈夫ッスか!?」
目の前がグラグラする。フードの人物が慌てて私の肩を支える。
「……悪いわね、服を汚しちゃったわ。ちゃんと洗って返すから」
流石に申し訳なく思ったため、気分の悪さで朦朧とする頭をなんとか働かせ、フード付きのコートをばさっと引き剝がす。
すると、そこに現れたのは――黒いショートヘアで長いまつ毛を持つ可愛らしい顔立ちの女性。頬を赤らめながら、手で顔を少し覆っている。
……えっ、女の子……?
高身長だしてっきり男だと思いこんでいた。私はしばらくボーッとその顔を見つめてしまう。
「――ちょ、返してくださいッス……」
彼女は片手でコートを取り返そうとするが、汚してしまった手前こんな状態で返すわけにはいかないため、サッと引く。
「いや、ダメよ。そんなの申し訳なさすぎるわ。……っていうか、こんな夜遅くに女の子が一人歩きしてちゃダメじゃない!」
警戒が一気に解けたせいか、私は彼女の背中をばしばしと叩く。さっきまでの緊迫した雰囲気はどこへやら、完全にお節介焼きの酔っ払いおばさんモードに入っていた。
「んじゃ。これ、洗って返すから!」
そのまま私はコートを抱え込み、千鳥足で夜道をふらふらと去っていく。後ろから「待ってッス!」と慌てる声が聞こえた気もするけど、目眩がひどくて振り返る余裕はなかった。
◇◇◇
翌日。昨夜と同じ酒場に、私は腕に抱えたコートを落とさないように支えながらやって来た。カウンターの奥からマスターが怪訝そうにこちらを見つめる。
「また来たのか。昨夜は帰ってすぐ寝たか?」
「マスター、ちょっと聞きたいんだけどさ。これ……どこで拾ったか、全然記憶にないのよね……」
マスターは心底呆れた顔で、大きなため息をついた。